耶蘇上帝會 太秦之宮

京都・太秦を拠点とする日本のキリスト教会です

礼拝message

礼拝message 4月7日(水)

                 (長岡天満宮)

黙示録13, 14:6-13

黙示録14:11,12
11「彼らの苦しみの煙は、世々限りなく立ち上る。獣とその像を拝む者たち、また、だれでも獣の名の刻印を受ける者には、昼も夜も安らぎがない」
12「ここに、聖徒たち、すなわち上帝の命令を守り、イエスに対する信仰を持ち続ける者たちの忍耐が必要である」

今は世の終わりです。
色々なことが起きることを前もって知らされているのですから、驚いて取り乱すのは、クリスチャンの態度ではありません。
聖書は、黙示録の預言が実現して来ることに、心の準備をしておくようにと言っています。
終わりの時代のことを、タイムテーブル(タイムスケジュールが記載された予定表)のように見てはなりません。
ある種の人々は、終わりの時をセンセーショナルに、人の興味をひくように騒ぎ立てます。
しかし、情報に振り回されないように、イエス様のこと以外に心を奪われてはなりません。

大切な情報を分かちあうのは、良いことです。
しかし、人よりも知っている、分かっている、という態度はご聖霊を悲しませます。
高ぶりは悪霊の特徴です。
イエス様は、高ぶる者を退けられます。
ちょっとした高ぶりにも、敏感さを持って欲しいのです。
生きておられるイエス様との交わりを大切にしてください。
インマヌエルの主が、孤児にはしないと言ってくださるからです。

ご聖霊は助け主であり、絶えず助言をくださいます。
主はまことの羊飼いです。
イエス様に聞き従う毎日を送っていますか。
主と共に生かされているのですから。
イエス様は24時間、夢の中にもいてくださいます。
老人は夢を見るとあるでしょう?
イエス様は、私の夢の中にもいてくださいます。

世界の情勢を見て、ある国ではコロナワクチンを受けていないと飛行機の搭乗を拒否されるというような事案も発生しています。
私にはコロナワクチンが、獣の刻印を受けさせる予行演習に見えます。
「獣の刻印を受けないなら、獣を礼拝しないなら、殺せ!」と。
まるで共産主義のようです。
北朝鮮、中国、ロシア、恐怖政治の中で為政者に逆らったら明日はありません。
独裁者にとっては、逆らう者は人間ではなく、すべて処理されます。
ウイグルやモンゴルで起きていることです。
多くの人が簡単に殺されます。
しかし、日本のメディアは取り扱いません。
新聞やテレビは、何も報道しません。

それで私たちは、まるで世界の情報から門外漢のようです。
自分で聖書を読んで、世界で何が起こっているのか知ってください。
コロナワクチンを通しても、私たちは知らないうちに慣らされてしまうのです。「全員が受けなきゃおかしいよ!」と。
黙示録には「獣は刻印を受けない者は、ものを売り買いできないようにした」とあります。
私たちは、生存すらできない状況におかれるのです。
しかし、獣の刻印を受けるなら、昼も夜も安らぎはありません。
厳しい裁きが待っています。
ここで、「上帝の命令を守る」という忍耐が必要です。

主にあって死ぬ者は幸いである

黙示録14:13
「また私は、天からの声がこう言うのを聞いた。『書き記せ。”今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである”と。』御霊も言われる。『しかり。その人たちは、その労苦から解き放たれて安らぐことができる。彼らの行いが、彼らとともについて行くからである』」

主にあって死ぬ死者は幸いです。
信仰者が命をかけてNO!と言う時代だからです。
平々凡々に死ぬのではないのですから、忍耐が要求されます。
信仰による訓練を、今受けているのです。
終わりの時代に耐えられるだけの信仰を養わねばなりません。
主に信頼する者を、イエス様は引き受けてくださいます。
たとえ死んだとしても、です。

本気でイエス様に聞き従いなさい。
これから刻印なしで生きていくのですから、「イエス様どうしたらよいのですか?」と聞くのです。
「主は私の羊飼い」というみことば通り、イエス様が具体的に導いてくださるという体験と経験が必要です。

例えば食料が買えなくても、イエス様が「あのお店の裏から行きなさい。そこにおばあちゃんがいるから、お願いしなさい」と言われることがあるかもしれません。
その通りにすれば、食料を買えることもあるでしょう。
イエス様の声と、悪霊の声を聞き分けられないと、自暴自棄になってしまいます。

オーケストラに例えるなら、今の時代はもうすでにクライマックスが近づいているのだと思います。
あなたはどのようにイエス様を証しするのですか。
永遠の命を確かなものにしなさい。
イエス様が永遠の命を与えるために来てくださったという確信がないなら、耐えられません。
その確信があるなら、平安でいられます。

使徒行伝でパウロは、「私の邪魔をしないでほしい」と言っています。
兄弟姉妹たちが、危険だからローマに行かないで欲しい、と泣いて頼んだ時、「死ぬことは分かっている」と、彼は死の後にある栄光と報いを見ていたのです。
天の御国と、日々の生活がひとつになっているのが弟子です。
イエス様が報いを与えてくださるのを知っているので、天に宝を蓄えるのです。
キリスト教的な自称クリスチャンは、夢みる人であり、いつも嫌なことから逃げます。

天の御国に入った時、恥ずかしい思いをしないように。
全て火で試されるのです。
火の中をくぐって、ぼろぼろの衣で天国で過ごせますか?
今のあなたの信仰の報いしか、天にはありません。

天の御国が現実になっていないなら、今の生活しかありません。
地上で変な安心感を持ってしまうのも、信仰とは違うものです。
弟子は、いつ主に天に召されても、「はい」と従います。
何故ですか。死にたくないと叫ぶのは弟子の姿ではありません。
それは、イエス様の私に対するご計画がベストだからです。
死ぬタイミングも、その時がベストです。

どうか、本物のクリスチャンとして証人になってください。
「主が共にいてくださるから大丈夫。イエス様がくださった命で生きていくのだから」と言えるまでに。
イエス様の命は、日ごとに新しくなる命です。

今の現実の世界は、すでに666が現れています。
コロナワクチンもそうです。
エルサレムの第3神殿の材料は、もう用意されています。
この神殿は666が反キリストを迎えるため?かもしれません。
今のイスラエルの首相は、中国共産党と握手しています。
私は、これは本当のイスラエルと違うのではと思っています。

こうやって、じわじわと世界がコントロールされて行きます。
聖書の通りです。
菅首相が、ビルゲイツとニコニコと握手をしているのを見た時、私は気持ち悪くてぞっとしました。
大阪で日本人の研究者がワクチンを必死で作っているのに、そちらの研究は遅らせ、高額な海外製のワクチンを日本の首相がニコニコして買うのです。
誰が代金を支払うのですか?
国ですよね。
今は世界の動きがものすごく激しい時です。
しかし、情報にウエイトを置かないように。
大切なことはお互いに共有しましょう。

イエス様がすべて

黙示録18:1-17
11「また、地の商人たちは彼女のことで泣き悲しむ。彼らの商品を買う者が、もはやだれもいないからである」
12「商品とは、金、銀、宝石、真珠、亜麻布、紫布、絹、緋色の布、あらゆる香木、あらゆる象牙細工、高価な木材や青銅や鉄や大理石で造ったあらゆる器具」
13「シナモン、香料、香、香油、乳香、ぶどう酒、オリーブ油、小麦粉、小麦、家畜、羊、馬、馬車、奴隷、それに人のいのちである」

アメリカでの人身売買、児童買春、13節の「商品が奴隷、人のいのち」とは現実です。
昔よりも今の方がもっとひどいのです。
幼い者たちが、世界でいかに消えているか。

黙示録の、大バビロンの極度の贅沢は、生まれつきの肉が当然行き着くところです。
肉は、この世に汚染されているからです。
この世を愛する者は、上帝を敵とすると書いてある通りです。
あなたは、価値観、幸せ、満足をどこに置いていますか?
この世の生活に置いているのなら、それはすべて朽ちて行きます。
新しい天と地、上帝のみことばと約束だけが残ります。
この世に背を向けて、悔い改めましたか?
あなたを天に引き上げるのは、イエス様のみことばしかありません。
悔い改めず、この世のことに心を奪われているなら、そのような人はそれだけ悩みが多くなります。

今私が願っているのは、太秦の地に会堂を建てることです。
ものが売り買いできなくなった時に、必要なものを困っている人々に無料であげるためです。

以前ある教会で、無料でいただいたものを、売ることがありました。
婦人会のメンバーが、牧師に喜ばれる為に収益をあげようとしたのです。
あなたは一体、誰に喜ばれたいのですか?
弟子は、イエス様に喜ばれることだけをひたすら願います。
生きるにしても、死ぬにしてもです。
これがあなたのものになっていますか。
自分がイエス様のものであることを喜んでいるのがクリスチャンです。
何度も言いますが、イエス様に喜ばれているかどうかが全てです。
このお方を失ったらすべてが終わりです。

苦しみから学べ

黙示録13:13
「また、大きなしるしを行い、人の前で火を天から地に降らせることさえした」

このように、サタンの側でも奇跡などはできるのです。
エリヤが天から火を降らせたようなことも、できるのですよ。

黙示録13:5-8
7「獣は、聖徒たちに戦いを挑んで打ち勝つことが許された。また、あらゆる部族、民俗、言語、国民を支配する権威が与えられた」
8「地に住む者たちで、世界の基が据えられたときから、屠られた子羊のいのちの書にその名が書き記されていない者はみな、この獣を拝むようになる」

自分はクリスチャンだと言っていても、いのちの書に名前が記されていないなら、獣を拝むようになります。
あなたは、いのちの書に名前が記されていますか?

7節で、獣は聖徒たちに打ち勝つことが許されました。
何故ですか?
上帝がお許しになったからです。
それは人間の頭では分かりません。
しかし何のために悪霊が勝つことを許されたのでしょうか?
それには理由があります。

「聖徒たちが負けることから、学べ」と言われているのです。
主は、病気も苦しみも許されます。
それを通して、私自身も学ぶことが本当に多かったです。
「イエス様は、こんな私のこともお見捨てにならないのだ!こんな不信仰な者を」と。
今、主の憐れみで生かされているのですから、与えられた責務を全うするまで、私も立ち続けます。

詩篇119:65-80
67「苦しみにあう前には 私は迷い出ていました。
しかし今は あなたのみことばを守ります」
71「苦しみにあったことは 私にとって幸せでした。
それにより 私はあなたのおきてを学びました」

これは、上帝の子どもたちの姿です。
「苦しみにあったことは幸せでした。みことばが真実だと分かったからです。主は救い出してくださるお方だ!」と体験的に学んだのです。
苦しみにあわないときは、私は愚かでした。
生まれつきの自分で判断していたからです。
しかし、イエス様の導きは、それとは違います。
たとえこの世の人から見て非常識だったとしても。
この世の偽りの霊は、この世の常識を持ってきます。
これがキリスト教という宗教です。
この世の人が書いた書籍は、肥やしにすればよいのです。
読んだら忘れます。
肥やしは形がないでしょう?
大切なのは、イエス様にあって何を学び、体験したのかです。

主の安息

ヘブル3:6-19
17「上帝が40年の間、憤っておられたのは、だれに対してですか。罪を犯して、荒野に屍をさらした者たちに対してではありませんか」
18「また、上帝がご自分の安息に入らせないと誓われたのは、だれに対してですか。ほかでもない、従わなかった者たちに対してではありませんか」

不従順なイスラエルの民は、40年間荒野をさまよいました。
これは恐ろしいことです。
多くの自称クリスチャンは、人生を無駄にするのです。
ご聖霊のくださる愛、喜び、平安の中に入っていますか?

あなたの内のイエス様の命が小さいなら、この世に勝てません。
上帝は、平安の中にあなたを保っていたいと願われています。
イエス様のみ声に聞き従っているなら、平安を感じるようになります。
あなたが肉の頑固さで歩むなら、イエス様のケアをはねのけているのです。
主の安息から始めなさい。
頑固さを捨てなさい。

この世は、666の前に人々を慣らしておきます。
クリスチャンも洗脳されて行きます。
悪しき者は、イエス様にある愛、喜び、平安のない者を狙っています。
「こうすれば良いのだよ」と囁いて来ます。
信仰による従順の結果、この愛、喜び、平安を得るのです。
このイエス様の腕の中にいる者を、敵は攻撃できません。
敵も、それなりの安息や喜びを与えますが、それは長続きしません。
御霊による安息が、絶対に必要です。

文責 菅原はれみ

礼拝message 3月21日(水)

IIコリント4:16-5:11, 伝12章

IIコリント5:9-11
9「そういうわけで、肉体を住まいとしていても、肉体を離れていても、私たちが心から願うのは、主に喜ばれることです」
10「私たちはみな、善であれ悪であれ、それぞれ肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、メシアの裁きの座の前に現れなければならないのです」
11「そのため、主をおそれることを知っている私たちは、人々を説得しようとしています。私たちのことは、上帝のみ前に明らかです。しかしそれが、あなたがたの良心にも明らかになることが、私の望みです」

裁きの時

キリスト教は、まるで主の裁きがないかのように言いますが、裁きはあります。
しかし、私は主の裁きがあることを知り、慰めを得ました。
「主は裁いてくださる!」という幸いです。
あなたは、主の裁きをどのように受け取り、また受け入れていますか。
裁きの時は、弟子にとっては報われる時です。
自分の人生にどのような評価があるかを知る時です。
たとえ人には認めてもらえない人生であったとしても、イエス様に認めていただけるなら、最高です。
また、裁きの時には、あなたが「天の父よ!」と呼べる人なら、故郷に帰れる時でもあります。
あなたにとって、イエス様の裁きは、慰めですか、それとも恐ろしい時ですか。どちらですか!?

義の栄冠

IIテモテ4:6-8
6「私はすでに注ぎのささげ物となっています。私が世を去る時が来ました」
7「私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました」
8「あとは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。その日には、正しいさばき主である主が、それを私に授けてくださいます。私だけでなく、主の現れを慕い求めている人には、だれにでも授けてくださるのです」

天に帰る人は全て、義の栄冠が待っています。
信仰生活は戦いであり、走るべき道のりにはゴールがあります。
勝者に対する栄冠があるのです。

与えたい者に命を与える

聖書には、終わりの日に、羊と山羊が分けられることが書いてあります。
また、畑に良い種を蒔いたはずなのに、敵が毒麦を撒いたところもあります。
この二つはよく似ていますね。
ユダヤでは、昼間に羊と山羊を一緒に放牧しておいて、夜に牧舎に帰る時により分けるのです。

ヨハネ5:17-30
17:「イエスは彼らに答えられた。『わたしの父は、今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです』」
18「そのためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っていただけでなく、上帝をご自分の父と呼び、ご自分を上帝と等しくされたからである」

主を「我らの父」と呼んでいたユダヤ人にとって、イエス様の言葉は許せないものでした。
イエス様がヤハウェなるお方を「わたしの父」と個人的な父として呼んでおられたからです。
ユダヤ人には、「お前だけ特別なのか?お前だけが天の父の子どもなのか!?」と、彼らのプライドを砕き、連帯感を崩すものだったのです。

ヨハネ5:21
「父が死人をよみがえらせ、命を与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます」

これは恐ろしい言葉です。
イエス様は「与えたいと思う者」に、命を与えられるのです。
イエス様ご自身からいただく命を持っていないと、永遠の命の保証はありません。
イエス様の霊がない者は、偽物として見捨てられます。
あなたのうちにおられるメシアの霊を、確認してください。

ヨハネ14:21
「わたしの命令を保ち、それを守る人は、わたしを愛している人です。わたしを愛している人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身をその人に現します」

イエス様は、命令を守ろうとする人にしかご自身の命を与えません。
あなたが毎日の生活の中で、イエス様の命令を守ろうと実践しているかどうかです。
口先だけの祈り、言葉、日常生活がだらしないのであれば、それはイエス様に対して無礼な態度です。
口では立派な信仰を語りながら、生活そのものを見たら「何これ!?」というようなことになっていませんか。
相変わらず、自分が一番大事なのですか。
イエス様を何よりも大切にし、愛するようになった時、イエス様はご自分を現してくださいます。
それはみ声かもしれないし、幻かもしれません。
主は全能者です。
あなたの生活の全てを知っておられます。

イエス様を敬う

ヨハネ5:23
「それは、すべての人が、父を敬うのと同じように、子を敬うようになるためです。子を敬わない者は、子を遣わされた父も敬いません」

天の父を敬う者は、イエス様を敬います。
「主イエス様」と言葉で言う敬虔さが、主ご自身とつながることができるようにします。
「神様」と言うなら、自分を神としてしまいます。
自分の都合の良いようにするからです。
そして、その信仰の中身は、その人に表れます。
聖書をきちんと学んでいるならば、決してそのようにはなりません。
教師は、一体何を教えているのですか。

日本人は何でも美化したいのです。
歴史もそうです。
天皇家のきれいなイメージを作りあげてはなりません。
あるがままの姿を知り、真実の歴史を知ろうではありませんか。
主は、きれいな部分も汚い部分も正しく裁かれます。
素晴らしいところも、醜いところも見る。
そうして、まっすぐに見えるようになるのです。
聖書も同じです。
左手で歴史を、右手で聖書を知ろうとしなければ分かりません。
私たちは、日本に遣わされたのですから、日本のことを知らねばなりません。
この歴史のなかで醸造されてきたものを、また生み出してきた日本人というものを。
キリスト教は西洋的なものです。

夫は、妻のために命をかけよ

エペソ5:21-25
21「メシアをおそれて互いに従い合いなさい」
22「妻たちよ。主に従うように、自分の夫に従いなさい」
25「夫たちよ。メシアが皇民の群を愛し、皇民の群のためにご自分を献げられたように、あなたがたも妻を愛しなさい」

ここで、妻のことばかりが言われているように思いがちですが、そうではありません。
主は、アダムに命令されてから、エバに言われました。
妻と夫では、夫の方がウェイトが大きいのです。
夫が妻のために命をかけていないなら、妻は夫に仕えられません。
愛されているのを感じるから、仕えられるのです。
イエス様に愛されているから、お仕えして愛するのと同じです。

イエス様が、皇民の群のためにご自身を捧げられたように、夫は妻のために命を捨てよ、と命じられています。
これは、主を畏れる人の姿です。
主がこれからなさることを教えられるのは、人間にとっては本当に恐ろしいことです。
どんな犠牲が支払われたとしても、それは成就します。
自分の命をかけてとりなすのが、クリスチャンです。
預言がどうのなど、軽々しく言ってはなりません。

報いの時

裁きがあることを、主を畏れることを知っているから、人に福音を伝えることができるのです。
あなたは、永遠の命をもち、救いの喜びを味わっている人ですか。
天の故郷を目指して、今日を歩んでいるのがクリスチャンです。
主を畏れる者にとっては、裁きが慰めです。
愛する者たちが裁きにあうのは、耐えられないので、救い主であるイエス様がおられることを伝えようとするのです。
あなたは、その喜びをもって証しできますか?

イエス様はユダに何と言われましたか。
「生まれなかった方が良かった」と言われました。
どんな恐ろしい裁きが待っているのか。
イエス様への裏切りは、聖霊を汚すことです。
キリスト教は、このことをやってしまいます。
主の命令に従わないからです。
イエス様の命令を守り、悔い改めることによって、素晴らしい人生があります。
あなたが悔い改めないならば、イエス様の前に立つ裁きの時には、申し開きできません。
御子イエス様の裁きは、人生を正しく評価してくださる慰めの時でもあります。
地上で、いかにイエス様に喜ばれる生き方をするのか。
報いがあるのです。
だから虚しくないのです。

文責 菅原はれみ 

礼拝message 3月10日(水)

ピリピ3:1-16, マルコ9:33-35,10:32-45

マルコ9:33-35
33「一行はカペナウムに着いた。イエスは家に入ってから、弟子たちにお尋ねになった。『来る途中、何を論じ合っていたのですか』」
34「彼らは黙っていた。来る途中、誰が一番偉いか論じ合っていたからである」
35「イエスは腰を下ろすと、十二人を呼んで言われた。『だれでも先頭に立ちたいと思う者は、皆の後になり、皆に仕える者になりなさい』」

細い道

イエス様の弟子は、他の人々にイエス様を証しする時、どのように伝えるのでしようか。
キリスト教は、まるで伝道を自分たちがやるように思っています。
しかし、十二弟子は、主が遣わされました。
つまり主ご自分がお命じになるのです。
主が、「語れ」「せよ」と言われることをするのが弟子です。
主が、何を願っておられるのか、分かりますか?
弟子たちは、誰がリーダーであるのかと、言い争っていました。
肉の性質は、自分の名誉、栄誉、人を仕切り、差配するのを求めます。
自分が人より抜きん出ていて、まるで人の指導者であるかのように振る舞います。

イエス様に聞き従って行く人生は、細い道です。
まるでタイトロープを綱渡りするようなものです。
真っ暗な中を、信仰によって一歩を踏み出し、あっ、落ちない・・・
そして、また信仰によって一歩、というような生活です。
そのような危ない生活をしながら、何故私は今まで守られて来たのでしょうか。ただ主の一方的な憐れみです。
人は主に聞き従うのかどうか、Yes かNo、どちらかです。
そして実行するかどうかも、選び取るのです。
聖書を読んでいないと、罠に陥ります。
聖書を読むことによって、悪霊の囁きから守られます。
生まれつきの自分は、この世の霊の方に傾きやすいので、悪霊の語る希望的観測を聞きやすいのです。
イエス様の言葉は、危険な道に見え、リスクが伴います。
サタンは「自分でできることをイエス様に要求」したのです。
「それなら、できるかも。良いアイデア!」と思わせるのです。
これは肉のものです。
イエス様から来るアイデアは、風を掴むようなものです。
聖書を読んで作られる土台がないと、簡単に悪霊の罠にはまります。

心の貧しい者

マルコ10:32-45
33「ご覧なさい。わたしたちはエルサレムに上って行きます。そして、人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡されます。彼らは人の子を死刑に定め、異邦人に引き渡します」
34「異邦人は人の子を嘲り、唾をかけ、むちで打ち、殺します。しかし、人の子は三日後によみがえります」


弟子たちは、イエス様が殺される、と思うと恐くて聞けませんでした。
ヤコブとヨハネの兄弟は、一人をあなたの右に、左に!と言い出しました。
何故こんなことを言い出したのでしょうか?
「メシアの死は、上帝の国をもたらす」というのがユダヤ人の考え方だからです。
そして、これは彼らの名誉欲、権力欲からです。
それを聞いた他の弟子たちは怒りました。
これもエゴイズムです。
「自分は無理でも、他の人にはさせたくない!」と、これもエゴです。
イエス様は、これを真っ向から否定されます。
「それではダメだ!心の貧しい者は幸いである」と。
これが弟子の新しい性質です。

私が神学生の時もそうでした。
宣教師のお気に入りが誰であるとか、妬みや邪推やいざこざが本当に多くありました。
これがクリスチャンでしょうか?
弟子の基準をクリアしている人は本当に少ないのです。
クリスチャンとして、聖書通りに生きようとしないと、どんなに信仰があったとしても、主のみこころを成すことはできません。
つまり主のご計画に参画することはできないのです。
多くの自称クリスチャンは、聖書のみことばをまともに聞いて、守ろうともしません。
楽な道に行ってしまうのです。

弟子の道は、自分の古いものを全否定されます。
それはイエス様が、あなたが決心したことをしてくださっているのです。
「どうか主のみこころがなりますように!」と決心したのなら、主は必ずテストされます。
洗礼式で「私はイエス様のものです」と言ったのなら。
イエス様があなたに言われることは全て、「はい!」と答えるのです。
決心しない人は、テストもありません。

あなたが決めた選択肢の中でしか、主に捧げた分しか、イエス様はあなたを取り扱われません。
あなたが「主よ、変えてください!」と叫ぶなら、そのプロセスで、どれだけ呻き、叫ばねばならないか。
それが適当ならば危険です。
あなたが、どのような告白をイエス様に言ったのか。
軽々しいことを言うならば、悪霊が主に訴えます。
「ほら、口先で言って何も実行しないじゃないですか。もう滅ぼしてしまいましょうよ」と。
決して宗教ごっこになってはいけません。

だからイエス様は、「わたしが受ける盃を受けることができますか」と聞かれたのです。
それは、全人類の罪を背負うという盃です。
人間として耐えられる限界を超えるものです。
だからイエス様は十字架で叫ばれました。
ものすごい精神的、肉体的圧迫の中、心臓破裂を起こし、血と水が分かれて出るほどに苦しまれたのです。

しかし後には、ヤコブは殉教し、ヨハネは黙示録を書きます。

ピリピ3:5-9
7「しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました」
8「それどころか、私の主であるメシア・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。私はメシアのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくただと考えています。それは、私がメシアを得て」
9「メシアにある者と認められるようになるためです。私は律法による自分の義ではなく、メシアを信じることによる義、すなわち、信仰に基づいて上帝から与えられる義を持つのです」

何を誇るのか

パウロはここで、自分は誇るべきものがたくさんあると言っています。
イエス様と出会う前の人生、その人生でやって来たもの、得たものです。
彼はイスラエルの上帝に熱心でした。
しかし、イエス様を啓示された時、彼は全てを失いました。
それはちりあくただと、彼は言っています。
人が誇りとする、自分の人生、過去、学歴、経験、美貌、家柄など、全てが糞土です。

論語の中に「糞土の牆(しょう)はぬるべからず」というのがあります。
簡単に言うと、怠け者には、教育する意味がないということです。
(注:弟子が昼寝をしていたのを見て、孔子は言いました。「腐った木には彫刻できないし、腐りくずれた土壁には上塗りできない。お前に対しては何を叱ろうか。叱っても仕方ない」 論語 公冶長より)

自称クリスチャンには怠け者が多いのです。
信じていれば大丈夫だと思っているからです。
寝ていても、遊んでいても、やりたいようにやっていても、です。
弟子は、イエス様に聞き従うことを体得せねばなりません。
それは、地味でゆっくりした歩みです。
遅々として少しずつ進んで行くものです。
信仰とはそういうものです。
「聖霊を受けたから、もうOK!」ではありません。
怠け者は、探しもしないし、叩きもしません。
そのような人には何もありません。

金持ちは、何故救いが難しいのか。
知らないうちに上から目線になるからです。
肉のプライドが身に付いてしまっているのです。
金持ちは、貧しい人を仕切ろうとします。
パウロは「イエス様のために全てが無くなった。しかしそれらは屑だった。イエス様を知ることの素晴らしさの故に!」と告白しています。
このことは、信仰の安全にもなります。
古いものやプライドを捨てていないなら、敵の罠に落ちます。
「誇るものはイエス様以外には何もない」というのが、安全な場所なのです。
そうでないなら、必ず人を仕切ってしまいます。

パウロはローマの凱旋を、実際に見て知っていました。
凱旋は大勝利の後にしか行われません。
しかもそれは、100年に一度あるかないかというような大規模なものです。
その時には、祭司たちが香を焚いて祝います。
だからパウロは、ローマの凱旋に喩えて、メシアの香りと言ったのです。
イエス様の弟子たちが勝利を得た時、どれほど天の父に報いていただけるか。
天の父は、凱旋の祝宴を用意して待っておられます。
だからパウロは、その報いの大きさの故に「勝利を得る者にならねば!」と言ったのです。

仕える者になりなさい

マルコ10:43,44
43「しかし、あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい」
44「あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい」

しもべ、はしためは奴隷です。
奴隷が人を仕切りますか?
そのような人が、誰かをイエス様のところに連れて行けますか?
はしためとは、人の世話をする者です。
自分が役に立たないと自覚している者です。
イエス様が、まことの主であり、支配者です。
それなのに何故、人間が人を取り仕切り、差配するのですか。

太秦之宮が始まった時、私はある姉妹に「おかんになれ」と言いました。
(注:関西の言葉でお母さんの意味)
なれ、と言われてなれますか?
いいえ、なれません。
信仰によって歩んだ結果、おかんになれたら良いのです。
何故おやじではなくておかんなのでしょうか。
おやじはちゃぶ台をひっくり返します。
しかしおかんは、絶えず世話役であり、後始末をする立場です。
掃除、洗濯、後片付けです。
女性がこのようにできないなら、はしためとしての姿を身につけていないなら、証にはなりません。
女性は結婚すると、イザベルになりやすいからです。
聖書は「女性が男性を教えるな」と言っています。
女性の弱さの故に、イエス様が教えておられるのです。

聖書が要求しているのは、「イエス様以外に誇るものはない」と自然に言える弟子です。
そうなれば、自然に仕える者になります。
マグダラのマリアのように。

プリスカとアクラの夫婦を考えてみましょう。
彼らは天幕作りをしながら、ローマのあちこちに移住していました。
プリスカが偉いのです。
家庭をオープンにし、多くの人や旅人を受け入れ、まるで当時のクリスチャンにとってオアシスのような存在でした。
プリスカとアクラの夫婦が、良いサンプルです。
弟子の姿は、ここまで人に仕えることです。
貧しい人の世話をしているのは、イエス様にしているのです。
これができるようになったら、イエス様に重要なところで使ってもらえるようになります。
一番大切なのは、従順さです。
この反対が、頑固さです。

「自分」というエゴが強かったら、使いものになりません。
パウロは、エルサレムへ向かって行く中で、鎖と苦しみが自分を待っていることを知っていました。
しかし彼は、「主のみこころがなりますように」と言いました。
あなたがイエス様と親しくなるならば、これからどのようになって行くか、ちゃんと教えて頂けるようになります。

そして、一人一人がこのようにできなかったら、太秦之宮は何の役にも立ちません。
弟子は、しもべであり、奴隷です。
奴隷には、自分のものや時間などありません。
自分の好き嫌いは通せません。
ただ与えられたものを食べ、着て、なすべきことをやるだけです。
主のしもべ、はしためであることにプライドを持てるような群れにならなければ、無意味です。
それは、イエス様を愛する群れです。
イエス様を愛していないのなら、イエス様を知っているなどと言って欲しくありません。

イエス様は、あなたの生活を見ておられるので、決してごまかせません。
あなたがイエス様をどれだけ愛しているのか、イエス様はちゃんと知っておられます。

あるスウェーデンの宣教師が、「見てごらん。折られた骨が笑っている」と言いました。
面白いですね。直訳です。
どのような意味ですか。
折られた骨とは、使いものにならないという意味です。
「私は何の役にも立ちません。でもイエス様は素晴らしい!」と。
イエス様に用いて頂いたとしても、折られた骨がつながっただけです。
自分が偉いわけではありません。
折られた骨は、接がれると太く強くなります。

自分が全否定され、面子が潰される時、喜びなさい!
あなたの古いものが剥がされる時なのです。

人を取り仕切るというのでは、駄目です。
人をイエス様には導けません。
キリスト教は、人を教会に連れて行きます。
洗礼を受けさせます。
それでどうですか?その後どうなるのですか?
多くの人がいなくなります。
生きておられるイエス様に人を連れて行くのが、折られた骨です。

イエス様は、弟子たちに命令しています。
しもべ、はしためになって、喜んで人に仕えなさい。
みなさん、喜んでイエス様に聞き従ってください。

文責 菅原はれみ

礼拝message 1月27日(水)

ダニエル9:1〜21

ダニエル9:2~6
2「すなわち、その治世の第一年に、私ダニエルは、預言者エレミヤにあった主のことばによって、エルサレムの荒廃の期間が満ちるまでの年数が七十年であることを、文書によって悟った」
4「私は、私の上帝、主に祈り、告白した。『ああ、私の主、大いなる恐るべき上帝。あなたを愛し、あなたの命令を守る者には、契約を守って恵みをくださる方」
5「私たちは罪ある者で不義をなし、悪を行って逆らい、あなたの命令と定めから外れました」
6「私たちはまた、あなたのしもべである預言者たちが、御名によって私たちの王たち、首長たち、先祖たち、民衆すべてに語ったことばに、聞き従いませんでした」

ヤコブは、義人の祈りには大いなる力があると言っていますが、ダニエルの祈りは義人の祈りです。
それはとりなしの祈りであり、自惚れがなく見せかけがありません。
太秦の群れが、このダニエルのように祈れるようになれば、主の御わざが速やかに現されるでしょう。
このような祈りができるように、みなさん早く成長してください。
ダニエルの祈りを下敷きとして、祈りを学んで欲しいのです。

イスラエルの北の十部族と南のユダ族は、シルクロードを通り、日本に渡って来ました。
日本には多くのユダヤ人たちが来ていて、秦氏(原始キリスト教徒)たちが多く住んだ太秦という地名が残されました。
太秦とは、イエス・メシアのことです。
これははっきり言って信仰です。
私はこのことを信仰によって受け取り、残りの人生を主に捧げて、「京都に行こう」と決めました。
そして今、太秦の穴蔵で一人祈っているわけです。

何故日本には、二発の原子爆弾が落とされたのでしょうか。
長崎には、隠れキリシタンが数多くいました。
何故わざわざ長崎に?
神学生の時から、私はずっとそのことを主にお尋ねしていました。
全てのことは主のお許しがなければ起きません。
何故でしょうか?
主は必ず報いをなさるお方だからです。

今ウイグルで大変な迫害が起きています。
多くの人が許されないことだと声をあげています。
しかし、私は敢えて言います。
ウイグルの歴史はどうだったのですか?
そこには必ず理由があります。

それぞれのクリスチャンは、その置かれている国の運命共同体です。
日本という国、歴史そのものを自分が負わされた罪として受け止めていますか。
日本はある意味とても祝福されています。
主は、恵みを与えた者には、要求をされます。
旧約聖書で、ユダヤ人は選ばれた民でした。
それは責務を、主の栄光を背負うということです。
主の責務という要求に応答していなければならないのです。
これが責任です。
あなたがクリスチャンなら、このことを自覚して欲しいのです。
多くのクリスチャンは、まるで傍観者のようです。
クリスチャンは、イエス様が負託して下さったものを背負っている者です。
主が「選んで下さった」ことに答えるという責任が生じるのです。

イエス様が皆さんを選んでくださったのは、「わたしは正しい人を招くために来たのではない」と言われている通りです。
あえてこの世の無きに等しいものを選んで、主の偉大さ、素晴らしさ、アガペーの愛を証しさせようとしておられるのです。

選ばれた人々を通して、イエス様が主の主、王の王であることを証しさせたいのです。
この世は、主の皇国の素晴らしさを知りません。
あなたは、主ご自身のご計画の中で選ばれているのです。
主のアガペーの愛の中で、養われ育てられなければなりません。
「主のみこころは何ですか?」と問い、理解することができなければ、主が期待され託されたことに答えることはできません。

聖書は何のためにあるのですか。
ご利益宗教であるならば、こんな分厚い聖書は要りません。
私たちが成長し、聖書から主のみこころは何かを学び、主の負託に答えるために聖書はあるのです。

ダニエルは、選ばれた民としての連帯責任を告白しています。
何故イスラエルの民は、捕囚の状態であるのか。
しかしまだ希望が残されていることを、ダニエルは知っていました。
主が、自分とご自分の民を愛されていることを知っていたからです。

モーセは「このイスラエルの民を捨てないでください!」と叫びました。
「この民には、あなたの名がかかっているからです。それなのにこんなことで良いのですか。私の主なる方よ!」と取りなしたのです。
民が堕落している状態は、この世を支配する霊に笑われています。
「お前たちに一体何ができるのか?」と。

クリスチャンは、自分が救われたからどうのこうのと言うような小さいことで終わってはいけません。
「主なるお方が、こんな私のために死んでくださったのだ!」という大いなる感動がありますか。

クリスチャンが手を置けば、病人は癒されます。
しかし、私は日本では手を置くことをしたくありません。
何故なら、日本人はすぐ人を拝むからです。
そして、うちの教会のメンバーであるとか、お金の話になります。
クリスチャンは、恵みをただで戴いたのですよ。
ただで癒し、解放すれば良いのです!
みなさんには、主から賜物を戴いて、苦しんでる人々を助けてほしいのです。

あなたの信仰を強めるには、必要なのは異言です。
自分の罪を悔い改め、イエス様から戴いた新しい命の上に、聖霊と火のバプテスマを受けるのです。
異言の祈りを捧げてください。
言葉として主の前に捧げるのです。
周りの人々のためにです。
この世には失望している人が多すぎます。

奇跡としるしが伴うと、悪霊が寄ってきて「あなたはすごい!」とプライドをくすぐってきます。
しかし、そこでイエス様に従う訓練をしてください。

イエス様は、何故ベテスダの池で38年間寝たきりだった病人のところに遣わされたのですか。
何故、他にたくさんいる病人にではなかったのでしょうか。
イエス様は、父のみこころの通りに行われたのです。
では父のみこころ、主の栄光をどのように現すのですか?

上帝の国と義を第一に求めることです。
山上の垂訓には何と書いてありましたか。

マタイ5:3〜10
3「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです」
4「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです」
5「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです」
6「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです」
7「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです」
8「心のきよい者は幸いです。その人たちは上帝を見るからです」
9「平和をつくる者は幸いです。その人たちは上帝の子どもと呼ばれるからです」
10「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです」

垂訓とは教訓のことです。
人間としてどのような人間になっていくべきかという道徳上の教えです。
このようなものが品性として備わっていなければなりません。
柔和、へりくだった者という条件が欠けていたら無理です。
難しいけれど、イエス様の命からは、このような芽が出ます。
あなたがイエス様に従順な道を選ぶなら、あなたを変えて品性を与えてくれます。
しかし、あなたが自分を捨てていることが条件です。
イエス様の命があっても、それを自分で潰しているのです。

イエス様はあなたの名を呼ばれているのに、絶えず逆らって来たのです。

ダニエル9:19
「主よ、聞いてください。主よ、お赦しください。主よ、心に留めて事を行ってください。私の上帝よ、あなたご自身のために、遅らせないでください。あなたの都と民には、あなたの名がつけられているのですから」

主の御名の栄光のため、イエス様の素晴らしさを、証しせねばなりません。
山上の垂訓は、クリスチャンとしての基礎、あり方が示されています。
そのように造り変えられていないと、主の使命には応えられません。

マタイ6:33
「まず上帝の国と上帝の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます」

何故、上帝の国と義をまず求めよと言われているのでしょうか。
上帝の国は、イエス様が治められる国です。
それは千年王国であり、天の故郷でもあります。
弟子たちが、その存在を通して、イエス様の治める王国の素晴らしさを現すのです。
それはクリスチャンの内におられる、イエス様が支配しておられる国です。

イエス様の血と御名によって、その御翼の影に守っていて下さるのですから、毎日感謝を捧げれば良いのです。
人の名誉もお金も腐っていきます。

ダニエル9:16〜19
16「主よ。あなたのすべての義のわざに従って、どうか御怒りと憤りを、あなたの都エルサレムから、あなたの聖なる山から去らせてください。私たちの罪と私たちの先祖たちの咎のゆえに、エルサレムとあなたの民が、私たちの周囲のすべての者にとってそしりの的となっているからです」
18「私の上帝よ。耳を傾けて聞いてください。目を開いて私たちの荒れすさんださまと、あなたの御名がつけられている都をご覧ください。私たちが御前に伏して願いをささげるのは、私たちの正しい行いによるのではなく、あなたの大いなるあわれみによるのです」

とりなす、というのは民の罪を負うということです。
ここでダニエルは、先祖の罪を自分の罪のように告白しています。
明治天皇は、神道はユダヤ教であると発言されました。
三笠宮殿下もその事を多く調べておられました。
しかし、私たちの先祖はその事実を隠したのです。

何故、このダニエルのような祈りを、私たちが捧げねばならないのか。
何故、日本には二発も原子爆弾が落とされたのか。
この日本という国を、主がどれほど養い育て、守って来てくださったのか。
考えれば分かります。
主は、打たれるのです。
上帝に選ばれたユダヤの民は、アッシリアとバビロニアに捕囚にされました。

日本の今のこの現状を見てください。
多くのクリスチャンは、日本の歴史という事実を見ようとしません。
見たとしても、日本とイスラエルのルーツを見て、ほくそ笑むだけです。
日本の罪を自分の罪として、主の前に祈らなければなりません。
上帝の豊かな恵みを受けているのを知っていながら、隠しているという事実を。

イエス様は「わたしを見た者は、父を見たのです」と言われました。
クリスチャンは、御子イエス様だけを拝み、それ以外は拝みません。
イエス様を通してでしか聖霊は働きません。
ペンテコステ派は「聖霊だけで良い」と言って、まるで聖霊を拝んでいるようです。

ヨハネ3:36
「御子を信じる者は永遠のいのちを持っているが、御子に聞き従わない者はいのちを見ることがなく、上帝の怒りがその上にとどまる」

聖霊の御わざのみを主張するのと、御子イエス様に聞き従うのは違います。
ここで上帝の怒りがとどまる、と言うのは、クリスチャンの上に主の怒りがとどまるということです。
Iコリント11章で聖餐式を軽んじている者の中に、死んだ者が多くいるとあります。
上帝の怒りです。
心のどこかで主を馬鹿にしているからです。

クリスチャンが、若くして早死にしてしまうことがあります。
それはこの世と同じ裁きを受けないためだと私は思っています。
これ以上生きていると、悪霊に使われてしまうので、これ以上罪を犯さないように早く死んでしまうのです。
これは主の憐れみであって、地獄に行かないためです。

ダニエルのような、祈りのとりなし手になるとガブリエルが来てくれます。
そして、あなたに教えて良い範囲で教えてくれます。
ガブリエルは、主から託された範囲でしか話しません。
主が教えてくださるのは、あなたの成長度合いにかかっています。
内面、品性といったものです。
主は何故、あなたに教えられないのか。
それは傲慢にならないためです。

アメリカのトランプ元大統領を、ヒーローのように言う人々がいます。
しかしこの世は悪き者の支配下にあります。
そこで主の御名があがめられているのですか?
主はどのような器も用いられます。
人間は完璧を目指していても、弱さを背負っています。
しかし、主が大事な所に用いてくださる可能性があります。

いつまでも自分のことばかり祈っているようではいけません。
あなたの生活のことは主にお任せしていれば良いのです。
上帝の国と義を祈る者となってください。
早くそのように成熟してください。
今の時代は、ダニエルのような祈りのとりなし手を求めています。
日本という国が、主から愛され選ばれているなら、主に栄光をお返ししなかった場合のペナルティも大きいのです。
そして、私たちはこの日本に生かされているのですから。
本当に時間が無くなって来ています。

文責 菅原はれみ

礼拝message 1月3日(日)

(長岡京市・光明寺)

ルカ4:1〜30

イエス様はまことの先生であり、日々私たちに様々なことを教えて下さっています。
人類が贖われるという救いの目的は、人間を造られた目的でもあります。
上帝は、人間を被造物のかしらとして造られました。
それは、アガペーの愛という恵みを受けた者の素晴らしさを、み使いたちに見せたいからであると、私は思っています。
私たちは、舞台に立つ俳優です。
観客はみ使いたちです。
天使たちと、悪霊たちです。
また歴史は、観客たちのためだけではなく、主が目的を持ってみわざをなしておられます。
それは全て、主が褒め称えられるためであり、その義と聖と愛を実証するためです。

福音の理解において、「人間中心である」と教える牧師が多いのですが、そうであるなら、自分の考え方次第で全部変わってしまいます。
不平不満ばかり言うのか、神様は愛だから好きにやれば良いと能天気になるのか、また主の愛を疑うのか、どれかです。

イエス様は、「人とはこのように生きるもの」という模範と足跡を残してくださいました。
それは、「やはり上帝はアガペーなる聖い、正しいお方だったのだ」とみ使いたち(堕落した悪霊も)が納得するためです。
私たちは、天の故郷を目指して地上を生きています。
それは多くのみ使いたちもそこにいて、イエス様を、その恵みを、垣間見るチャンスなのです。
やはり、イエス様は素晴らしいお方なのだ!と

郷里での預言者

ルカ4:24〜27
24「そしてこう言われた。『まことに、あなたがたに言います。預言者はだれも、自分の郷里では歓迎されません」
25「まことに、あなたがたに言います。エリヤの時代に、イスラエルに多くのやもめがいました。三年六か月の間、天が閉じられ、大飢饉が全地に起こったとき」
26「そのやもめたちのだれのところにもエリヤは遣わされず、シドンのツァレファテにいた、一人のやもめの女にだけ遣わされました」
27「また、預言者エリシャのときには、イスラエルにはツァラアトに冒された人が多くいましたが、その中のだれもきよめられることはなく、シリア人ナアマンだけがきよめられました」

ここでイエス様が故郷に帰られた場面ですが、人々はイエス様を「ヨセフの子ではないか」、つまりただの人間だと見下していました。
しかも、ユダヤ人たちは「ユダヤ人のためだけのメシア」を待ち望んでいたのに、イエス様の言われた事は、期待と全く違ったのです。
「預言者たちが遣わされたのは、ユダヤ人ではなく異邦人たちだったではないか。あなたたちは選民だと自惚れているのだ」と、イエス様は、はっきり言われたからです。
イスラエルの愛国者なら、カッカして怒る情景が見えてきませんか。
面白いですね。
「何だお前は、外国人びいきなのか!?」と。

ルカ4:28〜30
28「これを聞くと、会堂にいた人たちはみな憤りに満たされ」
29「立ち上がってイエスを町の外に追い出した。そして町が建っていた丘の崖の縁まで連れて行き、そこから突き落とそうとした」
30「しかし、イエスは彼らのただ中を通り抜けて、去って行かれた」

彼らは怒り狂ってイエス様を殺そうとしました。
「国粋主義者なら良いけど、なんだお前は。エリヤもエリシャもイスラエルの民には遣わされなかったと言うのか!?」と、イエス様は彼らにとっては侮辱的な事実を、はっきり言われたからです。

イエス様は彼らの中を通り抜けて去って行かれました。
クリスチャンが常識的なことを言ったら、つまらないですね。
本物のクリスチャンなら、このように周りが理解できないこと、家族や知人から信仰による誤解を受け、迫害されるはずです。
しかしキリスト教はどうですか。
常識から外れないように、優しく、誤解されないように・・・的外れなことを言うのです。

生まれ変わったクリスチャンなら、イエス様の命令を守るようになり、生きておられるイエス様の声に聞き従うようになるはずです。
周りの人は驚くでしょう。


新しい命

クリスチャンになりたての頃は、まだみ声を聞けません。
だから聖書を読んでくださいと言っているのです。
多くの自称クリスチャンは、何故か聖書の世界にいません。
私たち異邦人は、悪霊の支配と自分たちの宗教(文化の土台)の中で育ち、生きてきたのだから、聖書とは違う土壌です。
だから、上からの新しい命で生きて行くようにと言われているのです。
新しく生まれなければ、上帝の国を見ることも、入ることもできません。

キリスト教は、「信じたらOK」と言います。
しかし「生まれ変わって、初めてOK」なのです。
イエス様を信じた結果、その信仰が本物なら、上から命を与えられます。
それで初めて、イエス様の期待された人生を生きられるのです。
キリスト教は「これで良いのだ。これがみこころだ」とすぐ言います。
しかし、そんな簡単にみこころを知ることなどできません。
自分に都合の良いことを、勝手にみこころだと言っているだけです。

人は上から生まれて初めて、「天の故郷がある。故郷を目指して旅をしているのだ!」という希望が与えられます。
地上の家族がどんな人であっても、「天に大いなる家族がいる。天にまことの父がいる。天を目指して帰るのだ。私には帰るところがある!」という新しい世界が広がるのです。
それは、見えないものを、見るようにして、です。
啓示を通して、天国が本当にあることを経験し、体験して行くのです。
その事実がはっきりすると、揺るがない信仰となります。

竹中平蔵氏が取締役会長を務める、パソナの本社が淡路島に移転しましたね。
もしあなたが主のみこころを垣間見ることができるならば、闇の主権者がやらせている事は、当て付けだと分かるでしょう。
(注:淡路島には、歴史的にユダヤ人が渡って来た痕跡を残す遺跡が残されています)
百人一首の78番「淡路島 かよふ千鳥の 鳴く声に いく夜寝覚ぬ 須磨の関守」源兼昌
ですね。
残りは宿題です。
自分で考えてみてください。

罪悪感からの解放

敵のやり方を見ていれば分かります。
その人が主の弟子かどうかは、敵が攻撃するかどうかです。

太秦之宮は、ユダヤ人の末裔が日本に来ていないとあり得ないような数々の奇跡を通して主のみこころを知り、その日本に隠された意味を知り、イエス様を証しするために存在しています。

この世の終わりに、主のみこころの中、一つ一つ駒を進めていると、私は信じています。
この歴史の中に、生かされていることを楽しむのです。
しかしコロナウィルスで倒れていたら、楽しめませんね。
主の弟子は、イエス様のみ翼の影に守られています。
主の守りは盤石です。
主に信頼しているなら、えやみも疫病も近づきません。
しかし、あなたが疑うなら、守りは取り去られます。

自分の信仰に不安を感じるなら、ファイヤーバイブルを読んでください。
解釈が違うところはありますが、根本的に同意できます。
あなたの良心(罪悪感)を敵は攻撃してきます。
夢を通しても、矢を射掛けて来ます。
私たちはイエス様の血によって、邪悪な良心がきよめられ、自分を責める罪悪感からの解放を得るのです。

ヨハネ14:6
「イエスは彼に言われた『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません』」

責められたり、許されてないという思いは、イエス様との関係を通せんぼします。
その壁を取り除くのです。
あなたの悔い改めが本物なら、「許された、解放された!」という平安が与えられるでしょう。

ナアマンの信仰

ファイヤーバイブルの「旧約聖書のキリスト」p.611を、読んでおいてください。
予型論の原理について書いてあります。
旧約聖書は、イエス様を知る上で、非常に重要です。

II列王記5章
17「そこでナアマンは言った。『それなら、どうか二頭のらばに載せるだけの土をしもべに与えてください。しもべはこれからはもう、主以外の他の神々に全焼のささげ物やいけにえを献げません」
18「どうか、主が次のことについてしもべをお赦しくださいますように。私の主君がリンモンの神殿に入って、そこでひれ伏すために私の手を頼みにします。それで私もリンモンの神殿でひれ伏します。私がリンモンの神殿でひれ伏すとき、どうか、主がこのことについてしもべをお赦しくださいますように」
19「エリシャは彼に言った。『安心して行きなさい』そこでナアマンは彼から離れ、かなりの道のりを進んで行った」

私は、このナアマンの箇所を読んだとき「ああ、そうか!」と、日本人クリスチャンのあるべき姿を見せられたように思いました。
宣教師は、日本の神道や仏教を、悪霊だとか偶像礼拝だとか言っていました。
しかし、私の内におられるイエス様は、それを納得しておられませんでした。
いくら他人から正しそうなことを聞かされても、内側のイエス様の命に聞き従えるようにならなければ、信仰は完成できません。
大切なのは、あなたの内におられるイエス様の命です。

主君に重んじられていたナアマンは、リンモンの神殿でひれ伏すことを赦していただけるよう主に願いました。
エリシャは何と答えましたか。
「安心して行きなさい」です。
上帝は、ナアマンの信仰と態度を知っておられます。
主は心を見ておられるからです。
主が、その人の態度を見て、良しとされるなら、それで良いのです。

私は、神社も寺院も、日本人としてのメンタリティーの中に違和感を感じません。
そして、神社やお寺にも行きます。しかし礼拝はしません。
内側におられるイエス様がOKなら、それで良いのです。
しかし、NOなら、駄目です。
それは、人それぞれ違います。
つまり、日本においてどのようにクリスチャンとして生きて行くのか、日本の文化とどう向き合うのか。
ナアマンのように、イエス様がOKなら、OKなのです。

私は、イエス様の命によって、日本の歴史文化の中に、ユダヤ人の信仰が流れ込んでいたことが分かりました。
それは信仰による肉付けです。

私たちは、聖書全体から何を学ばねばならないのか。
悪いのは、選民意識です。
「日本人は素晴らしい。祝福されている」というのは、違います。
イエス様を受け入れなかった、ナザレの人々と同じです。
選民意識は、主から嫌われます。
クリスチャンとして選ばれた、というのも選民意識です。
違います。
人間はみな一緒です。
しかし、役割の違いはあります。
ユダヤ人と異邦人は、役割が違います。
信仰は、いかにご聖霊の助けによって聖書を読むか、にかかっています。

イエス様が栄光を受けてくださり、天の父の隣に座ってくださった故に、ご聖霊が遣わされました。
聖霊のバプテスマを受けるならば、イエス様ご自身を知るようになります。
イエス様がご聖霊に託してくださったものを、ご聖霊が受けて、私たちに教えてくださるのです。
イエス様とご聖霊は同じです。
ペンテコステ派は、切り離してしまいますが、それは違います。

イエス様は主であり、歴史の中心であり、私の中心でもあります。
イエス様があなたの中心におられないなら、イエス様はあなたを導きようがありません。
そのために、肉を十字架につけるのです。
古い自分は死んだのです。
それは、生涯徹底的に訓練されます。
パウロも、自分を鞭打って従わせました。
肉は逃げようとするからです。

この世との分離

II列王記5:26、27
5:26「エリシャは彼に言った。『あの人がおまえを迎えに戦車から降りたとき、私の心はおまえと一緒に歩んでいたではないか。今は金を受け、衣服を受け、オリーブ油やぶどう畑、羊や牛、男女の奴隷を受ける時だろうか」
27「ナアマンのツァラアトは、いつまでもお前とお前の子孫にまといつく』ゲハジはツァラアトに冒されて、雪のようになって、エリシャの前から去って行った」

ここで奉仕者ゲハジのことを考えみましょう。
彼はかわいそうな人ですが、キリスト教界には、このような人が多いのです。「ここにいたら、良いことがあるよ!」という風に思っているのです。
世の宗教は、がっぽりと報酬をもらいます。
カネ、車、と言った見返りです。
宣教師や牧師の中にも、このような人が多くいます。

しかしエリシャは、きっぱりと「違う!」と言ったのです。
「恵みによって癒されたのだから、主に栄光をお返ししなさい。見返りはいらない。ただで受けたのだから、ただで与えなさい」と。
決して見返りを要求してはなりません。
絶対に、ゲハジのようになってはいけません。
その後、彼はどうなりましたか。
ツァラアトになったのです。
彼は主のしもべではありません。

何故現代のキリスト者は、パッとしないのですか。
ゲハジ的なのです。
この世の人と、分離されていないからです。
あなたが、アガペーの愛を受けているのなら、全てにおいて、ただで与えるのです。
主を褒め称えて、礼拝しなさい。

迫害する者のために祈り、敵を愛しなさい。
あなたが古い肉を十字架につけないなら、ゲハジになります。
イエス様を裏切ることになります。
エリシャは、ゲハジに「私が一緒にいると思わなかったのか」と言いました。
II列王記5章をよく読んで理解してください。

エリシャとナアマンが、要求したこと、しなかったことをよく理解してください。
ゲハジは、主の呪いを受けました。
下心があったからです。
下心があったら駄目なのです。
砕かれた、悔いた心がないゲハジになります。
どうか、ゲハジにならないように!
最後に、ナアマンは仕えるべき主人に、きっちり仕えました。そして、エリシャは「そんな王に仕えるのはやめなさい」とは、言わなかったのです。
よく理解してください。

文責 菅原はれみ

礼拝message 12月30日(水)

ユダの手紙

ユダ:4
「それは、ある者たちが忍び込んできたからです。彼らは不敬虔な者たちで、私たちの上帝の恵みを放縦に変え、唯一の支配者であり私たちの主であるイエス・メシアを否定しているので、以下のようなさばきにあうと昔から記されています」

唯一の主、イエス・メシア

この一年、皆さんは新しくどのようにイエス様を知ることができましたか。
わたしは、ただひとつ、「唯一の支配者であり、主であるイエス・メシア」を皆さんに刷り込みたいのです。
あなたは、何に支配される人生を送って来ましたか。
何が大切な生き方ですか。
あなたの周りにいる誰が見ても、「あの人は自分の考えではなく、何か別のものに従おうとしている」と気が付く生き方をしていますか。
それが証なのです。
聖書が書かれた時代、クリスチャンの奴隷は「イエス様にお仕えするように」主人に仕えました。
奴隷は、「自分は地上の主人ではなく、イエス様にお仕えしているのだ」という喜びがあったからです。

現代クリスチャンの多くが、自分の思い描いているユートピアの中で生きようとしています。
自分にとって幸せな(自分の欲望、願い通りの)クリスチャンライフです。
「まず自分を愛し、大切にしなければ私が幸せになれないわ」という考えです。
ユダの手紙が書かれた時、多くの異端の教えが入って来ていました。
「自分の好きにやればよい」「イエス様の名前を使えばなんんでもOK」というようなものです。

しかし弟子は、主導権をイエス様に捧げています。
唯一の支配者であるイエス様の栄光を求め、イエス様の栄光を現すために生かされているのです。

人は自分が良いと思うものを、捨てようとしないものです。
悔い改め、脱ごうとしません。
だからイエス様は、アクシデント(問題や病気など)で目覚めさせようとされます。

御子のご支配の中へ

弟子がイエス様を主として生きる限り、サタンに主導権はありません。
しかし、そうしていないなら、悪霊はいつでもあなたにちょっかいを出せます。

コロサイ1:13
「御父は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました」

自分の思い通りに生きるなら、元に戻ってしまいます。
キリスト教は、自分の都合の良いようにみことばを使います。
みことばを守ることが、イエス様の命令を守ることです。
サタンでさえみことばを使います。
ある人たちは簡単に「みことばを示された」と言いますが、誰に示されたのですか!?
この世の自称預言者は、良いことしか言いません。
しかし皆さんを守るため、このままでは危ないから、私は厳しいことを皆さんに言うのです。

イエス様を信じ受け入れたなら、自分との戦いが始まります。
環境が、自分にとって都合が良くない、またよく分からないと思うような時でも「何をしていても私はイエス様にお仕えしているのだ、何故ならイエス様は主なのだ」と自然に思うのが、弟子の生活です。

心の一新によって自分を変えなさい

あなたが生活の中で実を結び、イエス様の弟子となることによって、天の父の栄光が現されて行くのです。

ヨハネ15:8
「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになります」

あなたの中にイエス様の命があり、イエス様とひとつにならない限り、アガペーの愛があなたの心の中心にはなりません。
自称クリスチャンを見ていて「アガペーがあれば、そんなことしないし、言わないよね」ということがあるでしょう?

クリスチャンは「イエス様の御名が褒め称えられますように!」と願います。
イエス様が中心です。
そうでないなら、宗教になります。
宗教には必ずポリシーがあります。

皆さん、こんな面白い時代に生かされていて、世界が変わるのを目撃できるのです。それが分かりますか?
この今置かれた生活の座で、このような時代に人間として生かされている。
主の御心を知るチャンスを与えられていることを、感謝していますか?
だから心の一新によって自分を変えなさい、と言われているのです。

あなたが古い肉のままだと、宗教になってしまいます。
アメリカの自称預言者は、まるで主の相談役のようにふるまいます。
しかし、誰が主の相談役なのですか!?
わたしの栄光を他の者には与えない、と書いてあるではありませんか。

あなたの心の中にイエス様の命があるなら、主のみこころを知ることができます。
しかし、イエス様の命が小さいなら、敵に騙されます。

実を見て判断しなさいと言われている通りです。
言霊と言うように、その人の話や、声を聞けば霊的状態が分かります。
声の響きによって、内側の霊のものが外側に出てくるからです。
声は、その人の霊性がすべて出ます。
内なる人は、イエス様の霊です。
イエス様の声が聞き分けられるくらいに、イエス様の命が成長しないと、いつの間にか騙されているのです。

内なるイエス様の命

大切なのは、中心にイエス様がおられるかどうかです。
あなたの内なる人が強くなって、敏感さを持って欲しいのです。
内におられるイエス様が敏感に反応するのを感じていないと、日本の霊的戦いはできません。
自分の肉も処理できない人がどうやって戦うのですか。
大和の君(日本を支配している悪霊)は、霊的巨人です。
そして見目麗しいのです。
絶世の美形といいますか。
天照大神は、男にも女にもなれます。
だから、女に弱い男も、男に弱い女も、ダメです。
負けます。

日本の霊的なものと戦おうとする時、あなたの内なる人が強められるようにと願います。
何故日本のクリスチャン人口が未だに1%未満なのですか。
誰も戦わないから、まず自分との戦いをしないからです。
「唯一の支配者であり、主であるイエス様が、直接こう教えてくださった」というものを土台にしていない人は、まず疑うべきです。
スピリチュアルな事柄も、本当に天の父から来ているのですか。
この世の霊は、ちゃんと知っています。
韓国の占い師は、お客さんの多くは牧師だと言います。
大統領にも、必ずスピリチュアルな相談役がいますね。

御霊はイエス様の栄光を現す

ヨハネ16:12〜15
14「御霊はわたしの栄光を現されます。わたしのものを受けて、あなたがたに伝えてくださるのです」

「神様が教えてくださった」と言う人は、一体誰に教えてもらったのですか。
あなたの神は誰ですか!?
その人の信仰のはかりに応じて、イエス様が教えてくださることはあります。
そうであるなら「イエス様がこのように教えてくださったのです」と言うはずです。
自分が霊的になったから、教えられたのではありません。
そのように高ぶる者に、主が何かを教えてくださることはありません。
イエス様が語られたのならば、「私ではありません。主が教えてくださっただけです」と謙遜に言うでしょう。

エゼキエル22:23〜31
26「その祭司たちはわたしの教えを冒涜し、わたしの聖なるものを冒し、聖なるものと俗なるものとを分けず、汚れたものと、きよいものとの違いを教えなかった。また、彼らはわたしの安息日をないがしろにした。こうして、わたしは彼らの間で汚されている」

祭司が、「聖なるもの(きよいもの)」と「俗なるもの(汚れたもの)」とを分けたように、クリスチャンも「イエス様」と「この世」を分けなければなりません。
自分の思い通りにやっている者は、もう駄目です。
役立たずです。
「私はイエス様のものです。イエス様に聞いて、従うだけです。すべてイエス様が教えてくださったのです」と言う者だけが、イエス様を主(Lord)とお呼びしてもよいのです。
弟子は、イエス様の下に自分を置きます(サタンは絶対にそうさせたくありません)。
イエス様が、あなたの上におられるのですよ。
だから、それが主があなたを導き、守り、共にいてくださる保証になるのです。
イエス様が、あなたに主権をもって何をなさっているかです。

パウロは第三の天に上げられ、言ってはならないことがあるのをわきまえました。
しかし、スピリチャルなだけの人は、そのような経験を言いまくります。
態度が全然違います。
大切なのは、主を畏れることです。
全ての裁きは、イエス様が握っておられるからです。
ペンテコステ派は、主を畏れません。
しかし主の御座に近づいた人は、主を畏れるようになります。
この世の霊はおだてます。
言っても良いことと、言ってはならないことを、あなたがたがわきまえることができますように。

イエス様と共に生きる

皆さん、イエス様にあって成長してください。
イエス様があなたと共にいようとされているのに、あなたがイエス様を遠ざけているのです。
イエス様があなたの態度や発言で、嫌な顔をされて、いなくなられたことを敏感に感じ取っていますか。
それが分からないから、平気なのです。
主が共にいてくださるのが分かるようになると、主はあなたを励ましてくださいます。
日常生活で、主が嫌われるような、主を否定するような態度を取っていませんか。
私は私、という感情のままの生活です。
しかし、感情は十字架につけたのですよ。
もし理不尽なことをされても、「主よ、これはあなたが許しておられるのですか」と絶えず、いつも、聞くのです。
イエス様と共に生きて行くのは、本当に楽しいです。
この一年、どのくらいあなたの内側のイエス様が成長してくださいましたか。
主のご性質が、どのくらい自分のものになりましたか。
自分に対してチェックしてください。
皆さん、本当に自分に甘いのです。

御霊の実が自分のものになっていますか。
この実がつかないと、天の父の栄光にはなりません。
あなたの存在は、主の栄光のためです。
悪しき者は、「あなたはそれで十分だよ」と囁きます。
その声を聞いていると、内側が闇に覆われます。
しかし、イエス様に従う者は、決して闇の中を歩きません。

イエス様から目を離すな

ヨハネ3:19〜21
20「悪を行う者はみな、光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない」

イエス様のもとに近づくと、醜い本当の自分が曝け出されます。
そんな自分を見たくないのです。
闇の中でうずくまっている方が楽だからです。
自己愛、自己憐憫を持ち続けるならば、闇の中にいることになります。

イエス様の後に従って行くのは、肉にとってはしんどいし嫌なことです。
肉は「あなたはそれで良いのだよ」と言って欲しいのです。
それが悪霊の囁きです。
では、肉との戦いはいつ終わるのですか。
地上の旅を終わる時です。
地上では完成できません。
主イエス様の名を呼ばず、主を認めないで「神様」と言っている人は、この世の霊が言ったことを語ります。
この世の霊は、予言するし、教えます。
自分のプライドがもたないから、悪霊の知恵や自分の考えなどでごちゃごちゃになるのです。
しかし、あなたを立たせてくださるのは、主イエス様です。

あなたの内におられるイエス様を強くしてください。
御霊の実を、強くしてください。
その霊が、汚いか聖いか、瞬時に分かる者となってください。
そうでないと、日本の霊とは戦えません。
大和の君(日本を支配する悪霊)は、天照大神に見られるように両性具有であり、魑魅魍魎(ちみもうりょう)の世界です。
実際の現実の戦いです。
時は待ってくれません。
私たちは、この日本に置かれています。
その破れ口に立って祈れるようなクリスチャンにならないなら、役には立ちません。

アメリカの大統領選挙は、私たちのテリトリーではありません。
主は、何故この時代にあなたを日本においたのですか。
「私は何のためにここに置かれているのですか。何を祈り求めたら良いのですか」と主に聞いてください。
あなたの目を、イエス様から反らせるものを取り除きなさい。
イエス様から目を離してはなりません。
この世が、目を離させようとするからです。
今置かれたその場所で、必要な訓練を、従順に受けていけば良いのです。

文責 菅原はれみ

礼拝 message 12月9日(水)

(長岡京市・光明寺)

II歴代誌14:1〜15:9,15:16〜16:14

II歴代誌15:2~4
2「彼はアサの前に進み出て、言った。『アサおよび、すべてユダとベニヤミンの人々よ、私の言うことを聞きなさい。あなたがたが主とともにいる間は、主はあなたがたとともにおられます。もし、あなたがたがこの方を求めるなら、あなたがたにご自分を示してくださいます。もし、あなたがたがこの方を捨てるなら、この方はあなたがたを捨ててしまわれます」
3「長年の間、イスラエルにはまことの上帝もなく、教師となる祭司もなく、律法もありませんでした」
4「しかし、苦しみの中で、彼らがイスイラエルの上帝、主に立ち返り、この方を慕い求めたところ、主は彼らにご自分を示してくださいました」

祈りの戦い

弟子としての人生の戦いは、祈りにおいて始まります。
あなたの祈りが、義人として、主の前で力あるものとなりますように。
戦いは、路傍伝道やトラクトを配るとか、そういう類のものではありません。
祈りです。
ヨハネ10章にあるように、主は弟子を上帝の子どもとして育ててくださいます。
万軍の主、イエス様の御声を聞き分けられる子どもとしての成長です。
この従順を学ぶ訓練の中で、身につけなければならないのは、謙遜です。
弟子は、天の父の御前で、へりくだった素直な子どもでなくてはなりません。

肉親を捨てる

アサ王の治世は、紀元前913年から873年です。
信仰のスタートにおいて、主は祝福と恵みをたくさん与えてくださいます。
そこで、それまで行って来た偶像礼拝を悔い改め、悪霊との決別をした新しい人生が始まります。
生まれつきの死人は、悪霊のコントロールの下にあります。
悪霊が罪人としての肉に手を伸ばし、コントロールするからです。
弟子ならば、気づいているかぎりの罪を告白してやめること、悔い改めをしなくてはなりません。

アサ王が行ったことは、生き方が変わったことの証です。
アシュラ像を作っていた母マアカを皇太后の位から退けました。
つまり、これは父、母、妻、子を捨てる、という実地教育です。
アサ王は信仰の初めにおいて、はっきりとしたこれまでとは違った、新しい生き方をスタートしています。
「母のやっていることは罪だ」と、母の名誉を傷つけてでも、やるべきことをやりました。

万軍の主の弟子になった時から、この世の支配者との戦いが始まります。
敵の真っ只中に置かれ、敵は罠を仕掛け、攻撃して来るのです。
悪霊は、その人の弱点をよく知っています。
アサ王にとっての弱点は、愛する母マアカだったのです。
しかし、彼は上帝に従う生き方をやめませんでした。

弟子の道には順番があります。
まず、捨てることです。
あなたの愛する肉親を捨てることから、信仰生活は始まります。
母を愛しているからと、罪を大目に見るのですか。
いいえ、違います。
ヒューマニズムが前面に出て、足を引っ張ります。
だから、家族があなたの敵となるのです。
アサ王は、愛する母よりも、悔い改めを選びました。
これを実際にやるのはしんどいし、辛いことです。
誤解され、周りからいろんなことを言われます。
しかし、戦いの中でこそ、信仰が試されるのです。
あなたが困難の中にある時、イエス様があなたをチェックされているのです。
そして、この困難があなたへの祝福につながります。

主への畏敬

創世記22:1,2
1「これらの出来事の後、上帝がアブラハムを試練にあわせられた。上帝が彼に『アブラハムよ』と呼びかけられると、彼は『はい、ここにおります』と答えた」
2「上帝は仰せられた。『あなたの子、あなたが愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして、わたしがあなたに告げる一つの山の上で、彼を全焼のささげ物として献げなさい」

主は、アブラハムに「イサクを捧げよ」と言われました。
アブラハムは、この試練に対して躊躇しませんでした。
「はい」とすぐに従いました。
アブラハムの人生は、イサクにかかっていたのです。

創世記22:9〜12
12「御使いは言われた。『その子に手を下してはならない。その子に何もしてはならない。今わたしは、あなたが上帝を畏れていることがよく分かった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しむことがなかった』」

ここで「上帝を畏れていることがよく分かった」と、主はアブラハムに言われました。
主を「信じている。信頼している」ではなく、「畏れている」と言われました。
これは非常に重要なことです。
多くのクリスチャンは、主を畏れることを学んでいません。
「神は愛」だから、畏れなくて良いと思っているのです。

ヨハネ3:16
「上帝は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」

クリスチャンは、上帝を畏れなくて良いのですか!?誰が滅ぼすのですか。
御子が裁く権威を持っておられ、御子が滅ぼされるのですよ。
御子イエス様が、義人と認めてくださらなければ、火の池へ投げ込まれます。
人間が畏敬の念を持つのは当然のことです。
永遠の命か、滅びかの権威を持っておられるお方を、畏れ敬わなくて良いのですか?
イエス様の裁きは、そんなに甘くありません。

聖書は、滅びが前提です。
罪人には、滅びが宣告されています。
その滅びから救うために、イエス様が来られました。
「このまま行けば、私には火の池しかない!」と思うのが普通です。
厳しさがあるからこそ、真剣さが必要なのです。
聖書は「多くの人が、入ろうとしても入れなくなる」と言っています。
これは未信者ではなく、クリスチャンのことです。

主に従う戦い

マタイ7:21
「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです」

努力しないと、天の御国には入れません。
父のみこころを行う者とは、イエス様に倣う者として生きる者です。

Iヨハネ3:16
「メシアは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです」

「御子イエス様があなたのために命を捨てられたように、あなたも兄弟姉妹のために命を捨てなさい」というのが命令です。
どのような人生であったとしても、内面の願いは、イエス様の願い通りに地上を過ごすこと、これが弟子の生き方です。
「父のみこころがなりますように」と、みことばを自分自身に当てはめるのです。
一番悪いのは、「これはあの人のことだ」と人を責め、自分にみことばを当てはめない人です。
そうすると、まるで痛いところがないかのように、塩気のない、味気のない人生になります。
イエス様に従おうとするからこそ、戦いが始まるのです。
自分との戦いです。
それは、天の父からの躾でもあります。
上帝の子どもとして従順を学ぶのです。

面従腹背

アサ王は、この世でも祝福され、その時に魔の手が伸びて来ました。
イスラエル北王国が、ユダに戦いを仕掛けて来た時、主に助けを求めるのではなく、人間の力に頼ったのです。
「さあ軍事同盟を結ぼう」と思ったのです。
豊かさは、アサ王に目に見えないお方に信頼するのではなく、金や銀、お金を払って解決しようとさせたのです。
アサ王にとって、主を待ち望むことは、面倒くさいことでした。
クリスチャンも同じです。
時間がお金だから、お金で解決するのです。

主は見ておられます。
あなたが主に頼るか、この世のやり方をするか。
また、忠実な者であるか、主に心を注いでいない者であるか、をです。

黙示録3:15〜19
16「そのように、あなたは生ぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしは口からあなたを吐き出す」
17「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、足りないものは何もないと言っているが、実はみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であることが分かっていない」
18「わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買い、あなたの裸の恥をあらわにしないために着る白い衣を買い、目が見えるようになるために目に塗る目薬を買いなさい」
19「わたしは愛する者をみな、叱ったり懲らしめたりする。だから熱心になって悔い改めなさい」

アサ王も信仰の初めは良かったのです。
「イエス様の助けが必要です!」と叫んだ時から、ある時期までは熱い信仰が続きます。
しかし、だんだんぬるくなって行ったのです。
豊かになり、たくさん食べて眠くなった、という風に。

上帝に対し、本気ではない、不誠実で偽善的な献身を、主は忌み嫌われます。
まさに面従腹背です。
クリスチャンも「24時間イエス様に喜ばれることを考え続けるのは、窮屈だ!」と思っているのです。
生まれ変わったクリスチャンなら、イエス様の命を持っています。
イエス様の命はへりくだった命であり、高ぶることなどありません。
高ぶりは、イエス様の命からは出て来ません。
イエス様の命は、へりくだったものだからです。

私は、この人生で主からのミッションを全うしたいだけです。
私の役割は、主のシープドッグだからです。
シープドックが噛まないと、羊は言うことを聞きません。
だから私は、礼拝のメッセージで、時には厳しい言い方をするのです。
そうでないと、役には立ちません。
主の命令がなくては、犬は勝手には噛めません。

偽善的献身、「従います」と言いながら、内側の心が別のものを見ているならば、イエス様からは本当に不快なものと見られます。
イエス様からいただく平安ではなく、この世のものでリラックスしているのです。
イエス様への生ぬるさは、とんでもない結果を招きます。

主の心とひとつになる

II歴代誌16:7〜10
7「そのとき、予見者ハナニがユダの王アサのもとに来て、彼に言った。『あなたはアラムの王に拠り頼み、あなたの上帝、主に拠り頼みませんでした。それゆえ、アラム王の軍勢はあなたの手から逃れたのです」
9「主は、その御目をもって全地を隅々まで見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力を現してくださるのです。あなたは、このことについて愚かなことをしました。これから、あなたには数々の戦いが起こるでしょう」

ハナニがしたことは、クリスチャンの役割でもあります。
イエス様に服従した者として、主が「行って、言え」と言われたなら、そうしなければなりません。
これはしんどいミッションでもあります。

イエス様の心と一つになるとは、イエス様のみこころを知るということです。
イエス様と一つになるなら、イエス様の偉大な力が現されます。
メシアの国の力は、敵軍をなぎ倒す力として現われて来るのです。

II歴代誌16:12
「アサはその治世の第三十九年に、両足とも病気になった。それは非常に重かったが、その病気の中でさえ、彼は主を求めず、医者を求めた」

後のアサ王は、悲惨でした。
彼は上帝なるお方にではなく、人間に助けを求めました。
クリスチャンは、医者に行ってもよいのです。
しかし、それもイエス様に行って良いか、聞くのです。
天の父の子どもとしての時に、イエス様に聞き従う訓練ができていないと、後にも主に従う生き方ができません。
自分が良いと思うことを、勝手にするだけなので、何年経っても変わりません。

弟子は謙遜さを学ばねばなりません。
そうでないと人の目には、どんなに成功しているように見えても、主は地上の生涯を終わる前にジャッジされます。
主はけじめを付けられるのです。
牧師、宣教師になると、本当に厳しい裁きを受けます。

主に生涯を捧げた立派な人に見えても、主は「へりくだれ!」と言われます。
「私は、やるべきことをしたに過ぎません」と自然に言えなければ本物ではありません。
人からの評判が良いと、高ぶります。
どれだけ人が認めても、へりくだっていなければイエス様の目には、NO!です。
イエス様の前に立った時、恥をかかないために、私は厳しいことを言っているのです。
地上の人生は、いつ終わるか分かりません。
だから、みことば通りに生きて欲しいのです。
主は、上帝の目的と一つとなっている人を、見守っておられます

裁きは皇民の群れから

エゼキエル9:1〜6
1「この方は私の耳に大声で叫ばれた。『破壊する武器をそれぞれ手に持った、この都を罰する者たちを連れて来い』」
4「主は彼にこう言われた。『都の中、エルサレムの中を行き巡り、ここで行われているすべての忌み嫌うべきことを嘆き悲しんでいる人々の額に、しるしをつけよ』」
5「また、私が聞いていると、ほかの者たちに主はこう言われた。『この者の後について都の中を行き巡って、打ち殺せ。あわれみをかけてはならない。惜しんではならない」
6「年寄りも、若い男も、若い娘も、幼子も、女たちも殺して滅ぼせ。しかし、しるしが付けられた者には、だれにも近づいてはならない。まず、わたしの聖所から始めよ」そこで、彼らは神殿の前にいた老人から始めた」

主は、「まずわたしの聖所から始めよ」と言われました。
皇民の群れから、裁きを始めよ、と。

クリスチャンの生き方を見て、「こんなことで良いのか!?」と世の人たちは見ています。
主のみこころを知っている弟子なら、その現実に悲しみます。
その悲しんでいる者には、しるしをつけよ、と主は言われました。
上帝の思いと一つになっている人は、イエス様に服従できる大人です。
実際の判断も行動も生き方も、イエス様の思いと一つになっている人です。
危険や困難、霊的な試練にあっても、主が助けてくださると知っていないとそれはできません。
子どもには無理です。

創世記22:15〜18
15「主の使いは再び天からアブラハムを呼んで」
16「こう言われた。『わたしは自分にかけて誓う-主のことば-。あなたがこれを行い、自分の子、自分のひとり子を惜しまなかったので」
17「確かにわたしは、あなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように大いに増やす。あなたの子孫は敵の門を勝ち取る」
18「あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたが、わたしの声に聞き従ったからである」

アブラハムが、一人息子イサクを捧げるという試練の後に、主は祝福を宣言されました。
試練を合格して行くなら、主のみこころが何であるかを教えていただけます。
そして試練そのものが祝福につながって行くのが分かるようになります。
試練の後に、祝福が宣言されるからです。

イザヤ28:16
「それゆえ、上帝である主はこう言われる。『見よ、わたしはシオンに ひとつの石を礎として据える。これは試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊い要石。これに信頼する者は慌てふためくことがない」

あなたがイエス様に信頼しているのなら、慌てふためくことも、うろたえることもありません。
信仰の故に従順を学んでいるのならば、どんな問題があっても、すべてのことを感謝できます。

イザヤ57:15
「いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名が聖である方が、こう仰せられる。『わたしは、高く聖なる所に住み、砕かれた人、へりくだった人とともに住む。へりくだった人たちの霊を生かし、砕かれた人たちの心を生かすためである」

訓練や試練は、その人を生かすためです。
その人の魂や心を励ますために、主は共にいてくださいます。

マタイ28:20
「わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」

主が共にいてくださることを実感できるようになるのが、信仰の醍醐味です。
まるで実際にイエス様とお会いしているように、聞くことができるのは、とてもエキサイティングなことであり、楽しいことです!

旧約聖書から、クリスチャンは学ぶべきです。
信仰の最初は良かったのに、ひどい状態で地上の生涯を終わるのですか。
裁きは、上帝の家から始まります。
主は容赦されません。
きっちりとお裁きになります。
あなたが主を畏れるなら、そこには本物の愛、喜び、平安があります。
主が、共にいてくださることこそ、喜びだからです。

文責 菅原はれみ

礼拝message 11月15日(日)

(太秦・蚕ノ社)

申命記31:30~32:44

マタイ6:14〜24
20「自分のために、天に宝を蓄えなさい。そこでは虫やさびで傷物になることはなく、盗人が壁に穴を開けて盗むこともありません」
21「あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです」

みなさんの顔を見ていると、話そうと思ったことが、どんどん消えて行きます。
葛藤が始まり、「もう駄目だ、イエス様の導きに従おう」といつも思います。

箴言や申命記は、サタンとの戦いが書かれています。
イエス様は、そこから引用して弟子たちに話されました。
旧約聖書のみことばは武器になります。
その武器を用いて戦ったのが、イスラエル民族でした。
クリスチャンでも、旧約聖書を読んでいない人は、最初から負けています。

悪霊は、その人のうちにあるもの、感情を読んでいます。
そして、女性の弱さ、心の動きをよく見ています。
あなたが死なないならば、闇に落ちます。
日本人は素直ですか?
人に言われると、すぐにうなずく弱さがないですか。

二人の主人に仕えることはできない

箴言10:15
「富む者の財産はその人の堅固な城。貧しい者の恐れは自らの貧困」
箴言15:27
「主への畏れは日数を増やす。悪しき者の年は短くなる」

マタイ6:24
「だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは上帝と富とに仕えることはできません」

人は、二人の主人に仕えることはできません。
どちらかに忠実になり、忠誠を誓うからです。
あなたが「カネが私のすべて!」と思っているのなら、悪霊はその肉の思いをよく読んでいます。
天の父の前で、あなたの心のすべてが丸裸であるように、悪霊もあなたの心の動きをよく知っています。
見えない世界では、見えないものが丸裸に見えているのです。
肉の性質は滅びをもたらします。
だからイエス様は、肉の貪欲さ、プライド、妬み、自尊心、優越感を「捨てろ!」と言われたのです。
イエス様を模範として、イエス様に聞き従って生きていくことを、主は弟子に要求されています。

疲れている者はイエス様のもとへ帰れ

マタイ11:28,29
28「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」
29「わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます」

あなたの人生は、今まで何がありましたか?
何か良いことがありましたか?
重荷を負った人生は、疲れます。
イエス様のところに帰れなければ、絶望し、自殺しかなくなります。

自殺は、造り主への最大の悪です。
あなたを造られたお方への、卑劣な侮辱であり、最大の反逆です。
それは「私を造ったあなたの失敗です。私を造ったあなたが、あさはかなのです!」という態度です。
イエス様があなたのために支払ってくださった犠牲を、軽蔑し嘲笑うのです。
自殺した者への裁きは、恐ろしく厳しいものです。
自分の罪に気がつくと、「イエス様のところに帰るしかない」と分かるでしょう。
問題とぶつかった後、本当の自分を見せられるのは、主の大きな恵みです。
しかし罪を認めたくない人は、いろんな問題を「あの人のせいよ」と他人のせいにし、それができなくなると、自分を守るために自殺するのです。

私たちは、もともと罪人です。
主の憐れみで赦されただけです。
それなのに、人に対して上から目線などあり得ません。
教師になると、託された人々を守るために、間違った教えに立ち向かわなければなりません。
主のシープドッグは、羊を守ろうとします。
教師は、敵と戦わねばなりません。
しかし、判断を間違うと、それが全てペナルティーとなります。

イスカリオテのユダのように、教会を商売の巣としてはならないのです。
富はマモンと呼ばれ、「強欲の神」という意味です。
マモンは、実際に力を持ち、支配力と影響力を持っています。
あなたは、イエス様とマモン、どちらに命を捧げますか?
この世は、お金で支配されています。
アメリカ大統領選挙で、トランプ氏は何か内側で目覚めて来たのでしょう。
見ていて、顔つきが変わって来たように思います。
人は苦しみに会う時、誰を信頼してよいか、分かってきます。
苦しみにあうことは、良いことなのです。
お金につられて裏切らない人は誰か、誰を信じてよいのか。
そのような友人は、すばらしい人生の宝となります。

イエス様は、「泣く者と共に泣け」と言われました。
それは未熟な人には無理です。
見せかけではなく、心からの同情、同感を人は必要としているからです。

昨日の洗礼式で、私は一人の娘を失いました。
そして、共に天の故郷を目指す、一人の姉妹を得ました。
マリアとその兄弟たちが、イエス様を連れ戻そうとしてやって来た時、イエス様は何と言われましたか。
ここに私の母がいる、兄弟姉妹がいる、と言われました。
イザヤは、子を産まない女が、兄弟姉妹を生み出す、と語りました。
そのように、祈りによってお互いを助けて行く姿が、私たちのあるべき、造られた姿です。

イエス様の焼き印

Iヨハネ5:18
「上帝から生まれた者はみな罪を犯さないこと、上帝から生まれた方がその人を守っておられ、悪い者はその人に触れることができないことを、私たちは知っています」

上帝から生まれた者は、みな新しい命を持っています。
イエス様の新しい命がないなら、次のステップはありません。
ユダヤ人、特にパリサイ人たちは、富の豊かさを、天の父の特別な好意のしるしだと考えていました。
自分は天の父に認めてもらっているのだ、と。
その逆に、貧困は不信仰と、天の父に喜ばれていないしるしだと考えていたのです。
しかし、パリサイ人たちの信仰はどうでしたか。
口で立派なことを言うようには、実際の生活では実践していませんでした。
これは、完全な偽善者です。
同じことが、クリスチャンにも言えることです。

マタイ3:1〜12
7「ヨハネは、大勢のパリサイ人やサドカイ人が、バプテスマを受けに来るのを見ると、彼らに言った。『まむしの子孫たち、だれが、迫り来る怒りを逃れるようにと教えたのか」
8「それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい」
10「斧はすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木はすべて切り倒されて、火に投げ込まれます」
12「また手に箕を持って、ご自分の脱穀場を隅々まで掃ききよめられます。麦を集めて倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます」

良い実を結ばないなら、切り倒されて、その人の人生は終わります。
あなたは人生で、どんな実を結んで来たのですか。
それはイエス様にお返しできるような実ですか?
主は、麦ともみ殻を分けられます。
あなたが聖霊と火のバプテスマを受けたのなら、あなたの心に火が灯ったのです。
それは内面的な火で、イエス様の焼き印です。

ガラテヤ6:14〜18
14「しかし私には、私たちの主イエス・メシアの十字架以外に誇りとするものが、決してあってはなりません。この十字架につけられて、世は私に対して死に、私も世に対して死にました」
15「割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です」
17「これからは、だれも私を煩わせないようにしてください。私は、この身にイエスの焼き印を帯びているのですから」

焼き印は、火で押したものです。
それは火傷ですから痛みを伴い、消すことはできません。
これが聖霊と火のバプテスマであり、心の割礼です。
悪霊が来ても、その人を見ると「こいつは、イエス様の焼き印がある。駄目だ!手を触れると火傷する」と、その人に触れることはできません。
その代わりに、直接触れないで離れた場所から矢を放って攻撃します。

エレミヤ9:23〜26
24「誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。わたしは主であり、地に恵みと公正と正義を行う者であるからだ。まことに、わたしはこれらのことを喜ぶ-主のことば」
25「見よ、その時代が来る-主のことば-。そのとき、わたしはすべて包皮に割礼を受けている者を罰する」
26「エジプト、ユダ、エドム、アンモンの子ら、モアブ、および荒野の住人で、もみ上げを刈り上げているすべての者を罰する。すべての国々は無割礼で、イスラエルの全家も心に割礼を受けていないからだ」

アブラハムの子孫は、選ばれた契約の民として割礼を受けました。
律法とイエス様のことばを守るべきだったのです。
新約時代では、肉体ではなく心に割礼を受け、主の焼き印を受けるのです。
この世の神によって、あなたの肉が刺激された時は、内側のイエス様の焼き印が熱を帯びてくるはずです。
自分の内側で、反応するからです。
四つの福音書は、皇民の群れに書かれています。
福音書のみことばが心に記されていないと、イエス様に従いたいという思いが小さいままです。
聖書を通読しているうちに、ある時にみことばをふと思い出させてくれます。
みことばが光を放つのです。
光は闇を曝け出します。
あなたの内の闇も暴かれるでしょう。
あなたの内側は、ほとんどが闇ですか?
その人が何を楽しみに生きているのかは、その人を見ていれば分かります。
この世のお金のある人々は、貧しい人々を巧みに利用しています。
中国共産党しかり、アメリカなども、富む人々が貧しい人々を奴隷にして来ました。

主を誇れ

ピリピ3:1〜16
2「犬どもに気をつけなさい。悪い働き人たちに気をつけなさい。肉体だけの割礼の者に気をつけなさい」
3「上帝の御霊によって礼拝し、メシア・イエスを誇り、肉に頼らない私たちこそ、割礼の者なのです」
8「それどころか、私の主であるイエス・メシアを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。私はメシアのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくただと考えています。それは、私がメシアを得て」
9「メシアにある者と認められるようになるためです。私は律法による自分の義ではなく、メシアを信じることによる義、すなわち、信仰に基づいて上帝から与えられる義を持つのです」

パウロはここで、イエス様を知ることの素晴らしさのゆえに、すべてがちりあくただと言っています。
「誇る者は、主を誇れ!」と言われている通り、クリスチャンには誇るものは主イエス様しかありません。
あなたは、いったい何を誇っているのですか。
主イエス様を本当に喜んでいなければ、証人にはなれません。

ヤコブ2:1〜11
1「私の兄弟たち。あなたがたは、私たちの主、栄光のイエス・メシアへの信仰を持っていながら、人をえこひいきすることがあってはなりません」
2「あなたがたの集会に、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来て、また、みすぼらしい身なりの貧しい人も入って来たとします」
3「あなたがたは、立派な身なりをした人に目を留めて、『あなたはこちらの良い席にお座りください」と言い、貧しい人には、『あなたは立っていなさい。でなければ、そこに、私の足元に座りなさい』と言うなら」
4「自分たちの間で差別をし、悪い考えでさばく者となったのではありませんか」

えこひいきは、罪です。
この世のお付き合いや、挨拶の仕方を、皇民の群れに持ち込んではなりません。
お互いを、勝手に褒めてはいけません。
イエス様に聞きなさい。
イエス様は、あなたの褒め言葉を、どう聞いておられますか?
この世の人は、その人の身なり、着ているもので判断します。
しかし、主の弟子ならば、この世と違う価値観を持っているはずです。

太秦之宮を建て上げることが許された時、宮の前には、鳥居を建てたいですね。その鳥居には、「主を愛さない者は呪われよ」と書いて欲しいと、私は夢見ています。
イエス様を愛するがゆえに行なうこと、それが弟子の生きる動機のすべてです。
太秦の群れは、イエス様に最善のものを捧げたい、そう願う者たちの群れでなくてはなりません。

文責 菅原はれみ

礼拝message 11月22日(日)

(長岡京市・光明寺)

創世記3:20〜4:16

創世記3:14,15
14「上帝である主は、蛇に言われた。『おまえは、このようなことをしたので、どんな家畜よりも、どんな野の生き物よりものろわれる。おまえは腹這いで動き回り、一生、ちりを食べることになる」
15「わたしは敵意を、おまえと女の間に、おまえの子孫と女の子孫の間に置く。彼はおまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ」

イエス様の十字架の事柄を、よく覚えておくようにと、四つの福音書は書かれています。
イエス様の十字架から、決して目を離してはなりません。
イエス様の両端に十字架につけられた二人の強盗のうち、一人は滅びを選び、もう一人は恵みを受けて上帝の庭(パラダイス)に入ることを、約束されました。

この世の側についたユダヤ人は、イエス様を売り、十字架につけました。
イザヤ53章、苦難のしもべであるイエス様を、ユダヤ人は理解できずピンと来ていなかったからです。
モーセから長い時を経て、イザヤが預言したのは、人類の罪のために(人間の身代わりとして)罪を背負われる、贖い主イエス様でした。
この贖いは、全被造物が含まれる十字架の預言でした。
しかし、ユダヤ人が待ち望んでいたのは、ダビデのような王が、ローマの属国から解放してくれることだったのです。
あまりにもメシア像が違い過ぎて、ユダヤ人には理解できませんでした。
それは普通のことです。
だから、理解できなかったペテロを責められないのも事実です。

ユダヤ人は旧約聖書を、重要な順に
1・律法(一番大切なもの。主が直接語られたもの)
2・預言書(間接的だが、預言者を通して主が語られたもの)
3・諸書(その他、詩篇、箴言、雅歌など)

の三つに分けています。
パウロは、律法と預言書から語りましたが、イエス様は諸書からも引用されました。
聖書はすべて霊感されたものだからです。

なぜ怒っているのか

創世記4:1〜7
3「しばらく時が過ぎて、カインは大地の実りを主へのささげ物として持って来た」
4「アベルもまた、自分の羊の初子の中から、肥えたものを持って来た。主はアベルとそのささげ物に目を留められた」
5「しかし、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それでカインは激しく怒り、顔を伏せた」
6「主はカインに言われた。『なぜ、あなたは怒っているのか。なぜ顔を伏せているのか」
7「もしあなたが良いことをしているのなら、受け入れられる。しかし、もし良いことをしていないのであれば、戸口で罪が待ち伏せている。罪はあなたを恋い慕うが、あなたはそれを治めなければならない』」

カインはなぜ怒ったのでしょうか。
「なんで俺のはダメなんだ!?」という妬み、弟に自分の顔を潰されたという怒りです。

Iコリント6:9〜11
9「あなたがたは知らないのですか。正しくない者は上帝の国を相続できません。思い違いをしてはいけません。淫らな行いをする者、偶像を拝む者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者」
10「盗む者、貪欲な者、酒におぼれる者、そしる者、奪い取る者はみな、上帝の国を相続することができません」
11「あなたがたのうちのある人たちは、以前はそのような者でした。しかし、主イエス・メシアの御名と私たちの上帝の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです」

ガラテヤ5:19〜21
19「肉のわざは明らかです。すなわち、淫らな行い、汚れ、好色」
20「偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派」
21「ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のものです。以前にも言ったように、今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。このようなことをしている者たちは上帝の国を相続できません」

このように、肉という生まれつきの性格のままでは、天の御国には、決して入れません。
あなたが悔い改めないならば、天国には行けません。
地獄に行きます。
死んだ後、裁きを待つウェイティングルームがあります。
妬み、あら探し、排他主義、このようなことをする者は天国には入れないにもかかわらず、キリスト教は、信じる者がすべて天国に行けると嘘を吹聴しています。
イエス様に聞き従う生活を持続するのか、自分勝手にやるのか、どちらかしかありません。
キリスト教をしている人は、本当に自己評価がゆるいです。
「神は愛」なので、許してもらえると思っているのです。
何の心配もない顔をして聖餐式を受けますが、実際は上帝の怒りがその上にとどまっていることに気付いていません。
だから、死んだ者が多くいると聖書は言っているのです。

創世記4:7にあるように、罪があなたを恋い慕っています。
イエス様の命が、あなたの内にあったとしても、時として失敗はします。
罪があなたを狙っているからです。
そして「自分は妬んでいるな、あら探しをしているな」と生まれつきの性質に気づかされます。
しかし、あなたは罪を治めることができます。

悪霊のうまいやり方は、牧師や教師を使って「あなたは大丈夫」と言わせるところです。
あなたの先生は、イエス様だけです。

罪からの解放

ロマ5:20,21
20「律法が入って来たのは、違反が増し加わるためでした。しかし、罪の増し加わるところに、恵みも満ちあふれました」
21「それは、罪が死によって支配したように、恵みもまた義によって支配して、私たちの主イエス・メシアにより永遠のいのちに導くためなのです」

「私たちは罪人だし、しょうがないよね」と罪を軽く扱い、放っておいて良いのですか。
新しい命に歩みなさい。

ロマ6:6,7
6「私たちは知っています。私たちの古い人がメシアとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるためです」
7「死んだ者は、罪から解放されているのです」

死んだ者は、罪から解放されているのです。
だから、十字架を負いなさい。
弟子は、イエス様に買い取られたのです。
新しい命をもらっていても、生まれつきの肉が、イエス様の命を邪魔します。
そうすると、罪が処理できなくなります。
いかに古い肉を殺すかが、戦いです。

韓国のキリスト教では特に、断食をして幻を見たことにあぐらをかき、悔い改めようとしない人が多くいます。
「お前は悔い改めなくてよいのだよ」と囁く者がいるからです。
あなたが、イエス様に聞き従おうとする生活をしているなら、必ず悪霊は聖書のみことばを使って囁いて来ます。
イエス様の言葉を使うのが、悪霊のやり方です。
だから、イエス様の言葉を噛み砕いて説明している、パウロ書簡を曲解して、悪霊が使うのです。

光の方に来なさい

ヨハネ3:16〜21
19「そのさばきとは、光が世に来ているのに、自分の行いが悪いために、人々が光よりも闇を愛したことである」
20「悪を行う者はみな、光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない」
21「しかし、真理を行う者は、その行いが上帝にあってなされたことが明らかになるように、光の方に来る」

イエス様の弟子は、光の方に来ます。
イエス様に近づくと、真理の光に照らされ、自分の罪がさらけ出されます。
イエス様は、あなたの汚さを全部見せます。
それが嫌だから、闇に逃げるのです。

あなた自身を捧げよ

ロマ6:15〜23
19「あなたがたの肉の弱さのために、私は人間的な言い方をしています。以前あなたがたは、自分の手足を汚れと不法の奴隷として献げて、不法に進みました。同じように、今はその手足を義の奴隷として献げて、聖潔に進みなさい」
23「罪の報酬は死です。しかし上帝の賜物は、私たちの主メシア・イエスにある永遠のいのちです」

ロマ12:1,2
1「ですから、兄弟たち、私は上帝のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、上帝に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として、献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です」
2「この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、上帝のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、上帝に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります」

あなたの手足を、汚れと不法の奴隷として捧げて、思い通り勝手気ままに生活しているならば、カインと同じ捧げ物をしていることになります。
主はお受け取りになりません。
アベルは、自分自身を捧げました。
本心から喜んで、主に一番良いものを、自分が来て捧げたのです。
あなたがそうしていないなら、カインです。
他のある人が祝福されると妬み、その人が素直に喜んでいると面白くないのです。
これがキリスト教です。
主がカインに言われているのは「教えの規範を自分に当てはめよ」ということです。
何故ですか?
手抜きするなら、あなたには何の報いもないのです。
どんな証も賛美も献金も、あなたが生まれつきのものでするならば、主はお喜びになりません。

永遠のいのち

ヨハネ12:25
「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります」

一粒の麦のたとえと同じです。
自分が大好きな人は、捨てられます。
悔い改めて、罪をぬぎ捨てて行くのは、しんどいし、楽ではありません。
蛇みたいに避けてばかりいると、口先だけの人になります。
しかし、実際に苦しんで悔い改めている人は、沈黙します。
本当に苦しかったら、喋りません。
苦しみの中にある時は、何も言いたくないし、人と交わるのもしんどいからです。

イエス様のみことばは、あなたの闇を光にさらします。
あなたがイエス様に教えられたり、叱られたりしているならば、イエス様は共におられます。
しかし何もない人は、イエス様は一緒におられません。
私たちの歩みは、カインとして出発します。
そして、自分の中のキリスト教の問題が、炙り出されて行きます。
その罪も闇も、イエス様の十字架で処理できるのです。
そうしないなら、イエス様から離れて行きます。
暗い顔になり、それを隠すことはできません。

コロナウィルスの影響もあり、20代から50代の働き盛りの人たちの自殺が、大幅に増えています。
自殺は、イエス様への最大の反逆です。
人間は、死んだ後が永遠です。
みなさん、本当に祈っていますか。
イエス様の証人として、地の塩、世の光となってください。

以下の内容は、交わりの時に話されたものです。

職場も家庭も、その置かれた場所で感謝する。
これが弟子の姿です。

何故なら、イエス様が私のために許されたのだと知っているからです。
イエス様は、あなたの一番ダメなところを対処されようとします。
そこから、決して逃げてはいけません。
キリスト教は、肉の思いのまま職場を変え、感情のまま怒りまくります。
怒るのも、逃げのひとつです。
そこで「私は何が間違っていたのですか?」と聞くのです。
そうするなら、「自分にはできない」と教えられるでしょう。
あなたが死なないなら、実はありません。
悔い改めた結果、命の自由と安息が与えられ、許せるようになるのです。
駄目な、できない自分を見て「なぜ?どうしてできないの?」と言っているなら、それは罪です。
できないことを認め、自分に諦め、十字架のもとに来ていないからです。
キリスト教は、理屈をこね「ああすれば良い。こうすれば上手くいく」と言います。
しかし、あなたが十字架で死ななければ無理です。
「この人を通して、自分が何もできないことを、愛せないことを、教えてくださってありがとうございます。自分にあきらめます」と言うのが、へりくだった、自分を捨てている姿です。

ガラテヤ2:19,29
19「しかし私は、上帝に生きるために、律法によって律法に死にました。私はメシアと共に十字架につけられました」
20「もはや私が生きているのではなく、メシアが私の内に生きておられるのです。今私が肉において生きている命は、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、上帝の御子に対する信仰によるのです」

自分を憎むということは、自分はできないと認めることです。
自分が可愛いと、いつまでも自分を捨てずに「ああすれば良い、こうすれば良い」とぐるぐる回ります。
時間の無駄です。
すべてが主にあって、設定されています。
この嫌な人を、イエス様があなたのために置かれたことを、認めなさい。
それは、あなたの醜さが暴かれるため、「イエス様に頼るしかない。自分は死ぬしかない」と気付くためです。
女同士の戦いは、自分をつかんでいるからです。
信仰は、自分の命を憎むことであり、キリスト教は、自分が可愛いから捨てません。
そうすると、自分を握ったまま何も変わらず、年だけ取ります。
それは悲劇です。

イエス様は、すでに救いを完成されました。
「みことばには、こうありますよね」と実践もなく口先だけで言うのは、ただの可能思考です。
みことばを、実際に自分に当てはめ、「私は、自分を救えない!」と認めるのが信仰です。
イエス様の命が、あなたをコントロールしてくれます。
信仰の土台は、本当にイエス様の命があるかどうかです。
「私が自分でやります」とさも分かっているかのように、理屈ばかりこねていると、何十年経っても同じです。
イエス様を邪魔するだけの者となります。
いつも喜んで、絶えず祈って、すべてのことに感謝しなさい。
このみことばを実行しなさい。
朝、目覚めたその時に、その場で自分をイエス様に捧げてください。
「今日、私をあなたにお捧げします」と祈るのです。

それは、自分を躾けるためです。

今、この時代に生かされていることは、本当に面白いことです。
このような時代に、ここに生かしてくださったことを、あなたが感謝できるようになれば幸いです。

ダニエルは、捕囚を目前にして、70年後にイスラエルの民が帰ってくることを見ていました。
空高く羽ばたく鷲が、遠くまで見渡せるように、あなたも信仰によって大きな広い世界を見ることができることを、願います。

文責 菅原はれみ

礼拝message 11月18日(水)

長岡天満宮

マタイ16:13〜28

マタイ16:21~23
21「そのときからイエスは、ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められた」
22「すると、ペテロはイエスをわきにお連れして、いさめ始めた。『主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずはありません』」
23「しかし、イエスは振り向いてペテロに言われた。『下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは上帝のことを思わないで、人のことを思っている」

新約聖書でイエス様が語られた言葉は、弟子たちに対するものです。
求道者のためではありません。
だから新しく生まれることの重要性を、何度も教えておられるのです。

教条主義

マタイ18:1〜4
1 「その時、弟子たちがイエスのところに来て言った。『天の御国では、いったいだれが一番偉いのですか』」
2「イエスは一人の子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて」
3「こう言われた。『まことに、あなたがたに言います。悔い改めて子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません」
4「ですから、だれでもこの子どものように自分を低くする人が、天の御国で一番偉いのです」

ここで、天の御国の素晴らしさが書かれています。
天国では、お互いの間に比べっこがありません。
見下したり、見下されたりすることはないのです。
だから「悔い改めて、子どものようにならなければ」そして「新しく生まれなければ」天国には入れない、と言われています。

弟子にとってはイエス様の言葉が、すべてのものの最上位になります。
「イエス様を信じていればそれで良い」ではありません。
それは教条主義(ドラグマティズム)です。

教条主義は、「これは、こうだ。この場合はこれだ」と物事を機械的に適用して、当てはめていきます。
神学校を出た教条主義者はこんな感じです。
「この場合は、このみことば。あの場合はあのみことば」と。
そこにイエス様との生きた交わりや暖かい命はありません。
頭でっかちで、冷たい人間が出来上がります。
また、その逆にペンテコステ派は、スピリチュアルで感情主義です。
慌惚状態を楽しみますが、それはイエス様の霊ではありません。

(注:教条主義 教義や教条(ドグマ)に固執する傾向を指す用語。また、マルクス、レーニンなどの教義に、無批判に盲従するような知的怠惰を指す)

ヨハネ5:39〜42
39「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。その聖書は、わたしについて証ししているものです」
40「それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません」
41「わたしは人からの栄誉は受けません」
42「しかし、わたしは知っています、あなたがたのうちに、上帝への愛がないことを」

聖書をいくら研究しても、上帝への愛は生まれてきません。
研究をすればするほど、分かった気にはなるでしょう。
しかし「素晴らしい教え」が自分を肯定するだけです。
みことばを覚えて自己満足に陥り、「私はこれで良いのだわ」と。
血の通わない信仰は、その人をどんどん冷たくします。

「わたしは知っている」という傲慢さが、その人をパリサイ主義的にします。
パリサイ主義者は、お金持ちじゃないと困ります。
「自分が正しいから、経済的に祝福されているのだ」というプライドがあるからです。
大きい教会の牧師は、金持ちになると鼻高々になりますね。
特に韓国の牧師は「私はイエス様に喜ばれている!」というプライドで高級車を乗り回しているではありませんか。

弟子は、イエス様を得るために、イエス様のところに行くのです。
みことばを通して、イエス様ご自身に近づくためです。
イエス様という頭(かしら)にしっかり繋がっていなければ、生きた信仰は持てません。
イエス様の命が、あなたの中に流れていれば、自分の汚さがどんどん明らかになり、肉のプライドは剥ぎ取られていきます。
そして自分の罪が嫌になるはずです。

ジョン・ウェスレーは死ぬ間際まで悔い改めました。彼は本物の信仰者でした。その人がどのような死に方をするかを見れば、その人が生きてきた信仰が分かります。

イエス様は、旧約聖書のみことばを使われました。
あなたが旧約聖書を読むなら、イエス様のところに救いを求めて行くしかない、と気付くでしょう。
イエス様の命が無ければ、弟子にもクリスチャンにもなれません。
クリスチャンのふりをしてごまかし、嘘をつくしかなくなります。
ボロが出ても、言い訳をして蛇のように逃げるだけです。
聖書を読んでいるなら、自然にイエス様を必要とします。
勝手にやって大丈夫だと思っているのは、聖書を読んでいないからです。
悪霊と共に墓場を住処にしているという霊的現実が分からないのです。
読んでいるなら「イエス様の命がほしい!」と叫ぶはずです。
悪霊は、「よく聖書を勉強したな。みことばを覚えているな。すごいぞ」と囁きます。
新しい命がないと、幼子からのスタートができません。

だから「イエス様、あなたなしに私はどこに行くのですか」というのが、私の心の叫びです。

ヒューマニズム

ここで、ヒューマニズム(人文主義)について考えてみましょう。
14世紀から16世紀にわたり、ルネッサンス(文芸復興)が起こりました。
当時、キリスト教会の権威が世界を覆っている中で、神を中心とする世界観から、人間を解放しようという動きです。
ここでヒューマニズム(人文主義)という思想が出てきます。
この価値観は、現世の肯定であり、人間性の解放を目指します。
つまり個性の重視です。

イエス様が十字架にかかられる前に、ペテロはイエス様をいさめ、「下がれ、サタン!」と叱られました。
ペテロの持っていた人間的な愛、情熱も、ヒューマニズムであり、イエス様のアガペーの愛とはぶつかるのです。
この人間の尊厳を重視する人文主義は、デンジャラス・トラップ(危険な罠)です。
ペテロの愛は、肉から出てくる情愛であり、この世の側につきます。
人に対し、「優しくしよう、ボランティアをしよう」というフィレオーの愛は、イエス様の愛とは対峙します。

マザー・テレサもそうでしたね。
この世のボランティアは人から称賛されます。
イエス様は、「わたしは人からの栄誉は受けない」とはっきり言われました。
人間中心の憐れみや優しさは、天の父から見れば、汚いものです。

(注:ヒューマニズム 人間性を称揚し、様々な束縛や抑圧による非人間的状態から人間の解放を目指す思想)

アガペーの愛

マタイ16:24
「それからイエスは弟子たちに言われた。『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」

ペテロの中から出て来た言葉は、古い肉でした。
それが優しい言葉であっても、サタンの言葉なのです。
イエス様は、弟子を愛し大切にされていました。
人間としてのイエス様は、心をかき乱されたのです。
イエス様は、人間の模範として、肉の愛を退け、天の父に従われました。
太秦の群れは、生きておられるイエス様に聞き従う弟子たちの群れであってほしいのです。
この世の霊は、肉親や愛している人を使って、「イエス様に従うなんて、そんな厳しい道はやめたら?」と優しい言葉で誘惑します

しかし、一番大切なのは永遠の命です。
人間は、死ぬためではなく、永遠に生きるために造られたからです。
人間が死ねることは幸いです。
何故なら、死んだ後に、永遠の命が実体化するのですから。

ヘブル4:12
「上帝の言葉は生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます」

あなたがイエス様の命を頂いているならば、自分の中でヒューマニズムの愛とアガペーの愛が戦うようになります。
みことばは、剣であり、イエス様ご自身です。
そのみことばが、魂(ヒューマニズム)と霊(アガペー)を切り分け、判別させます。
鋭い剣がこの二つをスパッと切り分けます。
あなたはどちらを選ぶのですか?

生ける命の水

ヨハネ7:37〜39
37「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」
38「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります」
39「イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ下っていなかったのである」

クリスチャンは、天の故郷を目指し、永遠の御国を仰ぎ見ている、地上での旅人です。
旅人は、水を絶やしたら死んでしまいます。
同じように、聖霊のバプテスマを受け、生ける水を飲まなければ、信仰的には死んでしまいます。
悔い改めて新しく生まれたならば、天の父はご聖霊をくださいます。
それは一日のことではなくて、毎日毎日、あなたの内におられるイエス様の命に、霊的な水が注がれることです。
この新しい水を喜び、絶えず飲んでいる、これが安息です。
この世は決して与えられません。

ある人たち(牧師に多いのですが)は、自分の体験を溜め込み、ため池にして腐った水を、人に飲ませようとします。
自分勝手に証と思い込み、「感動しろ!」と飲ませるのです。
そんな水は臭くて、飲めたものではありません。

天の父は、アガペーの愛の水を、あなたの中から湧き出させ、周りの渇いている人に飲ませたいと願っておられます。
それはこの世にはない水です。
あなたがいると、その存在で誰かが感動する、この世はそのようなものを必要としています。
イエス様のそばに行けば、新しい命の生ける水が湧き上がり、イエス様の素晴らしい香りがするのです。
あなたから、イエス様と同じようなものを感じ取ることができますか?

ヒューマニズムの愛は、救いも愛も、この世に何も提供できません。
この世が必要としているのは、命だからです。
ひとりひとりの内側から、命の水が溢れているならば、説教など要りません。
そこで天と地が一つとなるからです。
あなたが何を目指して生きているのか、あなたの日常生活そのものが証明します。

文責 菅原 はれみ