耶蘇上帝會 太秦之宮

京都・太秦を拠点とする日本のキリスト教会です

礼拝message 3月21日(水)

礼拝message 3月21日(水)

IIコリント4:16-5:11, 伝12章

IIコリント5:9-11
9「そういうわけで、肉体を住まいとしていても、肉体を離れていても、私たちが心から願うのは、主に喜ばれることです」
10「私たちはみな、善であれ悪であれ、それぞれ肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、メシアの裁きの座の前に現れなければならないのです」
11「そのため、主をおそれることを知っている私たちは、人々を説得しようとしています。私たちのことは、上帝のみ前に明らかです。しかしそれが、あなたがたの良心にも明らかになることが、私の望みです」

裁きの時

キリスト教は、まるで主の裁きがないかのように言いますが、裁きはあります。
しかし、私は主の裁きがあることを知り、慰めを得ました。
「主は裁いてくださる!」という幸いです。
あなたは、主の裁きをどのように受け取り、また受け入れていますか。
裁きの時は、弟子にとっては報われる時です。
自分の人生にどのような評価があるかを知る時です。
たとえ人には認めてもらえない人生であったとしても、イエス様に認めていただけるなら、最高です。
また、裁きの時には、あなたが「天の父よ!」と呼べる人なら、故郷に帰れる時でもあります。
あなたにとって、イエス様の裁きは、慰めですか、それとも恐ろしい時ですか。どちらですか!?

義の栄冠

IIテモテ4:6-8
6「私はすでに注ぎのささげ物となっています。私が世を去る時が来ました」
7「私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました」
8「あとは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。その日には、正しいさばき主である主が、それを私に授けてくださいます。私だけでなく、主の現れを慕い求めている人には、だれにでも授けてくださるのです」

天に帰る人は全て、義の栄冠が待っています。
信仰生活は戦いであり、走るべき道のりにはゴールがあります。
勝者に対する栄冠があるのです。

与えたい者に命を与える

聖書には、終わりの日に、羊と山羊が分けられることが書いてあります。
また、畑に良い種を蒔いたはずなのに、敵が毒麦を撒いたところもあります。
この二つはよく似ていますね。
ユダヤでは、昼間に羊と山羊を一緒に放牧しておいて、夜に牧舎に帰る時により分けるのです。

ヨハネ5:17-30
17:「イエスは彼らに答えられた。『わたしの父は、今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです』」
18「そのためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っていただけでなく、上帝をご自分の父と呼び、ご自分を上帝と等しくされたからである」

主を「我らの父」と呼んでいたユダヤ人にとって、イエス様の言葉は許せないものでした。
イエス様がヤハウェなるお方を「わたしの父」と個人的な父として呼んでおられたからです。
ユダヤ人には、「お前だけ特別なのか?お前だけが天の父の子どもなのか!?」と、彼らのプライドを砕き、連帯感を崩すものだったのです。

ヨハネ5:21
「父が死人をよみがえらせ、命を与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます」

これは恐ろしい言葉です。
イエス様は「与えたいと思う者」に、命を与えられるのです。
イエス様ご自身からいただく命を持っていないと、永遠の命の保証はありません。
イエス様の霊がない者は、偽物として見捨てられます。
あなたのうちにおられるメシアの霊を、確認してください。

ヨハネ14:21
「わたしの命令を保ち、それを守る人は、わたしを愛している人です。わたしを愛している人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身をその人に現します」

イエス様は、命令を守ろうとする人にしかご自身の命を与えません。
あなたが毎日の生活の中で、イエス様の命令を守ろうと実践しているかどうかです。
口先だけの祈り、言葉、日常生活がだらしないのであれば、それはイエス様に対して無礼な態度です。
口では立派な信仰を語りながら、生活そのものを見たら「何これ!?」というようなことになっていませんか。
相変わらず、自分が一番大事なのですか。
イエス様を何よりも大切にし、愛するようになった時、イエス様はご自分を現してくださいます。
それはみ声かもしれないし、幻かもしれません。
主は全能者です。
あなたの生活の全てを知っておられます。

イエス様を敬う

ヨハネ5:23
「それは、すべての人が、父を敬うのと同じように、子を敬うようになるためです。子を敬わない者は、子を遣わされた父も敬いません」

天の父を敬う者は、イエス様を敬います。
「主イエス様」と言葉で言う敬虔さが、主ご自身とつながることができるようにします。
「神様」と言うなら、自分を神としてしまいます。
自分の都合の良いようにするからです。
そして、その信仰の中身は、その人に表れます。
聖書をきちんと学んでいるならば、決してそのようにはなりません。
教師は、一体何を教えているのですか。

日本人は何でも美化したいのです。
歴史もそうです。
天皇家のきれいなイメージを作りあげてはなりません。
あるがままの姿を知り、真実の歴史を知ろうではありませんか。
主は、きれいな部分も汚い部分も正しく裁かれます。
素晴らしいところも、醜いところも見る。
そうして、まっすぐに見えるようになるのです。
聖書も同じです。
左手で歴史を、右手で聖書を知ろうとしなければ分かりません。
私たちは、日本に遣わされたのですから、日本のことを知らねばなりません。
この歴史のなかで醸造されてきたものを、また生み出してきた日本人というものを。
キリスト教は西洋的なものです。

夫は、妻のために命をかけよ

エペソ5:21-25
21「メシアをおそれて互いに従い合いなさい」
22「妻たちよ。主に従うように、自分の夫に従いなさい」
25「夫たちよ。メシアが皇民の群を愛し、皇民の群のためにご自分を献げられたように、あなたがたも妻を愛しなさい」

ここで、妻のことばかりが言われているように思いがちですが、そうではありません。
主は、アダムに命令されてから、エバに言われました。
妻と夫では、夫の方がウェイトが大きいのです。
夫が妻のために命をかけていないなら、妻は夫に仕えられません。
愛されているのを感じるから、仕えられるのです。
イエス様に愛されているから、お仕えして愛するのと同じです。

イエス様が、皇民の群のためにご自身を捧げられたように、夫は妻のために命を捨てよ、と命じられています。
これは、主を畏れる人の姿です。
主がこれからなさることを教えられるのは、人間にとっては本当に恐ろしいことです。
どんな犠牲が支払われたとしても、それは成就します。
自分の命をかけてとりなすのが、クリスチャンです。
預言がどうのなど、軽々しく言ってはなりません。

報いの時

裁きがあることを、主を畏れることを知っているから、人に福音を伝えることができるのです。
あなたは、永遠の命をもち、救いの喜びを味わっている人ですか。
天の故郷を目指して、今日を歩んでいるのがクリスチャンです。
主を畏れる者にとっては、裁きが慰めです。
愛する者たちが裁きにあうのは、耐えられないので、救い主であるイエス様がおられることを伝えようとするのです。
あなたは、その喜びをもって証しできますか?

イエス様はユダに何と言われましたか。
「生まれなかった方が良かった」と言われました。
どんな恐ろしい裁きが待っているのか。
イエス様への裏切りは、聖霊を汚すことです。
キリスト教は、このことをやってしまいます。
主の命令に従わないからです。
イエス様の命令を守り、悔い改めることによって、素晴らしい人生があります。
あなたが悔い改めないならば、イエス様の前に立つ裁きの時には、申し開きできません。
御子イエス様の裁きは、人生を正しく評価してくださる慰めの時でもあります。
地上で、いかにイエス様に喜ばれる生き方をするのか。
報いがあるのです。
だから虚しくないのです。

文責 菅原はれみ 

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