耶蘇上帝會 太秦之宮

京都・太秦を拠点とする日本のキリスト教会です

礼拝message 3月10日(水)

礼拝message 3月10日(水)

ピリピ3:1-16, マルコ9:33-35,10:32-45

マルコ9:33-35
33「一行はカペナウムに着いた。イエスは家に入ってから、弟子たちにお尋ねになった。『来る途中、何を論じ合っていたのですか』」
34「彼らは黙っていた。来る途中、誰が一番偉いか論じ合っていたからである」
35「イエスは腰を下ろすと、十二人を呼んで言われた。『だれでも先頭に立ちたいと思う者は、皆の後になり、皆に仕える者になりなさい』」

細い道

イエス様の弟子は、他の人々にイエス様を証しする時、どのように伝えるのでしようか。
キリスト教は、まるで伝道を自分たちがやるように思っています。
しかし、十二弟子は、主が遣わされました。
つまり主ご自分がお命じになるのです。
主が、「語れ」「せよ」と言われることをするのが弟子です。
主が、何を願っておられるのか、分かりますか?
弟子たちは、誰がリーダーであるのかと、言い争っていました。
肉の性質は、自分の名誉、栄誉、人を仕切り、差配するのを求めます。
自分が人より抜きん出ていて、まるで人の指導者であるかのように振る舞います。

イエス様に聞き従って行く人生は、細い道です。
まるでタイトロープを綱渡りするようなものです。
真っ暗な中を、信仰によって一歩を踏み出し、あっ、落ちない・・・
そして、また信仰によって一歩、というような生活です。
そのような危ない生活をしながら、何故私は今まで守られて来たのでしょうか。ただ主の一方的な憐れみです。
人は主に聞き従うのかどうか、Yes かNo、どちらかです。
そして実行するかどうかも、選び取るのです。
聖書を読んでいないと、罠に陥ります。
聖書を読むことによって、悪霊の囁きから守られます。
生まれつきの自分は、この世の霊の方に傾きやすいので、悪霊の語る希望的観測を聞きやすいのです。
イエス様の言葉は、危険な道に見え、リスクが伴います。
サタンは「自分でできることをイエス様に要求」したのです。
「それなら、できるかも。良いアイデア!」と思わせるのです。
これは肉のものです。
イエス様から来るアイデアは、風を掴むようなものです。
聖書を読んで作られる土台がないと、簡単に悪霊の罠にはまります。

心の貧しい者

マルコ10:32-45
33「ご覧なさい。わたしたちはエルサレムに上って行きます。そして、人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡されます。彼らは人の子を死刑に定め、異邦人に引き渡します」
34「異邦人は人の子を嘲り、唾をかけ、むちで打ち、殺します。しかし、人の子は三日後によみがえります」


弟子たちは、イエス様が殺される、と思うと恐くて聞けませんでした。
ヤコブとヨハネの兄弟は、一人をあなたの右に、左に!と言い出しました。
何故こんなことを言い出したのでしょうか?
「メシアの死は、上帝の国をもたらす」というのがユダヤ人の考え方だからです。
そして、これは彼らの名誉欲、権力欲からです。
それを聞いた他の弟子たちは怒りました。
これもエゴイズムです。
「自分は無理でも、他の人にはさせたくない!」と、これもエゴです。
イエス様は、これを真っ向から否定されます。
「それではダメだ!心の貧しい者は幸いである」と。
これが弟子の新しい性質です。

私が神学生の時もそうでした。
宣教師のお気に入りが誰であるとか、妬みや邪推やいざこざが本当に多くありました。
これがクリスチャンでしょうか?
弟子の基準をクリアしている人は本当に少ないのです。
クリスチャンとして、聖書通りに生きようとしないと、どんなに信仰があったとしても、主のみこころを成すことはできません。
つまり主のご計画に参画することはできないのです。
多くの自称クリスチャンは、聖書のみことばをまともに聞いて、守ろうともしません。
楽な道に行ってしまうのです。

弟子の道は、自分の古いものを全否定されます。
それはイエス様が、あなたが決心したことをしてくださっているのです。
「どうか主のみこころがなりますように!」と決心したのなら、主は必ずテストされます。
洗礼式で「私はイエス様のものです」と言ったのなら。
イエス様があなたに言われることは全て、「はい!」と答えるのです。
決心しない人は、テストもありません。

あなたが決めた選択肢の中でしか、主に捧げた分しか、イエス様はあなたを取り扱われません。
あなたが「主よ、変えてください!」と叫ぶなら、そのプロセスで、どれだけ呻き、叫ばねばならないか。
それが適当ならば危険です。
あなたが、どのような告白をイエス様に言ったのか。
軽々しいことを言うならば、悪霊が主に訴えます。
「ほら、口先で言って何も実行しないじゃないですか。もう滅ぼしてしまいましょうよ」と。
決して宗教ごっこになってはいけません。

だからイエス様は、「わたしが受ける盃を受けることができますか」と聞かれたのです。
それは、全人類の罪を背負うという盃です。
人間として耐えられる限界を超えるものです。
だからイエス様は十字架で叫ばれました。
ものすごい精神的、肉体的圧迫の中、心臓破裂を起こし、血と水が分かれて出るほどに苦しまれたのです。

しかし後には、ヤコブは殉教し、ヨハネは黙示録を書きます。

ピリピ3:5-9
7「しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました」
8「それどころか、私の主であるメシア・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。私はメシアのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくただと考えています。それは、私がメシアを得て」
9「メシアにある者と認められるようになるためです。私は律法による自分の義ではなく、メシアを信じることによる義、すなわち、信仰に基づいて上帝から与えられる義を持つのです」

何を誇るのか

パウロはここで、自分は誇るべきものがたくさんあると言っています。
イエス様と出会う前の人生、その人生でやって来たもの、得たものです。
彼はイスラエルの上帝に熱心でした。
しかし、イエス様を啓示された時、彼は全てを失いました。
それはちりあくただと、彼は言っています。
人が誇りとする、自分の人生、過去、学歴、経験、美貌、家柄など、全てが糞土です。

論語の中に「糞土の牆(しょう)はぬるべからず」というのがあります。
簡単に言うと、怠け者には、教育する意味がないということです。
(注:弟子が昼寝をしていたのを見て、孔子は言いました。「腐った木には彫刻できないし、腐りくずれた土壁には上塗りできない。お前に対しては何を叱ろうか。叱っても仕方ない」 論語 公冶長より)

自称クリスチャンには怠け者が多いのです。
信じていれば大丈夫だと思っているからです。
寝ていても、遊んでいても、やりたいようにやっていても、です。
弟子は、イエス様に聞き従うことを体得せねばなりません。
それは、地味でゆっくりした歩みです。
遅々として少しずつ進んで行くものです。
信仰とはそういうものです。
「聖霊を受けたから、もうOK!」ではありません。
怠け者は、探しもしないし、叩きもしません。
そのような人には何もありません。

金持ちは、何故救いが難しいのか。
知らないうちに上から目線になるからです。
肉のプライドが身に付いてしまっているのです。
金持ちは、貧しい人を仕切ろうとします。
パウロは「イエス様のために全てが無くなった。しかしそれらは屑だった。イエス様を知ることの素晴らしさの故に!」と告白しています。
このことは、信仰の安全にもなります。
古いものやプライドを捨てていないなら、敵の罠に落ちます。
「誇るものはイエス様以外には何もない」というのが、安全な場所なのです。
そうでないなら、必ず人を仕切ってしまいます。

パウロはローマの凱旋を、実際に見て知っていました。
凱旋は大勝利の後にしか行われません。
しかもそれは、100年に一度あるかないかというような大規模なものです。
その時には、祭司たちが香を焚いて祝います。
だからパウロは、ローマの凱旋に喩えて、メシアの香りと言ったのです。
イエス様の弟子たちが勝利を得た時、どれほど天の父に報いていただけるか。
天の父は、凱旋の祝宴を用意して待っておられます。
だからパウロは、その報いの大きさの故に「勝利を得る者にならねば!」と言ったのです。

仕える者になりなさい

マルコ10:43,44
43「しかし、あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい」
44「あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい」

しもべ、はしためは奴隷です。
奴隷が人を仕切りますか?
そのような人が、誰かをイエス様のところに連れて行けますか?
はしためとは、人の世話をする者です。
自分が役に立たないと自覚している者です。
イエス様が、まことの主であり、支配者です。
それなのに何故、人間が人を取り仕切り、差配するのですか。

太秦之宮が始まった時、私はある姉妹に「おかんになれ」と言いました。
(注:関西の言葉でお母さんの意味)
なれ、と言われてなれますか?
いいえ、なれません。
信仰によって歩んだ結果、おかんになれたら良いのです。
何故おやじではなくておかんなのでしょうか。
おやじはちゃぶ台をひっくり返します。
しかしおかんは、絶えず世話役であり、後始末をする立場です。
掃除、洗濯、後片付けです。
女性がこのようにできないなら、はしためとしての姿を身につけていないなら、証にはなりません。
女性は結婚すると、イザベルになりやすいからです。
聖書は「女性が男性を教えるな」と言っています。
女性の弱さの故に、イエス様が教えておられるのです。

聖書が要求しているのは、「イエス様以外に誇るものはない」と自然に言える弟子です。
そうなれば、自然に仕える者になります。
マグダラのマリアのように。

プリスカとアクラの夫婦を考えてみましょう。
彼らは天幕作りをしながら、ローマのあちこちに移住していました。
プリスカが偉いのです。
家庭をオープンにし、多くの人や旅人を受け入れ、まるで当時のクリスチャンにとってオアシスのような存在でした。
プリスカとアクラの夫婦が、良いサンプルです。
弟子の姿は、ここまで人に仕えることです。
貧しい人の世話をしているのは、イエス様にしているのです。
これができるようになったら、イエス様に重要なところで使ってもらえるようになります。
一番大切なのは、従順さです。
この反対が、頑固さです。

「自分」というエゴが強かったら、使いものになりません。
パウロは、エルサレムへ向かって行く中で、鎖と苦しみが自分を待っていることを知っていました。
しかし彼は、「主のみこころがなりますように」と言いました。
あなたがイエス様と親しくなるならば、これからどのようになって行くか、ちゃんと教えて頂けるようになります。

そして、一人一人がこのようにできなかったら、太秦之宮は何の役にも立ちません。
弟子は、しもべであり、奴隷です。
奴隷には、自分のものや時間などありません。
自分の好き嫌いは通せません。
ただ与えられたものを食べ、着て、なすべきことをやるだけです。
主のしもべ、はしためであることにプライドを持てるような群れにならなければ、無意味です。
それは、イエス様を愛する群れです。
イエス様を愛していないのなら、イエス様を知っているなどと言って欲しくありません。

イエス様は、あなたの生活を見ておられるので、決してごまかせません。
あなたがイエス様をどれだけ愛しているのか、イエス様はちゃんと知っておられます。

あるスウェーデンの宣教師が、「見てごらん。折られた骨が笑っている」と言いました。
面白いですね。直訳です。
どのような意味ですか。
折られた骨とは、使いものにならないという意味です。
「私は何の役にも立ちません。でもイエス様は素晴らしい!」と。
イエス様に用いて頂いたとしても、折られた骨がつながっただけです。
自分が偉いわけではありません。
折られた骨は、接がれると太く強くなります。

自分が全否定され、面子が潰される時、喜びなさい!
あなたの古いものが剥がされる時なのです。

人を取り仕切るというのでは、駄目です。
人をイエス様には導けません。
キリスト教は、人を教会に連れて行きます。
洗礼を受けさせます。
それでどうですか?その後どうなるのですか?
多くの人がいなくなります。
生きておられるイエス様に人を連れて行くのが、折られた骨です。

イエス様は、弟子たちに命令しています。
しもべ、はしためになって、喜んで人に仕えなさい。
みなさん、喜んでイエス様に聞き従ってください。

文責 菅原はれみ

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