
マタイ16:13〜28
マタイ16:21~23
21「そのときからイエスは、ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められた」
22「すると、ペテロはイエスをわきにお連れして、いさめ始めた。『主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずはありません』」
23「しかし、イエスは振り向いてペテロに言われた。『下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは上帝のことを思わないで、人のことを思っている」
新約聖書でイエス様が語られた言葉は、弟子たちに対するものです。
求道者のためではありません。
だから新しく生まれることの重要性を、何度も教えておられるのです。
教条主義
マタイ18:1〜4
1 「その時、弟子たちがイエスのところに来て言った。『天の御国では、いったいだれが一番偉いのですか』」
2「イエスは一人の子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて」
3「こう言われた。『まことに、あなたがたに言います。悔い改めて子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません」
4「ですから、だれでもこの子どものように自分を低くする人が、天の御国で一番偉いのです」
ここで、天の御国の素晴らしさが書かれています。
天国では、お互いの間に比べっこがありません。
見下したり、見下されたりすることはないのです。
だから「悔い改めて、子どものようにならなければ」そして「新しく生まれなければ」天国には入れない、と言われています。
弟子にとってはイエス様の言葉が、すべてのものの最上位になります。
「イエス様を信じていればそれで良い」ではありません。
それは教条主義(ドラグマティズム)です。
教条主義は、「これは、こうだ。この場合はこれだ」と物事を機械的に適用して、当てはめていきます。
神学校を出た教条主義者はこんな感じです。
「この場合は、このみことば。あの場合はあのみことば」と。
そこにイエス様との生きた交わりや暖かい命はありません。
頭でっかちで、冷たい人間が出来上がります。
また、その逆にペンテコステ派は、スピリチュアルで感情主義です。
慌惚状態を楽しみますが、それはイエス様の霊ではありません。
(注:教条主義 教義や教条(ドグマ)に固執する傾向を指す用語。また、マルクス、レーニンなどの教義に、無批判に盲従するような知的怠惰を指す)
ヨハネ5:39〜42
39「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。その聖書は、わたしについて証ししているものです」
40「それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません」
41「わたしは人からの栄誉は受けません」
42「しかし、わたしは知っています、あなたがたのうちに、上帝への愛がないことを」
聖書をいくら研究しても、上帝への愛は生まれてきません。
研究をすればするほど、分かった気にはなるでしょう。
しかし「素晴らしい教え」が自分を肯定するだけです。
みことばを覚えて自己満足に陥り、「私はこれで良いのだわ」と。
血の通わない信仰は、その人をどんどん冷たくします。
「わたしは知っている」という傲慢さが、その人をパリサイ主義的にします。
パリサイ主義者は、お金持ちじゃないと困ります。
「自分が正しいから、経済的に祝福されているのだ」というプライドがあるからです。
大きい教会の牧師は、金持ちになると鼻高々になりますね。
特に韓国の牧師は「私はイエス様に喜ばれている!」というプライドで高級車を乗り回しているではありませんか。
弟子は、イエス様を得るために、イエス様のところに行くのです。
みことばを通して、イエス様ご自身に近づくためです。
イエス様という頭(かしら)にしっかり繋がっていなければ、生きた信仰は持てません。
イエス様の命が、あなたの中に流れていれば、自分の汚さがどんどん明らかになり、肉のプライドは剥ぎ取られていきます。
そして自分の罪が嫌になるはずです。
ジョン・ウェスレーは死ぬ間際まで悔い改めました。彼は本物の信仰者でした。その人がどのような死に方をするかを見れば、その人が生きてきた信仰が分かります。
イエス様は、旧約聖書のみことばを使われました。
あなたが旧約聖書を読むなら、イエス様のところに救いを求めて行くしかない、と気付くでしょう。
イエス様の命が無ければ、弟子にもクリスチャンにもなれません。
クリスチャンのふりをしてごまかし、嘘をつくしかなくなります。
ボロが出ても、言い訳をして蛇のように逃げるだけです。
聖書を読んでいるなら、自然にイエス様を必要とします。
勝手にやって大丈夫だと思っているのは、聖書を読んでいないからです。
悪霊と共に墓場を住処にしているという霊的現実が分からないのです。
読んでいるなら「イエス様の命がほしい!」と叫ぶはずです。
悪霊は、「よく聖書を勉強したな。みことばを覚えているな。すごいぞ」と囁きます。
新しい命がないと、幼子からのスタートができません。
だから「イエス様、あなたなしに私はどこに行くのですか」というのが、私の心の叫びです。
ヒューマニズム
ここで、ヒューマニズム(人文主義)について考えてみましょう。
14世紀から16世紀にわたり、ルネッサンス(文芸復興)が起こりました。
当時、キリスト教会の権威が世界を覆っている中で、神を中心とする世界観から、人間を解放しようという動きです。
ここでヒューマニズム(人文主義)という思想が出てきます。
この価値観は、現世の肯定であり、人間性の解放を目指します。
つまり個性の重視です。
イエス様が十字架にかかられる前に、ペテロはイエス様をいさめ、「下がれ、サタン!」と叱られました。
ペテロの持っていた人間的な愛、情熱も、ヒューマニズムであり、イエス様のアガペーの愛とはぶつかるのです。
この人間の尊厳を重視する人文主義は、デンジャラス・トラップ(危険な罠)です。
ペテロの愛は、肉から出てくる情愛であり、この世の側につきます。
人に対し、「優しくしよう、ボランティアをしよう」というフィレオーの愛は、イエス様の愛とは対峙します。
マザー・テレサもそうでしたね。
この世のボランティアは人から称賛されます。
イエス様は、「わたしは人からの栄誉は受けない」とはっきり言われました。
人間中心の憐れみや優しさは、天の父から見れば、汚いものです。
(注:ヒューマニズム 人間性を称揚し、様々な束縛や抑圧による非人間的状態から人間の解放を目指す思想)
アガペーの愛
マタイ16:24
「それからイエスは弟子たちに言われた。『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」
ペテロの中から出て来た言葉は、古い肉でした。
それが優しい言葉であっても、サタンの言葉なのです。
イエス様は、弟子を愛し大切にされていました。
人間としてのイエス様は、心をかき乱されたのです。
イエス様は、人間の模範として、肉の愛を退け、天の父に従われました。
太秦の群れは、生きておられるイエス様に聞き従う弟子たちの群れであってほしいのです。
この世の霊は、肉親や愛している人を使って、「イエス様に従うなんて、そんな厳しい道はやめたら?」と優しい言葉で誘惑します。
しかし、一番大切なのは永遠の命です。
人間は、死ぬためではなく、永遠に生きるために造られたからです。
人間が死ねることは幸いです。
何故なら、死んだ後に、永遠の命が実体化するのですから。
ヘブル4:12
「上帝の言葉は生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます」
あなたがイエス様の命を頂いているならば、自分の中でヒューマニズムの愛とアガペーの愛が戦うようになります。
みことばは、剣であり、イエス様ご自身です。
そのみことばが、魂(ヒューマニズム)と霊(アガペー)を切り分け、判別させます。
鋭い剣がこの二つをスパッと切り分けます。
あなたはどちらを選ぶのですか?
生ける命の水
ヨハネ7:37〜39
37「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」
38「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります」
39「イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ下っていなかったのである」
クリスチャンは、天の故郷を目指し、永遠の御国を仰ぎ見ている、地上での旅人です。
旅人は、水を絶やしたら死んでしまいます。
同じように、聖霊のバプテスマを受け、生ける水を飲まなければ、信仰的には死んでしまいます。
悔い改めて新しく生まれたならば、天の父はご聖霊をくださいます。
それは一日のことではなくて、毎日毎日、あなたの内におられるイエス様の命に、霊的な水が注がれることです。
この新しい水を喜び、絶えず飲んでいる、これが安息です。
この世は決して与えられません。
ある人たち(牧師に多いのですが)は、自分の体験を溜め込み、ため池にして腐った水を、人に飲ませようとします。
自分勝手に証と思い込み、「感動しろ!」と飲ませるのです。
そんな水は臭くて、飲めたものではありません。
天の父は、アガペーの愛の水を、あなたの中から湧き出させ、周りの渇いている人に飲ませたいと願っておられます。
それはこの世にはない水です。
あなたがいると、その存在で誰かが感動する、この世はそのようなものを必要としています。
イエス様のそばに行けば、新しい命の生ける水が湧き上がり、イエス様の素晴らしい香りがするのです。
あなたから、イエス様と同じようなものを感じ取ることができますか?
ヒューマニズムの愛は、救いも愛も、この世に何も提供できません。
この世が必要としているのは、命だからです。
ひとりひとりの内側から、命の水が溢れているならば、説教など要りません。
そこで天と地が一つとなるからです。
あなたが何を目指して生きているのか、あなたの日常生活そのものが証明します。
文責 菅原 はれみ
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