耶蘇上帝會 太秦之宮

京都・太秦を拠点とする日本のキリスト教会です

礼拝message 9月30日(水)

礼拝message 9月30日(水)

ルカ16:19〜31

ルカ16:22,24
22「しばらくして、この貧しい人は死に、み使いたちによってアブラハムの懐に連れて行かれた。金持ちもまた、死んで葬られた」
24「金持ちは叫んで言った。『父アブラハムよ、私をあわれんでラザロをお送りください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすようにしてください。私はこの炎の中で苦しくてたまりません』」

極楽と地獄

日本人は、仏教的には地獄、極楽があると言っています。
しかし現実のことではなく、何かぼやっとしています。
地獄絵図も本当に日本人は信じているのでしょうか。
すべてが曖昧模糊です。
浄土も、遥か彼方に、あることはある。
しかし遠すぎてリアリティーがなく、これもぼや〜っとして夢のようです。
お正月は神道でお祝いし、クリスマスはキリスト教でお祝いし、年末の除夜の鐘を聞きながら年を越す・・・日本人のほとんどは、神道、仏教、キリスト教の全てを信じています。
全部おめでたいのです。
行事そのものも、水墨画などのぼかし絵みたいです。
描いた後、すーっと消えて行くのです。
能の世界もそうです。
想像の世界なので、リアリティーがあると面白くありません。
能もストーリーがあるにはありますが、それも夢か幻のように消えて行きます。
日本人は、何故かリアリティーを嫌うのです。

千利休が始めた茶道はどうでしょう。
利休は、茶器そのものは、その辺にある安いものを使いました。
しかし、その茶器を偉い人(権威のある人)が、「素晴らしい」というなら、とたんにその安物の茶器は高級なものに変わります。
つまり箱書きです。
茶会に使われる道具の多くは、箱の蓋裏に、何人の作品であるのか、家元や名のある茶人によって墨で書かれます。
「銘」というのをつけ加えるのです。
それにより、途端に価値が上がります。

また禅宗やカトリックも瞑想の世界です。
互いに他の宗教も良いところは認め合おうという動きの中、対話が進められています。

小笠原流礼法はどうですか。
歩き方、座り方など姿勢と立ち振る舞い、風呂敷きの包み方まで、人間としていかにも品性があるように、自分を鍛錬します。

太秦之宮のホームページでは、敢えて日本的なものを使っています。
耶蘇上帝会太秦之宮、と名前をあげています。
えっ、洪秀全の反乱軍!?と初めて見た人は思うかもしれませんね。
その通りです。
怖い人は帰りなさい。
太秦之宮は、何をしようとしているのか。
日本には、失われたイスラエル10部族と、原始キリスト教徒たちが来ている、という歴史を土台としています。
確かな物証はありませんね。責任は私、堂仙にあります。
太秦之宮は、日本人がイエス様のところに帰って来るように、祈るのが使命です。

外側を飾り立てる

ルカ16:14〜15(リビングバイブル)
14「何よりもお金に目のないパリサイ人たちは、当然のことながら、この話を聞いて、イエスをあざけりました」
15「そんな彼らに、イエスは、おっしゃいました。『あなたがたは、人前では、いかにも上品でうやうやしい態度をとっています。しかし上帝は、あなたがたの悪い心をお見通しです。いくら人の目をごまかし、称賛を受けても、上帝には憎まれるのです。」

キリスト教は、見せかけをやります。
外側を立派に飾り立て、中身はないのです。
格式や作法など、外から人を作り上げて行くのです。
「馬子にも衣装」ということわざがありますね。
つまらない者でも、外形を整えると、立派に見えることの例えです。
信仰も外側を作り上げ、人に見せるのです。
まるで、自分は何かステイタスを身につけている、という態度です。
パリサイ人が、衣のふさを長くしたり、人前で長いお祈りをするのと同じです。
キリスト教も同じです。
「私はすごい信仰!」と人に見せかけます。
お祈りだけ聞いていると、すばらしい信仰の持ち主だと思ってしまいますが、実際は何も動きません。

ヤコブ5:17
「エリヤは私たちと同じ人間でしたが、雨が降らないように熱心に祈ると、三年六か月の間、雨は地に降りませんでした」

義人の祈りは大いなる力があり、自然界も動かします。
3年6か月ですよ、全く雨が降らないのです。
皆さん、本当に信じているのですか?

ラザロと金持ちの話も同じです。
(これは、周りにいた宗教的なパリサイ人たちの前で話されたのです)
そして、この事は現実に起きていることなのですよ。
何かお伽話のような、ぼんやりしたものとして、皆さん受けとめているのです。

信仰は期待

使徒14:8〜17
9「彼はパウロの話すことに耳を傾けていた。パウロは彼をじっと見つめ、救われるにふさわしい信仰があるのを見て」
10「大声で『自分の足で、まっすぐに立ちなさい』と言った。すると彼は飛び上がり、歩き出した」

14:9「This man heard Paul speaking. Paul, observing him intently and seeing that he had faith to be healed」

ここで、足の不自由な人が癒されました。
救いの中に癒しがあるのです。
(癒しだけが一人歩きするものではありません)
信仰は目に見えるものなのでしょうか?
見えるものです。
彼には「イエス様なら、自分を癒してくれる!」と期待があったのです。
イエス様への期待が、癒される信仰です。
「この祈りはいつ答えられるの」「主は必ずしてくださる」と、期待してワクワクして待っているのです。
これが信仰による期待です。

暗い顔は、本当には期待していないのです。
期待のない信仰は、腐っています。
最後まで残るものは、信仰と希望と愛です。
この希望は、期待のことです。
天の故郷に帰れるという期待、イエス様が再臨されるという期待です!

見えないものを見る

IIコリント4:16〜5:10
4:18「私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです」
5:9「そういうわけで、肉体を住まいとしていても、肉体を離れていても、私たちが心から願うのは、主に喜ばれることです」

見えないものこそ、目に見えるのです。
あなたの全生活が、明るみに出されます。
あなたの行いのすべての動機が、イエス様に喜ばれるかどうかです。
食べたり飲んだりして楽しむだけで地上を過ごすのか、どうしたらイエス様に喜ばれるかを追い求めるか、です。
イエス様に喜ばれる生活がすべてです。
生まれつきの者は、自分しか愛しません。
御霊の実の愛は、イエス様から十字架の愛を受けて、イエス様を愛するのです。
あなたには、イエス様と共に生きるチャンスが与えられているのです。
そのチャンスを自分のものにして豊かな人生を送るかどうかは、あなた次第です。

自分が失格しないように

Iコリント9:24〜27
26「ですから、私は目標がはっきりしないような走り方はしません。空を打つような拳闘もしません」
27「むしろ、私は自分のからだを打ちたたいて服従させます。ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者にならないようにするためです」

リビングバイブルで読んでみると、
IIコリント9:27「競技選手のように、自分の体を鞭打って、厳しく鍛錬し、自分の気分のままにではなく、なすべきことができるよう、訓練しています。そうでないと、他の人たちを競技に参加させておきながら、自分は失格者として、退場を命じられるかもしれないからです」
退場とは、イエス様から切り離され、ぶどうの枝のように捨てられることです。
あなたの生活が、イエス様に喜ばれるかどうかが大切です。

ヨハネ5:17〜29, 5:41〜47
46「もしも、あなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです。モーセが書いたのはわたしのことなのですから」
47「しかし、モーセが書いたものをあなたがたが信じていないのなら、どうしてわたしのことばを信じるでしょうか」

ヨハネの福音書のこの箇所を、覚えるくらい読んで欲しいのです。
モーセが書いた事は、イエス様のことです。
旧約をよく読んで信じていないなら、イエス様の言葉を信じることができません。
いかに旧約の大事なところを読んでいないのかです。
申命記、レビ記などは本当に大切です。
何度も読んでください。

帰って来なさい

黙示録19:16〜18
16「その衣と、もものところには、『王の王、主の主』という名が記されていた」
17「また私は、一人のみ使いが太陽の中に立っているのを見た。彼は大声で叫び、中天を飛んでいるすべての鳥たちに言った。『さあ、上帝の大宴会に集まれ」
18「王たちの肉、千人隊長の肉、力ある者たちの肉、馬とそれに乗っている者たちの肉、すべての自由人と奴隷たち、また小さい者や大きい者たちの肉を食べよ』」

イエス様は、王の王、主の主です。
イエス様はただ優しいだけのお方ですか。
黙示録は血なまぐさいです。
鳥に「人間の肉を食え!」と言われたのはイエス様ですよ。
聖書は全部、書いてある通りになります。
日本でも昔から聖書が配られていました。
言い逃れはできません。
イエス様のことを聞いていない人はいないのです。

主は「さあ、帰って来なさい!」と言われています。
イエス様のところへ帰るのです。
あなたが義人でないなら、まるで空気銃を撃ちまくっているようなものです。
イエス様をどのように知っているかが、その人の信仰の強さです。
イエス様は、あなたの信仰を分かっておられます。
イエス様から、権威をいただくのです。
権威をいただかないと、敵と戦う力がありません。
それは子どもには無理です。
戦えません。
京都の木津川で、コプト教会の会堂が開かれ、教皇までやってきました。
面白いですね!
(京都では、すでに陣取り合戦が始まっています)

注:コプト正教会は、マルコがエジプトで設立したとされる。キリスト教、非カルケドン派(東方諸教会)の一つでエジプトで発展。北アフリカがイスラム化した後も、エジプトで暮らすキリスト教徒(コプト)の教会。ニカイア・コンスタンティノポリス信条を告白し、マリアを神の母として崇敬する。

以下の内容は、交わりの時に話されたものです。

(怒りや苛立ちがある時に対して)
何故、絶えず祈りなさい、と言われているのですか。
私たちは弱いのです。
絶えず祈っていて、上からの愛をもらうのです。
自分で自分を握り、「変えてください!」ではありません。
自分を捧げるのです。
捧げているからこそ、自分と距離を置けるのです。
怒って苛立っている自分を、離れて見るのです。
「ああ、苛立っているな」と。
自分ではどうしようもできないのです。
イエス様が変えてくださるのですから、そんな自分を眺めていたら良いのです。
距離を置いて、そのままにしておくことです。
それが、無我の境地に至り、「父のみこころをなしているだけ」というところに行けるのです。

ロマ12:1「ですから、兄弟たち、私は上帝のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、上帝に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です」
このみことばの通りです。
大切なところですから、覚えていてください。

文責 菅原はれみ


« »

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です