
IIテモテ3:1〜4:5
IIテモテ3:1〜16
1「終わりの日には困難な時代が来ることを、承知していなさい」
5「見かけは敬虔であっても、敬虔の力を否定する者になります。こういう人たちを避けなさい」
8「たぶらかしている者たちは、ヤンネとヤンブレがモーセに逆らったように、真理に逆らっており、知性の腐った、信仰の失格者です」
16「聖書はすべて上帝の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です」
16「All Scripture is given by inspiration of God, and is profitable for doctrine, for reproof, for correction, for instruction in righteousness. 」
アロンの祝祷
民数記6:22〜27
22「主はモーセにこう告げられた」
23「アロンとその子らに告げよ。『あなたがたはイスラエルの子らに言って、彼らをこのように祝福しなさい」
24「主があなたを祝福し、あなたを守られますように」
25「主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように」
26「主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように」
27「アロンとその子らが、わたしの名をイスラエルの子らの上に置くなら、わたしが彼らを祝福する」
マタイ23:39
「わたしはおまえたちに言う。今から後、『祝福あれ、主の御名によって来られる方に』とおまえたちが言う時が来るまで、決しておまえたちがわたしを見ることはない」
太秦之宮では、祝祷の時にこの二つの箇所を、ヘブル語で捧げています。
私は、アロンの祝祷には力があると信じています。
主の御名を皆さんの上に置くのです。
私は、それでみなさんが祝福されているのだと信じております。
みことばと向き合う
皆さんには「にせ教師」の項を、ファイヤーバイブルで読んで欲しいのです。
誰かを批判するためではなく、私をチェックしてください。
遠慮なく!です。
牧師、宣教師は、ただの用務員です。
決して先生(ラビ)と呼ばれてはいけません。
牧師は、信徒を支え、世話をする立場にいます。
信徒がイエス様にあって、成熟し、聖くならなければ何の意味もありません。
さて、このテモテの手紙が書かれた当時は、旧約聖書が中心でした。
それに加えてパウロ書簡も読まれていました。
信仰生活において、あなたが聖書とどのように向き合っているのかが非常に重要です。
みことば無くして、イエス様を知ることはありません。
みことばは、固いです。よく分からないです。
しかし虚心坦懐(意味:先入観を持たず、広く平らな心。またそうした心で物事に臨む態度)に、イエス様を求めて読むなら、必ずご聖霊が助けて、教えてくださいます。
みことばが心に植えつけられるのです。
みことばが光を放つ
ヤコブ1:21
「ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを素直に受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます」
繰り返し聖書を通読するなら、ご聖霊が種のようにみことばを撒いて、植えつけてくださいます。
どこの箇所か分からなくても、こういうみことばがあったな!とみことばが光を放つのです。
意味が分からなくても、聖書全体を読むべきです。
みことばを愛することは、イエス様を知ることです。
イエス様を知らないと、命が弱いです。
心にみことばが植えつけられてないと、結局世に戻ります。
悪霊の方に行ってしまいます。
命が豊かになるとは、イエス様を知ることです。
みことばの分からないところは、聖書が解きあかします。
古い聖書も捨てずに残しておいてください。
改訂されると箇所によって、言葉と訳し方が変わります。
翻訳者が使う言葉によって、読む方が受ける印象が変わるので、両方読んで比べて欲しいのです。
翻訳者は、いろんな注解書から訳を取ってくるので、どのテキストを使っているのか、実は分かってしまいます。
その人の信仰の傾向が出てきてしまうのです。
みことばは命
ヨハネ1:1〜5
1「初めにことばがあった。ことばは上帝とともにあった。ことばは上帝であった」
2「この方は、初めに上帝とともにおられた」
3「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった」
4「この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった
5「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった」
あなたのみことばに対する態度が、最終的にイエス様に対する態度になります。
イエス様は、受肉されたみことばだからです。
あなたはみことばをどのように読んでいますか?
どのような格好で読んでいますか。
みことばに対する態度が悪いと、命が豊かになりません。
コロサイ1:16
「なぜなら、天と地にあるすべてのものは、見えるものも見えないものも、王座であれ主権であれ、支配であれ権威であれ、御子にあって造られたからです。万物は御子によって造られ、御子のために造られました」
全世界は、主がご自身のために造られたのです。
「私は主のものです。みことばがそう言っているからです」というはっきりした態度が必要です。
みことばは、命です。
暗い、鬱っぽい人生などあり得ません。
鬱の人は、聖書を読んでいますか?
聖書を読むだけでは、クリスチャンにはなれません。
必要がない人は、求めないからです。
乞食(貧しい者)は幸いだ!と言われるのは、そのためです。
乞食は、何も持っていないので、「欲しい!」というニード(need、必要性)ばかりだからです。
何を求めて礼拝に来るのか
初代教会は、礼拝後の食事のことを、アガペーと呼んでいました。
奴隷は、週に一度だけ、その日だけは無料でお腹いっぱい食べられたのです。
奴隷は、普段から飢えています。
貧しさを知っている人は、たましいの飢え渇きを知っています。
「何か欲しい。満たして欲しい!」という欲求です。
(金持ちと比較してください)
あなたがイエス様をどれだけ知っているかは、どれ程イエス様を必要としているか、求めているかです。
文句も言い訳も通用しません。
あなたが、本当には求めていないからです。
あなたは、何を求めて礼拝に来るのですか?
イエス様ご自身を求めるためであり、心からイエス様を賛美し褒め称えるため。これしかありません!
そして、喜んで主にお仕えするためです。
イエス様への愛(アガペー)がなければ、すべてがむなしいのです。
天の父が、子どもたちに求めておられる命の道は、私たちのイエス様への態度が、その表情、目つき、態度、言葉、行動、すべてにおいて愛(アガペー)であることです!
イエス様が、なぜ魅力的なのか。
アガペーによって生きる人が見たかったら、イエス様を見なさい。
IIテモテ4:3〜4
3「というのは、人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みに従って自分たちのために教師を寄せ集め」
4「真理から耳を背け、作り話にそれて行くような時代になるからです」
みことばの中にこそ、イエス様の命が秘められています。
もし、あなたがみことばから離れてイエス様を見るなら、それはサタンです。
サタンは光の天使に偽装するからです。
固い食物
霊的な判断力のレベルが低すぎます。
あなたは、イエス様を信じてから何年になりますか?
もう教師になっていないと駄目な年齢です。
まだミルクが必要で、固いものが食べられないのです。
未だに信仰の初歩を繰り返し繰り返しやっている状態です。
「神は愛です。信じれば救われるのです」といつまでやっているのですか!?
モーセによって律法が与えられるまでの時間、主は素の人間をどのように扱われましたか。
素の人間はどのような行動をとるのか、明らかにされました。
人類は堕落し、ノアとその家族以外は洪水によって滅ぼされました。
律法がなければ、救われる人は本当に少ないのです!
救われたのは、ノアとその家族だけです。
主から正しいと認められた者だけが、150日間の洪水の中で生き延びました。
聖書は厳しいのです。
その厳しさを取り除いたものが、ミルクです。
その後、セム、ヤペテ、ハムの兄弟から、人類は増え広がります。
現代は、ソドムとゴモラと同じです。
あなたがこの世を楽しんでいるなら、同じように滅ぼされます。
救われたのは、ロトと娘だけです。
妻は塩の柱になりました。
女性は気をつけてください。
どうしても世のものに関心が行くからです。
女性は、お金と生活の心配ばかりになってしまいます。
愚かな女性たちを見てください。
本能的でイケメンに弱いのです。
みなさん、この時代に生まれなくてよかったですね。
この時代だったら、もう滅ぼされてますよ。
そして時代は進み、モーセによって律法が与えられます。
しかし、頑ななイスラエルの民は、20歳以上が死に絶えるまで、荒野をぐるぐる回ったのです。
約束の地に入ったのは、次の世代の者でした。
固い食物は、大人のものであり、十字架を負うことです。
律法は、霊的な良いものであり、弟子として訓練されなければなりません。
そのことを教えない牧師、宣教師はすでにアウトです。
マタイ5:17〜19
17「わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく、成就するために来たのです」
18「まことに、あなたがたに言います。天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることはありません。すべてが実現します」
19「ですから、これらの命令の最も小さいものを一つでも破り、また破るように人々に教える者は、天の御国で最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを行い、また行うように教える者は天の御国で偉大な者と呼ばれます」
律法は、天の父が人に要求しているレベルです。
イエス様は、律法と預言者を完成させるために来られたのです!
律法を守ったのは、どのような人たちですか?
イエス様に似ている人たちです。
弟子は、イエス様と似たものとならなければなりません。
信仰は証明するもの
ヤコブ2:20〜21
20「ああ、愚かな人よ。あなたは、行いのない信仰が無益なことを知りたいのですか」
21「私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇に捧げたとき、行いによって義と認められたではありませんか」
22「あなたが見ているとおり、信仰がその行いとともに働き、信仰は行いによって完成されました」
信仰は、従順がないと証明できません。
そして、信仰は証明しなければならないものです。
イエス様の命を頂いているなら、その命を大切にして、あなたの内側からコントロールしてもらうのです。
邪魔するものを捨てていくのです。
自分で頑張るのではありません。
悔い改める決断が必要です。
悔い改めは、向きを変えることです。
肉を捨てることは、苦しいし大変です。
簡単ではありません。
だから狭い門なのです。
しかし、このことによって内なるイエス様の命が強くなると、あなたはアガペーの愛に近づいて行きます。
イエス様は、アガペーの愛を持っておられるからです。
御霊に導かれる人は、上帝の子どもたちです。
イエス様の命は、律法を成就したお方の命なのですから。
イエス様を主と呼び、ご支配してくださるお方に委ねて生きるのです。
聖書のみことばが、内なるイエス様に頼るように励ましてくれます。
この世が牙をむく
出エジプト7:8〜13
12「彼らがそれぞれ自分の杖を投げると、それは蛇になった。しかし、アロンの杖は彼らの杖を呑み込んだ」
日本では、白蛇は祝福の証とされています。
面白いですね。
伝承では、ここで出てくるエジプトの呪法師が、ヤンネとヤンブレだと言われています。
最近、日本の有識者と呼ばれる方たちが、口を揃えて「一神教は駄目だ」とキリスト教を目の敵にするようになりました。
この世が牙を剥いてきましたね。
しかし、主の弟子はこの世の霊に負けることはありません。
この世のものは、あなたの内におられる方には勝てません。
何も恐れることはありません。
この世が牙を剥いて来たら、楽しみにしていてください。
これからは、現実的な戦いになるので、ミルクしか飲めない人は危ないのです。
今の時代に、時間が間に合いません。
とにかく聖書を読んでください!
みことばがあなたを救うのです。
みことばがない人は、自分で考えて決めて、失敗します。
以下の内容は、交わりの時に語られたものです。
プロテスタントの教会の中にも、カトリック的、自虐的なものが入り込んでいるのを見ます。
信仰的に見えても、ものすごくパリサイ人的です。
自分を苦しめるという自己義によって立つからです。
「私は、こうやって苦しんで頑張っている!」と、自分を打ち叩いて、自分をいじめているのです。
しかしそれは「私は、こういう者なのだ」というプライドです。
自分を責めているうちに、そんな自分が好きになり、恍惚感や快感を味わうのです。
それが宗教的快感、エロスです。
自分の無力を認めて、「私は絶望的な状態です。自分では解決できません。だからこんな私をイエス様に捧げます。どうか造り変えてください!」と叫べば楽になるのです。
湖の上を歩いてきたペテロが沈みかけた時に、叫んだのと同じです。
「助けてください!」と。
ペテロが沈みかけた時に、イエス様が助けられました。
大切なのは「私は駄目です。よろしくお願いします」という態度です。
自分で自分は救えません。
イエス様に自分をお任せしたのなら、救ってくださるのを待つだけです。
自分にあきらめることが、イエス様と共に十字架で死ぬことです。
あなたが十字架を背負っているのなら、人に褒められても、貶されても、ただ「はい。そうです」で良いのです。
それが安全で楽な場所です。
「悲しんでいる自分が好き」などという自己陶酔、「自分はやってる。頑張ってる!」というプライド。
やめてください!
「一生懸命にやっているのに」という空回りは無駄な努力です。
完全に自分にあきらめること、これが死んでいることです。
肉の熱心さは、相手を窮屈にします。
「教会の牧師に特別に可愛がられていた」「献金や奉仕を人よりもたくさんして認められていた」など肉の高ぶりに悪霊がつけ込みます。
悪霊は、人を使ってその人を奴隷にしようとします。
人は誰でも良いのです。
按手を受けるなら、その人の影響下に入ります。
聖書を開くと寝てしまうというのは、体調の場合と、悪霊のコントロールの場合があります。
これを断ち切るのは、自分の無力を認めて、イエス様に助けを叫び求めることです。
イエス様の権威のもとでしか、悪霊は従いません。
真剣さと熱心の方向が違うのです。
肉の熱心さがプライドになるのです。
肉で頑張っても無理です。
イエス様の贖いは、完璧です。
主に「捧げる!」と決心してそう言ったのなら、自分を放っておけばよいのです。
後はイエス様が、何かをしてくださるのを待つのです。
そうすれば楽なのです。
「自分で頑張る」ではなく「自分を捨てる」のです。
「ダビデの子よ。憐んでください!」と叫んだ癩病人の態度です。
苦しい顔も、断食もいりません。
聖書を読みなさい!
マルコによる福音書には奇跡がたくさん書いてあります。
簡単なことです。
イエス様に丸投げしてお任せすればよいのです。
私たちは、まむしのすえです。
自分の肉が自分に絡みつくのです。
自分を抱きしめる感じです。
「これが好き。手放せない」という気持ちです。
時間が、どんどん過ぎるだけです。
もったいないです。
自分にあきらめなさい。
イエス様を待ち望めばよいのです。
そうすれば、新しい力を得ます。
文責 菅原はれみ
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