
エレミヤ7:1〜15, 9章全体
エレミヤ9:25~26
25「『見よ、その時代が来る-主のことば-。その時、わたしはすべて包皮に割礼を受けている者を罰する」
26「エジプト、ユダ、エドム、アンモンの子ら、モアブ、および荒野の住人で、もみあげを刈り上げているすべての者を罰する。すべての国々は無割礼で、イスラエルの全家も心に割礼を受けていないからだ』」
日本は、聖徳太子の時より「和を以て貴しとなす」国ですね。
さて、竹田恒泰氏の「竹田学校」をYouTubeで見たところ、ちょうど日本の宗教の歴史でした。
「神道は始道、儒教は中道、仏教は終道、と日本は仲良く取り入れている。そこにキリスト教が入って来たら無理。一神教は排他的で刺々しいから」というようなお話でした。
イスラエルの歴史
人類の歴史の中における、主のなさり方について考えてみましょう。
イスラエルの、苦悩に満ちた歴史を通して、主が具体的に罪に対して何をなさるのか、また救いについてどのようになさるのか、ひな形、預言として見ることができます。
主は、これからなさることを、主のしもべに示さないではされません。
本当の主のしもべなら、主がこれからされることを教えていただけます。
教えられたなら、へりくだって祈り、祭司の役割をするのです。
(ただし、教えたれた者には、祈り、とりなす責任があるので、本当に怖ろしいことです。高ぶるなどあり得ません)
イスラエルの歴史は、そのまま現代クリスチャンにもあてはまります。
1.主から選ばれたこと
2.律法を守ったのか、守らなかったのか
3.主に対してどのような態度を取ったのか
イスラエルは、つぶやくという罪を犯しました。
つぶやきを続けると、鬱になります。
鬱を続けるとイスカリオテのユダになります。
救いが分からなくなるのです。
つぶやきは毒薬であり、自分を滅ぼします。
ここで注意をしておきますが、人を評価し批判するなら、その人のことを祈っていなければなりません。
これらのことはイエス様には、非常に耳障りだからです。
批判している人のために苦しみ祈っているなら、救いを願うとりなしの祈りと見てくださいます。
しかし、祈っていないなら、罪とされます。
心の割礼
エレミヤ9:26で言われている「心の割礼」は、内面の割礼です。
心にダメージを受けた、砕かれた悔いた心は、弱っています。
自分では強くなれません。
だから主が御霊を注いで助けてくださるのです。
主は心を見ておられます。
イエス様に従う道を歩み始めたなら、まず決心しなければなりません。
洗礼は「十字架を負ってついて行きます」という決意です。
しかし、クリスチャンの洗礼と誓約の多くは、成田離婚と同じですね。
「あなたが気に入らないから、ついて行けないわ」と即、誓約を破るのです。
洗礼は、イエス様とともに死ぬことです。
教会は、イエス様の有機的体であり、イエス様の体の一部になるために洗礼を受けるのです。
古い自分を脱ぎ捨て、自分を捧げるものです。
ぶどうの実
イエス様ご自身がリーダーです。
人間はリーダーにはなれません。
牧師、宣教師はただの用務員です。
礼拝で、みなさんをお掃除して洗濯するために、私は作務衣を着ているのです。
みなさんは、イエス様との命のコンセントを抜いて弱ってる状態で礼拝に来ます。
イエス様と離れたら、何もできないのですよ。
メッセージを通して、それを再接続するのです。
私たちは、実を結ぶことを期待されています。
イスラエルという土台から良い樹液をもらい、イエス様を通してその樹液が流れて来るのです。
枝は、ただつながっているだけです。
「えっ、こんな所に実ができるの !?」と、私たちにはどこに実ができるのか分からないし、選べないのです。
イエス様の弟子となったら、あなたの願い通り、思い通りにはなりません。
あなたの人生が豊かなものとなるように、イエス様にはプラン(計画)があるのです。
自分が満足するための、信仰生活ではありません。
(まして自分の宗教心を満足させるためではないのです)
ぶどうの実は、他の人が食べるのですよ。
しかしキリスト教は、ぶどうの実を自分で食べるのです。
「私の幸せが大事。楽しんで何が悪いの?あの人の実はひどいわ」と。
自分を誇り、エゴイスティックです。
人類の歴史
日本人の中で、「歴史は繰り返す」と言う人がいますね。
これを信条にしてしまうと、終わりません。
仏教の輪廻みたいになります。
しかし、聖書の歴史は違います。
中心は十字架であり、御子が歴史の主宰者です。
御子イエス様を無視したら、歴史が分からなくなります。
歴史は、御子に始まり、御子に終わります。
イスラエルの歴史も、2020年の現代の歴史も同じです。
すべてが御子に戻るのです。
天の父が、み使いたちに人類の歴史を見せるため、み使いたちは人類の歴史の展開を見ています。
私たちは、俳優や女優のように、み使いたちに見られているのです。
人類史の前を考えてみましょう。
恐竜は何故滅びたのでしょうか?
隕石の衝突、氷河期の到来などですか。
いいえ、恐竜のように獰猛な生物が、主の目に良しとされなかったから、滅びたのです。
あるものが駄目だから滅びて、また新しい時代が始まる。
秩序があって、混乱がある。
美しいものがあって、醜いものが出てくる。
地層はこれを繰り返し、しかも交互に出て来るのです。
面白いですね。
アダムとエバが造られ、堕落し、ノアの洪水があって、新しい地が始まり、旧約の混乱の後、これでは駄目なので、イエス様がお生まれになるのです。
では、なぜ御子ご自身が来られなければならなかったのか。
人は、死ぬためではなく、永遠に生きるために造られたからです!
天地創造
エペソ1:20〜22
20「この大能の力を上帝はメシアのうちに働かせて、メシアを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座につかせて」
21「すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました」
22「また、上帝はすべてのものをメシアの足の下に従わせ、メシアを、すべてのものの上に立つかしらとして皇民の群れに与えられました」
イエス様は、すべての支配、権威、権力、主権の上におられます。
同じように、み使いたちの中にも階層(ヒエラルキー)があります。
ルシファー(悪魔)は、野心を持ちました。
自分の美しさに自惚れ、自分を造った方のイメージを自分に投影し、天の父よりもっと上に行こうと反逆したのです。
その時、天にいた3分の1のみ使いたちがルシファーに従いました。
(悪魔は、かなり主に近い高い権威を与えられていたのでしょう)
そして、悪魔とみ使いたちは、落とされたのです。
(上昇思考は悪魔のものです。必ず裁かれます)
悪魔に従ったみ使いたちは、聖さを失いました。
命の中にある、正しさやアガペーです。
汚いものを持っていると、主はあなたと向き合えなくなります。
焼き尽くす火の中で主と交わりができる者は、性格、存在、命の中に聖さ、正しさ、愛がある者です。
アダムとエバは、それを持っていました。
でも、反逆と同時に失ったのです。
主はアダムとエバに呼びかけられました。
「アイエーカ!」あなたはどこにいるのか!?と。
彼らは逆らい、聖さを失ったのです。
自分の汚さ、裸であるという羞恥心から、主を避け、隠れました。
アダムとエバは、失って初めて気がついたのです。
自分たちが、どれほどかけがいのないものを失ったのか。
悪魔に従ったみ使いたちも、アダムとエバと同じような体験をしたのだと、私は思っています。
主の側についたみ使い3分の2と、悪魔の側についたみ使い3分の1との戦いです。
ここから、天地創造が始まるのです。
主は、み使いたちへの憐みのゆえに、反逆がいかに酷いものであるかを教えるため、またアガペーが何であるかを教えるために、天地創造を始められたのです。
そしてアダムとエバが造られました。
主はアダムに「エデンの園を守れ!」と言われました。keeperです。
でも、敵から守ることはできませんでした。
人類の回復
蛇は、エバに近寄りました。
女性は、見たものにすごく弱いからです。
「上帝のように賢くなるよ!死なないよ!」と蛇はエバを誘惑しました。
アダムとエバが失ったのは、聖さ、良心、アガペーです。
アガペーはエロスに変わりました。
失われた上帝のような存在を求めても、エロス(蛇)がまとわりつくようになったのです。
「神々しい」と言う時も、蛇が絡みつきます。
すべてのものに蛇が絡みつくようになりました。
私たちの中には、聖さ、正しさはありません。
失われてしまったのです。
それは、イエス様からいただかないと回復しません。
主と交わることはできません。
イエス様から新しい命をもらわないと、天の父との交わりはできません。
地上で、罪の中に蠢いている人類を、どのように救いアガペーを示すのか。
イエス様は言われたのです。
「わたしが行きます」と。
何故イエス様は、体を持って人間となられたのですか。
人類の歴史を通して、「アガペーの愛」をみ使いたちに見せるためです。
主の側についたみ使いたちが、人類の回復を見て「裏切らなくてよかった!」と最後に主を褒め称えるためです。
私たち人間は、舞台に立つ俳優です。
喜んで主に従うなら良い役になり、逆らうなら悪役になります。
歴史は成就されます。
しかし、登場人物であるあなたは、良い役か悪い役かを自分で選べるのです。
終わりの日に、イエス様が裁かれます。
天の父が、み使いたちを観客として、人類の歴史を見せているのです。
命に至る悔い改め
エレミヤ31:31〜34
33「これからの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである-主のことば-。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの上帝となり、彼らはわたしの民となる」
34「彼らはもはや、それぞれ隣人に、あるいはそれぞれ兄弟に、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るようになるからだ-主のことば-。わたしが彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ」
ここで、「彼らの心に書き記す」というのは「心の割礼」と同じです。
それは痛みを伴い、彫刻刀で刻むということでもあります。
つまり、失敗や痛い思いを通して、「ああ、みことば(イエス様)に従えばよかった!」と恵みによって自分の罪を悲しみ、悔い改めることです。
ヨハネ17:1〜5
2「あなたは子に、すべての人を支配する権威を下さいました。それは、あなたが下さったすべての人に、子が永遠のいのちを与えるためです」
3「永遠いのちとは、唯一のまことの上帝であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・メシアを知ることです」
命に至る悔い改めは、天の父とイエス様を知る機会(チャンス)です。
失敗を許されて、悔い改めて立ち返って来ることを許されたのです。
悔い改めたら、へりくだることができます。
熱心に悔い改めてください。
それはみことばが心に刻まれることです。
主の命令を守ること、支配者はイエス様だけなのですよ!
イエス様との間を邪魔する人間に対して、No!と言うべきです。
邪魔するものは、たいがいお金と家族です。
ひざまづいて祈り、十字架の血を注がれて、その時にあなたは変えられて行くのです。
これが、主を知るというプロセスです。
だから、主は愛する者をムチ打たれるのです。
あなたが砕かれ、主を知るチャンスなのです。
初めの愛にとどまれ
黙示録2:4
「けれども、あなたは責めるべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった」
エペソの皇民の群れは、初めの愛から離れてしまったのです。
クリスチャンは、決してここから離れてはなりません。
イエス様(アガペーの愛)から離れるなら、枯れてしまうだけです!
イエス様の愛にとどまってください。
十字架を見上げなさい。
イエス様があなたを愛しておられる証拠が、ここにあります。
十字架の叫びを聞いてください。
そのイエス様の呻きと声をまともに聞くなら、「申し訳ない。このお方を裏切られない!」とあなたはイエス様のところに戻って来るしかないのです。
今の時代は、イエス様を知っている時代です。
私たちは、面白い時代に生かされているのですよ。
恐れなく主の名を呼んで、助けていただくのです!
私たちは、多くのみ使いたちに、見られ、評価され、見守られています。
あなたが天に帰った時、あなたによく似たみ使いが「ねえ、何故あの時そうしたの?」と聞きに来るかも知れません。
イエス様をどれだけ知っているかが、人間としての豊かさ、大きさです。
あなたが成長して大人になるなら、御心に従って発言し、人の心の中も見抜くようになるでしょう。
あなたが想像する以上に用いていただけるのです。
霊的な世界は、ものすごく大きくて広いのですから。
あなたのために命を捨てられたお方に、何でも求めなさい!
そして、紳士、淑女になってください。
主が教えてくださることを大切に、現実を生きるのです。
夢見る者はいりません。
以下の内容は、交わりの時に語られたものです
悪霊に憑かれた人に、簡単に手を置いて祈ってはいけないのです。
手を置いた方も、悪霊の影響を受けるからです。
(手を置いた牧師の最後は、自殺でした)
目に見えない世界は、力があり、現実です。
牧師や他の人が、手を置いて祈るなら、手を置かれた人はその人の権威の下に入ります。
これを断ち切るには、本人の解放されたいという強い願望が必要です。
私たちは、イエス様から直接祝福を受けるべきです。
(人を通しての祝福ではありません)
イエス様が最高権威者であり、このお方の名に権威があるのです。
このことが、あなたの中ではっきりしていないといけません。
「当たるも八卦、当たらないも八卦」といういい加減な態度で祈るから、「祈っても駄目でした。力がありません」となるのです。
私たちは、イエス様を褒め称えるために、この御名の権威を与えられたのですよ。
「困った時に助けられてよかったね。ラッキー」ではないのです!
悪霊は、こちらの信仰を見ているし、その中身を知っています。
こちらが権威を持っているかどうか、イエス様への信仰のレベルと権威を見ています。
自分の信仰によって追い出そうとしても無駄です。
信仰の権威の問題だからです。
悪霊追い出しをやっている牧師や宣教師の家族に、暗い影があるのを見ます。
手を置いて祈っている方にも、「俺の子羊」という自覚があるからです。
これは、闇の世界との綱引きです。
あなたがイエス様ではなく牧師に従っているなら、まがまがしい見えない霊の世界は、「うちの子よ」と主張します。
あなたは、誰に従おうとしているのですか。
私たちは、イエス様の栄光のために生かされているのですよ。
あなたが「私はイエス様のものです!」とはっきりしていれば、闇は去ります。
「家族が幸せならそれで良い」のか「主の弟子として訓練される」のか、選びなさい。
自分を闇の世界と綱引きされる場所に、自分で置いているのです。
あなたが信仰の大人になれば、敵は手を置きたくありません。
上帝の国は力です!
これは闇の世界との戦いです。
敵は、あなたの弱さをよく知っているので、毒を置きます。
気がついたら「イエス様の血を注いでください。私はあなたのものです」と叫び求めればよいのです。
自殺した牧師は、自分で救われないことを証明したのです。
霊の世界の高ぶりはやめてください!
知らないことは、正直に「知らない」と言ってください。
知ったかぶりを、敵は狙っています。
あなたの肉にテグス(見えない糸)をつけておいて、時が来たら、引っ張るのです。
そうすると、その人はその時から信仰が成長しなくなります。
だから、正直に祈ってください。
「私にはまだ権威がありません。イエス様、この問題に対処してください。助けてください!」と。
人からの受け売りやノウハウでは駄目なのです。
本人がへりくだり、真剣に「変えて欲しい、聖めて欲しい」と求めているかどうかです。
あちらの世界は強烈です。
いかにイエス様のところに行かせないようにするか。
イエス様の力だけが、あなたを解放します。
ここで注意しておきますが、手を置く祈りは、夫婦の場合は構いません。
子どもに手を置く場合も許されています。
父親が家族のかしらであり、権威者だからです。
過去、牧師に可愛がられた親密感から、子どもは見えない世界にもろに影響を受けているでしょう。
父親が子を守らねばなりません。
「イエス様の血潮と権威によって守ってください!」と。
教会は優しくてアットホームですか。
何のためにあるのですか?
救いのためです!
天に帰るための道場のようなものであり、悪しき者から守るためにあるのです。
日本の仏教の檀家的なものではありません。
かわいがるとか、お世話になったとか、そういう人情的なものではありません。
羊が牧師を選ぶ自由もあるのです。
自分の信仰を守るためです。
皇民の群れ(教会)は、イエス様の栄光のために存在しています。
訓練の場であり、弟子を育てるためです。
牧師たちが勝手に「うちの信徒」と言ってよいものではありません!
牧師、宣教師は、ただの用務員です。
敵は、盗み、殺し、滅ぼします。
イエス様の弟子を、悪魔のものとして滅ぼすのです。
しかも、できるだけ多く!
悪魔は、主に従ったみ使いたちに見せたいのです。
「キリスト教のこの状態を見てみろよ。日本では無理!イエス様は失敗したのだよ」と言いたいのです。
弟子は、イエス様の権威しか認めません。
信徒は、教会の奴隷ではないのです。
何のために人を集め、どこに連れて行くのですか!?
牧師と同じところに行くのですか。
牧師のように、首をつるのを、敵は願っています。
牧師に対する思慕は、その人のようになりたいと願うことです。
この思いを捨てなければ弟子にはなれません。
まず、「イエス様に従う。イエス様のようになる!」という願いと目標をはっきりさせることです。
悪霊に向かって「イエス様との間を邪魔するな。去れ!!」という本人の強い意志がないと無理です。
本人が、悩み苦しんで、イエス様に求めるのです。
信仰的なプライドは、捨ててください。
文責 菅原はれみ
コメントを残す