
エペソ3章,イザヤ52:13~53:12
十字架を見上げる
みなさんの顔は、喜びにあふれていますか?
それとも世の欲にくらんだ顔ですか?
みなさんには、イエス様の十字架にじっくり想いを馳せて欲しいのです。
一週間に一度でも良いですから、ぜひ定期的に、イザヤ書52、53章の十字架の箇所を読むようにしてください。
イエス様は、地に足をついた、地味な道筋を一歩一歩、歩まれました。
私たちも、イエス様の御足のもとに従って行く者として、それを目指し、実践の中で生きて行くべきです。
イエス様は、人間となられました。
痛み、飢え渇きを感じ、その五感の全てが人間と同じになられました。
(ただし、ご聖霊による妊娠は別です)
イエス様は私たちに模範を残し、イエス様が生きられた生活と、近い生き方ができる力を与えてくださいます。
エペソ2:8〜10
8「この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、上帝の賜物です」
9「行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです」
10「実に、私たちは上帝の作品であって、良い行いをするためにメシア・イエスにあって造られたのです。上帝は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました」
良い行いに歩むように
私たちは、何のために人間として生きるのか?
上帝は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。(エペソ2:10)
準備された良い行いをするため、これが生きる目的です。
私たちは新しく生まれ、造り変えられて、新しい人間として生きるその生き方さえも、前もって備えられているのです。
嘘をついたり、人を傷つけたりするためではありません。
救いは、主がご自身の栄光のために私たちに与えられた「恵みと賜物」です。(エペソ2:8)
わざわざ、まともではない人間を、ご自身の栄光のために選ばれたのです。
自分をよく見たらその邪悪さが分かるでしょう。
心の中で、何度も人を殺しているではありませんか。
みことばを宣言する
申命記27:11〜14
11「その日モーセは民に命じた」
12「あなたがたがヨルダン川を渡ったとき、次の者たちは、民を祝福するためにゲリジム山に立たなければならない。シメオン、レビ、ユダ、イッサカル、ヨセフ、ベニヤミン」
13「また次の者たちは、のろいのためにエバル山に立たなければならない。ルベン、ガド、アシェル、ゼブルン、ダン、ナフタリ」
14「レビ人は、イスラエルのすべての人に大声で宣言しなければならない」
ゲリジム山とエバル山に、主は祝福とのろいを置かれました。
ここで聖書の読み方についてですが、自分に向かって、できれば大声で読んで欲しいのです。
「聖書を読んで学ぶ」のではなく、「みことばを宣言するのです」
聖書は本来、大声で読むべきです。
自分に向かって大声で読み、自分にみことばを宣言するのです。
主はご自身の想いを、私たちに告げておられるからです。
私たちは、みことばに聞き従うのか、拒むのか、どちらかです。
YesとNoしかありません。
「はい」と言えないなら、答えは「No」です。
みことばを聞いていても、何も実行しないクリスチャンは、裏切り者です。
このように、気が向かなかったらやらないという態度の人は、イエス様のそばにはいません。
イエス様の弟子になった者も、多くが去って行きましたね。
イエス様は、新進気鋭の若いラビであり、美男子で魅力的でした。
そして、支配階級のパリサイ人やサドカイ人を、メッセージでやっつけられたのです。
群衆は大喜びです。すっきりしたでしょう。
しかしユダヤ人の常識では、聞いていられないようなものでした。
イエス様の教えは、「人を元気にする」などというようなものより、遥かに高いものだったからです。
実行しない者は呪われる
申命記27:14〜26
26「『このみおしえのことばを守ろうとせず、これを実行しない者はのろわれる』民はみな、アーメンと言いなさい」
イエス様の命令を守ろうとせず、実行しない者はのろわれるのです。
クリスチャンは、この事実を分かっていません。
「のろいはイエス様が取り除いてくださったから、もう大丈夫!」とごまかされて、キリスト教の中の悪霊にどんどん感化されて行くのです。
新約は、旧約より厳しい裁きを受けるのですよ。
言い訳は通用しません。
裁きの時、命令に従わなかったことは、きっちりと裁かれます。
あなたの口にしたことばによって、裁かれるのです。
「信じてるだけで大丈夫。命令なんか守らなくて良い」と言ったことばによってです。
生半可なクリスチャンは、命に至る悔い改めに行きません。
貪欲は偶像礼拝
貪欲さは偶像礼拝です。
十字架につけねばなりません。
ため込んだものは、あなたの神となり、それが偶像礼拝となります。
ゲリジム山もエバル山も、事実です。
祝福か、のろいのどちらかです。
適当に軽く生きた者は、そのまま悪魔と同じ裁きを受けることになります。
YouTubeで軽く語っている牧師、教師を見ると、心配になり怖くなります。
賛美も祈りも適当であるなら、腐った捧げものとなってしまいます。
イエス様は「わたしに見習え」と言われました。
イエス様は適当なことは決してされませんでした。
あなたが弟子なら、主は世の終わりまでともにいてくださいます。
そのお方に聞いて、それを語りなさい。そして行動しなさい、と言われているのです。
インマヌエルの主が、ともに歩もうとしてくださり、み使いをも遣わしてくださいます。
あなたが、遣わされたみ使いを無視しているなら、それは全てイエス様の前に報告されています。
あなたが横になるのも起きるのも、全部見ておられるのですよ。
詩篇139:1〜12
1「主よ あなたは私を探り 知っておられます」
2「あなたは 私の座るのも立つのも知っておられ 遠くから私の思いを読み取られます」
3「あなたは私が歩くのも伏すのも見守り 私の道のすべてを知り抜いておられます」
このみことばは現実です。
体験すれば分かります。
全てを見抜いておられるお方に弁明はできません。
主は、あなたがどこにいても何をしていても、関心を持っておられます。
このことを理解するなら、主のなさること全てに、アーメンと言うしかできなくなります。
アガペーの意味
初代教会においてアガペーは、信徒たちが礼拝後に一緒に食事をするという意味をもっていました。
当時のクリスチャンたちは、そのほとんどが奴隷でした。
安息日に持ち寄りで、このときだけは奴隷である彼らが、お腹いっぱいに食べられる日でした。
それは一週間のうち、一回だけです。
彼らにとって、お腹いっぱい食べられるのが驚きでした。
そのようなことは、物心ついた日から、一度もなかったからです。
ホームレスに対して、教会は炊き出しなどをやって来ましたね。
クリスチャンは、実践的であるべきです。
与える方も、感謝して捧げ、受ける方も、感謝していただくのです。
エペソ3:18,19
18「すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり」
19「人知をはるかに超えたメシアの愛を知ることができますように。そのようにして、上帝の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように」
アガペーの愛を、私たちは全く知りません。
そのデータを持っていたのは、アダムとエバだけでした。
しかし、彼らも罪を犯し、そのデータは消されてしまい、エロスに改ざんされたのです。
人のために死ぬ
ヨハネ15:12〜14
12「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの命令です」
13「人が自分の友のために命を捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません」
14「わたしが命じることを行うなら、あなたがたはわたしの友です」
これが、クリスチャンに教えられているアガペーの愛です。
このアガペーの残影として、武士や軍人が国のため、殿のために命を捨て、腹を切るというものが残っています。
「人のために命を捨てる」という愛です。
私たちは、主の足跡に従うのです。
自分のためではなく、人のために死ぬのです。
アガペーは、軽い意味ではありません。
私たちがもともと持っていない、「友のために命を捨てる愛」です。
主の愛にとどまる
ロマ5:1〜11
8「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、メシアが私たちのために死なれたことによって、上帝は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます」
9「ですから、今、メシアの血によって義と認められた私たちが、この方によって上帝の怒りから救われるのは、なおいっそう確かなことです」
10「敵であった私たちが、御子の死によって上帝と和解させていただいたのなら、和解させていただいた私たちが、御子のいのちによって救われるのは、なおいっそう確かなことです」
愛と怒りが同居できないように、祝福とのろいも同居できません。
ヨハネ15:9〜11
9「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい」
ここでイエス様が話しておられる目的は、私たちが、イエス様の喜びが満ち溢れた生活をするためです。
イエス様の愛にとどまり、その愛の中に、自分をキープ(Keep)するのです。
いつあなたは、アガペーの愛を体験しましたか?
十字架でイエス様と出会い、そこでアガペーの愛を実感するのです。
ガラテヤ2:19〜20
19「しかし私は、上帝に生きるために、律法によって律法に死にました。私はメシアとともに十字架につけられました」
20「もはや私が生きているのではなく、メシアが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、上帝の御子に対する信仰によるのです」
「私は、イエス様とともに十字架につけられています」
これが、主の愛の中にとどまるということです。
ヨハネ15:10
「わたしがわたしの父の命令を守って、父の愛にとどまっているのと同じように、あなたがたもわたしの命令を守るなら、わたしの愛にとどまっているのです」
私たちは、地上で肉体ある限り、イエス様の命令を守り、イエス様のいのち、愛をいただいて生きるのです。
つまり、日々あなたが十字架を負って生きているなら(愛してくださったお方とともに十字架についている時)、その愛(アガペー)で生きているのです。
十字架は、イエス様があなたを愛してくださったことの実証です。
十字架を放り出してしまうなら、そのクリスチャンは裏切り者です。
主にある喜び
天の父は、あなたがイエス様の愛の中にとどまり、イエス様が味われていた喜びが、あなたの中で満ちあふれるように、と願われているのです。
それは、この世の喜びではありません。
旅行に行ったとか温泉に入ったとか、そういうものではありません。
またフィレオーのような友愛、何かをもらったとか、物欲の愛でもありません。
太秦の群れがこの喜びを知ったのなら、世は驚くでしょう。
良い行いの動機づけは、十字架の愛です。
主の命令は愛に基づいているのです。
あなたの心の根底に、このアガペーの愛がなければ、どんな行いをしても、どんな大きな教会を築いても、ただの貪欲さに基づいた偶像礼拝です。
自分は救われてよかった、あの人はかわいそうね、と高ぶるなど、あり得ません。
愛がなければ、全てに価値がない!と、主は見ておられます。
どのような伝道も、ほどこしも、愛餐も、すべて愛があるかを見ておられるのです。
だから私たちは、イエス様について行くだけなのです。
以下の内容は交わりの時に話されたものです。
宗教的信仰と、生きておられるイエス様と交わる生き方(信仰)は違います。
いのちの源であるイエス様とつながらないと、枯れてしまいます。
実を結べません。
イエス様にくっついて、離れないことをいかに保つか。
礼拝を通して、イエス様とひとつになる、メッセージはこの戦いです。
この世は、イエス様とあなたを離したいのです。
礼拝は、イエス様とあなたの間を邪魔するものを取り除くのです。
しかし、これには、本人の同意を必要とします。
どんなに素晴らしいメッセージを牧師がしたとしても、聞く側がその牧師を嫌いなら、受け入れられません。
メッセンジャーが、いかに自分を殺して語れるか。
イエス様が、一人一人の必要に答えて直接話しかけてくださるか、このことが重要です。
礼拝を通して、それぞれがイエス様からチェックされているのです。
「わたしにはイエス様が必要です!」というイエス様を求める態度が必要なのです!
だれかが何とかしてくれるだろう、だれかが声をかけてくれるだろう、という受け身の態度ではいけません。
カナンの女は、必死にイエス様に求めました。
大切なのは、このような態度です。
按手
もし、だれかに手をおいて祈ってもらうなら、その人(人間)に頼っているということです。(例えば、牧師に按手される場合)
これは罪です。
自分で選んだことなので、闇の方から手が置かれます。
悪霊からの闇の力が権威を持つので、その人はぼや〜とした闇に覆われてしまいます。
聖書の世界は、現実に力を持っているので、見えない権威がその人とイエス様の間を邪魔するのです。
霊的な現実として、牧師から按手を受けたその闇の力が、家族の中に入り込み、怒りや敵対心となるのです。
ある牧師を、素晴らしい先生だと思って服従しているのなら、この世の霊は人を使い、悪しき者の権威のもとに置きます。
あなたが、イエス様の権威のもとに行くのなら、人間の権威はすべて捨てなければなりません!
悔い改めて、血潮を注いでいただくのです。
その家の父親が、妻や子どもたちに手を置いて祈るのはかまいません。
夫(父)は、妻(子ども)に対して権威を持っているからです。
夫が妻に「〇〇牧師の霊よ。去れ、拒絶する」と祈ったなら、その後家の中に平安を祈るのです。
解放されます。これは霊的な戦いです。
ただし、本人が同意して叫ばない限り、無理です。
言葉の世界
上島嘉郎氏が、著書「反日メディアの正体」で、なぜ現代日本人がおかしくなっているのか、書いています。
GHQは、戦前と戦後の世代を断ち切るために、言葉を変えてしまったのです。
親世代が普通に使っていた言葉と、子どもの世代の言葉使いが変えられてしまったために、親世代の漢字言葉が読めないのです。
学校でも戦前の言葉を教えないので、戦前の文章を読むことができません。
言葉の世界をそこで切ってしまったのです。
聖書でもそうですね。
口語訳はぼんやりしています。
文語訳の方がストレートです。
いかに戦後、日本人にイエス様を伝えないように細工されたのか。
言葉の土台がぐずぐずなのです。
それは霊的な世界も同じです。
彼も言っていますが、「反日」という人は国がありません。
クリスチャンも同じです。
国がないのです。
ぼや〜っとしていて、毎日なんとなく楽しく過ごせたら良いのです。
だから、光の子らしく、闇を明るみに出して行かなけれならないのです。
今、日本が置かれた状況、現実と向き合うのです。
それはイエス様のいのちがないと、耐えられません。
イエス様が、力と愛を注いでくださいます。
このアガペーの愛で励まされ、内なる人が強くされるのです。
文責 菅原 はれみ
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