耶蘇上帝會 太秦之宮

京都・太秦を拠点とする日本のキリスト教会です

礼拝message 7月19日(日)

礼拝message 7月19日(日)

申命記31、マタイ8:5〜13

お言葉をください

マタイ8:5〜13
5「イエスがカペナウムに入られると、一人の百人隊長がみもとに来て懇願し」
6「主よ、私のしもべが中風のために家で寝込んでいます。ひどく苦しんでいます。」と言った。
7イエスは彼に「行って彼を治そう」と言われた。
8しかし、百人隊長は答えた。「主よ、あなた様を私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、お言葉をください。そうすれば私のしもべは癒されます。」
9「と申しますのは、私も権威の下にある者だからです。私自身の下にも兵士たちがいて、その一人に「行け」と言えば行きますし、「来い」と言えば来ます。また、しもべに「これをしろ」と言えば、そのようにします。」
10イエスはこれを聞いて驚き、ついて来た人たちに言われた。『まことにあなた方に言います。わたしはイスラエルのうちの誰にも、これほどの信仰を見た事がありません。
13それからイエスは百人隊長に言われた。『行きなさい。あなたの信じた通りになるように』すると、ちょうどその時、そのしもべは癒された。

主を畏(おそ)れる

あまり人を誉められないイエス様が、ここで百人隊長を誉めておられるのは、驚きです。
そしてもう一人、コルネリウスを誉めておられます。
二人とも、ユダヤ人の貧しい人を助けたり、会堂を建てたりした人です。
そして共通しているのが、「主を畏れること」を学んでいたことです。
主を畏れることは、知恵の始めです。そして知恵は、イエス様ご自身のことです。

成長しなさい

キリスト教の、「神は愛」「神はゆるし」「(神を)恐れてはいけない」などのむやみなすり込みは、間違いです。
確かに、私たちが子どもである時、主は「憐れみ深く、優しく、救ってくださるお方」です。そして、成長を待ってくださっています。
しかし、ずっとそのまま、子どものままで良い、とは言われていません。

客観的に自分を見る

それぞれの「信仰のはかり」に従って、自分を客観的に見る事ができなくてはなりません。自分をチェックするのです。
自分に対して甘いと、自惚れてしまい成長できません。知識は人を高ぶらせるからです。

雑用係の若者のために

この百人隊長は、どのような人物だったのでしょうか。このしもべ(若者)は、「雑用係」という訳もあります。彼は、自分の家にいる雑用係の若者のために、イエス様に願ったのです(彼は自分のことは何も求めていません)。
体が麻痺して痛みに苦しんでいる雑用係のために、「お言葉をください!」と求めたのです。

み言葉を送られた

詩篇107:20
「主はみことばを送って彼らを癒し、滅びの穴から彼らを助け出された」

主は、み言葉を送って癒されるのです。
「行きなさい。あなたの信じた通りになるように」すると、ちょうどその時、しもべは癒されました。

み言葉によって天と地を造られた

創世記1:1〜5
1「はじめに上帝が天と地を創造された」
2「地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり、上帝の霊がその水の面を動いていた」(茫漠:とりとめがないほど広いさま。また、ぼんやりとしてつかみどころのないさま)
3上帝は仰せられた。「光、あれ」すると光があった。
4上帝は光をよしと見られた。上帝は、光と闇を分けられた。
5上帝は、光を昼と名付け、闇を夜と名付けられた。夕があり、朝があった。第一日。

主は、みことばによって、天と地を造られました。上帝が仰せられると、光があったのです。

み言葉の偉大な力

ヘブル11:1〜3
1「さて、信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」
2「昔の人たちは、この信仰によって賞賛されました。」
3「信仰によって、私たちは、この世界が上帝の言葉で造られたことを悟り、その結果、見えるものが、目に見えるものからできたのではないことを悟ります。」

「上帝の言葉で、世界が造られた」というのが、ユダヤ人の信仰です。
主の言葉が、偉大な力を持っているのです。
「その人が語れば、その通りになる」というのが、その人の『権威』です。
イエス様の命を内に持っているクリスチャンなら、その人の言葉には、権威があるはずです。つまり「言葉の力」です。

権威に服従する

百人隊長には、百人の兵士を動かす権威がありました。
同じように、イエス様も天の父の「権威」に従われました。父の願い(み心、命令)通りに生きられ、父の「語れ」と言われることだけを語られました。
そこには、傲慢さが微塵もありません。

謙遜さ

同じように、百人隊長の中にも、イエス様に対する謙遜さがあります。
「主よ。あなた様を私の屋根の下にお入れする資格は、わたしにはありません」と、謙遜さが自然に出てきているのです。
また、雑用係の一人にすぎない若者の苦しみのために、心を痛めて救いを求める態度は、イエス様と似ています。
パリサイ人、律法学者は、イエス様から出てくる威厳に完全に負けていました(威厳の中には謙遜さがあるからです)。
だから、「五十歳にもなっていないのに!!」と精一杯イエス様を馬鹿にして言ったのです。

見える者が盲目に

ヨハネ9:35〜41
39「そこで、イエスは言われた。『わたしは裁きのためにこの世に来ました。目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。』」
41「イエスは彼らに言われた。『もしあなた方が盲目であったなら、あなた方に罪はなかったでしょう。しかし、今、『私たちは見える』と言っているのですから、あなた方の罪は残ります。」

無から有を

ヨハネ9章で、イエス様は、生まれつき盲人の男のために、泥を作って彼の目に塗られました。私は、この人は生まれつき眼球のなかった人だろうと思っています。イエス様は泥で眼球を作って、彼の目の中に入れられたのです。人は土(ちり)から造られているのを、ここでまた思い出させられます。
イエス様(創造主)は、無から有を造り出すお方であります。これは、パリサイ人への「わたしは、あってある者である」というメッセージでもありました。

見えると言う傲慢さ

パリサイ人、律法学者は、「私は見える!」という傲慢さと無知がありました。
「自分は分かっている。知っている。聖霊に満たされている」と言うなら、あなたは瞬時にイエス様から離されます。
イエス様の弟子なら、年数が経てば経つほど「自分は何も知りません」と砕かれた悔いた心になり、へりくだって行くからです。

共にいてくださる

マタイ28:20
「わたしがあなた方に命じておいた、全てのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなた方と共にいます。」

「イエス様が共にいてくださる」これが弟子の生活です。そして、「孤児にはしない」と言ってくださいます。
子どもの時に愛されずに育った人は、大人になってからも、ひとりぼっちの恐怖感と孤独感が深く心の中に刻まれてしまいます。
しかし、イエス様が共にいてくださることを知ると、安心してリラックスできるようになります。これが、上帝の子どもとしての新しい命です。

距離感

イエス様との距離感にどれだけ敏感になれるかが、成長に一番重要です。
腐った(生まれつきの肉の)自分を出すと、イエス様は離れて行かれます。
それに気付いて、悔い改めてイエス様の元に帰れるかどうかです。

浮き足立つ

イエス様がどのようなお方であるのか。その認識が、子どものままではいけません。子どもは、わがままで言うことを聞かないからです。
人は、奇跡や癒しを見せられると、高揚し浮き足立ちます。それを「感情」で肯定しているからです。
自分を捨てるということは、「感情」や「感覚」に支配されるのを捨てるということです。

感情、感覚は信仰ではない

奇跡や癒しの集会などに参加した後、いつも高揚感を求めるようになるのと同じです。「感情」と「信仰」は違います。「感情」や「感覚」、「観念」といったものに「信仰」が支配されてしまうと、それは信仰ではありません。
観念:物事に対してもつ考え「固定観念」など
感情:快、不快を主とする意識のもっとも主観的な側面

感情移入

そして「感情移入」とは、他の人と自分を一緒にしてしまうことです。
神学校でよくあることですが、ある人がウェスレーが好きで、その人の本ばかり読んでいるとします。するとその人が語る時は、まるで自分がウェスレーのようです!理想とする人と自分を一つにしてしまうのです。こういうのは、「陶酔信仰」であって、信仰ではありません。

気分は信仰ではない

悔い改めて、イエス様の命を頂く事が必要です。
「感情」を中心にしてそれを「信仰」と結び付けると、「気分」が信仰になってしまいます。それは信仰ではありませんから、その人は、悔い改める事ができなくなります。

自己否定は感情が傷つく

自分を捨てるとは、自己否定をすることです。自己否定は、自分の感情が傷つきます(だから肉は嫌なのです)。
自分を捨て、十字架を背負って行くということは、「私は、死んだ者として扱われて構いません」と、イエス様に自分を捧げていることです。
「『自分の気持ちや計画』はどうでもよいです。イエス様のみ心がなりますように」と願うことです。
それで、やっと弟子の道に入れるのです。イエス様があなたを使えるようになるのです。自分の思いのまま、「好き、嫌い」というものではありません。
自分(感情)を捨てて、十字架を背負っているならば「感情移入」などしません。

感情論は信仰を潰す


例えば、水戸黄門が何度も見られているのは何故ですか。いつも同じストーリーで最後は「この紋所が目に入らぬか!」で終わりです。悪者は「はは〜」と降参します。勧善懲悪です。
何度も見てしまうのは、スッキリしたいからです。ストレス解消です。
その人の人生がスッキリしていないから、感情移入するのです。信仰を感情論理と勘違いすると、身動きの取れない自称クリスチャンが出来上がります。

自己陶酔は聖霊ではない

肉の感情を捨てていないと、悪霊の足場を作ってしまいます。
賛美の時、手をあげて陶酔感に浸っている人がいます。自己陶酔感は、エロスであり、悪霊が与えるものです。没我状態(物事に熱中して、我を忘れること)で気持ちがよくなるのは、聖霊に満たされるのとは違います。
聖霊に満たされて、陶酔するなどありえません!
肉の(人間の)感情を捨てて行くことによって、自然にイエス様の命令を守ることができるようになります。

万物は御子のために造られた

コロサイ1:16
なぜなら、天と地にあるすべてのものは、見えるものも見えないものも、王座であれ主権であれ、支配者であれ権威であれ、御子にあって造られたからです。万物は御子によって造られ、御子のために造られました。

私たちは、「イエス様の栄光のために」造られたのです。あなたの存在をもって「イエス様の素晴らしさを現わせ」と言われているのです。
あなたは「地の塩」で味がありますか?世の光となっていますか?
イエス様に似た人に、存在価値があるのです。

主の栄光のために生かされている

マタイ5:13〜14
13あなた方は、地の塩です。もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか。もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。
14あなた方は世の光です。山の上にある町は隠れることができません。

あなたの存在は、イエス様の栄光のためであり、そのために全てをなすべきです。イエス様に喜ばれる事が、あなたの存在の全てになっていますか?
自分が「気分が良い」とか「人が認めてくれる」などは、関係ありません。
私たちは、イエス様の栄光のために生かされているのです。
だからパウロは「生きることはメシア。死ぬこともまた益」と言えたのです。

父は御子の栄光を求めておられる

ヨハネ8:50
わたしは自分の栄光を求めません。それを求め、裁きをなさる方がおられます。

イエス様の栄光を求めておられるのは、天の父です。父は御子の栄光を求めておられるのです。
あなたが、自分の都合が悪いと思っても、関係ありません。
「主のご栄光のために。お役に立てるなら」と、全体の(み国の)勝利を願って、兵隊は死ねるのです。
あなたは、イエス様にどのような態度をとっていますか。

主は絶対的主権者

マタイ28:18〜20
18「イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。『わたしは天においても地においても、すべての権威が与えられています」
19「ですから、あなた方は行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け」
20「わたしがあなた方に命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなた方と共にいます。』

よみがえられたイエス様は、絶対的主権者です!天と地の全ての権威が与えられているからです。
そしてそのような偉大なお方が、「わたしは、あなたと共にいる」と言ってくださるのです。それが、クリスチャンライフです。
百人隊長の態度を、見習ってください。
共に歩んでくださるイエス様は、生活の中で「一緒にいるよ。祈りを聞いているよ」とサイン(合図)をくださいます。イエス様は、ユーモアに富んでおられます。本当に面白いことをなさるお方です。

清くなることを追い求めよ

嫌な事があった時、「全てのことを感謝します。わたしのためですから!」と言えないなら、あなたは未熟です。信仰の根本的な土台が腐っているかもしれません。
みなさん、申し訳ないけどまだまだ汚くて、訓練が必要なのです!
清くなることを追い求めてください。清くなると、イエス様が大事な所で使ってくださいます。
そうすると、想像できなかった事が起きたり、これから起こることを教えてくださるようになります。
イエス様の前にへりくだって、「私の信仰のレベルはこんなものです!」と言えるなら、あなたは幸いです。

(文責:安曇の民)

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