ルカ24:13~35
4つの福音書にある十字架の箇所を、自分のために、繰り返し繰り返し読むべきです。十字架の光景を心に浮かべて欲しいのです。その光景が、心のスクリーンに映しだされるように・・・。
心が燃えているなら
エマオ途上での2人の弟子(きっと夫婦でしょう)のイエス様との交わりの感覚は、「内に燃えていたではないか」です。毎朝、ひざまずいて聖書を開き祈る時(そうしていて欲しいのですが)、「心が燃えているなら」イエス様との交わりができています。この弟子たちは、心が燃えたのです。黙示録にあるように、「冷たいか熱いか」なのです。「イエス様と交わっているなら熱いだろう!?」と言われているのです。そうでないと、つまらない。いくらお題目のように「イエス様」と唱えても、無駄なのです。
体験する
み言葉は、体験の世界です。理屈ではありません。地上で生きている間、み言葉をどれだけ体験するか・・・、それが人生を豊かにするのです。イエス様と、み言葉を通して交わりの時を持ち、祈るなら、その前と後では、心の状態は違うはずです。祈った後、心が熱く燃えていないのなら、ただの宗教行為にしか過ぎません。
上帝の国を求めよ
マタイ5章~7章で、地上のこと(この世のこと)をいちいち求めるな、と言われています。祈りの中に「いちいちこの世のことを持ってくるな!この世のことばかり祈るな!」という事です。
「まず第一に上帝の国と義を求めよ」これが、弟子の祈りの中心でなくてはなりません。「皇民の祈り」にあるように、主のみ心と栄光を求め「主のみ名が聖なるものとされますように」と祈り求め、世のことは「日ごとの糧を与えてください」と祈れば、それで充分!それだけで良いのです。
大豊作の金持ちは、ホクホクで倉を建てました。しかし明日死んだらどうするのですか!? 私たちの肉は、明日のことまで「ああでもない。こうでもない」と、いちいち詮索好きなのです。
訓練
イエス様は、仕事などで、会いたくない人(苦手な人、自分にとって嫌な人)に会わせて訓練してくださいます(私自身もそうです)。
そんな時、「私のためなので、感謝します!」と言えないなら、あなたはまだ(信仰の)幼稚園児です。役には立ちません。
イエス様の弟子は、自分自身を捨てるのです(ああでもない。こうでもない。とは言いません)。
生まれ変わった弟子なら、自分の考えはいりません。「悔い改めて福音を信じよ!イエス様を救い主として受け入れよ!」と言われているからです。
「自分の生涯をイエス様にかけます!」という弟子を、呼び集めようとされているからです。
選ばれる者は少ない
福音書は、弟子を教えるため、育てるために書かれています。種まきのたとえを読んでください。弟子には、上帝の国の奥義を知ることが許されていますが、群衆には許されていません。生まれ変わって弟子になったのは、10分の1ほどの人たちでしょうか。(太秦之宮の人たちは、ハッピーな気持ちを失って家に帰りますか? 泣きながら帰る人もいますね)
選ばれる者は少ないのです。父がみもとに引き寄せてくださらなければ、イエス様のところに来ることはできません。
この中に弟子は何人いますか? 群衆は悟ることができません。
イザヤ60:1~3
1「起きよ。輝け。まことに、あなたの光が来る。主の栄光があなたの上に輝く」
2「見よ、闇が地を覆っている。暗黒が諸国の民を。しかしあなたの上には主が輝き、主の栄光があなたの上に現れる」
3「国々はあなたの光のうちを歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む」
光を輝かせる
皇民の群れは、このように主のご臨在を反映したものです。生まれ変わった者たち(メシアの命)は、絶望の中から「立ち上がれ!」と叫ぶからです。なぜなら将来と希望があるからです。誰一人、主から隠れることはできません。弟子は闇の中(この世の真っ暗な夜のような暗闇)で、光を輝かせるためにいるです(マタイ5:14~16)。
また闇は霧でもあります。夜の山道で霧に包まれたことはありますか。本当に恐いです。車のライトをつけても前が見えないからです。
全世界の闇
今のコロナウィルスは、全世界の闇、霧とも言えます。京都の三大祭り、葵祭、祇園祭、時代祭、が3つとも中止になりました。神社の宮司さんが「申し訳ない!」と悲鳴をあげておられるのを見ました。祇園祭は「疫病退散の祭り」なのに、疫病に負けたのです。
闇の声がバカにしているのが聞こえませんか。「そんな祭り何の力もないんだよ!何やってんだよ。ヤーサカ(神の小屋)!?エンヤーラヤー(他の神は無い)!?何の力もないだろ。」と。
換骨奪胎
日本には、秦氏や渡来人としてヘブライ人が来ていたとしても “和をもって尊し”とする「翁の霊」「大和の君」(日本を支配する悪霊を、私はこう呼んでいます)にうまく取り込まれてしまい、何の痛みも感じなくなったのです。
たとえ京都の太秦広隆寺に十戒が書いてあったとしても、「換骨奪胎」で骨抜き状態なのです(形だけ残っていて、役に立たないのです)。
エレミヤ23:11~14
11「実に、預言者も祭司も汚れている。わたしの家の中にも、わたしは彼らの悪を見出した。─主の言葉─」
12「それゆえ、彼らの道は、暗闇の中の滑りやすい場所のようになり、彼らは押しやられて、そこに倒れる。わたしが彼らに災いをもたらし、刑罰の年をもたらすからだ。─主の言葉─」
13「サマリヤの預言者たちの中に、わたしはごまかしを見た。彼らはバアルによって預言し、わたしの民イスラエルを迷わせた。」
14「エルサレムの預言者たちの中に、わたしはおぞましいことを見た。彼らは姦通し、嘘をついて歩き、悪を行う者どもの手を強くして、その悪から、誰も立ち返らせない。彼らはみな、わたしにはソドムのようであり、その住民はゴモラのようだ。」
ごまかしをやめよ
サマリヤ(北王国)とユダ(南王国)はごまかしをしました。
日本に来ている十部族は、サマリヤ(北王国)です。日本が偶像にあふれるのは当然です。「形だけは、やりましょう」ということです(八坂神社でも松尾大社でも、伏見稲荷でも・・・)。主の目には、全てがごまかしなのです。
そして、霊能者や巫女が、バアルによって預言しているのです(キリスト教界もこうなっていませんか)。主は、ごまかしを嫌っておられるのです! 京都三大祭りが中止になったのは、その証拠です。「事実は二人三人の証言によって確かにされる」ように、京都の三大祭りが、3つとも中止になったのです。主は気づけと言われているのです。
クリスチャンは祈らない
クリスチャンは「偶像礼拝の祭りはこけて良かった」と思っているのですか?
古代ヘブライ人の十部族は、イザヤと一緒に「契約の箱」を日本に持って来ているかも・・!? という仮説があります。
それが、現実的にフィット(fit。 ぴたっと当てはまる。一致する)してきているのです。クリスチャンは本当に祈らないのです(祈っていれば分かる)。
先祖たちの罪を
ダニエルやネヘミヤは、どのように祈りましたか。「先祖たちの罪は、自分たちのものです!」と嘆き悲しみ、苦しんで祈ったのです。この先祖の罪を担って(自分の罪として)祈り取りなすのがクリスチャンのすることです。至聖所に入って取りなすのです。
牧師と呼ばれる方々、今は韓国や北朝鮮に謝りに行っている時ですか!?日本は、優柔不断なことをやっている場合ではないのです!
日本に警告されている
コロナウィルスの被害は、日本とイスラエルは、本当に少ないです。科学的な理由は分かりません。ただただ主の憐みによるのです。主は忍耐して、ご自分の民が立ち返って来るのを期待しておられるのです。
霊媒師
今、クリスチャンは、サマリヤの預言者という、ていたらく(為体。そのようなありさま。様子。散々な状態)です。霊媒師に成り下がっていませんか!?
パウロは、イスラエルの腐った状態に対し、「これでは駄目だ!!」と叫んだのです。(ロマ書)「自分の幸せ」ばかり求めているイスラエルに対し、今のままで、主の裁きの前に立てるのか!? 聞いてもそのまま、何もしないなら、厳しい裁きがある、と叫んだのです。
エレミヤ23:15~17
15「それゆえ、万軍の主は、預言者たちについてこう言われる。『見よ。わたしは彼らに、苦よもぎを食べさせ、毒の水を飲ませる。不敬虔がエルサレムの預言者たちから出て、全土に広がったからだ。』
16「万軍の主はこう言われる。『あなた方に予言する預言者たちの言葉を聞くな。彼らはあなた方を、空しいものにしようとしている。彼らは主の御口からではなく、自分の心の幻を語っている。
17「彼らは、わたしを侮る者に向かって、『主はあなた方に平安があると告げられた』としきりに言い、頑な心のままに歩む全ての者に向かって、『あなた方には災いが来ない』と言っている。」
自分の幸せだけなのか
これは、今のキリスト教界がやっていることではありませんか。「私は、私のままで良い」「私の幸せが、一番大事」。説教者はこのように言っていて、悔い改めを語らないのですか!?
主は、「日本の現実をよく見てごらん。み言葉と今の現実を見てごらん」と、言われているのではないですか。
京都を平安京(エルサレム)と名付け、聖徳太子の生涯をイエス様となぞらえてみたり、千利休の茶道が聖餐式であったり・・・。「形だけ残しておいて、一体何の役に立つのか?悔い改めよ!!」と言われているのではないですか。
希望
日本と世界の状態をよく見るなら、そんなに甘くありません。国が患難に襲われる時、ダニエルやネヘミヤ、エズラは何をしましたか? 苦しんで、主に祈ったのです。今こそ、「唯一の救いの希望はイエス様にある。イエス様の証をしなさい!」と言われているのです。
そして、これはイエス様の新しい命がなければ絶対にできません。キリスト教の宗教をしているだけでは、無理なのです。
神道の預言者
明治天皇は、「神道は、古代ユダヤ教である」と言われました。
そして旧約聖書にもあるように、イスラエルの民が移動する時は、必ず預言者がいます(預言者に従って、進むのです)。だから、必ず神道の中にも預言者がいます(それは、霊能者とか巫女と呼ばれる人たちでしょう)。その方々が、(知っていて)黙り込んでいるのは何故でしょうか!? 金や商売のためではありませんか。預言者は、ただの「占い師」と成り下がったのです(神社の御祓もカネですね。しかもカネによって違いがありますね。値段表など)。
彼らは、バアルによって予言し、民を迷わせたのです。
京都
京都は日本のお腹、へその部分でもあります。胎児がお母さんから栄養をもらうへその尾が、京都にあたるとは、興味深いです。今まで祈って来て、面白いと思う反面、怖いとも思います。伝えることを失敗したら(主が望んでおられる事と違うことを語るなら)とんでもなく恐ろしいペナルティー(罰。反則や違約に対する罰則)が待っているからです。
三大祭
京都の葵祭、祇園祭、時代祭・・・、売り上げのほとんどは、商売のためです。主の祭りを、自分たちの商売のために使って来たのです。主は、「何のためにこの祭りをやって来たのか!? 今こそ本心に立ち返れ!」と言われているのではないですか。日本の預言者たちは、民の責任を負わなければならないのです。
今のこの日本の状態をどう見るのか・・・!? 気づかせてくださる方はイエス様だけです。
祈りの戦い
太秦の戦いは、祈りの戦いです。祈りの中で、問題意識を持ち、国の罪を、自分の罪として御前に持っていけないなら、全てが無意味です。親中派が一体何ですか? 関係ありません!「あなたの敵を愛せ」と言われてるではありませんか。
必要なのは、イエス様の証人です。それは「イエス様に聞き従える弟子」です。
「義人の祈り」には力があります。エリヤは、私たちと同じような人でしたが、雨が降らないように祈ると、3年6ヶ月の間、雨が降らなかったのです。みなさんも、祈りによって天候をコントロールできます。信じますか? 聖書の奇跡が信じられないなら、あなたには何もありません。すべて虚しいのです。
詩篇73:1~12
1「まことに上帝は愛しみ深い。イスラエルに 心の清らかな人たちに。」
2「けれどもこの私は、 足がつまずきそうで 私の歩みは 滑りかけた。」
3「それは 私が悪しき者が栄えるのを見て 誇り高ぶる者を妬んだからだ。」
4「実に彼らの死には苦痛がなく 彼らのからだは肥えている。」
5「人が苦労するときに 彼らはそうではなく 他の人のように打たれることもない。」
6「それゆえ高慢が彼らの首飾りとなり 暴虐の衣が彼らを覆っている。」
7「彼らの目は脂肪でふくらみ 心の思い描くものがあふれ出る。」
8「彼らは嘲り 悪意をもって語り 高い所から虐げを言う。」
9「彼らは口を天に据え その舌は地を行き巡る。」
10「それゆえ この民はここに帰り 豊かな水は彼らに汲み尽くされる。」
11「そして 彼らは言う。『どうして上帝が知るだろうか。いと高き方に知識があるだろうか。」
12「見よ これが悪しき者。彼らはいつまでも安らかで 富を増している。」
主を侮る者
「こう祈ったらあなたは幸せになりますよ」というメッセージには、全く中身がありません。イエス様の命によって、日々内側が変えられていく・・・、ということがないからです(またその喜びに預かることもありません)。
「イエス様を侮る者」に対して、「平安がある!」と言っている「キリスト教」(宗教)を信じていて、あなたは大丈夫ですか?
ガンコで頑なな “古い肉” で歩む者に、「災いはない」と言っているのですから。
本当に恐ろしいのは、地上のことではありません。死んだ後、主の「裁きの座」につく時なのです。
詩篇73:13~17
13「ただ空しく 私は自分の心を清め 手を洗って 自分を汚れなしとした。」
14私は 休みなく打たれ 朝ごとに懲らしめを受けた。
15もしも私が『このままを語ろう』と言っていたなら きっと私は あなたの子らの世代を 裏切っていたことだろう。
16「私は このことを理解しようとしたが それは 私の目には苦役であった。」
17「ついに私は 上帝の聖所に入って 彼らの最期を悟った。」
彼らの最期を
詩篇の作者は、悪者が毎日楽しそうで、罰がなく、やりたい放題をしているのを不思議に思い、悩み苦しんで祈りました。
そしてついに、詩篇73:17「ついに私は、上帝の聖所に入って彼らの最期を悟った」と言っています。「分かった!彼らの最期を見た」と。
詩篇73:18−28
18「まことに あなたは彼らを滑りやすい所に置き 彼らを滅びに突き落とされます。」
19「ああ 彼らは瞬く間に滅ぼされ 突然の恐怖で 滅ぼし尽くされます。」
20「目覚めの夢のように 主よ あなたが目を覚ますとき 彼らの姿を蔑まれます。」
21「私の心が苦味に満ち 私の内なる思いが突き刺されたとき」
22 「私は愚かで考えもなく あなたの前で 獣のようでした。」
23「しかし 私は絶えずあなたと共にいました。あなたは私の右の手を しっかりとつかんでくださいました。」
24「あなたは 私を諭して導き 後には栄光のうちに受け入れてくださいます。」
25「あなたのほかに 天では 私に誰がいるでしょう。地では 私は誰をも望みません。」
26「この身も心も尽き果てるでしょう。しかし 上帝は私の心の岩 とこしえに 私が受ける割り当ての地。」
27「見よ あなたから遠く離れている者は滅びます。あなたに背き 不実を行う者を あなたはみな滅ぼされます。」
28「しかし 私にとって 上帝のみそばにいることが 幸せです。私は 上帝である主を私の避け所とし あなたのすべてのみわざを語り告げます。」
イエス様だけを喜びとする
詩篇73:25の別訳では、「地上であなたを愛していなければ、天で誰が私を助けてくれようか。地上であなた以外の喜びはない」とあります。
地上でどれだけイエス様を愛するか・・・。そうするなら(想像もできない)素晴らしいことが起こります。
他の人との比べっこ、傲慢さ、貪欲さからきっぱり縁を切り、「イエス様しか与えることのできない喜びだけが最高である」と確信して、歩んでください。イエス様をあなたの喜びとするなら、地上のもの(この世のもの)も付いてきます。
歩みの始めは
日々の生活の中で、イエス様が「共にいるよ」と、サインをくださいます。特に私は寂しがりやなので(一人で堂仙庵に住んでいます)、本当に面白いです。
弟子の歩みの始めは、悲しいこと、苦しいことばかりです。そして、世の人は楽しんでいるように見えます。しかし、その終わりを悟ると・・・イエス様に「感謝します」としか言えなくなります。
至聖所に入って
イエス様との交わりの中で、至聖所に入って祈っていると、イエス様がいろんなことを教えてくださいます。(これから起きることだったり、ある人の誰も知らない秘密であったり)怖いです。
何かを教えられた時、喜んで高ぶるなどあり得ない。教えられたり、見せられたなら、それは責任が伴うということ。祈って取りなせと言うことです。教えられるなら、だいたい殆どが怖ろしいことです。
エレミヤ29:10~14
10「まことに、 主はこう言われる。『バビロンに70年が満ちるころ、わたしはあなた方を顧み、あなた方に愛しみの約束を果たして、あなた方をこの場所に帰らせる。
11「わたし自身、あなた方のために立てている計画をよく知っているー主のことばー。それは災いではなく平安を与える計画であり、あなた方に将来と希望を与えるためのものだ
12「あなた方がわたしに呼びかけ、来て、わたしに祈るなら、わたしはあなた方に耳を傾ける。」
13「あなた方がわたしを捜し求めるとき、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしを見つける。」
14「わたしはあなた方に見出されるー主のことばー。わたしは、あなた方を元どおりにする。あなた方を追い散らした先のあらゆる国々とあらゆる場所から、あなた方を集めるー主のことばー。わたしはあなた方を、引いて行った先から元の場所へ帰らせる。』
ラッパの音
日本にいるヘブルの民は、イスラエルに帰るのです。誰かが、ラッパを吹かなければなりません。「さあ、立ち上がれ!さあ、帰れ!」と。それは、秦氏やヘブルの民にとってのサインなのです。
太秦の宮は、そのラッパを吹く役割の一部を担うのでは、また、担えたら・・・、と願います。
道が開ける
イエス様が、立てておられるご計画があります。それは、私たちには分かりません。一歩一歩、従う生活をするなら、その分だけ道が開かれて行くのです(殻がパッと開いて、まるで霧があけていくように)。
本気になって、弟子の道を歩むなら、将来に希望があります。
探し求めるならば
それには、条件があります。「本気でイエス様を探し求めるならば」です。
クリスチャンはいかに手抜きをしているかです(手抜き=侮る者です)。
何十年、教会に通って宗教をやっていても無駄です。「この程度でよいでしょ」と思っているからです。
私も、過去にもっともっとイエス様に本気になっていれば! と思います。そうであれば、もっと凄いことが起きていたかもしれない(そしたら、みなさんとはお会いしていないでしょうね。そのほうが良かったかな?)。
ヨハネ14:6
「イエスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、誰も父のみもとに行くことはできません。」
御言葉とイエス様との交わり
イエス様は、「わたしを通してでなければ、誰も父のみもとに行くことはできません。」と言われました。神殿の幕=イエス様の体です。私たちは、イエス様を通して、「至聖所に入る祭司」とされました。
しかし、自分が気が付かなければ(いくら人に言われても)、理解することはできません。あなたの内におられるイエス様によって、成長させていただくしかありません。それはみ言葉と、イエス様との交わりによってです。それ以外はありません(幻を見た・・・等は、関係ありません)
心砕かれ(傷つきへりくだった者)が、イエス様の導きに従えるようになるのです。そのようになるなら、日常生活の中で、イエス様の思いを、ふっと(心に)くださいます。そしてイエス様からの、(あなたにしか分からない)サイン(合図、暗号)があります。
それは、とても面白いです!
(文責:安曇の民)
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