耶蘇上帝會 太秦之宮

京都・太秦を拠点とする日本のキリスト教会です

礼拝message

礼拝message 7月26日(日)

箴言1、マルコ8:27〜38

今、主に聞き従え

箴言8:27〜38
32「子たちよ、今、わたしに聞き従え。幸いなことよ、わたしの道を守る者は」
34「幸いなことよ。日々わたしの戸の傍で見張り、わたしの門の柱のわきで見守って、わたしの言うことを聞く人は」
36「わたしに背を向ける者は、自分自身を痛めつけ、わたしを憎む者はみな、死を愛するからだ」

下がれ、サタン

ペテロが、イエス様に「下がれ、サタン!」と言われた時、どれほどショックだったか、皆さん分かりますか。
彼は、「自分は一番熱心な弟子だ」と自負していたからです。
イエス様が十字架に向かって行かれる時、ペテロはイエス様をいさめました。
「そんな恐ろしいことが、あなたにあってはなりません!」と。
ペテロは、愛し慕っているラビ(先生)が苦しむなんてとんでもないと思ったのです。
弟子たちもみんな同じ気持ちでした。彼はみなの気持ちをを代表して口火を切ったのです。

情愛(ヒューマニズム)

ペテロは十字架を理解していなかった訳ではないと、私は思っています。
彼はただただ、イエス様への情愛(ヒューマニズム)に突き動かされたのです。
イエス様は、振り向いて弟子たちを見ながら、「下がれ、サタン。あなたは上帝のことを思わないで、人のことを思っている」と。
これを言われたら、きついです。

人間的なものは世に属す

つまり「あなたの思いは、上帝のものではなく、人間のもの」と言われたのです。人間のものは、世に属し、サタンに属すものです。
あなたが何かを愛し慕ったとしても(人間的なものなら)、背後に必ず、世の支配者の考えと計画があります。
弟子になろうとする者の情愛に働き、サタンは必ず邪魔をしてくるからです。

自分を捨てよ

だからイエス様は、「誰でもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」と言われたのです。
あなたの情愛の対象となる「父、母、妻(夫)、子、財産を切り捨てなさい!」と。

決断

洗礼を受ける時、このことをはっきり決断しておかなければなりません。
あなたが決心しているなら、失敗してもまた前に進めます。
しかし、最初からこのことを曖昧にしておくなら、あなたは前には進めません。

人間的な情愛を大切にしていると、前に進めないからです。

父からの勘当

私が神学校に行く時、父に勘当(親が子と縁を切ること)されました。
その時、初めて父の涙と情愛を見せられました。
人間的な思いだったら、父の涙に動かされ神学校に行くのをやめたでしょう。
しかし、私の中には喜びがありました。これからどうなるのか分からないけれど、「み言葉通りに歩める」という喜びです。
それは自分の力ではありません。私の内におられるイエス様が支えてくださったのです。

人道主義

人道主義(ヒューマニズム:humanism、博愛主義)とは、人間愛を根本において、人類全体の幸福を目指すもの。福祉活動、という意味です。
ここでイエス様に従って行く者がはっきりとさせておかなければならないのは、人道主義は、この世の支配者が使う「武器」になるということです。

和をもって貴しとなす

日本には、聖徳太子の十七条憲法というものがあります。第一条は「和をもって貴しとなす」です。
これは「仲良くすることが何よりも大切ですよ」と脈々と日本人の心の中に浸透し、縛って来たものです。
(humanism:善や真理の根拠を神ではなく、理性的な人間の中に見出そうとしたもの)

極東の国、日本

坂東誠氏は、その著書の中で私たちに問題提起されています。
日本は、イスラエル北王国の十部族が渡って来ている。(彼らはユダヤ人でありながら、モレク、バアル、アシュタロテ、偶像礼拝を全て取り込んでいる部族です)
その後、秦氏(ユダヤ人の原始キリスト教徒)も日本に渡って来ている。
日本は極東の地であり、それより東はありません。ユダヤの流浪の民が、日本に集まって来ているのです。

痕跡

その痕跡は数えきれないほど多く残っています。古事記、日本書紀に出てくる登場人物と物語は、聖書に非常によく似ています。
天照大神の岩戸開きは、イエス様の復活の場面と重ね合わせて、その前で裸踊りをした天鈿女命(アマノウズメ)がマグダラのマリヤだと言い、聖徳太子のことは厩戸皇子(ウマヤドノミコ)と呼び、イエス様と重ねています。

歴史観の転換

田中英道氏は、千葉の古墳からは大量のユダヤ人と見られる埴輪(ひげの長い、もみあげがあり、三角帽子を被った埴輪)が出土していることを指摘しています。現代の歴史観をひっくり返さねばならないと。
また、桓武天皇は、京都に平安京(エルサレム)を造り、昊天(こうてん)上帝に生贄を捧げて感謝しています。日本には、動物を生贄に捧げるという習慣はありません。
昊天上帝は、司馬遷の史記に出てくる、「聖書の神」の定義とほとんど同じ存在です。

似て非なるもの

このように、ユダヤ人が大量に日本に渡来していながら、何故すべてが歴史の中に埋没し、飲み込まれてしまったのでしょうか。
私は、「大和の君」(サタンの下にいる力あるリーダーの1人、日本を支配している悪霊を、こう呼んでいます)は、本当に頭が良いと思います。
「大和の君」が何をしたのか、「似て非なるもの」を造ったのです。

妥協

日本に渡来した原始キリスト教徒たちは、思ったことでしょう。
「厩戸皇子」は「イエス様」、「和をもって貴しとなす」は「聖書の愛」。
すごく聖書と似てる!これで良いじゃないですか、と。

カルト

キリスト教カルトを考えてみてください。彼らは、聖書を真っ向から否定しません。聖書に自分たちの考えた教義をプラスすることによって、聖書が別のものに見えて来て、別のものになってしまうのです。
彼らは、聖書を利用して自らを本物らしく見せているので、主イエス様の命を頂いた者にしか判別できないのです。

偽装

サタンや悪霊は、人を騙す時、非常に似ているものを持って来ます。サタンは光の天使にも偽装するのです。
イエス様の命と、本物(イエス様ご自身)を知っていないと「これで良いわ」と騙されてしまいます。

武力の差

日本の歴史において「和」という文化があるために、ほとんど戦いがなかった、と言われることがありますが、私はそうは思いません。
渡来人と、戦いにならないほどの力の差があれば、従うしかないからです。武器や文化の差がありすぎて戦いにならなかったのでは、と私は思っています。

別のものを加える

では、「大和の君」の次の部下「翁の霊」が何をしたのか。またまた頭が非常に良いのです。
本物(イエス様を愛する弟子たちの信仰)が日本に来ても、ちょっと別のものを加えて、一番大切なものが見えなくなるようにしたのです。

形式的

松尾大社、宇佐八幡宮、八坂神社、広隆寺の十善戒など。祇園祭の掛け声「エンヤラヤー」は、ヘブル語で「神は他にはない」という意味です。形だけ残して、原始キリスト教徒に「これ(形式的なこと)をやってるから、これで良い」と思わせてしまったのです。
「翁の霊」は、一番大切なところに行かせないのです。
また、太秦之宮は、この戦いのために存在しているのです。

和という言霊

つまり、失われた十氏族が布石を打った宗教的なものと、(純粋な主イエス様を誇りとする信仰を失った)原始キリスト教徒の秦氏とが、『和』という言霊(倭の君=翁の霊)に支配されて、日本文化の素地を作り上げた、と私は観ています。
(注)メッセージの文言とは違っています。説明のため加筆しています。

万物はみ子のために

コロサイ1:15〜17
15「御子は、見えない上帝のかたちであり、すべての造られたものより先に生まれた方です」
16「なぜなら、天と地にあるすべてのものは、見えるものも見えないものも、王座であれ主権であれ、支配であれ権威であれ、御子にあって造られたからです。
万物は御子によって造られ、御子のために造られました」
17「御子は万物に先立って存在し、万物は御子にあって成り立っています」

父なる上帝に栄光を帰す

ピリピ:2:6〜11
6「メシアは、上帝のみ姿であられるのに、上帝としてのあり方を捨てられないとは考えず」
7「ご自分を空くして、しもべの姿を取り、人間と同じようになられました。
人としての姿をもって現れ」
8「自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました」
9「それゆえ上帝は、この方を高く上げて、すべての名に勝る名を与えられました」
10「それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ」
11「すべての舌が『イエス・メシアは主です』と告白して、父なる上帝に栄光を帰するためです」

すべての敵をその足の下に

1コリント15:20〜28
20「しかし、今やメシアは、眠った者に初穂として死者の中から甦られました。」
22「アダムにあってすべての人が死んでいるように、メシアにあってすべての人が生かされるのです」
24「それから終わりがきます。その時、メシアはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、王国を父である上帝に渡されます」
25「すべての敵をその足の下に置くまで、メシアは王として治めることになっているからです」
26「最後の敵として滅ぼされるのは、死です」
27「『上帝は万物をその足の下に従わせた』のです。しかし、万物が従わせられたと言う時、そこには万物をメシアに従わせた方が含まれていないのは明らかです」
28「そして、万物が御子に従う時、御子自身も、万物をご自分に従わせてくださった方に従われます。これは、上帝が、すべてにおいてすべてとなられるためです」

この聖書の三つの箇所が、太秦の宮の三本柱です。
そしてこの三つを合わせると、ロマ11:36になります。

栄光が永久に

ロマ11:36
「すべてのものが上帝から発し、上帝によって成り、上帝に到るのです。この上帝に、栄光が永久にありますように」

霊的な戦い

何故、日本の歴史文化が、キリスト教的なものでカバーされてしまったのか。
この世の支配者と、霊的な戦いが全然できていなかったのだと思われます。
み子イエス様の前に、すべての者が膝をかがめなければなりません。
それは、天皇陛下も例外ではありません。

イエス様こそ主

日本に、ユダヤ人たちが作った多くの神社があったとしても、何の役にも立ちません。すべての中心はみ子イエス様であり、万物はイエス様のために存在しているからです!
私たちは、これからイエス様がどのように宇宙の歴史を閉じて行かれるのか、その過程に存在しているのです。
私たちは、すべてを捨てて悔い改め、「イエス様こそ主です!」と告白しなければなりません。

メシアを否定する者

ユダ4
「それは、ある者たちが忍び込んできたからです。彼らは不敬虔な者たちで、私たちの上帝の恵みを放縦に変え、唯一の支配者であり私たちの主であるイエス・メシアを否定しているので、以下のような裁きにあうと昔から記されています」

「和をもって貴しとなす」は、キリスト教界に染み込んでいます。イエス様に熱心に従おうとすると、日本では「熱心すぎておかしい」、韓国では「牧師に逆らったら呪われる」と、その人を潰しにかかります。
まさに、唯一の支配者である上帝、メシアを否定しているのです。

罪の報酬は死

ガラテヤ2:19〜20
19「しかし私は、上帝に生きるために、律法によって律法に死にました。私はメシアと共に十字架につけられました」
20「もはや私が生きているのではなく、メシアが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きている命は、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、上帝の御子に対する信仰によるのです」

何故私たちは、律法によって律法に死ななければならないのか。
罪の報酬は死だからです。
聖書の律法によると、罪は血を流さなければ赦されません。
また罪は血によってのみ聖められます。

イエス様の血によって

ヘブル9:22「律法によれば、ほとんどすべてのものは血によって聖められます。血を流すことがなければ、罪の赦しはありません」

死は、(恐いものではなく)永遠の命に至らせるものです。
私たちは、イエス様の十字架の死によって、死(裁きの死)を先取りするのです。
イエス様の流された血を、私の血としてカウントしてもらうのです。

罪からの解放

ロマ6:4〜11
4「私たちは、メシアの死にあずかるバプテスマによって、メシアと共に葬られたのです。それは、ちょうどメシアが御父の栄光によって死者の中から甦られたように、私たちも新しい命によって歩むためです」
5「私たちがメシアの死と同じようになって、メシアと一つになっているなら、メシアの復活とも同じようになるからです」
6「私たちは知っています。私たちの古い人がメシアと共に十字架につけられたのは、罪の体が滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるためです」
7「死んだものは、罪から解放されているのです」
8「私たちがメシアと共に死んだのなら、メシアと共に生きることにもなる、と私たちは信じています。
9「私たちは知っています。メシアは死者の中から蘇って、もはや死ぬことはありません。死はもはやメシアを支配しないのです」
10「何故なら、メシアが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、メシアが生きておられるのは、上帝に対して生きておられるのだからです」
11「同じように、あなた方もメシア・イエスにあって、自分は罪に対して死んだ者であり、上帝に対して生きている者だと、認めなさい」

認めなさい

パウロはこのように「認めなさい」ロマ6:11と言っています。「知っています。そうします」ではなく、「認めよ!」と
日本人は言葉に対して軽く(曖昧で)、約束を簡単に破るところがあります。しかし、聖書はそれを許しません。
私たちが生まれ変わらねばならないのは、言ったこと、約束したことを守るためです。(生まれつきのままでは、言葉を曖昧なまま使ってしまいます)
洗礼を受けた時、古い自分の処理は終わっています。それを認めるのです。

生きるために死んだ

「私は、律法によって自分の罪を認めています。しかし、イエス様と共に十字架で死んだので、罪人としては精算されました。だから罪から自由になったのです!」とこの事実を認めなければなりません。
私たちは、イエス様と共に(イエス様の命によって)生きるために、死んだのです。

委ねているなら

み言葉の事実を認めていないから、あなたの生活に出てこないのです。
イエス様に自分を委ねているなら、イエス様が気にいるようにあなたを変えてくださいます。
あなたの「理想の自分」は関係ありません。

エレミヤ9:23〜26
23主はこう言われる
「知恵ある者は自分の知恵を誇るな。力ある者は自分の力を誇るな。富ある者は自分の富を誇るな」
24「誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。わたしは主であり、地に恵みと公正と正義を行う者であるからだ。まことに、わたしはこれらのことを喜ぶ。―主の言葉―」
25「見よ。その時代が来る。―主の言葉―
その時、わたしはすべて包皮に割礼を受けている者を罰する。
26「エジプト、ユダ、エドム、アンモンの子ら、モアブ、および荒野の住人で、もみあげを刈り上げているすべての者を罰する。すべての国々は無割礼で、イスラエルの全家も心に割礼を受けていないからだ」

心の割礼

「心に割礼を受けていないまま」とは、自我の強いままの状態のことです。あなたは自我を押し通そうとしますか?「主のみ心がなりますように」と言えますか?
イエス様は、従順の模範を示されたではありませんか。
自我が砕かれて行く中で、聖さが与えられて行きます。
悔い改めずに砕かれない人は、聖くなりません。

嘘がない

あなたの態度が、お芝居や演技であってはなりません。イエス様が望んでおられるのは、あなたに嘘がないことです。
誰かと話す時、本心から言っていますか。それとも耳ざわりの良い言葉を並べているだけですか。

自由

ペテロのように、情に突き動かされる時が誰にもあります。情は悪霊が使います。そんな時、「私は十字架を負っていますか。逃げていないですか」とイエス様に聞いてください。
悔い改めて十字架の血の注ぎ掛けを求めるなら、イエス様の生温かい血を感じるでしょう。
イエス様は生きておられるからです。
イエス様と共に死なせていただける。だから自由なのです。

(注):以下は、礼拝後の交わりの時に「何故、原始キリスト教徒たちは簡単に取り込まれたのですか?」と言う質問に対して、語られたものです。

騙し

「大和の君」「翁の霊」は日本人そのものを騙しの中に取り込んでいます。日本の歴史文化の中に、ユダヤ的要素が織り込まれているので、「キリスト教」を聞いても違和感を感じないのです。
しかし十字架のことは、言って欲しくないのです。
日本人は「十字架、悔い改め、血による罪の赦し、聖め」など、痛みを伴い心に刺さるものは、聞きたくないからです。
神社の「みそぎ、祓い」で良いじゃない、とその延長にしてしまいます。トゲを無くして、痛みがないようにするのです。

イエス様の名

「翁の霊」の中に取り込まれたキリスト教の中にいても、「イエス様!」と呼んでいるなら、イエス様のお名前に力があるので、「これで良いのか?」と疑問が生まれてきます。
しかし「神様!」と呼んでいると、痛みがないので気がつきません。(どの神様かわからないからです)

惑わし

「翁の霊」は、「きよめ、お祓い、神社で手を洗う」などユダヤ的なもので惑わしてきます。そこにないのが十字架です。
広隆寺には、「十善戒」という「十戒」に似たものがあります。「似て非なるもの」です。
日本人は、「よく似たものがあって良かったね」「もうこれで良いよね」となってしまうのです。

熱いか冷たいか

秦氏(原始キリスト教徒)も騙されたのです。
最初は本物であったとしても、人間の性(さが)ですが、信仰(熱いもの)は息子が受け継げません。
ダビデと息子ソロモンに見られるように、ダビデに仕えた長老たちが死ぬと、ソロモンは逆らったからです。
日本の「翁の霊」は、「熱いか冷たいか、極端なのはダメですよ。適温に。ほどほどに」と言います。
しかし聖書は、「熱いか冷たいかであれ!」と言うのです。

ソーシャルディスタンス

コロナウィルスでの「ソーシャルディスタンス」もそうです。これが日本人の長年培われた特性です。
まるで宗教的なものとして「守らなければ」と思わせてしまいます。
「翁の霊」がそのように色を染めているのです。

祈りなさい

イスラエル十部族が日本に契約の箱を持ち込み、渡ってきているのなら、彼らは契約の箱を完全に隠したのです。そして、祭りだけをしていたのです。
主は「お前たちは、隠蔽してきたのか!」と言われるでしょう。
日本は、最後にものすごく厳しい裁きにあうことになります。眠って惑わされている者たちを、目覚めさせなければなりません。
私たちは、祈らねばなりません。

文責 菅原はれみ

礼拝message 7月22日(水)

エステル2:19〜4:10

愛がなければ

歴史作家の加治将一さんが、彼のYouTubeチャンネルで言われていた事をご紹介します。
『愛情がなければ何もできません。愛情の意味も分からないで、「学者になろう」「金儲けをしよう」「学校の先生になろう」「政治家になろう」…無理です!
愛がなければ、足元がグラグラです。何をやってもできないはず。
だって人間として一番大切なのは愛情ですから。
ところが、この国、愛情についてほとんで教えません。だから多くの人は、愛情とは何か、どうやって愛したらよいのか、どうやって愛されたらよいのか分からない。そして興味もない。
なぜ日本人が愛について見向きもしないのか…。』

彼は幼少期の頃、日曜学校に行っていたそうです。そのたった2年間にシスターから教えられた事が、彼の人生に大きな影響を与えたそうです。
それが彼の土台(聖書)なのだと知り、(彼の書籍には以前より注目していたので)ああ、やはりそうだったのかと、イエス様のされる事は本当に不思議だと、感謝しました。

一人一人特徴的な感性が

私が高校生の時、お昼ご飯を我慢して(お昼代にもらったお小遣い50円を貯めて)バイエルを買いました。男子校のボロボロの音の出ないピアノと向かい合っていた頃の話です。
ある時、ふとマル・ウォルドレンのAll Aloneというレコードの中古品を見つけて買いました。彼のピアノを聞いた時、ものすごく衝撃を受けました!音が話したのです。「お前に私の(黒人としての)孤独など分かるまい!」と。
私もずっと孤独だったので、孤独を知っているつもりでした。でも日本人の私には分からないのです。黒人のスピリットは違うからです。(私が彼と同じようにジャズをピアノで弾いても、ただの真似事になってしまいます)
イエス様は、一人一人に特徴的なプレゼントを与えておられます。あなただけにピンと来る感性(心の琴線に触れるもの)が与えられているのです。(私の場合は音でした)

感情は自我そのもの

イエス様とあなたとの間を邪魔するものは「感情」です。それは「自我」そのものです。「自我」は、「エゴ」「自負心」「自尊心」「プライド」とも言えます。

自負心:自分の能力、業績、仕事に自信や誇りがある気持ち
自尊心:自分の思想や言動などに自信を持ち、他からの干渉を排除する態度。プライド。

「自我」とは「感情のかたまり」であり、「自分の世界の中に立ち入られたくない」「触れられたくない」「私の感性の中に入るな!」という他人の干渉を受け付けないものです。

ガラテヤ2:19、20
19「しかし私は、上帝に生きるために、律法によって律法に死にました。私はメシアと共に十字架につけられました。」
20「もはや私が生きているのではなく、メシアが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きている命は、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、上帝のみ子に対する信仰によるのです。」

自我の磔殺(たくさつ)

自我の磔殺(たくさつ)という言葉がありますが、これはホーリネス系のきよめ派でよく言われていることです。
自分を捨てること。自我=感情の塊を捨てること。これができるなら、あなたは本当に自由になり、イエス様の命があなたを支配します。ガラテヤ2:19〜20にある通りです。そしてこの体験をしないと、あなたは御霊の実を味わうことはできません。愛、喜び、平安…が自分のものにならなければ、証人にはなれません。
あなたの中から溢れ出たものが、他の人に伝わるのが証だからです。

十字架で死ねる幸い

ガラテヤ5:22、23
22「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、」
23「柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。」

あなたのこれまでの人生をよく見てください。誰かを幸せにできましたか?
おせっかいや、余計なお世話ばかりして、相手に迷惑をかけていただけではないですか?
自分も人も幸せにできなかった人生を、終われるのは十字架だけです。
イエス様に「助けてください!」と叫ぶなら、「弟子になりなさい。自分(自我)を捨てなさい)」と答えてくださいます。
古い自分の人生を十字架で死なせて頂けるのは、本当に幸いなのです。

主が共にいてくださる喜び

あなたは、聖書のきつい(自分にとって嫌な)箇所を、スルーしていませんか。多くの人はそうするのです。
エステルは「死ぬべきなら、死にます。私のために断食して祈ってください」と言いました。こんな女性は珍しいです。やはりユダヤ人の女性です。
彼女は十戒(ものすごく厳しい命令)の中で、イスラエルの選ばれた民として、「主が共にいてくださる」という喜びを知っていたのです。(自分から捨てない限り、主は私を決して捨てられないからです)

見本

自我の磔殺は、エステルが見本です。それは、サラとラケルにはできませんでした。自分に子どもができないと、夫に文句を言って「あなたのせいです。私の女奴隷に入りなさい!」と。(女性は恐いですね…)
エステルは、自分を主のみ手に捧げて、委ねているのです。

エステル2:20
「エステルは、モルデカイが彼女に命じていたように、自分の生まれも自分の民族も明かしていなかった。エステルは、モルデカイに養育されていた時と同じように、彼の命令に従っていた」
4:13「モルデカイはエステルに返事を送って言った。『あなたは、全てのユダヤ人から離れて王宮にいるので助かるだろう、と考えてはいけない。」
4:14「もし、あなたがこのような時に沈黙を守るなら、別の所から助けと救いがユダヤ人のために起こるだろう。しかし、あなたも、あなたの父の家も滅びるだろう。あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、このような時のためかもしれない。」
4:15「エステルは、モルデカイに返事を送って言った」
4:16「行って、スサにいるユダヤ人をみな集め、私のために断食してください。三日三晩、食べたり飲んだりしないようにしてください。私も私の侍女たちも、同じように断食します。そのようにしたうえで、法令に背くことですが、私は王のところへ参ります。私は、死ななければならないのでしたら死にます。」

死ぬべきなら死にます

エステルは、「全てがこの時のためだったのかもしれない。この時のために、主が私を用意されたのだ」と、理解したのです。そして、命を捧げました。これがクリスチャンの姿です。
エステルは、たまたま顔かたちが美しく、全てのことをモルデカイの命令に従い、この時のために王妃になりました。すべては主が備えられたことであり、エステルの中に高慢さやプライドは見えません。
彼女は、「主が喜ばれるなら、喜んでこうしよう」と心に決めたのです。
パウロも同じです。彼は主のみ心を知っていました。そして、自分がどのように死ぬか、主に前もって教えられていたのです。(使徒21:10〜13)

使徒21:10「かなりの期間そこに滞在していると、アガボという名の預言者がユダヤから下って来た。」
11「彼は私たちのところに来て、パウロの帯を取り、自分の両手と両足を縛って言った。『聖霊がこう言われます。この帯の持ち主を、ユダヤ人たちはエルサレムでこのように縛り、異邦人の手に渡すことになる』」
12「これを聞いて、私たちも土地の人たちもパウロに、エルサレムには上って行かないようにと懇願した。」
13「すると、パウロは答えた。『あなた方は、泣いたり私の心をくじいたりして、いったい何をしているのですか。私は主イエスの名のためなら、エルサレムで縛られるだけでなく、死ぬことも覚悟しています。』」

自我の塊(かたまり)

ところで、「自我の塊」という時、この「塊」という漢字が、つちへんに鬼である事が分かります。人間は土(ちり)から造られており、生まれながらに怒りの子だという意味です。やはり、漢字を作ったのはクリスチャンだと思います。聖書を知ってる人でないと、こんなものは作れないからです。

金持ちの差別意識

神学校の教会論に「金持ちには、金持ちしか伝道できない」というものがあります。何という肉的な教会でしょう!金持ちと貧乏人を差別する人が皇民の群れの中に入って来たら終わりです。このようなものは、イエス様が一番嫌っておられることです!
「うちはハイソサエティ(上流階級)しか来ない教会です」と他を排除するのですか。

ルカ7:36〜50
39「イエスを招いたパリサイ人はこれを見て、『この人がもし預言者だったら、自分に触っている女が誰で、どんな女であるか知っているはずだ。この女は罪深いのだから』と心の中で思っていた。
44「それから彼女の方を向き、シモンに言われた。『この人を見ましたか。わたしがあなたの家に入って来た時、あなたは足を洗う水をくれなかったが、彼女は涙でわたしの足をぬらし、自分の髪の毛でぬぐってくれました。」
50「イエスは彼女に言われた。『あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。』」

主の前では全ての人が同じ

これは、売春婦の女性がイエス様の元に来ていた場面です。パリサイ人は上から目線で「あいつが預言者なら、この女がどのような女か分かるだろう」と冷ややかに見ていたのです。
金持ちは、知らないうちに態度と振る舞いが傲慢になっています。自我と差別意識が強いからです。
イエス様の憐れみがなければ、金持ちやプライドの高い人は、気が付くのが難しいです。
イエス様の目には、全ての人が同じです。愛とはそういうものです。愛には、えこひいきがないからです。

ヤコブ1:9〜11
9「身分の低い兄弟は、自分が高められることを誇りとしなさい。」
10「富んでいる人は、自分が低くされることを誇りとしなさい。富んでいる人は草の花のように過ぎ去って行くのです。」
11「太陽が昇って炎熱をもたらすと、草を枯らします。すると花は落ち、美しい姿は失われます。そのように、富んでいる人も旅路の途中で消えて行くのです。」

ヤコブ2:1〜9
1「私の兄弟たち。あなた方は、私たちの主、栄光のイエス・メシアへの信仰を持っていながら、人をえこひいきする事があってはなりません。」
3「あなた方は、立派な身なりをした人に目を留めて、『あなたはこちらの良い席にお座りください。」と言い、貧しい人には、「あなたは立っていなさい。でなければ、そこに、私の足元に座りなさい」と言うなら、
4「自分たちの間で差別をし、悪い考えでさばく者となったのではありませんか。」
9「しかし、もし人をえこひいきするなら、あなた方は罪を犯しており、律法によって違反者として責められます。

民族意識

えこひいきや差別、また「民族差別」も主の目には、ものすごく汚らわしい罪です!ユダヤ人は、異邦人を差別していました。悔い改めることをしなかったので、ついに主は民を捨てられました。流浪の民となったのです。
日本人が、彼らと同じことをしたらどうなるしょうか?
同じように裁かれ、捨てられるのではないですか。
日本人、韓国人、中国人、○○人は終わらなければなりません。私たちの国籍は、天にあるからです。
それから、日本という国に遣わされた者として、イエス様に似た者の生き方を(人間としての模範を)、示すのです。これが証です。

自由人

民族的なプライドは、全く役に立ちません。
大切なのは、イエス様が日本をどのように見ておられるかです。私たちは、日本人としての負債を負っているから、今ここにいるのです。
日本の歴史と現状を知り、イエス様の前で執り成さねばなりません。
私たちは、自由人でなければならないのです。自由人とは、自分からの自由を得ている人です。

新しく生まれ変わらねば

どの民族であっても、新しく生まれ変わっていなければ、兄弟姉妹とは呼べません。私の妻は韓国人でしたから、韓国にいた時があります。
韓国の民族意識の強さには、閉口しました。彼らは無意識の反応なのでしょうが、私はまるで犬扱いでした。その扱いのひどさに、さすがに妻も私をかばって怒ってしまうほどでした。
民族意識から解放されていないと、証にはなりません。

簡単ではない

あなたは、日本は他の国とは違って「民度が高い」と言いますか?
民族意識から解放されるのは、簡単なことではありません。
私も、民族的差別意識が出てしまうことがあります。そんな時イエス様のお顔を見て、本当に恥ずかしいと思います。
「ああ、自分はダメだ。何とイエス様の願っておられる基準に達していないのか」と。

自我の取り扱い

聖書をよく読んでください。イエス様には民族差別などありません。私たちは、日常生活の中で、自我が取り扱われているのです。
十字架でイエス様と共に死んで、自分から自由になり、愛、喜び、平安を味わってください。イエス様のくださる命の水を飲むなら、あなたの中から命の泉が溢れてくるのです。そしてそれは、まわりの人を潤します。

真理は自由に

真理(イエス様ご自身)は、あなたを自由にします。
イエス様にあって、韓国、中国、他の国の人々を愛するのです。
また、金持ちのプライドの話をしましたが、貧乏人には貧乏人のプライドと差別があります。「自我」とはそういうものです。
イエス様が与えてくださらなければ、私たちは悔い改めもできません。
「自我の磔殺」ガラテヤ2:19〜20が速やかにあなたのものとなりますように。

(文責:安曇の民)

礼拝message 7月19日(日)

申命記31、マタイ8:5〜13

お言葉をください

マタイ8:5〜13
5「イエスがカペナウムに入られると、一人の百人隊長がみもとに来て懇願し」
6「主よ、私のしもべが中風のために家で寝込んでいます。ひどく苦しんでいます。」と言った。
7イエスは彼に「行って彼を治そう」と言われた。
8しかし、百人隊長は答えた。「主よ、あなた様を私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、お言葉をください。そうすれば私のしもべは癒されます。」
9「と申しますのは、私も権威の下にある者だからです。私自身の下にも兵士たちがいて、その一人に「行け」と言えば行きますし、「来い」と言えば来ます。また、しもべに「これをしろ」と言えば、そのようにします。」
10イエスはこれを聞いて驚き、ついて来た人たちに言われた。『まことにあなた方に言います。わたしはイスラエルのうちの誰にも、これほどの信仰を見た事がありません。
13それからイエスは百人隊長に言われた。『行きなさい。あなたの信じた通りになるように』すると、ちょうどその時、そのしもべは癒された。

主を畏(おそ)れる

あまり人を誉められないイエス様が、ここで百人隊長を誉めておられるのは、驚きです。
そしてもう一人、コルネリウスを誉めておられます。
二人とも、ユダヤ人の貧しい人を助けたり、会堂を建てたりした人です。
そして共通しているのが、「主を畏れること」を学んでいたことです。
主を畏れることは、知恵の始めです。そして知恵は、イエス様ご自身のことです。

成長しなさい

キリスト教の、「神は愛」「神はゆるし」「(神を)恐れてはいけない」などのむやみなすり込みは、間違いです。
確かに、私たちが子どもである時、主は「憐れみ深く、優しく、救ってくださるお方」です。そして、成長を待ってくださっています。
しかし、ずっとそのまま、子どものままで良い、とは言われていません。

客観的に自分を見る

それぞれの「信仰のはかり」に従って、自分を客観的に見る事ができなくてはなりません。自分をチェックするのです。
自分に対して甘いと、自惚れてしまい成長できません。知識は人を高ぶらせるからです。

雑用係の若者のために

この百人隊長は、どのような人物だったのでしょうか。このしもべ(若者)は、「雑用係」という訳もあります。彼は、自分の家にいる雑用係の若者のために、イエス様に願ったのです(彼は自分のことは何も求めていません)。
体が麻痺して痛みに苦しんでいる雑用係のために、「お言葉をください!」と求めたのです。

み言葉を送られた

詩篇107:20
「主はみことばを送って彼らを癒し、滅びの穴から彼らを助け出された」

主は、み言葉を送って癒されるのです。
「行きなさい。あなたの信じた通りになるように」すると、ちょうどその時、しもべは癒されました。

み言葉によって天と地を造られた

創世記1:1〜5
1「はじめに上帝が天と地を創造された」
2「地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり、上帝の霊がその水の面を動いていた」(茫漠:とりとめがないほど広いさま。また、ぼんやりとしてつかみどころのないさま)
3上帝は仰せられた。「光、あれ」すると光があった。
4上帝は光をよしと見られた。上帝は、光と闇を分けられた。
5上帝は、光を昼と名付け、闇を夜と名付けられた。夕があり、朝があった。第一日。

主は、みことばによって、天と地を造られました。上帝が仰せられると、光があったのです。

み言葉の偉大な力

ヘブル11:1〜3
1「さて、信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」
2「昔の人たちは、この信仰によって賞賛されました。」
3「信仰によって、私たちは、この世界が上帝の言葉で造られたことを悟り、その結果、見えるものが、目に見えるものからできたのではないことを悟ります。」

「上帝の言葉で、世界が造られた」というのが、ユダヤ人の信仰です。
主の言葉が、偉大な力を持っているのです。
「その人が語れば、その通りになる」というのが、その人の『権威』です。
イエス様の命を内に持っているクリスチャンなら、その人の言葉には、権威があるはずです。つまり「言葉の力」です。

権威に服従する

百人隊長には、百人の兵士を動かす権威がありました。
同じように、イエス様も天の父の「権威」に従われました。父の願い(み心、命令)通りに生きられ、父の「語れ」と言われることだけを語られました。
そこには、傲慢さが微塵もありません。

謙遜さ

同じように、百人隊長の中にも、イエス様に対する謙遜さがあります。
「主よ。あなた様を私の屋根の下にお入れする資格は、わたしにはありません」と、謙遜さが自然に出てきているのです。
また、雑用係の一人にすぎない若者の苦しみのために、心を痛めて救いを求める態度は、イエス様と似ています。
パリサイ人、律法学者は、イエス様から出てくる威厳に完全に負けていました(威厳の中には謙遜さがあるからです)。
だから、「五十歳にもなっていないのに!!」と精一杯イエス様を馬鹿にして言ったのです。

見える者が盲目に

ヨハネ9:35〜41
39「そこで、イエスは言われた。『わたしは裁きのためにこの世に来ました。目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。』」
41「イエスは彼らに言われた。『もしあなた方が盲目であったなら、あなた方に罪はなかったでしょう。しかし、今、『私たちは見える』と言っているのですから、あなた方の罪は残ります。」

無から有を

ヨハネ9章で、イエス様は、生まれつき盲人の男のために、泥を作って彼の目に塗られました。私は、この人は生まれつき眼球のなかった人だろうと思っています。イエス様は泥で眼球を作って、彼の目の中に入れられたのです。人は土(ちり)から造られているのを、ここでまた思い出させられます。
イエス様(創造主)は、無から有を造り出すお方であります。これは、パリサイ人への「わたしは、あってある者である」というメッセージでもありました。

見えると言う傲慢さ

パリサイ人、律法学者は、「私は見える!」という傲慢さと無知がありました。
「自分は分かっている。知っている。聖霊に満たされている」と言うなら、あなたは瞬時にイエス様から離されます。
イエス様の弟子なら、年数が経てば経つほど「自分は何も知りません」と砕かれた悔いた心になり、へりくだって行くからです。

共にいてくださる

マタイ28:20
「わたしがあなた方に命じておいた、全てのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなた方と共にいます。」

「イエス様が共にいてくださる」これが弟子の生活です。そして、「孤児にはしない」と言ってくださいます。
子どもの時に愛されずに育った人は、大人になってからも、ひとりぼっちの恐怖感と孤独感が深く心の中に刻まれてしまいます。
しかし、イエス様が共にいてくださることを知ると、安心してリラックスできるようになります。これが、上帝の子どもとしての新しい命です。

距離感

イエス様との距離感にどれだけ敏感になれるかが、成長に一番重要です。
腐った(生まれつきの肉の)自分を出すと、イエス様は離れて行かれます。
それに気付いて、悔い改めてイエス様の元に帰れるかどうかです。

浮き足立つ

イエス様がどのようなお方であるのか。その認識が、子どものままではいけません。子どもは、わがままで言うことを聞かないからです。
人は、奇跡や癒しを見せられると、高揚し浮き足立ちます。それを「感情」で肯定しているからです。
自分を捨てるということは、「感情」や「感覚」に支配されるのを捨てるということです。

感情、感覚は信仰ではない

奇跡や癒しの集会などに参加した後、いつも高揚感を求めるようになるのと同じです。「感情」と「信仰」は違います。「感情」や「感覚」、「観念」といったものに「信仰」が支配されてしまうと、それは信仰ではありません。
観念:物事に対してもつ考え「固定観念」など
感情:快、不快を主とする意識のもっとも主観的な側面

感情移入

そして「感情移入」とは、他の人と自分を一緒にしてしまうことです。
神学校でよくあることですが、ある人がウェスレーが好きで、その人の本ばかり読んでいるとします。するとその人が語る時は、まるで自分がウェスレーのようです!理想とする人と自分を一つにしてしまうのです。こういうのは、「陶酔信仰」であって、信仰ではありません。

気分は信仰ではない

悔い改めて、イエス様の命を頂く事が必要です。
「感情」を中心にしてそれを「信仰」と結び付けると、「気分」が信仰になってしまいます。それは信仰ではありませんから、その人は、悔い改める事ができなくなります。

自己否定は感情が傷つく

自分を捨てるとは、自己否定をすることです。自己否定は、自分の感情が傷つきます(だから肉は嫌なのです)。
自分を捨て、十字架を背負って行くということは、「私は、死んだ者として扱われて構いません」と、イエス様に自分を捧げていることです。
「『自分の気持ちや計画』はどうでもよいです。イエス様のみ心がなりますように」と願うことです。
それで、やっと弟子の道に入れるのです。イエス様があなたを使えるようになるのです。自分の思いのまま、「好き、嫌い」というものではありません。
自分(感情)を捨てて、十字架を背負っているならば「感情移入」などしません。

感情論は信仰を潰す


例えば、水戸黄門が何度も見られているのは何故ですか。いつも同じストーリーで最後は「この紋所が目に入らぬか!」で終わりです。悪者は「はは〜」と降参します。勧善懲悪です。
何度も見てしまうのは、スッキリしたいからです。ストレス解消です。
その人の人生がスッキリしていないから、感情移入するのです。信仰を感情論理と勘違いすると、身動きの取れない自称クリスチャンが出来上がります。

自己陶酔は聖霊ではない

肉の感情を捨てていないと、悪霊の足場を作ってしまいます。
賛美の時、手をあげて陶酔感に浸っている人がいます。自己陶酔感は、エロスであり、悪霊が与えるものです。没我状態(物事に熱中して、我を忘れること)で気持ちがよくなるのは、聖霊に満たされるのとは違います。
聖霊に満たされて、陶酔するなどありえません!
肉の(人間の)感情を捨てて行くことによって、自然にイエス様の命令を守ることができるようになります。

万物は御子のために造られた

コロサイ1:16
なぜなら、天と地にあるすべてのものは、見えるものも見えないものも、王座であれ主権であれ、支配者であれ権威であれ、御子にあって造られたからです。万物は御子によって造られ、御子のために造られました。

私たちは、「イエス様の栄光のために」造られたのです。あなたの存在をもって「イエス様の素晴らしさを現わせ」と言われているのです。
あなたは「地の塩」で味がありますか?世の光となっていますか?
イエス様に似た人に、存在価値があるのです。

主の栄光のために生かされている

マタイ5:13〜14
13あなた方は、地の塩です。もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか。もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。
14あなた方は世の光です。山の上にある町は隠れることができません。

あなたの存在は、イエス様の栄光のためであり、そのために全てをなすべきです。イエス様に喜ばれる事が、あなたの存在の全てになっていますか?
自分が「気分が良い」とか「人が認めてくれる」などは、関係ありません。
私たちは、イエス様の栄光のために生かされているのです。
だからパウロは「生きることはメシア。死ぬこともまた益」と言えたのです。

父は御子の栄光を求めておられる

ヨハネ8:50
わたしは自分の栄光を求めません。それを求め、裁きをなさる方がおられます。

イエス様の栄光を求めておられるのは、天の父です。父は御子の栄光を求めておられるのです。
あなたが、自分の都合が悪いと思っても、関係ありません。
「主のご栄光のために。お役に立てるなら」と、全体の(み国の)勝利を願って、兵隊は死ねるのです。
あなたは、イエス様にどのような態度をとっていますか。

主は絶対的主権者

マタイ28:18〜20
18「イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。『わたしは天においても地においても、すべての権威が与えられています」
19「ですから、あなた方は行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け」
20「わたしがあなた方に命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなた方と共にいます。』

よみがえられたイエス様は、絶対的主権者です!天と地の全ての権威が与えられているからです。
そしてそのような偉大なお方が、「わたしは、あなたと共にいる」と言ってくださるのです。それが、クリスチャンライフです。
百人隊長の態度を、見習ってください。
共に歩んでくださるイエス様は、生活の中で「一緒にいるよ。祈りを聞いているよ」とサイン(合図)をくださいます。イエス様は、ユーモアに富んでおられます。本当に面白いことをなさるお方です。

清くなることを追い求めよ

嫌な事があった時、「全てのことを感謝します。わたしのためですから!」と言えないなら、あなたは未熟です。信仰の根本的な土台が腐っているかもしれません。
みなさん、申し訳ないけどまだまだ汚くて、訓練が必要なのです!
清くなることを追い求めてください。清くなると、イエス様が大事な所で使ってくださいます。
そうすると、想像できなかった事が起きたり、これから起こることを教えてくださるようになります。
イエス様の前にへりくだって、「私の信仰のレベルはこんなものです!」と言えるなら、あなたは幸いです。

(文責:安曇の民)

礼拝message 7月15日(水)

ネヘミヤ7:72〜9:2、Iペテロ4:12〜19

時は満ちた

もう時が満ちて来ています。イエス様が来られた時から、終わりの時はもう始まっているのです。

Iペテロ4:17〜18
17「裁きが上帝の家から始まる時が来ているからです。それが、まず私たちから始まるとすれば、上帝の福音に従わない者たちの結末はどうなるのでしょうか。 」
18「正しい者がかろうじて救われるのなら、不敬虔な者や罪人はどうなるのか。」

裁きは上帝の家から

裁きは、上帝の家(私たちクリスチャン)から始まります。
未信者がクリスチャンの裁かれるのを見て、誠にその裁きの基準は正当であると、納得するためです。
イエス様に喜んで従う、その幸いな姿を見て、「人間とは素晴らしい。自分たちも主の元に帰ろう!」と思わせるためでもあります。『福音=イエス様への服従』だからです。
イエス様に従う人々の生き方は、未信者に尊敬されます。私たちは、見本、サンプルになるために選ばれたのです。

ロマ1:16〜18
16「私は、メシアの福音を恥とはしません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じる全ての人に救いをもたらす上帝の力です。
17「福音には上帝の義が啓示されていて、信仰に始まり、信仰に進ませるからです。『義人は信仰によって生きる』と書いてある通りです。」
18「というのは、不義によって真理を阻んでいる人々のあらゆる不敬虔と不義に対して、上帝の怒りが天から啓示されているからです。
ハバクク2:4
「見よ。彼の心は自惚れていて直ぐでない。しかし、正しい人は、その信仰によって生きる。」

義人とは

新共同訳では、「見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、上帝に従う者は、信仰によって生きる。」とあります。
「信じれば、それで良い。」と一体誰が言ったのですか!?
聴衆に媚びへつらう牧師たちですか。
『イエス様に聞き従う人=義人』なのです。

ヨハネ3:36
「御子を信じる者は永遠の命を持っているが、御子に聞き従わない者は命を見る事がなく、上帝の怒りがその上にとどまる。」

み子に聞き従わない者

『信じる者=従う者』です。「キリスト教という宗教」をしていると、悪いすり込みを入れられてしまい、生活の中に従順がないのです。信じていれば、それだけで従っていることになるのですか!?(口先だけで行動がなくても良いのですか?)
イエス様は、福音の中心です。イエス様に従うことによって、はじめて福音になるのです。

不従順な者に働く霊

あなたは、「私はイエス様のみ名で奇跡を行った」と言いますか?
奇跡が起こるのは、当然です!イエス様のみ名を使っているのですから。
キリスト教界は、「聖霊、聖霊」と言って、実は悪霊を受けているのです(彼らの生活を見ればわかることです。彼らから、清さはでてきません。不従順な者に働くのは悪霊です)。

エペソ2:2「かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。」

真実を知れ

韓国や北朝鮮に、「従軍慰安婦問題」で謝りに行っている牧師たちは、真実を知ろうとしません。櫻井よしこさんが、「事実はどうだったのか!?」と言われている通りです。
主の命令は、「敵を愛せ。迫害する者のために祈れ。」です(マタイ5:43~45)。
私たちのすることは、(天の父が望んでおられるように)すべての人に、悔い改めて、イエス様を知ってもらおうとすることです(牧師たちは、事実ではないことを、勝手に謝りに行っているだけ)。

2種類の人


地上には、2種類の人がいるだけです。
1.自分の罪に気がついて悔い改めた人。
2.救いの道を選び取っていない人。救いのない人。
そして、クリスチャンの中にも2種類の人がいます。
1.イエス様に聞き従う者
2.イエス様に聞き従わない者
私たちは、真実を知らねばならないのです。主よ、クリスチャンを憐んでください!

悪者への裁き

ある人(国)のやっていることが悪い時、「このままで良いのですか!?」とイエス様に訴えることができます。祈りに答えてくださる時、裁きのみ手が敵に臨む時、イエス様は、私たちがどのような態度をとっているかを見ておられます。私たちが、敵への復讐を喜ぶなら(世の人と同じ態度を取るならば)、主は何かをなさろうとしていても、裁きのみ手をやめられてしまいます。「あなたの敵を愛せ。滅びる者のために祈れ」と言われているからです(マタイ5:44)。
悪者への裁きは、必要なのです。だから私たちは、あなたの敵が裁かれる時、喜んではならないと言われているのです。
ただし、イエス様の新しい命がなければ、決して聖書の基準は自分のものにはなりません。

Iコリント2:16
「誰が主の心を知り、主に助言するというのですか。」しかし、私たちはメシアの心を持っています。

メシアの心

私たちの心の基準が、この世の人と同じではいけません。「私には、主の心がある。」と言える、このレベルに速やかに達しなければなりません。
あなたの生活の中心は何ですか。主の栄光のためですか?「主のみ心は何か?」と求めて生活していますか。
福音は「あなたの満足のため」ではありません。

エゼキエル13章
2「人の子よ。預言をしているイスラエルの預言者どもに対して預言せよ。自分の心のままに預言する者どもに向かって言え。『主の言葉を聞け。
3「上帝である主はこう言われる。わざわいだ。自分で何も見ないのに、自分の霊に従う愚かな預言者ども。
7「あなた方が見ているのはむなしい幻、あなた方が語るのはまやかしの占いではないか。『主の言葉』などと言っているが、わたしが語っているのではない。」

自称預言者

自称預言者は、まるで主のみ心を知ってるかのように振る舞います。この世の占いの霊によって語る、いかさまの占い師のようです。
しかし主は、このような者に語ったりはなさいません。
み言葉が心に記され、主の命令を守ろうとしている者にだけ、語ってくださるのです。

土台が汚いと

ご聖霊は、(心の内側に)イエス様のきよい命がないと、注がれません。
肉の汚い性質のまま聖霊を求めると、悪霊しか来ません。
悪霊が、生温かい汚物をふりかけている中、気持ち良さそうに歌っている自称クリスチャンの姿が見えませんか(ペンテコステ派の皆さん、よく聞いてください)。

必死になれ


悪霊と親しくなってしまうと、なかなか足を洗えません(反社会組織から足を洗うのとは、比べ物にならないほどに大変です。それ以上です)。
悪霊は霊を与えて、「お前の支配権を譲れ!」とあなたの主導権を握るからです。だから簡単には、縁を切れません。彼らは非常にしつこいからです。
あなたが命をかけて必死にならないと、手を切ることはできません。
「悪霊追い出し」ができると、悪霊を組み敷いている(相手を倒して自分の下に押さえつける)と思っている方々、あなた方は主の栄光にはなりません。「悪霊が出て行って戻ってみると、部屋がきれいに片付いていて」と聖書にある通りです。彼らはその人の所に戻って来るので、その人の状態は前よりもっと悪くなります(彼らは、その時だけ出ていくフリをしておいて、その人が一人になると、また戻って来るからです)。

甘く見るな


彼らに簡単に手を出してはなりません。悪霊を甘く考えてはなりません。
人の賜物や力では、無理だからです!
必死でイエス様に従おうとする者にだけ、悪霊は手を出すことはできません。
羊飼いなるイエス様が、守っていてくださるからです(その人が必死でイエス様に従おうとするなら、悪霊の方から出ていきます)。

悔いた砕かれた心

イエス様のみ心を為して行く、というのは、(華やかで)目立つことではありません(「私は〇〇をやっている!悪霊追い出しをやっている!」などというものではありません)。
一人一人、悔いた砕かれた心が必要なのです。
み言葉は光です。イエス様の命(み言葉)によって、はじめて自分の肉の(心の中の)闇が暴かれるのです。

上からの力

「イエス様に従って行こうとすると、疲れて力がなくなる」とある姉妹が言っていましたが、その通りです。肉の力ではできません。上からの力がないと、み心は為せないからです。

従う生活

生きる義人とは、イエス様に従う生活をしている人のことです。それは24時間です。「それじゃ、息をつくヒマがない!」と言いますか?主のしもべなら、当たり前です。勝手に休みなさい。休みたいなら、クリスチャンをやめればよいのです!
ペテロは、「正しい人さえかろうじて救われるのなら…」と言っています。「私は大丈夫」と思うなんて有り得ないのです。生ぬるくなったら、終わりなのです。
『義人の定義=イエス様に従う者』だからです。この基準に達している人は、信仰によって生きるのです。

だからこうなったのだ

ネヘミヤ記で、律法の書を読み聞かされたイスラエルの民は、泣きました。
「自分たちは、律法を守っていない。モーセの言ったことに従っていない。だから今、こうなっているのだ。」と気がついたからです。
日本も同じです。

申命記4:25-40
25「あなた方が子や孫をもうけ、あなた方がその地に長く住むうちに堕落して、何かの形に刻んだ象を造り、あなたの上帝、主の目に悪であることを行い、御怒りを引き起こすような事があれば、」
26「わたしは今日、次のことで、あなた方に対して天と地を証人に立てる。あなた方は、ヨルダン川を渡って所有しようとしているその地から追われ、たちまち滅び失せる。そこで、あなた方は長く生きるどころか、すっかり根絶やしにされる。

先祖たちの罪を負う

イスラエルの民、原始キリスト教徒、秦氏たちが日本に来ていて、このように偶像を作って良いのですか!?
「私たちは、何をやっているのか」と気がつかないなら、終わりです。
先祖たちの、その罪を引き受けて、祈るのがクリスチャンのすることです。
太秦はイエス・メシア、という意味です。太秦にある神社の宮司さんも「その通りです」と言われました。それなら、「自分たちは、何を証しするべきか」分かっているはずです。

エゼキエル13:1-19
17「人の子よ。あなたは、自分の心のままに預言するあなたの民の娘たちに顔を向け、彼女たちに預言せよ。」
18「『上帝である主はこう言われる。わざわいだ。どの人の手首にも呪法のひもを縫い合わせ、あらゆる高さの頭にも合うようにベールを作って、人々の魂を罠にかける女たち。あなた方は、わたしの民の魂を罠にかけ、自分たちの魂のために人々を生かしているのだ。」
19あなた方は、ひとつかみの大麦のため、少しばかりのパンのために、まやかしに聞き従うわたしの民にまやかしを行い、死んではならない魂を死なせ、生きていてはならない魂を生かして、わたしの民の内でわたしを汚した。

占い師になりやすい女性

女性はこのように「イザベル」になりやすいのです。女性の弱さは、「悪霊に惑わされる」「悪霊の声を聞く」「生活のために占いをする」です。「ああしたら良い、こうしたら良い」と占いをして、お金をもらうのです。「わたしの民のうち」とは、キリスト教界のことです。占い師は、キリスト教界のうちに蔓延しています。そして、主を汚しているのです。

気がつかないのか

日本という国を、どのように見ていますか?世の人が言う真実は受け入れていても(日本は素晴らしい、とか?)、私たちクリスチャンはどのように受け入れるのでしょうか?
原始キリスト教徒が埋没して、バアル、アシュタロテ礼拝になり下がっています。彼らの罪が現れて来て、今年京都三大祭が中止になりました(主の祭りが疫病に負けたのです)。
それでも宮司さんたちは、気が付かないのです。
主は「気が付きなさい!」と繰り返し言われ、最後には「気が付かないのか…もう良い。」と言われます。

この時のために

神道の中でも、預言者を潰し合う、ということが実際に起きています。「神道は腐っている。何とかしなければ」と心を痛めている神主さんを潰すのです。
「わたしの家を強盗の巣にした」と言われている通りです。
日本のことを取りなして祈らないクリスチャンは、聖書を読んでいません。
日本の歴史を学んで、「これは、私たちの罪なのだ!」と言えないなら、本当に役立たずです。『私は、この時のためにここにいるのだ!』と言えないなら、クリスチャンではありません。

時を見分けよ

地上でイエス様のお名前を呼べば、あなたは幸せになるでしょう。そして、かろうじて救われるかもしれません。しかし、天に帰る時、あなたにご褒美はありません。
イエス様は、「あなた方は、天気を見分けることができながら、時代を見分けられないのか」と言われました。
今この世界と日本の現状を見ながら、あなたは何を見て、何を考えますか。
興味があるのは、自分の幸せだけですか?
あなたがこの時代に生かされている目的があるのです。
聖書をどう読んでいますか?読んでいないから、分からないのです。
イエス様ご自身を、聖書のみ言葉と祈りからよく知らなければ、何も分かりません。

(文責:安曇の民)

礼拝message 7月12日(日)

ルカ24:13~35

4つの福音書にある十字架の箇所を、自分のために、繰り返し繰り返し読むべきです。十字架の光景を心に浮かべて欲しいのです。その光景が、心のスクリーンに映しだされるように・・・。

心が燃えているなら

エマオ途上での2人の弟子(きっと夫婦でしょう)のイエス様との交わりの感覚は、「内に燃えていたではないか」です。毎朝、ひざまずいて聖書を開き祈る時(そうしていて欲しいのですが)、「心が燃えているなら」イエス様との交わりができています。この弟子たちは、心が燃えたのです。黙示録にあるように、「冷たいか熱いか」なのです。「イエス様と交わっているなら熱いだろう!?」と言われているのです。そうでないと、つまらない。いくらお題目のように「イエス様」と唱えても、無駄なのです。

体験する

み言葉は、体験の世界です。理屈ではありません。地上で生きている間、み言葉をどれだけ体験するか・・・、それが人生を豊かにするのです。イエス様と、み言葉を通して交わりの時を持ち、祈るなら、その前と後では、心の状態は違うはずです。祈った後、心が熱く燃えていないのなら、ただの宗教行為にしか過ぎません。

上帝の国を求めよ

マタイ5章~7章で、地上のこと(この世のこと)をいちいち求めるな、と言われています。祈りの中に「いちいちこの世のことを持ってくるな!この世のことばかり祈るな!」という事です。
「まず第一に上帝の国と義を求めよ」これが、弟子の祈りの中心でなくてはなりません。「皇民の祈り」にあるように、主のみ心と栄光を求め「主のみ名が聖なるものとされますように」と祈り求め、世のことは「日ごとの糧を与えてください」と祈れば、それで充分!それだけで良いのです。
大豊作の金持ちは、ホクホクで倉を建てました。しかし明日死んだらどうするのですか!? 私たちの肉は、明日のことまで「ああでもない。こうでもない」と、いちいち詮索好きなのです。

訓練

イエス様は、仕事などで、会いたくない人(苦手な人、自分にとって嫌な人)に会わせて訓練してくださいます(私自身もそうです)。
そんな時、「私のためなので、感謝します!」と言えないなら、あなたはまだ(信仰の)幼稚園児です。役には立ちません。
イエス様の弟子は、自分自身を捨てるのです(ああでもない。こうでもない。とは言いません)。
生まれ変わった弟子なら、自分の考えはいりません。「悔い改めて福音を信じよ!イエス様を救い主として受け入れよ!」と言われているからです。
「自分の生涯をイエス様にかけます!」という弟子を、呼び集めようとされているからです。

選ばれる者は少ない

福音書は、弟子を教えるため、育てるために書かれています。種まきのたとえを読んでください。弟子には、上帝の国の奥義を知ることが許されていますが、群衆には許されていません。生まれ変わって弟子になったのは、10分の1ほどの人たちでしょうか。(太秦之宮の人たちは、ハッピーな気持ちを失って家に帰りますか? 泣きながら帰る人もいますね)
選ばれる者は少ないのです。父がみもとに引き寄せてくださらなければ、イエス様のところに来ることはできません。
この中に弟子は何人いますか? 群衆は悟ることができません。

イザヤ60:1~3
1「起きよ。輝け。まことに、あなたの光が来る。主の栄光があなたの上に輝く」
2「見よ、闇が地を覆っている。暗黒が諸国の民を。しかしあなたの上には主が輝き、主の栄光があなたの上に現れる」
3「国々はあなたの光のうちを歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む」

光を輝かせる

皇民の群れは、このように主のご臨在を反映したものです。生まれ変わった者たち(メシアの命)は、絶望の中から「立ち上がれ!」と叫ぶからです。なぜなら将来と希望があるからです。誰一人、主から隠れることはできません。弟子は闇の中(この世の真っ暗な夜のような暗闇)で、光を輝かせるためにいるです(マタイ5:14~16)。
また闇は霧でもあります。夜の山道で霧に包まれたことはありますか。本当に恐いです。車のライトをつけても前が見えないからです。

全世界の闇

今のコロナウィルスは、全世界の闇、霧とも言えます。京都の三大祭り、葵祭、祇園祭、時代祭、が3つとも中止になりました。神社の宮司さんが「申し訳ない!」と悲鳴をあげておられるのを見ました。祇園祭は「疫病退散の祭り」なのに、疫病に負けたのです。
闇の声がバカにしているのが聞こえませんか。「そんな祭り何の力もないんだよ!何やってんだよ。ヤーサカ(神の小屋)!?エンヤーラヤー(他の神は無い)!?何の力もないだろ。」と。

換骨奪胎

日本には、秦氏や渡来人としてヘブライ人が来ていたとしても “和をもって尊し”とする「翁の霊」「大和の君」(日本を支配する悪霊を、私はこう呼んでいます)にうまく取り込まれてしまい、何の痛みも感じなくなったのです。
たとえ京都の太秦広隆寺に十戒が書いてあったとしても、「換骨奪胎」で骨抜き状態なのです(形だけ残っていて、役に立たないのです)

エレミヤ23:11~14
11「実に、預言者も祭司も汚れている。わたしの家の中にも、わたしは彼らの悪を見出した。─主の言葉─」
12「それゆえ、彼らの道は、暗闇の中の滑りやすい場所のようになり、彼らは押しやられて、そこに倒れる。わたしが彼らに災いをもたらし、刑罰の年をもたらすからだ。─主の言葉─」
13「サマリヤの預言者たちの中に、わたしはごまかしを見た。彼らはバアルによって預言し、わたしの民イスラエルを迷わせた。」
14「エルサレムの預言者たちの中に、わたしはおぞましいことを見た。彼らは姦通し、嘘をついて歩き、悪を行う者どもの手を強くして、その悪から、誰も立ち返らせない。彼らはみな、わたしにはソドムのようであり、その住民はゴモラのようだ。」

ごまかしをやめよ

サマリヤ(北王国)とユダ(南王国)はごまかしをしました。
日本に来ている十部族は、サマリヤ(北王国)です。日本が偶像にあふれるのは当然です。「形だけは、やりましょう」ということです(八坂神社でも松尾大社でも、伏見稲荷でも・・・)。主の目には、全てがごまかしなのです。
そして、霊能者や巫女が、バアルによって預言しているのです(キリスト教界もこうなっていませんか)。主は、ごまかしを嫌っておられるのです! 京都三大祭りが中止になったのは、その証拠です。「事実は二人三人の証言によって確かにされる」ように、京都の三大祭りが、3つとも中止になったのです。主は気づけと言われているのです。

クリスチャンは祈らない

クリスチャンは「偶像礼拝の祭りはこけて良かった」と思っているのですか?
古代ヘブライ人の十部族は、イザヤと一緒に「契約の箱」を日本に持って来ているかも・・!? という仮説があります。
それが、現実的にフィット(fit。 ぴたっと当てはまる。一致する)してきているのです。クリスチャンは本当に祈らないのです(祈っていれば分かる)。

先祖たちの罪を

ダニエルやネヘミヤは、どのように祈りましたか。「先祖たちの罪は、自分たちのものです!」と嘆き悲しみ、苦しんで祈ったのです。この先祖の罪を担って(自分の罪として)祈り取りなすのがクリスチャンのすることです。至聖所に入って取りなすのです。
牧師と呼ばれる方々、今は韓国や北朝鮮に謝りに行っている時ですか!?日本は、優柔不断なことをやっている場合ではないのです!

日本に警告されている

コロナウィルスの被害は、日本とイスラエルは、本当に少ないです。科学的な理由は分かりません。ただただ主の憐みによるのです。主は忍耐して、ご自分の民が立ち返って来るのを期待しておられるのです。

霊媒師

今、クリスチャンは、サマリヤの預言者という、ていたらく(為体。そのようなありさま。様子。散々な状態)です。霊媒師に成り下がっていませんか!?
パウロは、イスラエルの腐った状態に対し、「これでは駄目だ!!」と叫んだのです。(ロマ書)「自分の幸せ」ばかり求めているイスラエルに対し、今のままで、主の裁きの前に立てるのか!? 聞いてもそのまま、何もしないなら、厳しい裁きがある、と叫んだのです。

エレミヤ23:15~17
15「それゆえ、万軍の主は、預言者たちについてこう言われる。『見よ。わたしは彼らに、苦よもぎを食べさせ、毒の水を飲ませる。不敬虔がエルサレムの預言者たちから出て、全土に広がったからだ。』
16「万軍の主はこう言われる。『あなた方に予言する預言者たちの言葉を聞くな。彼らはあなた方を、空しいものにしようとしている。彼らは主の御口からではなく、自分の心の幻を語っている。
17「彼らは、わたしを侮る者に向かって、『主はあなた方に平安があると告げられた』としきりに言い、頑な心のままに歩む全ての者に向かって、『あなた方には災いが来ない』と言っている。」

自分の幸せだけなのか

これは、今のキリスト教界がやっていることではありませんか。「私は、私のままで良い」「私の幸せが、一番大事」。説教者はこのように言っていて、悔い改めを語らないのですか!?
主は、「日本の現実をよく見てごらん。み言葉と今の現実を見てごらん」と、言われているのではないですか。
京都を平安京(エルサレム)と名付け、聖徳太子の生涯をイエス様となぞらえてみたり、千利休の茶道が聖餐式であったり・・・。「形だけ残しておいて、一体何の役に立つのか?悔い改めよ!!」と言われているのではないですか。

希望

日本と世界の状態をよく見るなら、そんなに甘くありません。国が患難に襲われる時、ダニエルやネヘミヤ、エズラは何をしましたか? 苦しんで、主に祈ったのです。今こそ、「唯一の救いの希望はイエス様にある。イエス様の証をしなさい!」と言われているのです。
そして、これはイエス様の新しい命がなければ絶対にできません。キリスト教の宗教をしているだけでは、無理なのです。

神道の預言者

明治天皇は、「神道は、古代ユダヤ教である」と言われました。
そして旧約聖書にもあるように、イスラエルの民が移動する時は、必ず預言者がいます(預言者に従って、進むのです)。だから、必ず神道の中にも預言者がいます(それは、霊能者とか巫女と呼ばれる人たちでしょう)。その方々が、(知っていて)黙り込んでいるのは何故でしょうか!? 金や商売のためではありませんか。預言者は、ただの「占い師」と成り下がったのです(神社の御祓もカネですね。しかもカネによって違いがありますね。値段表など)。
彼らは、バアルによって予言し、民を迷わせたのです。

京都

京都は日本のお腹、へその部分でもあります。胎児がお母さんから栄養をもらうへその尾が、京都にあたるとは、興味深いです。今まで祈って来て、面白いと思う反面、怖いとも思います。伝えることを失敗したら(主が望んでおられる事と違うことを語るなら)とんでもなく恐ろしいペナルティー(罰。反則や違約に対する罰則)が待っているからです。

三大祭

京都の葵祭、祇園祭、時代祭・・・、売り上げのほとんどは、商売のためです。主の祭りを、自分たちの商売のために使って来たのです。主は、「何のためにこの祭りをやって来たのか!? 今こそ本心に立ち返れ!」と言われているのではないですか。日本の預言者たちは、民の責任を負わなければならないのです。
今のこの日本の状態をどう見るのか・・・!? 気づかせてくださる方はイエス様だけです。

祈りの戦い

太秦の戦いは、祈りの戦いです。祈りの中で、問題意識を持ち、国の罪を、自分の罪として御前に持っていけないなら、全てが無意味です。親中派が一体何ですか? 関係ありません!「あなたの敵を愛せ」と言われてるではありませんか。
必要なのは、イエス様の証人です。それは「イエス様に聞き従える弟子」です。
「義人の祈り」には力があります。エリヤは、私たちと同じような人でしたが、雨が降らないように祈ると、3年6ヶ月の間、雨が降らなかったのです。みなさんも、祈りによって天候をコントロールできます。信じますか? 聖書の奇跡が信じられないなら、あなたには何もありません。すべて虚しいのです。

詩篇73:1~12
1「まことに上帝は愛しみ深い。イスラエルに 心の清らかな人たちに。」
2「けれどもこの私は、 足がつまずきそうで 私の歩みは 滑りかけた。」
3「それは 私が悪しき者が栄えるのを見て 誇り高ぶる者を妬んだからだ。」
4「実に彼らの死には苦痛がなく 彼らのからだは肥えている。」
5「人が苦労するときに 彼らはそうではなく 他の人のように打たれることもない。」
6「それゆえ高慢が彼らの首飾りとなり 暴虐の衣が彼らを覆っている。」
7「彼らの目は脂肪でふくらみ 心の思い描くものがあふれ出る。」
8「彼らは嘲り 悪意をもって語り 高い所から虐げを言う。」
9「彼らは口を天に据え その舌は地を行き巡る。」
10「それゆえ この民はここに帰り 豊かな水は彼らに汲み尽くされる。」
11「そして 彼らは言う。『どうして上帝が知るだろうか。いと高き方に知識があるだろうか。」
12「見よ これが悪しき者。彼らはいつまでも安らかで 富を増している。」

 主を侮る者

「こう祈ったらあなたは幸せになりますよ」というメッセージには、全く中身がありません。イエス様の命によって、日々内側が変えられていく・・・、ということがないからです(またその喜びに預かることもありません)。
「イエス様を侮る者」に対して、「平安がある!」と言っている「キリスト教」(宗教)を信じていて、あなたは大丈夫ですか?
ガンコで頑なな “古い肉” で歩む者に、「災いはない」と言っているのですから。
本当に恐ろしいのは、地上のことではありません。死んだ後、主の「裁きの座」につく時なのです。

詩篇73:13~17
13「ただ空しく 私は自分の心を清め 手を洗って 自分を汚れなしとした。」
14私は 休みなく打たれ 朝ごとに懲らしめを受けた。
15もしも私が『このままを語ろう』と言っていたなら きっと私は あなたの子らの世代を 裏切っていたことだろう。
16「私は このことを理解しようとしたが それは 私の目には苦役であった。」
17「ついに私は 上帝の聖所に入って 彼らの最期を悟った。」


彼らの最期を

詩篇の作者は、悪者が毎日楽しそうで、罰がなく、やりたい放題をしているのを不思議に思い、悩み苦しんで祈りました。
そしてついに、詩篇73:17「ついに私は、上帝の聖所に入って彼らの最期を悟った」と言っています。「分かった!彼らの最期を見た」と。

詩篇73:18−28
18「まことに あなたは彼らを滑りやすい所に置き 彼らを滅びに突き落とされます。」
19「ああ 彼らは瞬く間に滅ぼされ 突然の恐怖で 滅ぼし尽くされます。」
20「目覚めの夢のように 主よ あなたが目を覚ますとき 彼らの姿を蔑まれます。」
21「私の心が苦味に満ち 私の内なる思いが突き刺されたとき」
22 「私は愚かで考えもなく あなたの前で 獣のようでした。」
23「しかし 私は絶えずあなたと共にいました。あなたは私の右の手を しっかりとつかんでくださいました。」
24「あなたは 私を諭して導き 後には栄光のうちに受け入れてくださいます。」
25「あなたのほかに 天では 私に誰がいるでしょう。地では 私は誰をも望みません。」
26「この身も心も尽き果てるでしょう。しかし 上帝は私の心の岩 とこしえに 私が受ける割り当ての地。」
27「見よ あなたから遠く離れている者は滅びます。あなたに背き 不実を行う者を あなたはみな滅ぼされます。」
28「しかし 私にとって 上帝のみそばにいることが 幸せです。私は 上帝である主を私の避け所とし あなたのすべてのみわざを語り告げます。」


イエス様だけを喜びとする

詩篇73:25の別訳では、「地上であなたを愛していなければ、天で誰が私を助けてくれようか。地上であなた以外の喜びはない」とあります。
地上でどれだけイエス様を愛するか・・・。そうするなら(想像もできない)素晴らしいことが起こります。
他の人との比べっこ、傲慢さ、貪欲さからきっぱり縁を切り、「イエス様しか与えることのできない喜びだけが最高である」と確信して、歩んでください。イエス様をあなたの喜びとするなら、地上のもの(この世のもの)も付いてきます。

歩みの始めは

日々の生活の中で、イエス様が「共にいるよ」と、サインをくださいます。特に私は寂しがりやなので(一人で堂仙庵に住んでいます)、本当に面白いです。
弟子の歩みの始めは、悲しいこと、苦しいことばかりです。そして、世の人は楽しんでいるように見えます。しかし、その終わりを悟ると・・・イエス様に「感謝します」としか言えなくなります。

至聖所に入って

イエス様との交わりの中で、至聖所に入って祈っていると、イエス様がいろんなことを教えてくださいます。(これから起きることだったり、ある人の誰も知らない秘密であったり)怖いです。
何かを教えられた時、喜んで高ぶるなどあり得ない。教えられたり、見せられたなら、それは責任が伴うということ。祈って取りなせと言うことです。教えられるなら、だいたい殆どが怖ろしいことです。

エレミヤ29:10~14
10「まことに、 主はこう言われる。『バビロンに70年が満ちるころ、わたしはあなた方を顧み、あなた方に愛しみの約束を果たして、あなた方をこの場所に帰らせる。
11「わたし自身、あなた方のために立てている計画をよく知っているー主のことばー。それは災いではなく平安を与える計画であり、あなた方に将来と希望を与えるためのものだ
12「あなた方がわたしに呼びかけ、来て、わたしに祈るなら、わたしはあなた方に耳を傾ける。」
13「あなた方がわたしを捜し求めるとき、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしを見つける。」
14「わたしはあなた方に見出されるー主のことばー。わたしは、あなた方を元どおりにする。あなた方を追い散らした先のあらゆる国々とあらゆる場所から、あなた方を集めるー主のことばー。わたしはあなた方を、引いて行った先から元の場所へ帰らせる。』

ラッパの音

日本にいるヘブルの民は、イスラエルに帰るのです。誰かが、ラッパを吹かなければなりません。「さあ、立ち上がれ!さあ、帰れ!」と。それは、秦氏やヘブルの民にとってのサインなのです。
太秦の宮は、そのラッパを吹く役割の一部を担うのでは、また、担えたら・・・、と願います。

道が開ける

イエス様が、立てておられるご計画があります。それは、私たちには分かりません。一歩一歩、従う生活をするなら、その分だけ道が開かれて行くのです(殻がパッと開いて、まるで霧があけていくように)。
本気になって、弟子の道を歩むなら、将来に希望があります。

探し求めるならば

それには、条件があります。「本気でイエス様を探し求めるならば」です。
クリスチャンはいかに手抜きをしているかです(手抜き=侮る者です)。
何十年、教会に通って宗教をやっていても無駄です。「この程度でよいでしょ」と思っているからです。
私も、過去にもっともっとイエス様に本気になっていれば! と思います。そうであれば、もっと凄いことが起きていたかもしれない(そしたら、みなさんとはお会いしていないでしょうね。そのほうが良かったかな?)。

ヨハネ14:6
「イエスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、誰も父のみもとに行くことはできません。」


御言葉とイエス様との交わり

イエス様は、「わたしを通してでなければ、誰も父のみもとに行くことはできません。」と言われました。神殿の幕=イエス様の体です。私たちは、イエス様を通して、「至聖所に入る祭司」とされました。
しかし、自分が気が付かなければ(いくら人に言われても)、理解することはできません。あなたの内におられるイエス様によって、成長させていただくしかありません。それはみ言葉と、イエス様との交わりによってです。それ以外はありません(幻を見た・・・等は、関係ありません)
心砕かれ(傷つきへりくだった者)が、イエス様の導きに従えるようになるのです。そのようになるなら、日常生活の中で、イエス様の思いを、ふっと(心に)くださいます。そしてイエス様からの、(あなたにしか分からない)サイン(合図、暗号)があります。
それは、とても面白いです!

(文責:安曇の民)

礼拝message 7月8日(水)

ヘブル3:7~19、エペソ4:17~27

高ぶりと頑なさ

高ぶりが増すと、頑なになります。また、未熟な熱心さは、分裂と分派を引き起こします。しかし、信仰生活は、イエス様を愛し、十字架だけを誇る熱心さからスタートしなくてはなりません。私たちの戦いは、世との闘いであり、虜を自由にするものです。世のものに惑わされたイスラエルの民は、荒野の40年で、人生を無駄にしたのです。

ヘブル3:15「今日もし御声を聞くなら、あなた方の心を頑なにしてはならない。上帝に逆らった時のように」
ヘブル3:18「また上帝がご自分の安息に入らせないと誓われたのは、誰に対してですか。ほかでもない、従わなかった者たちに対してではありませんか」
エペソ4:18「彼らは知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と頑なな心のゆえに、上帝の命から遠く離れています」

弟子を一つに

弟子たちの訓練は、頑なさが砕かれるためのものでした。マタイは売国奴の取税人、熱心党員のユダは最右翼。そんな彼らが、皇民の群れに一緒にいるのです。お互いに火花が散り、睨み合い、殴りかかる寸前の弟子たちの姿が見えませんか?
皇民の群れの中には、苦手な人がいてよいのです。それをイエス様が一つにしていかれるのです。そして、ヨハネ以外の弟子たちは、みんな殉教していきました。弟子たちは、お互いに愛し合うことを学んだのです。

砕かれていないと・・

イエス様は、苦しんで血を流さなければならなかった。天国は、柔和で砕かれた者でないと入れません。汚いまま天国に入ってしまうと、とても耐えられないほどの衝撃があります。
「今の私のやり方では、通用しない」と気づいてください。

聖所に入って祈れ

イエス様は大祭司です。そして、聖所に入れ! と言ってくださいました。祈りは、聖所に入ることです。(祈りに熟達すると、入れるようになります。聖所に入れないような祈りは、何の役にも立ちません。無意味です。)
イエス様を通して、聖所に入りなさい。イエス様は、私たちを祭司として整えて、聖所にお仕えする者(取りなし手)としてくださいます。あなたが十字架を背負っているならば、生まれつきの頑なさは、イエス様が対処してくださいます。

全き安息

イエス様に、「自分を捧げます」と真実に告白するなら、「頑なさ」の取り扱いが始まります。これが終わると、絶えず平安があり、安息に入ります。すると主が語りかけてくださいます。「全き安息」がなければ、イエス様に従うことはできません。聖霊の宮には、安息と静けさがあります。

心が迷っている

イスラエルの民は荒野で40年間、主を試みました。彼らは、心が迷っていて、主が見ておられることを知ろうともしなかったのです。イエス様を試みるならば(自分を捧げますと言いいつつ、実際には自分を捧げていない生活をするならば)、イエス様から心が離れてしまいます(自分は気が付かない)。主が「絶対にわたしの安息に入らせない」と誓われた通りです。

聖書にあるから

ユダが自殺した後、ペテロは使徒1:16~26のように、くじを引かせ、マッテヤが十二使徒の一人に加えられました。「聖書にこうあるから」という理由です。でもそれは、人間的なやり方でした。主が選ばれたもう一人の使徒はパウロでした。このことによって、後にパウロは、何度も何度も自分は使徒である、と語らねばならなかったのです。(ロマ1:1)

主にあるやわらかさ

ガラテヤ2:19~20が、速やかに自分の体験となれば、自然に「微笑み」がこぼれるようになります(みなさんのような恐い顔はしていません)。その人から「やわらかさ」が出てきます。イエス様は、砕かれた者にしか語られません。頑なな者に語りかけるのは、この世の霊です。

ガラテヤ2:19「しかし私は、上帝に生きるために、律法によって律法に死にました。私はメシアと共に十字架につけられました」
ガラテヤ2:20 「もはや私が生きているのではなく、メシアが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きている命は、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、上帝の御子に対する信仰によるのです」

霊を見分ける

簡単に霊を見分けることはできません。しかし、霊を見分ける力は必要です。これからは、惑わす人が多く出てくるからです。

エペソ4:24~27
24「真理に基づく義と聖とをもって、上帝にかたどり造られた新しい人を着ることでした」
25「ですから、あなた方は偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。私たちは互いに、からだの一部分なのです」
26「怒っても、罪を犯してはなりません。憤ったままで日が暮れるようであってはいけません」
27「悪魔に機会を与えないようにしなさい」

怒りの子

エペソ4:24~26
これは絶対に守らなくてはなりません。怒っている人は、悪霊にチャンスを与えているのです。「怒りの子」が速やかに砕かれて、内側から愛と憐みが出てくることを願います。

信仰のはかり

今のあなたの信仰のはかりでしか、他の人には伝えられません。自分が人に話す通りに生きていれば、それで良いのです。しかし、「また聞き」や、本で読んだ知識、「○○さんは、こう言っていた」などの話と、あなたの存在(生き方)が違うなら、悪霊につかれています(嘘偽りの父は悪魔)。

真理はあなたを自由に

エペソ4:25~27
自由とは、自分からの自由です。そうなれば、イエス様が、あなたを使うことができます。真理(イエス様ご自身)は、あなたを自由にするからです。「十字架以外に誇るものはない!」という自由です。そこから、互いに愛し合うなど、聖書の命令に従えるようになるのです。

主の警告

イザヤ24:4~16(前半)
これは日本のことです。古代イスラエル人が、アッシリヤに占領され、流浪の民となり、日本に移動して来た年代と、日本の建国の時期がぴったり合うと、坂東誠氏もその著書で言っています。
アモス5:21~24
イエス様の我慢も、限界に来ておられるかもしれません。悔い改めて立ち返らなければ、日本は危ないのです。神道の中に見られるユダヤを誇っても無駄です。

イザヤ24:14~16
14「彼らは声をあげて喜び歌い、海の方から主の威光をたたえて叫ぶ」
15「それゆえ、東の国々で主をあがめよ。海の島々で、イスラエルの上帝、主の御名を」
16「地の果てから、私たちは、『正しい方に誉あれ』という誉め歌を聞く」
アモス5:21~24
21「わたしはあなた方の祭りを憎み、退ける。あなた方のきよめの集会の時の香りも、わたしは嗅ぎたくない」
22「たとえ、あなた方が、全焼のささげ物や穀物のささげ物をわたしに献げても、わたしはこれらを受け入れない。肥えた家畜の交わりの生贄を献げても、わたしは目を留めない」
23「あなた方の歌の騒ぎを、わたしから遠ざけよ。あなた方の琴の音を、わたしは聞きたくない」
24「公正を水のように、義を、絶えず流れる谷川のように、流れさせよ」

祭司の衣

一緒に祈りの重荷を負って欲しい。中国の三峡ダムの麓では、すでに度々洪水が起き、多くの家が流されています。中国のクリスチャンのことを祈ると、夜も眠れません。
至聖所に入る祈りができないなら、全てむなしい。自分を捨てていることと、祭司の衣(イエス様)を着ていなければなりません。

悔い改めて立ち返れ

クリスチャンはどう祈るのでしょうか?イエス様は、悔い改めて立ち返れ、と言われました。邪魔しているのは、日本を支配する「大和の霊」と「翁の霊」(私は、こう呼んでいます)です。敵は、皇民の群れを分裂、分派させたいのです。なぜなら群れが一つになると、イエス様の御体となっていくからです。群れが一致して、イエス様の御体ができていくと、敵は困ります。敵は、イエス様ご自身と戦うことになるからです。
私たちは、天国の民です。一人一人が置かれた場所で、何をしていくのかが、問題です。

しるし

今年、祇園祭が中止となりました。祇園祭で氏子が叫ぶ「エンヤーラヤ」という掛け声は、ヘブライ語で「その神の他に神は無い」、八坂神社の「ヤサカ」は、神の小屋(神を礼拝する場所)という意味です。
天の父は、祇園祭を「耐えられない。いい加減にしろ」と言われているのかもしれません。コロナウィルスは、天の父からのサインであり、今起きている豪雨による洪水もしるしです。

天にある喜び

イエス様の栄光を現す群れとなった時、天ではご褒美が待っています。イエス様にあって新しく生まれ変わり、新しく作られた群れが一つとなっていく。
「頑な」であり続ければ、切り捨てられます。

(文責:安曇の民)