耶蘇上帝會 太秦之宮

京都・太秦を拠点とする日本のキリスト教会です

礼拝message

礼拝message 9月2日(水)

エゼキエル1:1〜14, 8:1〜9:11

エゼキエル1:10
「彼らの顔かたちは人間の顔で、四つとも右側には獅子の顔、四つとも左側には牛の顔、さらに四つとも鷲の顔を持っていた」
8:3「すると、その方は手の形をしたものを伸ばし、私の髪の房をつかまれた。すると、霊が私を地と天の間に持ち上げ、神々しい幻のうちに私をエルサレムへと携え行き、ねたみを引き起こす『ねたみ』という像がある、北に面した内門の入り口に連れて行った」
8:10「私が入って行って見ると、なんと、這うものや動物のあらゆる形、すなわち忌むべきものや、イスラエルの家のすべての偶像が、周りの壁一面に彫られていた」
14「それから、この方は私を主の宮の北の門の入り口へ連れて行かれた。するとそこには、女たちがタンムズのために泣きながら座っていた」
16「それから、この方は私を主の宮の内庭に連れて行かれた。すると、なんと、主の神殿の入り口、すなわち、玄関広間と祭壇との間に二十五人ばかりの人がいた。彼らは主の神殿に背を向け、顔を東の方に向けていた。東の方を向いて、太陽を拝んでいた」
18「だから、わたしも激しい憤りをもって応じる。わたしはあわれみをかけない。わたしは彼らを惜しまない。彼らがわたしの耳に大声で叫んでも、わたしは彼らの言うことを聞かない」

全被造物は、主を賛美せよ

ここで4つのケルビムが出てきます。
彼らは、人間、獅子、牛、鷲の4つの顔を持っていました
これは、全被造物を象徴的に表しています。
「全被造物が主の栄光のために造られている」「全宇宙の主であるお方に従い、主を褒め称えよ」「万物は上帝の皇国である!」という宣言でもあります。

現代のクリスチャンの信仰生活は、非常に日和見主義です。
自分のまわりの小さい小さい世界しか見えないのです。
しかし聖書は違います。
永遠から永遠に至るまで、万物をご支配される主なるお方について書かれています。
コロサイ書にあるように、万物は御子から出て、保たれ、最終的にはすべてが主の元に帰るのです。
福音は、新しい天と地において全被造物が主に仕え、主の栄光を現すことを待っている!という広大なスケールのことを語っています。

残された民

自分のための信仰、自分さえ良ければOK、という小さな小さな世界にあなたは生きていませんか?
コロナウィルスが全世界に広がる今、世界は経済的にも混乱し、失業者があふれています。
いったいこれは何?どうしたら良いの?と人々が困惑する中、太秦の群れに集う者は、誰一人生活に困っていません。何故ですか?
主ご自身が、ご自分が選んだ者に対して責任をお取りになるお方だからです。
主は決して私たちを見捨てることはありません。
(ただし、自分から主を捨てた者には結果を報いるお方です)

さて、エゼキエルはバビロンからエルサレムまで、約1000kmの距離を瞬間移動させられました。
そこで彼が見たのは、エルサレムに残された人々でした。
つまり、バビロン捕囚を免れ、憐みを受けてエルサレムに残された人々でした。
まるで太秦の群れのようではありませんか?
そこで見せられたものは、とんでもなくおぞましい偶像礼拝でした。

このエルサレムに残されたイスラエルの民の姿が、キリスト教をやっている人々の姿に私には見えます。

エゼキエル9:9
「主は私に言われた。『イスラエルとユダの家の咎は非常に大きく、地は流血で満ち、都も不正で満ちている。彼らは『主はこの地を見捨てられた。主は見ておられない』と言っているのだ。

つまり、このバビロン捕囚を免れ、エルサレムに残された人々は、「主は私たちを見捨てられた」と言ったのです。
特別に憐みを受けた彼らは、必死に主を求めて礼拝せず、むしろ自分たちの好きなように、勝手な偶像礼拝を始めたのです。

信仰は血縁関係で継承できない

エゼキエル8:11
「また、イスラエルの家の七十人の長老が、その前に立っていて、その中にはシャファンの子ヤアザンヤも立っていた。彼らはみなその手に香炉を持ち、香の濃い雲が立ち上っていた」

このヤアザンヤの父シャファンは、ヨシヤ王の前に立ち、律法の宗教改革を担った一人です。

II列王記22:8〜13
10「さらに書記シャファンは王に告げた。『祭司ヒルキヤが私に一つの書物を渡してくれました。』シャファンは王の前でそれを読み上げた」
11「王は律法の書のことばを聞いた時、自分の衣を引き裂いた」
13「行って、この見つかった書物の言葉について、私のため、民のため、ユダ全体のために、主を求めよ。私たちの先祖たちがこの書物のことばに聞き従わず、すべて私たちについて記されているとおりに行わなかったために、私たちに向かって燃え上がった主の憤りが激しいからだ」

ヨシヤ王の宗教改革は素晴らしいものでした。
過越の祭りを行い、民が過越のいけにえを捧げるまでに至らせました。
しかしこの事が行われたのは、このヨシヤ王の時だけでした。
この宗教改革を担ったシャファンの息子が、ヤアザンヤです。
彼は暗闇の中で偶像礼拝を行いました。

これは血縁関係(親と子)では信仰が受け継がれない、という事実を表しています。
大きな教会の経済的にも裕福な牧師は、息子に教会を継がせます。
お寺の後継ぎと同じです。こういうのは、だいたいが駄目ですね。
ちゃんとした息子を、私は見たことがありません。
だいたい癖があるというか、ひねくれてるというか。
主が用いたクリスチャンであっても、その人がどこまで主に従っているのか、子どもは見抜いているのです。
幼い時は、言葉で表現できなくても、子どもは感受性として親の生き方を受け取っています。
大きくなると、幼い頃見たり聞いたりしたことが理解できるようになり、そのことを言葉で表現できるようになります。
子供は、親の偽善、腹黒さ、二枚舌を見て育っていますから、親を反面教師にするのです。
クリスチャンの子どもは、親がイエス様の前にいかに正直であるか、見ています。
だからクリスチャンは大人を目指して努力しなければなりません。

自分がいかに弱い器であるか、そしていかに失敗する者であるか、というのを子どもに正直に見せなければならないのです。
自分も、イエス様について行こうと必死に葛藤しているのだ、と。

天に帰るという目標

Iコリント9:24〜27
25「競技をする人は、あらゆることについて節制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです」
26「ですから、私は目標がはっきりしないような走り方はしません。空を打つような拳闘もしません」
27「むしろ、私は自分のからだを打ちたたいて服従させます。他の人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者にならないようにするためです」

あのパウロでさえ、自分が失格者になってしまう可能性を否定していません。
私たちは尚更、簡単に失格者になってしまいます。
しかもすぐにです!
私たちは、天の故郷に帰るという目標を、はっきりさせていなければなりません。
アブラハムはどうでしたか?
彼は「新しい天」を目指していました。
だからこそ、主は父と呼ばれることを喜ばれるのです。
天に帰ろうとしている子どもだからです。
現代のクリスチャンは、この世の楽な素晴らしい生活ばかりを目指していませんか?
自分の腹が神なのです。
肉の人、キリスト教をやっている人の内面、心の中で大事にしているものは何でしょう。
女たちはタンムズ、豊穣の神を拝んでいました。
お金、生活の心配ですか。
しかし女は、自分の産んだ子を食べる、と聖書は言っています。
太陽を拝んでいる人々もいましたね。天照大神ですか。
神殿は西にあるのに、上帝に背を向けて東の太陽を拝んでいるのです。
それぞれが、自分の好きなように、好きな神を呼んでいるのです。
金、心配、食べ物、楽しみでしょうか!?
このように、中途半端な信仰は駄目なのです!
み使いは、この現状を悲しんでいる者たちに印をつけました。
日本、世界のこの状態を見て、まだ気がつかないのか!?と主は言われます。

常識は死人のもの

しかし、何を悲しむのですか?
イエス様の思いが何か分かっていますか?
自分の理想と違うからですか?
この世の常識を持って来るなら、あなたは偶像礼拝者です。
常識を律法の上に置いているからです。
「この世の常識以下」と言った姉妹がいましたね。
そんなことを言っても無駄なのです。
常識は、死んでいる者のものです。
ノアの方舟までの時代、主は人々の良心(常識)に任せておられました。
その結果どうなりましたか?
結局、悪が増大してノアの洪水という、裁きを受けました。
自分の肉というものに対し、罪(自分)と戦って、血を流すほどに抵抗したことがないのです。
自己主張は、肉そのものです。
自分を神とし、自分は素晴らしいと自惚れているのです。
まさにこれが偶像礼拝者です。

礼拝からイエス様を追い出している

エゼキエル8:6(新共同訳)
「彼はわたしに言った。『人の子よ、イスラエルの人々がわたしを聖所から遠ざけるために(わたしを追い出すために:リビングバイブル)行っている甚だ忌まわしいことを見るか。しかし、あなたは更に甚だしく忌まわしいことを見る」

キリスト教という宗教の礼拝では、イエス様を追い出しています。
主は、礼拝に来られます。
しかしイエス様の権威を認めず、礼拝から追い出すのです。
牧師は、メッセージでイエス様を拒絶します。
「神は愛」という垣根を勝手に作るのです。
語るのは、説教者の言いたいことばかりです。
「信じれば良い」「信じるだけで良い」と言いますが、どう信じるのですか?
どのように?

心に焼き印を帯びる

シャファンの息子ヤアザンヤにとっては、律法の書は関係ありませんでした。
心に割礼を受けていなかったのです。
心に割礼を受けるのは、主の民である証です。
心に割礼を受けるとは、その心が痛むことです。
心にみことばが刻まれることです。

パウロは、私は心に焼き印を帯びている、というリアルな言い方をしました。
心に焼き印を押されたなら、痛いのです!
みことばがあなたのガイド役になり、イエス様との交わりに導きます。
それがあなたの指針となり、間違った道から主が引き戻してくださるのです。
私は何度も失敗をしました。
何故イエス様は私を捨てられなかったのでしょうか。
分かりません。私は弱い器です。
イエス様に対して、言い訳やごまかし、言い逃れは絶対にしてはいけません。
正直に告白するのは、苦しいことです。
しかし正直である者に対してだけ、立ち返る道が許されるのです。
これは新しく生まれ変わっていないと、できません。
新しい命の特徴は、素直さです。
天の父との間に、あたたかい安らぎを感じる、父と子の関係があるかどうかです。
子どもは親といると安心します。
イエス様がともにいてくださる、という平安です。
その関係が断ち切られそうになると、子どもは分かります。
幼子としての、デリケートな感覚です。
父と離れてしまったら、不安を感じるのです。
しかし新しく生まれていないと、この感覚は分かりません。
命がなければ、自分が良いと思うことを勝手にやっているだけです。
すべては命の問題です。

従うのか従わないのか

ヨハネ3:36
「御子を信じる者は永遠のいのちを持っているが、御子に聞き従わない者はいのちを見ることがなく、上帝の怒りがその上にとどまる」

天の父と子のデリケートな繋がりは、理屈ではありません。
理論や神学でもありません。感覚的な霊的事実です。
この土台があって、イエス様を知り始めるなら、主の命令に対してYes か No だけで良いことが分かります。
つまり、従うか従わないかです。
子どもは親の後をついて行きます。
父と母を見分けられるようになれば、ちゃんとついて行けます。
羊は、羊飼いの声を知っているので他の人にはついて行かないのと同じです。
だから、イエス様の御声を聞き分けられるようにならなくてはなりません。
イエス様の御声を知らないなら、自分の声を聞いているだけです。
イエス様は、御声を聞いてついて来る子どもを求めておられます。
あなたはイエス様を愛する者ですか?
ある程度成長しないと、愛は分かりません。
あなたは何歳で愛を知りましたか?
十字架を通して、一方的に与えてしまう愛を、報いと応答を気にしていないアガペーの愛を。
弟子の最初は、アガペーの愛があるかどうかです。
何も報いを求めないで与える愛です。感謝も称賛もいらない。
これが訓練です。

金持ちの青年に、イエス様は何と言われましたか。
財産を全部売り払って、貧しい者に与えなさい。
そうしてわたしについて来なさい、と。
相手は貧しい者なので、何も返ってきません。
だから天に宝を蓄えよ、と言われたのです。
天の御国での報いを求めていないなら、地上では楽しくありません。

ぶどう園の喩えを思い出してください。
お昼に雇われた者、夕方に雇われた者もいました。
しかも、最後に来た人から賃金を払ってあげなさいと言われ、金額も同じだったのです。
人間的に言うなら、何と言う不公平でしょう。
覚えておいて欲しいのは、これがイエス様のなさり方です。
わたしが好きなようにして何が悪いのですか?と言われます。
人間の常識では、決して分かりません。

私がこのようにメッセージを語っていることは、神学校時代の仲間が見るなら、全員が「なんであいつが!?あり得ない」と言うでしょう。
今ここに私がいることが、イエス様は生きていらっしゃる、と言う証です。
自分の常識や考えを、決して信仰に持ち込んではいけません。

何を求めて礼拝に来るのか

エゼキエル9:6
「『年寄りも、若い男も、若い娘も、幼子も、女たちも殺して滅ぼせ。しかし、しるしが付けられた者には、だれにも近づいてはならない。まず、わたしの聖所から始めよ』そこで、彼らは神殿の前にいた老人たちから始めた」

あなたの中の「隠された部屋」は何ですか。
自分自身?家族?どんな宝ですか?
香を焚いている者たちも、礼拝していました。
しかし何に向かってですか!?イエス様は問いかけておられます。
あなたは、何を求めて礼拝に来ているのですか。
聖書には「幼子も女たちも年寄りも殺して滅ぼせ」とあります。
甘く見てはいけません。
裁きは教会、皇民の群れから始まるのです。
主は、その人に印がついているかどうかを見られます。
あなたはこの一週間、いつ、心と力を尽くしましたか?
どこで、力を尽くして祈りましたか!?
イエス様と出会いたかったら、必死にならないと無理です。
探しなさい。叩きなさい!
キリスト教をやるだけでは生ぬるく、吐き出されます。

心を尽くせ

「イエス様を愛するゆえに、私はこうしているのだ」と言えるようになって、ようやく一丁前です。
「イエス様が良いと言われるなら、私はそれで良い」と言えるようになってようやくちょっと兵士です。
逆にキリスト教は、「私と家族が幸せであるように、健康であるように」と求めるでしょう。

あなたは今日、イエス様に対して尽くしましたか?
本気で生きている姿が、天の父が喜ばれる姿です。

あなたは誰のために命をかけているのですか?
それを、見せなさい!

私たちは主にお仕えするために礼拝しています。
悪霊はあなたをこの世に縛り付けておきたいのです。
キリスト教と同じように、肉は隠れて何かを拝んでいます。
それは偶像礼拝です。
熱心に悔い改めて、この肉を捨てていかなければなりません。
そうでないと、この世に引き戻されます。

文責 菅原はれみ


礼拝message 8月30日(日)

雅歌2:1〜4

雅歌2:1〜4
1「私はシャロンのばら、谷間のゆり」
2「わが愛する者が娘たちの間にいるのは、茨の中のゆりの花のようだ」
3「私の愛する方が若者たちの間におられるのは、林の木々の中のりんごの木のようです。その木陰に私は心地よく座り、その実は私の口に甘いのです」
4「あの方は私を酒宴の席に伴ってくださいました。私の上に翻る、あの方の旗じるしは愛でした」

一番大切なものは、ヒューマニズムの愛ではありません。
アガペーの愛がなくてはすべてが空しい、と聖書は言っています。

マルコ10:35〜45
42「そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた。『あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められている者たちは、人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています」
43「しかし、あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい」
44「あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい」
45「人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分の命を与えるために来たのです」

何を求めているのか?

今キリスト教会で、福音をどのように伝えているのか?
その信者さんたちを見ていたら分かります。
牧師がどのような福音を宣べ伝えているかも。
彼らが何を求めているかが分かってしまいます。
多くの教会で求めているのは、経済的な祝福(お金)、健康、人間的な愛。寂しいから、暇だから、行っている人もいるでしょう。
十二弟子ですら、福音をどこまで理解していたのか・・・。
彼らはイエス様を、ユダヤ人の王、メシアとして来られたお方として見ていたでしょうか?
いいえ、彼らは惨めなローマの属国から解放してくれるダビデ王のようなお方として、イエス様を見ていたのです。
ナザレから出た新進気鋭の若いラビ、イエス様は、悪霊を追い出し、病人を癒し、奇跡を行われました。
しかしその反面、パリサイ人や律法学者(支配階級)がこれで良いと今までやって来た信条を、真向から打ち砕く発言をなさいました。
彼らの鼻をへし折られたのです。間違っている、と。
彼らにとっては、ナザレの若造が自ら「人の子」=「ヤハウェの子」として名乗り、「父と私は一つである」と発言したことは許せないことでした。
彼らは怒りに燃えて、石をつかんでイエス様を殺そうとしました。

イエス様が十字架の死を成し遂げられ、復活してペンテコステを迎えるまで、十二弟子もまるでこの世の人(一般のユダヤ人)と同じことを考えていました。

男性には「偉くなりたい、人の上に立ちたい」という野心と願望が強くあります。
女性はどうですか?同じですか?

私も女性は聖女(マドンナ)だと思っていたころがありました。
でもその妄想は打ち砕かれましたね。

信仰の世界

安倍首相が辞任を表明されました。
ずっと祈ってきた者として「お疲れ様でした」と言いたいです。
批判なら何でもできるでしょう。
しかし、この歴史において安倍首相が何をされてきたのか。
日本の今の政治状況を見れば、誰が「獅子身中の虫」なのかはっきりしました。
この政治の混乱した状態は、信仰の世界を映しています。
安倍首相は変えようと戦っていました。
しかし、敵はそんなに簡単にはさせませんでした。
日本のトップである総理大臣の力と権限を持ってしても、できなかったのです。
安倍首相を見てください。ぼろぼろです。

詩篇33:12
「幸いなことよ 主を自らの上帝とする国は。上帝がご自分のゆずりとして選ばれた民は」

日本がイエス様の前にひざまずく

私の願いは、日本がイエス様の前にひざまずき、イエス様を「日本の神」とすることです。
(注:太秦の宮では、主を「上帝」もしくは「イスラエルの神」と呼んでいます)
4月1日に、Twitterで「上帝に立ち返れ」と発信しました。
ユダヤ十部族が日本に来ているなら、神武天皇と共に、預言者的な人物がいたはずだからです。
混血したサマリヤ人であっても同じです。
彼らは民族の誇りを持っていました。
日本にこれだけ古代ユダヤ教の足跡が残されているのなら(田中英道氏や坂東誠氏もその著書で言っています)、預言者は必ずいるでしょう。
桓武天皇も、上帝なるお方に生贄を捧げたことが記録に残っています。
日本は上帝なるお方に立ち返らねばなりません。
日本人は、学会が決めた通説以外を認めません。
日本人の悪いところとして、頑固で一旦決めると崩すのが難しい、という点があるでしょう。
今、世に現れているものは全て、イエス様からのメッセージです。
政治の世界は、日本の霊的な世界を映しているのです。
それを見れば、敵がどのようにしているか分かります。

パウロは、エペソ6章で私たちの戦いは血肉のものではない、と言っています。
イエス様は必ず見える形としての予型を、メッセージとして私たちに与えています。
私たちは、祈りの中でそのメッセージを見なければいけません。
必ず聖書に戻って見てください。
戦いのことは、士師記、列王記、歴代誌の中にたくさん出て来ます。
私たちがやってはいけない失敗を、その中から学んでください。

土台は、イエス様への愛

太秦の群れは、今はまだ土台を作ろうとしている状態です。
この土台は、イエス様に対する愛です。
ただ単に聖書を読んでいるだけなら、お祈りと断食をしているだけなら・・・どうやってその時代に為さなければいけない御心を為すのですか?
太秦の群れは、御子イエス様の栄光だけを求めているのです。
仕えたくない者、人の上に立ちたい者は要らないのです!
仕える、という態度は、イエス様を模範にしないとできません。
わたしのようにしなさい、と言われているからです。

マルコ10:45
「人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです」

イエス様は、自分のことなど考えておられません。
そして自分の命を、贖いの代償としてあなたに与えるために、地上に来られました。
世の罪を取り除く上帝の子羊としてです。

驕る平家は久しからず

平家物語の冒頭です。(みなさん覚えたことがありますか?)
「祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響あり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ」

「驕る平家は久しからず」の諺があります。
地位や財力を誇り、思い上がって勝手な振る舞いをすれば、必ず滅びる時がくるということです。
増長、つまり、おごり高ぶって人を侮ったり、見下したり、礼儀を欠いたりすることです。
これと反対に、聖書は何と言っていますか。
愛は、礼儀に反することをしません。
クリスチャンに礼儀知らずはあり得ません。

私の妻は韓国人でしたから言いますが、韓国の教会はプライドばっかりでした。
牧師や長老は偉そうにしていて、イエス様とは全く違う姿でした。
妻は私に「あなたはいつも牧師と喧嘩して別れる」と文句を言ったものでした。
仮に金牧師としますが、「わざわざ日本に来て伝道してやってるのに!」という態度でした。
私は「金牧師は十字架が分かってない!」と言ってしまいますので、向こうはカンカンです。
「牧師に向かって何だ!!」という感じです。

愛は人を育てる

太秦之宮では、弟子になる者に対し、自分を捨て、十字架を背負ってイエス様について行きなさい!と言っています。
しかし、一週間経つと元に戻っているとは、どういうことですか。
それでは、イエス様が期待する者にはなれません。
では、何故訓練されなければならないのですか。
聖くされるためです。
聖い器になれば、尊い大切なところに用いられるからです。
汚い器なら、汚いところに使われます。

ヨハネ15:12〜17
12「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの命令です」
17「あなたがたが、互いに愛し合うこと、わたしはこれを、あなたがたに命じます」

ここで、「互いに愛し合え、互いに仕え合え」と言われています。
それは心の態度です。「教えてあげるよ」という上から目線ではありません。
イエス様への愛を高めるような助けを、与えられるかどうかです。
愛は、人を育てます。
だからイエス様の弟子として、生まれつきの古い肉から解放されて、新しい命が強くなるようにと、願われているのです。
内なるイエス様の命が強くなり、そのイエス様の命が、あなたをコントロールできますように。
自分の肉でコントロールすると、すぐ限界に達して「無理、できない!」となってしまうのです。
何故なら、肉の内に善は住んでいないからです。
この善は、人間の考える善ではありません。天の父から見ての善です。
私たちの肉は「自分が神。自分が正しい。人から言われたり、教えられたくない」と主張します。
だからイエス様が新しい命を与えようとしておられるのです。
イエス様は、あなたの個性を壊そうとされている訳ではありません。

聞く耳のある者は少ない

「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われています。
しかし、聞く耳のある者は、本当に少ないのです。
こうやって、わたしは何十年も礼拝で語ってきました。
しかし、私の妻は頑として自分を守っていましたね。
彼女は韓国人でしたから「日本人から教えられるなんてとんでもない!日本人に上に立って欲しくない」と思っていたのですね。
妻は最後、癌で亡くなる前には、私のことを必要としてくれましたけどね。
日本人にも悪いところはあります。
腹に一物あるというか・・・話しているとそれが出て来ます。
人によって態度を変えたり、自己保身に走り、自分だけ、家族だけよければOKという態度です。
だから裏表のない人と話をするのは、本当に気が楽です。

旗じるしは愛

私が求道者で、初めて雅歌を読んだ時、ショックでした。
こんなことを聖書に書いて良いのか!?と思いました。
しかし、旧約聖書にこの雅歌があるのは、素晴らしいです。
愛をリアルに、真正面から向き合って書いているからです。
これは、イエス様とあなたの、新約聖書での愛の雛形です。
イエス様とあなたの関係を書いているのです。
戦国時代の騎馬隊が背中に付けている旗(のぼり)を思い浮かべてください。
敵か味方か、見分けるために家紋が入っていたのです。

雅歌2:4
「私の上に翻る、あの方の旗じるしは愛でした」

私の上に翻っている旗は、イエス様の愛。
つまり「この者はわたしのものだ」「この者はわたしの愛する者だ」というイエス様の旗じるしなのです。
感動しませんか!?
この旗じるしを見て、敵は退くのです。
イエス様が愛しておられる者に、敵は手出しできません。
み使いが守っているからです。
だからそういう人に手出しすると、敵はダメージを受けます。
男女、子ども関係なく、新約では皇民の群れはみなイエス様の花嫁です。
あなたの上に、イエス様の愛という旗じるしがはためいている!と分かっていたら、励ましになりませんか。

わたしを愛していますか

ヨハネ21:15〜18
15「彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。『ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか』ペテロは答えた。『はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存知です』イエスは彼に言われた。『わたしの子羊を飼いなさい』」
16「イエスは再び彼に『ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか』と言われた。ペテロは答えた。『はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存知です』イエスは彼に言われた。『わたしの羊を牧しなさい』」
17「イエスは三度目もペテロに、「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか』と言われた。ペテロは、イエスが三度目も『あなたはわたしを愛していますか』と言われたので、心を痛めてイエスに言った。『主よ、あなたはすべてをご存知です。あなたは、私があなたを愛していることを知っておられます』イエスは彼に言われた。『わたしの羊を飼いなさい」
18「まことに、まことに、あなたに言います。あなたは若い時には、自分で帯をして、自分の望むところを歩きました。しかし年をとると、あなたは両手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をして、望まないところに連れて行きます』」

イエス様は、ペテロに対しアガパオー「わたしを愛するか?」と聞かれました。
ペテロは、十字架の前に、イエス様を知らないと言って逃げて、泣きました。
彼は答えられませんでした。
上帝が、どれほど罪人を救いたいと願っておられるのか、初めて分かったからです。
イエス様は、十字架で血を流し、死んで蘇られた後、聞かれました。
「わたしを愛しているのか?本当にわたしのために死ぬ覚悟はできているのか?」と。
ペテロは、フィレオー「好きです」と答えました。
アガパオーでは答えられなかったのです。
イエス様は、あなたにも、アガパオー「命をかけてわたしを愛するか?」、それともフィレオーなのか?と聞かれます。
あなたが、アガパオーと答える時、あなたは本物です。
イエス様への愛は、必ずその人に現れて来ます。
それがあふれてきたら、周りの人は本当に心地よいのです。
天の御国はこのようなものだと、その人が感じ取ることができるのです。

試練を喜びなさい

マタイ6:33「まず上帝の国と義を求めなさい。そうすれば、これらのものは全て、それに加えて与えられます」
このように、天の父が、日常生活の全ては心配してくださいます。
だから、主に信頼して、為すべきことを忠実にやれば良いのです。
そうすれば、必ず道を開いてくださいます。
希望と将来への計画は、イエス様が持っておられます。

ヤコブ1:1〜4
1「上帝と主イエス・メシアのしもべヤコブが、離散している十二部族にあいさつを送ります」
2「私の兄弟たち。様々な試練にあう時はいつでも、この上もない喜びと思いなさい」
3「あなたがたが知っている通り、信仰が試されると忍耐が生まれます」
4「その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは何一つ欠けたところのない、成熟した、完全な者となります」

ここでヤコブは、信仰の試練を喜べと言っています。
試練は、痛いし苦しいものです。でも感謝なのです。
イエス様を愛さないなら、地上で生きたことが何の価値もありません。
イエス様について行こうと、苦闘してきた者に対してだけ、イエス様は天の扉を開けてくださるのだからです。
信仰の従順を毎日学んでいるのか、嫌だと自分勝手に生きるのか、二つに一つです。
私たちは、毎日テストされているのです。

イエス様への愛

一日ボケ〜ッと無駄に過ごしたなら、あなたの何かがずれています。
主は愛する者を鞭打つからです。
信仰の土台は、行きつくところが、イエス様への愛です。
その愛が、人への愛になるのです。

イエス様への愛があれば、自分をどう取り扱えば良いか分かります。
自分を主のしもべ、はしためとして扱うからです。
イエス様が「あなたは、私を愛するか?」と聞いておられます。
これが、すべての鍵です。
イエス様の愛に、あなたがどう答えて来たのか。
今の自分を見たら分かります。
これまでどのように生きてきたのか、結果が今だからです。
今の自分自身を認めたら、自分には何が足りなかったのか分かるでしょう。
イエス様に愛されていることを知ったなら、イエス様を愛するようになります。
十字架の愛を知らなかったら、イエス様を愛する者にはなりません。
イエス様への愛もないのに、一体何を伝道するのですか?
イエス様の目には、そのようなことは不義です。
あなたの内からあふれる命の水があるなら、そのような自称クリスチャンたちも気がつくでしょう。
教えようとして説教しても無理。
人には伝わらない。そう簡単には、人は変わらない。
あなたが主にあって変えられ、それで周りが変わって行く。
これが本物です。
あなたの周りは頑固な人ばかりでしょう?
あなた自身が頑固だからです。

文責 菅原はれみ


礼拝message 8月26日(水)

ヨハネ17:1〜19

ヨハネ17:13
「わたしは今、あなたのもとに参ります。世にあってこれらのことを話しているのは、わたしの喜びが彼らのうちに満ちあふれるためです」

人間として生かされている中で、喜んだことのない人の人生は、一体どのようなものでしょうか。
全く喜びのない人生です。考えてみてください。
あなたは喜んでいますか?

リビングバイブルで読んでみましょう。

ヨハネ17:13
「今わたしは、みもとに参ります。彼らの心がわたしの喜びで一杯になるようにと、一緒にいる間は、できるだけのことを話しました」

ヨハネ15:9〜12
9「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい」
10「わたしがわたしの父の命令を守って、父の愛にとどまっているのと同じように、あなたがたもわたしの命令を守るなら、わたしの愛にとどまっているのです」
11「わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたが喜びで満ちあふれるようになるために、わたしはこれらのことをあなたがたに話しました」
12「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの命令です」

注:ここでは、英語の直訳 commandment (命令)を使っています。

イエス様の言葉は、命令です。
‘Yes or No’です!
従うのか、従わないのか、’Yes’か’No’の2つに1つです。
曖昧な中道はありません。

マタイ28:20
「わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」

信仰は実践するもの

ここに「わたしが命じておいた、全てのことを守るように」とあるように、イエス様の言葉は、絶対的な権威ある言葉です。
そしてイエス様の言葉は、十戒の上にあるのです。
キリスト教では「ただ信じれば良いのです」と言って、真実をカバーして(覆って)、ごまかしているのです。
旧約聖書では、信仰は実際生活の中で実践するものでした。
アブラハムは、主から呼ばれてウルから旅に出ました。
そして愛する息子イサクさえも、主に捧げて殺そうとしました。
このように、信仰は現実的にあらわされるものです。

信仰の実践が分からない人は、ヤコブの手紙を読んでください。
パウロはどのように生きましたか?
彼は「私に倣って欲しい」と言い、主を信じるゆえに、実際に信仰を行動に移したのです。

実体

使徒3:6
「すると、ペテロは言った。『金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・メシアの名によって立ち上がり、歩きなさい』」

ペテロは、物乞いに何と言いましたか。
彼に癒される信仰があるのを見てとって「金銀は私にはない。しかし私にあるものをあげよう。イエス・メシアの名よって、歩きなさい!」
イエス様のお名前には、実体があるという感覚をしっかり持っていたのです。
現代のクリスチャンには中身がないのです。
パウロは「行いのある信仰を見せてあげよう」と言っています。

しかし、キリスト教はどうですか?
実体のないイエス様を信じているのです。
まるで架空の想像上の産物のような扱いをするのです。
生きているお方に対して、です。

ヨハネ17:2「あなたは子に、すべての人を支配する権威を下さいました。それは、あなたが下さったすべての人に、子が永遠の命を与えるためです」

この事実が、キリスト教では机上の空論になっているのです。
誰が、永遠の命を与えてくださるのですか。イエス様です!
イエス様が、永遠の命に対する権威を持っておられるのです。

この世の霊

あなたは、どういう霊に引きずられて生きているのですか?
よく自分を見てください。
肉の思いに立ち戻れば、この世の霊はあなたを待っています。
「神様、神様」と呼んでいる人は、一体どの神様を呼んでいるのですか?
いつもあなたの側にいるこの世の霊(悪霊)が、囁いてコントロールしているのです。
本人には、そのことは分かりません。

ヨハネ15:12
「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの命令です」

愛がなければ

愛そうとしないクリスチャンは、命令違反をしています。
多くのキリスト教はカルト集団と化し、「大丈夫ですよ」という牧師の考えのまま生きています。
絶対的権威を持っておられるのは、イエス様だけです。
私たちは、イエス様に聞き従う立場をとるのです。
互いにこのことを戒め合わねばなりません。
自分が命令違反をしていることに気がつかないクリスチャンは、愛がなければ全てむなしい、ということが分かっていません。
アガペーの愛は上から来ます。
主は、天の父、御子、ご聖霊の間にある家族のような愛の中に、あなたを招こうとされているのです。
人間の陳腐な愛とは違います。
人生の全ての土台、判断基準は、アガペーの愛でなくてはいけません。
あなたはアガペーの愛を土台として、誰かを愛していますか?
愛がなければ、全てがむなしいのです。
あなたは誰かを愛そうと努力しましたか?

Iヨハネ3:16
「メシアは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです」」

イエス様は、私たちのために命を捨ててくださいました。
それで私たちは、愛がどのようなものか分かったのです。
あなたはいつ、この愛を知りましたか?
イエス様に愛されていることを知り、その愛で誰かを愛するのです。
人間が本当に必要としているのは、イエス様の十字架の愛です。
人間の家族愛も、親子の愛も、夫婦の愛も、アガペーの愛には決して達しません。
イエス様の愛を実感していなかったら、次のステップには行けません。
イエス様の新しい命があるかどうかは、あなたに愛があるかどうかが証明します。
決して見せかけや愛のあるふりをしてはいけません。

不思議な助言者

イザヤ9:6〜7
6「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある上帝、永遠の父、平和の君』と呼ばれる」

不思議な助言者が、あなたと共におられるのに、何故聞こうとしないのですか?自分の肉の声、叫びばっかりです。
うるさい、黙れ!と言われているのが分からないのですか。
いつになったら、イエス様について行くのですか?
あなたが何をしていようと、イエス様は助言をくださいます。
あなたが聞かないだけです。

ヘブル12:15
「誰も上帝の恵みから落ちないように、また、苦い根が生え出て悩ませたり、これによって多くの人が汚されたりしないように、気をつけなさい」

主は、天から警告を与えておられます。
その生き方はダメだ!その判断は間違っている!と。
交わりで、イエス様が「その報告はもう聞きたくない」と言っておられることがあります。
それを言っていると、お前の罪になるのだよ、と。
24時間あなたを見ておられるお方をごまかせると思っているのですか?
全てを見抜いておられるのです。
言いたいことを言うのが、正直ではありません。
内におられるイエス様の御霊を裏切らないことが、正直なのです。
イエス様の基準は、あなたの言葉に愛があるかどうかです。

今の言葉には愛がないだろう、とイエス様は言われます。

語り続けておられる

ヘブル1:1〜4
2「この終わりの時には、御子にあって私たちに語られました。上帝は御子を万物の相続者と定め、御子によって世界を造られました」

リビングバイブルでは

ヘブル1:2
「しかし今の時代には、ご自分のひとり息子を通して語っておられます。上帝はその子に全てを受け継がせ、彼によって、世界とその中の全てのものをお造りになったのです」

リビングバイブルでは、spoke(過去形)ではなく、speak(現在形)を使っています。
イエス様は、今も語り続けておられるのです。
イエス様の思いと違うことを言ったり、やったりし続けるなら「敵の手の中に入ってしまうのだよ、敵があなたを道具として使ってしまうよ」と言われているのです。

太秦の群れでは、アガペーの愛が基準です。
それは個人の責任です。
あなたが話すこと、やること為すこと、生活の全てがアガペーの愛を基準としていますか?
このアガペーの愛を基準に、判断し、行動し、言葉にしている者が「イエス様は私の主です」と言うことができるのです。
イエス様に服従している者しか、イエス様を主と呼んではならないのです!

文責 菅原はれみ

礼拝message 8月23日(日)

Iテモテ1:18〜2:15

みなさんに質問です。
旧約時代と新約時代で、最大の違いは何ですか?
時間を取ります。自分で考えてみてください。

本当の敵は誰か

イエス様が来てくださったその時から、本当の敵は誰なのか、はっきりと現されたのです。
イエス様がご生涯を始めようとされる時、「メシアとして罪を犯すように」誘惑したのがサタンです。
旧約時代には、サタンはおぼろげに登場します。
ヨブ記で主の会議に連なったり、ルシファー、明けの明星としてだったり、まるで影が通り過ぎるように登場します。
また創世記では、サタンは蛇の中に入って、蛇を使ってエバを誘惑しました。
イエス様がまことの王としてお生まれになり、メシアとして十字架に向かって歩み始めようとされた最初の時、サタンは荒野でイエス様を誘惑し、立ち塞がったのです!
ここで、戦うべき敵は誰なのか、はっきりしたのです。

罪ゆえのもろさ

旧約時代は、イスラエルの民と異邦人との戦いでした。
イスラエルの民は、主の律法を与えられ、聖別された宝の民でした。
しかしイスラエルは、生まれつきの人間は主の律法を守れないという弱さをあらわにしたのでした。
人間とはどのような者か、自ら律法を破って行くというはかなさ、罪ゆえのもろさを現したのです。
だから、イエス様が来てくださらなければ未来も希望も何もないのです。
人間は罪の呪いのゆえに、悪魔と一緒に滅んで行く運命でした。
しかしイエス様はアダムとエバの罪の呪いを十字架で引き受けてくださいました。
イエス様のきよい贖いの血によって、私たちは罪と死から救い出されるのです。
イエス様が死から復活してくださったことによって、蘇りは現実なのだ!と証してくださったのです。
死と復活によって、永遠の希望は現実であり、天国は実在し、そこで新しい体をもって永遠に生きるという現実を明らかにしてくださったのです。

地上では旅人

アブラハムは大金持ちでした。
彼なら、宮殿のような立派な家を建てて住むことができたでしょう。
しかし、そうはしませんでした。
彼は生涯天幕生活を続け、地上では旅人であることを証したのです。
私たちは、アブラハムの信仰に倣えと言われています。
地上では旅をしているに過ぎず、本当の喜びは天に帰った時に味わえるのです。

パウロの時代にも、復活を信じないクリスチャンがいました。
現代のクリスチャンはどうですか?
唯物主義になり「地上の楽しみが全てだ」となっていませんか。
彼らの神は、自分の腹です。
願望が地上で実現することだけを願っているのです。

そうなると地上のことで頭がいっぱいになり、人からどう評価されるかばかりが気になります。
金持ちは、いくら稼いでもお金が足りない、足りない、と言うのです。

クリスチャンは、天のふるさとを目指していることを普段の生活の中で現すのです。
礼拝の時だけそれらしい顔をして、普段の生活は自分勝手にしているなら、主のみこころにはかないません。
不合格です。そのような人は地上のことだけで終わります。

貧しい者は幸いです

ルカ6:20〜21
20「イエスは目を上げて弟子たちを見つめながら、話し始められた。
『貧しい人は幸いです。上帝の国はあなたがたのものだからです」
21「今飢えている人たちは幸いです。あなたがたは満ち足りるようになるからです。
今泣いている人たちは幸いです。あなたがたは笑うようになるからです』」

ルカの福音書は、異邦人のために書かれました。
異邦人には、この世のことしか分からないからです。
ここで「貧しい者=乞食」は幸いだと言われています。
乞食は貧しさを知っている人です。
「飢えている人、泣いている人は幸いだ」と聖書は言っています。
今、中国の洪水の中で苦しんでいる人たちにこう言えないなら、あなたはクリスチャンではありません。
「今飢えている人は幸いです」と証して、物資を持って行ける人が必要なのです。
「今この苦しんでいる時にこそ、本物の幸いを知るチャンスなのですよ」と。
苦しんでいる時、泣いている時、飢えている時が、本当の幸いを知る魂の準備ができている時です。
苦しみ、悩みを通して、イエス様のところに引き寄せておられるのです。
人間にとって、何が幸いなのか・・・と。
悪魔は、人間が帰るべき天のふるさとに帰れないように邪魔をします。
人間を地上に縛りつけるように仕向けるのです。
地上に財産を多く持つ金持ちが、天の御国にはいるのが難しいのはそのためです。
健康でお金持ちで地上で大満足している人は、永遠の命を手に入れるのは無理です。
だから金持ちの青年にイエス様は言われたのです。
「財産を全て売り払ってついてきなさい」と。

霊的な権威

エペソ1:15〜23
20「この大能の力を上帝はメシアのうちに働かせて、メシアを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて」
21「全ての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられる全ての名の上に置かれました」
22「また、上帝はすべてのものをメシアの足の下に従わせ、メシアを、全てのものの上に立つかしらとして皇民の群れに与えられました」

霊的な世界は、権威、権力、権勢で成り立っています。
悪霊の世界にもヒエラルキーがあります。
そして、全てのものがイエス様の足の下に従わせられたのです。

ルカとマタイの福音書の、平地の垂訓と山上の垂訓が信仰の土台です。
あなたの生活が、みことばの土台の上に成り立っていないなら、もう戦いには敗れています。
コロナウィルスが全地を覆う今、世界はもう後戻りはできません。
濁流に飲み込まれるように、この世界は流されて行きます。
この世のことで、わあわあ騒いでいたら、クリスチャンとは言えません。
自分のことでキョロキョロよそ見をしていたら、どうやって敵と戦えるのですか。
今世界で起きている事は、全て起きるべくして起こっているのです。
悪魔の申し子のような中国共産党が、主に鉄槌を下されています。
主は、本物の弟子が誰であるか知っておられます。
この世と調子を合わせているクリスチャンは、このまま濁流に飲み込まれていきます。

狭い門から入りなさい

イエス様の命令があなたの生活の中で実践されていないのなら、敵は笑っています。
私たちは努力して狭い門から入るように、と言われているからです。
現代のクリスチャンは、ほとんどそんなことをしていないでしょう!?
生ぬるいのです。
そして入ろうとしても、入れなくなる人々が大勢いるのです。
イエス様は、聖書のみことばを通して主と交われるようにしてくださいました。

パウロはある人々に対して「主を冒涜してはならないことを教えるために、サタンに引き渡した」と言っています。
これは本当に恐ろしいことです。
戦いは命のやり取りです。
遊びではありません。
はっきり言って人が死にます。

主が、国々を裁かれ、打たれる時、弱い者から打たれて行きます。
主が国を打たれる時、その裁きは正しいのです。
私たちの側で、その裁きをやめてください、と言う事はできません。
しかし、死んではならない弱い者たちのために、祭司の役割をして祈らなければなりません。
クリスチャンが祭司の役割をして祈らないから、弱い者たちが死んで行くのです。

本物になりなさい

申命記29:24〜29
24「全ての国々は言うであろう。『何のために、主はこの地にこのようなことをされたのか。この激しい燃える怒りは何なのか』」
29「隠されていることは、私たちの上帝、主のものである。しかし現されたことは永遠に私たちと私たちの子孫のものであり、それは私たちがこのみおしえの全ての言葉を行うためである」

ヨハネ3:36
「御子を信じる者は永遠の命を持っているが、御子に聞き従わない者は命を見ることがなく、上帝の怒りがその上にとどまる」

主が何か事をなさるのは、私たちが悟るためです。
本物になりなさい、イエス様に聞き従えないなら、主の怒りを受けるのだよ、と教えておられるのです。
イエス様の命令に素直な幼子のように従えないなら、敵と戦うことはできません。
私たちは、主の軍隊にいるのですから。
(味方を攻撃し、討つようなクリスチャンがいてはなりません。
しかしそのような人がいることは事実です)

エペソ6:12~23
12「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです」
18「あらゆる祈りと願いによって、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのために、目を覚ましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くして祈りなさい」

上に立つ者のために祈れ

敵は、国を支配しています。
だから、日本の国の上に立つ者のために祈れと言われているのです。
天皇陛下のために、首相のために、祈らなければなりません。
中国のクリスチャンたちは祈っていたのでしょうか。
分かりません。
ただ言えることは、中国のクリスチャンたちが祈った結果が、今の中国の状態なのです。

主は憐みに富み、また厳しいお方でもあります。
そんなに甘くはありません。
この、日本の今の現実を見なさい!と言われているのです。
私たちは、日本のために祈らなければならないのです。
小さなことに忠実でなければ、主のみこころを為すことはできません。
そのような者でなければ、天国に入れません。
実生活の中で、実を結ばなければならないのです。
敵を愛していますか。言い訳は通用しません。
イエス様は、あなたの全てを見ておられるからです。

上帝を信じ、控えめな態度で愛にあふれた生活を送るなら

Iテモテ2:13〜15
13「アダムが初めに造られ、それからエバが造られたからです」
14「そして、アダムはだまされませんでしたが、女はだまされて過ちを犯したのです」
15「女は、慎みをもって、信仰と愛と聖さにとどまるなら、子を産むことによって救われます」

この箇所から、ある女性が言いました。
「私は子どもを産んでるから救われるけど、あの人は子ども産んでないからかわいそうよね」
何という勘違いでしょう!
悪霊に使われて、ある自分の嫌いな女性に当て付けるために言ったのです。
同じところをリビングバイブルで読んでみましょう。

Iテモテ2:15
「そこで上帝は、女に子を産む時の苦しみをお与えになったのです。しかし、もし女が上帝を信じ、控えめな態度で愛にあふれた生活を送るなら、その魂は救われます」

ここにあるように、上帝を信じ、控えめな態度で、愛にあふれた生活を送るなら、救われるのです。

神罰

創世記3:14〜19
16「女にはこう言われた。
『わたしは、あなたの苦しみとうめきを大いに増す。
あなたは苦しんで子を産む。また、あなたは夫を恋い慕うが、
彼はあなたを支配することになる』」
17「また、人に言われた。
『あなたが妻の声に聞き従い、食べてはならないと
わたしが命じておいた木から食べたので、大地は、あなたのゆえに呪われる。あなたは一生の間、苦しんでそこから食を得ることになる』」

主は、エバに産みの苦しみを与えられました。
女性への神罰は、「産みの苦しみ」と「夫はあなたを支配する」ということです。
罪を犯す以前は、アダムとエバは同等でした。
しかしここで、支配する者と支配される者という、上下関係が生まれました。
女性は男性に支配されるようになったのです。

アダムには何と言われましたか。
男性は苦しんで、汗を流して、大地から糧を得ることになりました。
苦しんで、です。
だから楽をしている男性は、くだらない者となってしまうのです。
アダムは命令を破りました。
エバには命令されていません。
主はアダムに命令を与えられたのです。だから責任は夫にあります。
男性に言います。
あなたがクリスチャンなら、忠実な主のしもべにならなくてはいけません。

何故なら、あなたの態度は妻に影響を与えるからです。
妻が、主に忠実になれないように邪魔をしてしまうのです。

あなたはどこにいるのか

みなさんに覚えて欲しいみことばがあります。
ヘブル語で「アイエーカ」です。

創世記3:9
「上帝である主は、人に呼びかけ、彼に言われた。『あなたはどこにいるのか』」

「あなたは、どこにいるのか!」、ヘブル語で「アイエーカ!」です。
イエス様はあなたにこう言われています。
「何を隠れているのか。何をごまかしているのか。何を言い訳しているのか。出てきなさい!」と。
正直になりなさい。わたしの前に来なさい、と。

以下は、交わりの時に語られた内容です。

どうして欲しいのか

毎週、「やろうとしたけどできませんでした」「文句を言って逃げてしまいました」と言っていても時間が過ぎるだけで何も変わりません。
それは献身がなければ無理です。
あなたが自分を捧げなければ、イエス様は何もできません。
イエス様は、あなたにはっきりと聞かれます。「どうして欲しいのか」と。
従うことは、嫌でもやる、ということです。
自分に努力を強いることです。
「もうひと頑張りしよう」「ここで、感謝しよう!」と自分を従わせるのです。
肉は楽がしたいです。
しかし従順は、楽にはできません。
「できなかったけど、次は頑張ります」と毎週言い訳ばかり、いったいいつ終わりにするのですか?

失敗してもやる

努力するということは、失敗してもいいからやる、ということです。
何もやらないで怠惰で終わるよりは、やって失敗した方が良いのです。
ペテロは、水の上を歩き、途中で怖くなって沈みました。
その方が良いのです。
やると決断したら、イエス様は必ず助けてくださいます。
「助けてくださったから、できた!」を一つ一つ積み重ねて行くのです。
何故その一歩を踏み出さないのですか。
ペテロのように水の上を歩いて来ないのですか?
キリスト教はいつも同じことを言います。
自分の口でやると言ったのなら、やりなさい。
またこの一週間を無駄にしたのですか。
そうやって時間はどんどん無駄に消えて行くのです。

自分にムチ打つ

イエス様は、人間の弱さを全てご存知です。
だから「ゆだねます。やるべきことをやります」とイエス様にお頼りするのです。
あのパウロも「自分にムチ打つ」と言っています。
何故そんなことを言ったのでしょうか。
パウロも「今日はしんどい。休みたい」と思ったことがあるからそう言っているのです。
必要なのは、やるべきだから、やる!と言う決意です。
あなたがたは、まだ罪と戦って血を流したことがない、と言われている通りです。
イエス様は、罪と戦って血を流されました。
そのイエス様について行くのです。

イエス様は、絶対に退かない!という決意で進んで行かれました。
わたしは、十字架で死ぬのだ、と。
その後を私たちはついて行くのです。
イエス様は血みどろで歩んで行かれました。
だからついて行く私たちも血みどろになるのは当然です。
覚悟しなさい。
自分の言葉に、責任を持ちなさい。
あなたの言葉によって、罪と定められるのです。
「やると言ったのなら、やらなければ罪だ」とイエス様は言われるのです。

芋洗い

教師には、教示する権威が与えられています。
(だから教師に対する裁きは特別厳しいのです)
下手な教師は、上下関係を作って相手を屈服させてしまいます。従え、と。
しかし良い教師が語るなら(そのことがイエス様ご自身から出ているなら)、指摘された方も(その時には嫌な気持ちになったとしても)、後でイエス様ご自身から教えられ、納得できるのです。
みなさんは、今お互いに芋洗い状態です。
これは上下関係はなく、フラットな立場です。
だから、お互いに(年齢も関係なく)、「こう思う」「こう思わない」と意見を言い合うのです。
それは、お互いに砕かれることができ、良いことです。
しかし、あることを本人が決めてしまったら、口出しすることはできません。
卑怯者は、何も言わずに黙っています。
心の中でごちゃごちゃ言って、後であの時こうだった、ああだったと言います。とても卑怯です。
言うなら、この場で言うのです。他では言いません。

自制

ヘブル語の「アイエーカ」を覚えてください。
「何故隠れているのか?」とイエス様は言っておられるのです。
カインに言われたように、何故ふてくされて下を向くのか?
罪がお前を慕い求めて待っているよ、と。
これはとても恐ろしいことです。
カインは怒りました。怒りの奴隷です。
この「殺す!」と言う自分をセルフコントロールするのです。
この怒りに自分で「NO!」と言うのです。
御霊の実の自制(セルフコントロール)が、全てを支えています。
セルフコントロールがないと、その時の気分のまま動いてしまいます。
イエス様に自分を捧げてゆだねているのなら、イエス様の命があなたをコントロールしてくれます。
イエス様はワンダフルカウンセラー、不思議な助言者です。
だから日常生活の全てで、聞き従いなさいと言われているのです。

イエス様は、あなたに助言したいと思われているのに、「アイエーカ」どこにいるのか?!
逃げてしまい、自分でああでもない、こうでもない、と言っているのです。

祝福を与える旅

あなたが生き方を変えようとしているので、イエス様があなたの周り(家族、友人)への祝福をくださったのです。
信仰の従順は、祝福の基となります。
祝福を体験したかったら、従順の道を歩むことです。
祝福は、あなたではなく、ただただイエス様の愛です。
この世の歩みは、周りの人に祝福を与える旅なのです!

文責 菅原はれみ

礼拝message 8月19日(水)

ルカ8:4〜18

最近ずっとエゼキエル13章から、女性たちに「イザベルになるな!」と言って来ましたので、今日は「女性もこのように活躍できるのだ」という例を二人見てみたいと思います。

女預言者デボラ

士師記4:9
「そこでデボラは言った。『私は必ずあなたと一緒に行きます。ただし、あなたが行こうとしている道では、あなたに誉れは与えられません。主は女の手にシセラを売り渡されるからです』こうして、デボラは立ってバラクと一緒にケデシュへ行った」

主は、アダムに「エデンの園を守れ」と命じられました。
男性は、敵と戦わねばならないのです。

士師記4:8
「バラクは彼女に言った。『もしあなたが私と一緒に行ってくださるなら、行きましょう。しかし、もしあなたが私と一緒に行ってくださらないなら、行きません』」

しかし、ここでバラクは子どもっぽい、女っぽいことを言っています。
「一緒に行ってくれないなら行かない」と。
このように普段は威勢の良いことを言っていながら、いざとなったら女性の後ろに隠れる男性もいます。
(女性は強いのです。夫がすぐ「恐い」と逃げるような弱い人なら、その妻は強いのかもしれません。主は夫婦の間でバランスをとっておられます)

罪のゆえの苦役

主は20年間、イスラエルが苦しむことを許されました。
主の目に悪を行っていたからです。
主が教えようとされることを学んでいないと、「何故こんなことが起こるの?」となってしまいます。しかしそうではありません。
罪を犯しているなら、主は困難な状況に置かれるのです。
それはあなたを訓練するためです。
イエス様のようなきよさに至るまで、愛する者を訓練されます。
主が何かをされる時、すべてを見透かしておられてのことです。
イスラエルはその罪のゆえに、主が苦役をもって敵の手に渡されたのです。

今は終わりの時代です。
コロナウィルスが出て来た今、困難な時代に入っています。
クリスチャンは、目を覚まさなければならないのです!

最も祝福された女性ヤエル

士師記
4:5「彼女は、エフライムの山地のラマとベテルの間にある、デボラのなつめ椰子の木の下に座し、イスラエルの子らは、さばきを求めて彼女のところに上って来た」
5:24「女の中で最も祝福されるのはヤエル、ケニ人へベルの妻。天幕に住む女の中で最も祝福されている」
5:31「このように、主よ、あなたの敵がみな滅び、主を愛する者が、力強く昇る太陽のようになりますように」

ヤエルの手には、血がついています。人を殺した血です。
しかし聖書は、ヤエルを最も祝福された女性と言っています。
これは人には分かりません。主の評価だからです。
ヤエルは、天に命を懸けていたのです。
そして、その後、40年間穏やかな時代が来ます。
主が介入されたからです。

士師記
4:15「主は、シセラとそのすべての戦車とすべての陣営の者を、剣の刃をもってバラクの前で混乱させられた。シセラは戦車から飛び降り、自らの足で逃げた」
5:20「天から、もろもろの星が下って来て戦った。その軌道から離れて、シセラと戦った」

ここで「混乱」と訳されている言葉は、「大きな音を出す」とも訳せます。
ではこの剣とは、誰の剣のことでしょう。
万軍の主のみ使いたちが、剣を帯びて戦ったのです。

み使いの戦い

太秦の群れは、まだまだ未熟です。戦いは無理です。
でも戦いはもう始まっているのです。
見える世界も見えない世界も、両方現実だとみなさん分かりますか?
み使いが現実に戦っているのです。
聖書をそのまま読んで、そのまま信じるのです。
そうすればイエス様が、インマヌエル(共にいてくださる)のを感じるようになります。

以前話した夢ですが、(おじいちゃんの妄想かもしれませんが、私は信じています)松明のともしびを持った180人のますらお(武士)が、堂仙庵に集って来たのです。
その中のリーダーが「どういう風にしましょうか?」と尋ねたのです。
私はちょうどその時、「京都の街は大きすぎる!闇が覆っている・・・」と祈っていたところでした。
もう戦いは始まっています。
180人のみ使いたちが陣を張っていると私は信じています。
ますらお達がいろんなところに散って戦っているのです。

復活を信じないクリスチャン

Iコリント15:12〜19
12「ところで、メシアは死者の中からよみがえられたと宣べ伝えられているのに、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はないと言う人達がいるのですか」
17「そして、もしメシアがよみがえらなかったとしたら、あなたがたの信仰は空しく、あなたがたは今もなお自分の罪の中にいます。


ここでパウロ自身も言っています。
「復活を信じられないクリスチャンがいる!」と。
コリントの群れは、霊的な賜物が多く与えられていて、預言、異言、奇跡などが起こっていました。
しかしその群れの中に「復活はない」と言っている人々がいたのです。
パウロにとっては驚きでした。
「復活を信じていないのなら、一体どうやって生きているのか?」
古い自分に縛られて終わっていないのなら、罪の奴隷です。
自分から解放されていません。

生まれつきの自分が大好きで、可愛くてしょうがないのです。
そのような人は、自分をわきまえていません。
自分に対して甘い人です。
そのような人が救われると思いますか?

イエス様の命で生きる

生まれつきの自分はこんなに邪悪なのだ!と気づき、箸にも棒にもかからない自分(意味:どうしようもない小物。取り柄のない奴)だと認めていますか?
だからこそ、肉の古い性質を十字架で処分できるのです。
イエス様の身代わりの死のゆえに、洗礼を受ける時に、イエス様と共に死ねるのです。
そして、死からよみがえられたイエス様の命によって、生きて行ける!と信じることができるのです。
復活の命を私に与えてくださった、と。
このようにして、救いがあなたの体験、経験となるのです。
(まず悔い改めて、それから信じてバプテスマを受けるのだからです)

自分はまだ死なない?

自分でクリスチャンだと言っていても、永遠の命について、真剣に取り組んだことのない人が多いのです。
(神学校に行ったとしても、それでまともになる訳ではありません)
そのような人の共通点は、「自分はまだ死なない」「自分はまだ大丈夫」と思っているところです。
「私は死ぬ定めだ!」「このまま行ったら、地獄で永遠の死しかない」と気がつかないのです。
あなたはいつまで死なないつもりですか。この現実が分からないのですか。
(キリスト教の牧師は「脅かしてはいけない。あなたはまだ大丈夫」と言います。騙されていませんか)

死と蘇り

イエス様は、死に、そして蘇られました。
ここに、信仰生活のすべての鍵が隠されているのです。
復活がないなら、ご利益宗教と同じです。
「信じた方が良いんじゃない。きっと良いことあるよ」といった具合です。

Iコリント15:19
「もし私たちが、この地上の命においてのみ、メシアに望みを抱いているのなら、私たちはすべての人の中で一番哀れな者です」

「セカンドチャンス論」というものがありますが、悪霊に騙されているのです。
セカンドチャンスなどはありません。
偽教師は、どれだけ捧げたとしても、毒が混じっています。
みなさんの信仰は大丈夫ですか?
復活があるからこそ、天の父の願われる通り生きることができるのです。
天国での報いが待っているからこそ、イエス様にすべてを費やすのが最高の人生なのです。
(イエス様はあなたを何度も祝福して、この事実を味わせてくださいます)
そして、命を懸けてイエス様に従った者には、地上でどのようにイエス様が報いてくださるのか、体験させたいと思っておられるのです。

クリスチャンも裁きの座に立つ

狂信する者は「私はこれで良いのだ」と言い、人の意見を全然聞きません。
あなたは選ばなければいけません。
イエス様のために生きるのか、自分のために生きるのか。

IIコリント5:10
「私たちはみな、善であれ悪であれ、それぞれ肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、メシアの裁きの座の前に現れなければならないのです」

つまりイエス様は、クリスチャンの生活には「信賞必罰がある」と言われたのです。
(信賞必罰:功績ある者は必ず賞し、罪過ある者は必ず罰すること。
賞罰を厳格にすること)
私たちは、必ずイエス様の裁きの座の前に、現れなければならないのです。
イエス様はあなたに問われるでしょう。
「何故あの時、こうしたのか?」「何故そう言ったのか?」

だからこそ、地上で悔い改めなければならないのです。
あなたが忘れても、イエス様は忘れられることはありません。
イエス様から逃げられる場所などありません。
主に責められることのない者として、イエス様の前に立てるように、今悔い改めなければいけないのです。
ある人は、何故ずっと暗いままなのか。
罪を隠蔽しておいて、きよめられるなどできないからです。
本人がイエス様の前に出ているのなら、自分の罪が分かるはずです。
あなたが、自分が傷つけ人生を変えてしまった人がいると自覚があるのなら、その人のことを主に祈るのです。
幼子として悔い改めるのです。
幼子こそ、天の御国にふさわしいのです。

福音は裁きを含む

ロマ2:16
「私の福音によれば、上帝の裁きは、上帝がメシア・イエスによって、人々の隠れた事柄を裁かれるその日に行われるのです」

福音の中には、必ず裁きが含まれています。
「信じればそれで良い」ではありません。
イエス様があなたの代わりに裁きを受けてくださったので、あなたは裁きから救われるのです。
十字架は、裁きと呪いです。
それなのに十字架無しの福音を語るなんておかしいと思いませんか。

あなたが子どもっぽいままなら、危ないのです。
救いは難しいでしょう。
イエス様は、「お前のその甘さは何だ?」と聞かれるからです。

大人として成長しなさい

ロマ14:1
「信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見を裁いてはいけません」

クリスチャンとして成長しないと、信仰の弱い人を受け入れる事はできません。
心の中で批判し、裁きまくるのです。
だから未熟ではダメなのです。
イエス様は、売春婦や罪人、信仰の弱い人を受け入れられました。
そこには偏見や、異邦人に対する人種差別もありません。

ロマ14:10
「それなのに、あなたはどうして、自分の兄弟を裁くのですか。どうして、自分の兄弟を見下すのですか。私たちはみな、上帝の裁きの座に立つことになるのです」

イエス様は、私たちに大人になることを願われているのです。
私たちが人を裁く資格は、本当はありません。
それができるのは、イエス様だけです。

しかし、教師だけは例外です。
教師は言わなければならないのです。
「それは間違っているだろう!」と。
教師には、裁く権威が与えられています。
しかし、だからこそ教師に対するイエス様の裁きはものすごく厳しいのです。
教師にはなるものではありません。
教師になるのは、本当に恐ろしいことですよ。

地上のことで頭がいっぱい

信仰の未熟な人は、いばらの種の喩えと同じです。
リビングバイブルで読んでみましょう。

ルカ8:14
「いばらの中の種とは、聞いて信じても、その後、いろいろな心配事や金銭欲、また人生の様々な重荷や快楽などに、信仰を妨げられてしまう人のことです。これでは、せっかく教えを聞いても、誰にも話して聞かせることができません」

このように、日常生活の心配事や金銭欲に信仰が妨げられて、実を結べないのです。
年中、地上のことで頭がいっぱいなら、子どものままです。
大人にならなければ、役に立ちません。
「あなたはこのままで良いのだよ」と嘘ぶいて囁く者の声を聞き続けるなら、地上での時間を無駄にしてしまいます。
そのような人の人生は地上で終わりです。
そういう人は、この世を楽しみ、好きなようにやれば良いのです!
勝手に遊びに行けば良いでしょう。
真剣に歩もうとする人の邪魔になるだけですから。

子どもには、理解できない

Iコリント2:6〜7
6「しかし私たちは、成熟した人達の間では知恵を語ります。この知恵は、この世の知恵でも、この世の過ぎ去って行く支配者たちの知恵でもありません」
7「私たちは、奥義のうちにある、隠された上帝の知恵を語るのであって、その知恵は、上帝が私たちの栄光のために、世界の始まる前から定めておられたものです」

ヘブル5:11〜14
12「あなたがたは、年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、上帝が告げた言葉の初歩を、もう一度誰かに教えてもらう必要があります。あなたがたは固い食物ではなく、乳が必要になっています」
13「乳を飲んでいる者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです」
14「固い食物は、善と悪を見分ける感覚を経験によって訓練された大人のものです」

固い食物は、子どもには食べられません。
善と悪を見分ける感覚は、経験と体験によって訓練された大人のものです。
この世の終わりでの戦いの話をしても、地上のことしか考えられない子どもには、話は通じません。
分からないのです。
歳だけくってる子どもには、解き明かすのは困難です。

成熟した大人が目標

エペソ4:11〜13
13「私たちはみな、上帝の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、メシアの満ち満ちた身丈にまで達するのです」

この一人の成熟した大人になることが、大事な目標です。
成熟した大人になっていないと、戦えないのです。

ピリピ3:12〜16
14「メシア・イエスにあって上帝が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです」
15「ですから、大人である人はみな、このように考えましょう。もしも、あなたがたが何か違う考え方をしているなら、そのことも上帝があなたがたに明らかにしてくださいます」

私たちは、賞をいただくために走っているのです。
大人である人はこのように考えなさい。
これは子どもにはできません。
子どもは、自分が何様かであるかのように思い込みます。
何も知らず、何もできていないにもかかわらず、自分は立派な者だと思い込むからです。
イエス様に喜ばれるために、私たちは地上で生きるのです。
裁きの時に「報い」が待っているのですから。

コロサイ4:12
「あなたがたの仲間の一人、メシア・イエスのしもべエパフラスが、あなたがたによろしくと言っています。彼はいつも、あなたがたが上帝のみこころの全てを確信し、成熟した者として堅く立つことができるように、あなたがたのために祈りに励んでいます」

ここでエパフラスが必死に祈っているのです。
「子どもで終わってはならない!上帝のみこころを理解できる成熟した大人になりなさい」と。
年をとると、頑固になって行きます。
砕かれる道を歩まない人は、物事をわきまえず理解しない人になります。
子どもは「自分はできている。分かっている」つもり!になるからです。

忍耐

ヤコブ1:1〜4
4「その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは何一つ欠けた所のない、成熟した、完全な者となります」

信仰とは、イエス様に従順に聞き従う生き方です。
そして、忍耐せよ、と言われているのです。
「敵を愛せ」「迫害する者のために祈れ」これは忍耐が必要です。
みことばを守る生き方を死守しなさい、と
あなたが、敵に対して怒りを燃やしそうになる時、イエス様の血潮の注ぎかけを求めなさい。
邪悪な良心をきよめていただくことができます。
十字架の贖いは、怒りをしずめる力があります。

イエス様の命による一致

太秦の群れは、子どものままなら、何の役にも立ちません。
もうすでに、戦いの真っ只中に置かれているからです。
キリスト教会は、信徒が子どものままなら楽です。
その方が管理しやすいので、成長してもらったら困るのです。
悪霊は、「牧師の言うことが、イエス様の言われていることですよ」「牧師を大切にすることが、イエス様を大切にすることですよ」と囁きます。
しかし、一人一人が成長して大人になるなら、人(牧師)ではなく、イエス様ご自身に従うことができます。
イエス様の新しい命を持っているから、お互いに一致できるのです。
未熟のままで成長しようとしない人(自分はこのままで良いと思っている人)は、必要ありません。
イエス様は、「大人になれ!成熟しなさい」と言われているのです。
太秦の群れは、「成熟した大人になるために、お互い助け合おう」「何があっても、イエス様のために生きよう」と励まし合う者の群れになってください。
そのために、みなさんイエス様に呼ばれたのです。
女性も主の兵士なのです。

以下の内容は、交わりの時に語られた内容です。

デボラとヤエル

デボラは、裁きつかさでした。
知恵があって、しかし男性を立てようとするのです。
(デボラは、バラクに『一人で行ってください』と、花を持たせたのですが、バラクは承諾しませんでした。バラクは恐くなって『一緒に来てください!』と言ったのです)
ここで女性のデボラの方が、信仰によってたくましいのが分かります。
ヤエルは、男性達が戦って勝てなかったシセラを仕留めました。
ヤエルから殺気が出ていれば、シセラは彼女を信じなかったでしょう。
しかしヤエルはそれを出しませんでした。
彼女は、「天に命を懸けている、信仰に生きる人」だったのです。

自分の反応

あることで、自分が共鳴したり反応したりする時、自分をよく見てください。
肉の自分は「うらやましい。自分もそうなりたい」と思っているでしょう。
イエス様は、あなたの中にある闇を気づかせようとされているのです。
自分の反応を見れば、自分がどのように罪深い者か分かります。

思春期を迎えた子どもに対して

子どもに対して、ユダヤ教的な信仰を売りにすると、理想を押しつけてしまいます。(子どもはプッレッシャーしか感じないでしょう)
しかし、イエス様の光を当てられると、自分が具体的な罪を現実には犯していなくても、同じ罪を心の中で犯しているのに気がつきます。
そこで初めて分かるのです。
「私は悔い改めて、イエス様の所に帰らなくてはならない!」と。
親は子どもに対して、何度も何度も裏切られたような気持ちになります。
待っている事は辛いです。
しかし本人が気づいて帰ってくるのを、祈りながら待つのです
人間とは何なのか、男性とは、女性とは・・・学んで帰ってくるのを。
全てがイエス様の御手の中にあるからです。
放蕩息子は、苦しみ悩み、傷ついて帰って来ました。
彼は、辛い体験をして学んだのです。
ここで、兄のことを考えてください。
弟は、罪を犯し、悔い改めて帰って来ました。
兄は、真面目で、親に対して見かけは従順でしたが、親に対する不満を抱えていました。
兄の方が、あまり良い結果は得られないでしょう。
その後どうなったかは、聖書には書かれていませんね。
その後は、みなさんが自分自身で体験する事だと、聖書は言っているのです。

文責 菅原はれみ

礼拝message 8月16日(日)

Ⅰテサロニケ4:13〜5:28

Iテサロニケ4:13〜 5:28
4:16「すなわち、号令と御使いのかしらの声と上帝のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、メシアにある死者がよみがえり」
17「それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります」

携挙への期待

私たちは、主が来られる日、携挙される日を「期待して待ってなさい!」と言われています。
この携挙、ラプチャーと言われる言葉は、ラテン語では「ラプト」で二つの意味があります。
1.強力な力で、ある場所からある場所に移す。
2.慌惚状態
私たちは、ここでは英語の’Rapture’を、「主が引き上げてくださる」という意味で使います。

使徒1:3〜11
9「こう言ってから、イエスは使徒たちが見ている間に上げられた。そして雲がイエスを包み、彼らの目には見えなくなった」
10「イエスが上って行かれるとき、使徒たちは天を見つめていた。すると見よ、白い衣を着た二人の人が、彼らのそばに立っていた」
11「そしてこう言った。『ガリラヤの人たち、どうして天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります』」

イエス様が「天に上って行かれたこの同じ有様でまたおいでになる」とみ使いは使徒たちに告げました。
みなさん、このことを信じますか?
空中でイエス様とお会いするのを楽しみにしていますか?

1テサロニケ4:14〜17
17「それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主と共にいることになります」

復活を信じないクリスチャン

主が来られる時、私たちは空中を上って行くことができるのです。
このことが信じられないなら、みなさんの信仰はまだ初歩の初歩です。
復活を信じられない人は、クリスチャンではありません。
復活を信じていないなら、あなたは何を期待して生きているのですか?
二人のみ使いが証言して見せているのです。
イエス様はこの天に上られたのと同じお姿で再び来られますよ、と。
これが希望なのです。
みことばを信じていない人々は、みことばそのものを邪魔する者となってしまいます。

地上か天か

もし今、携挙があれば、みなさんここから消えてもらわないと困ります。
残されるのは私だけで十分です。
いいですか、その瞬間にあなたは決めなければならないのです。
天に帰るのか、地上に残るのか。
子どもが心配なら、あなたは自分の意思で地上に残ることができます。
(でも残った後は、とんでもなく恐ろしいことが起きます)

絶えず祈れ

イエス様は、いつ携挙なさるかわかりません。
その時に引き上げられるための条件は、いつも、絶えず祈っていることです。
御霊の力で、御霊により祈ることです。
あなたの内にイエス様の新しい命があれば、その命が子どもとして天の父をいつも見ています。
子どもには、親の居るところが安心する場所だからです。

聖霊のバプテスマ

主は、あなたの内にあるイエス様の命に聖霊のバプテスマを与えられます。
霊を見分ける力よりも、内なる人が成長して力を持つ方が重要です。
新しい命はイエス様のご人格だからです。
イエス様の命があるなら、イエス様の思いを持っています。
だからイエス様に聞くことができるのです。
子どもとしての新しい命がいかに大切か!

悪霊のバプテスマ

生まれつきの汚いままでパワーを与えるのは悪霊です。
悪霊は、きよく見せかけるためにお芝居をします。
聖霊のバプテスマを受けて、生まれつきの汚いままなどあり得ません。
必ずきよくされていきます。

ピリピ3:17〜21
20「しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・メシアが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます」
21「メシアは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます」

天の国籍

復活を信じていないのに、天に国籍があるなどあり得ません。
天に国籍を持っているからこそ、そこに帰るのです。
だから地上に居ながらも、天に望みを持つのです。
地上では私たちは旅人です。
地上で見るものすべてが、旅の思い出として過ぎ去るのです。
帰りたいと願うのは、その人にとって天が故郷だからです。

誇るのはイエス様

私の高校時代は、涙と苦しみの時代でした。
しかし今思うと、イエス様は私をいつも見ておられ、絶望の中にあっても御手を置いていてくださったのだと分かります。
だからこそ誇るのはイエス様のお力しかないのです。

苦しみは幸い

イエス様を信じても、地上で終わるだけの人生なら何の意味もありません。
高校時代、やりたい事はたくさんありました。でも、できませんでした。
悩む事は良いことです。後ですべてが無駄ではなかったと分かります。
「人生において苦しんだことは、私にとって幸いでした!」と言えるのがクリスチャンです。

詩篇119:71〜72
71「苦しみにあったことは 私にとって幸せでした。
それにより 私はあなたのおきてを学びました」
72「あなたの御口のみおしえは 私にとって 幾千もの金銀にまさります」

味のある人生

苦しみのない人生は、味のない人生です。
イエス様の人生は、苦しみの人生でした。
もしあなたが苦しみを与えられたら、受け取った方が良いのです。
後に、幸せだった!と言えるからです。
イエス様は人間の弱さ、苦しみを知り、同情と同感をしてくださるお方です。
苦しみから逃げまくった人の人生は、薄っぺらでつまらないものになります。
そしてそのつまらない人の同情は、相手に害になるだけです。
イエス様はとことん苦しんで、悲しみを味わわれたお方です。
すべてを知っておられるからこそ、励まし、慰め、希望を与えてくださるのです。
だから私たちもイエス様の愛に触れたとき「この世の幸せとは違う!」と分かるのです。
苦しみが、あなたの人生に味をつけるのです。生きていてよかった・・・と。

アガペーの愛

あなたの人生にこのことが現れてこないのなら、薄っぺらい生き方をしているのです。
あなたの愛が、イエス様の愛のような深さ、広さ、高さにならないと、アガペーの愛にはなりません。
アガペーの愛にならないなら、あなたは証人にはなれません。
イエス様が十字架に架かられる前に、ペテロは逃げました。
そしてイエス様を裏切った自分に愕然として、男泣きに泣きました。
自分を知り、泣くことは良いことです。(しかし人に見せてはなりません)
イエス様は、十字架を目指して真っ直ぐに歩まれました。
苦しみのない人生など求めてはなりません。
無能な自分を知り、認めなさい。逃げてはいけません。
あなたはイエス様に「どうすればよいのですか?」とアドバイスを求めることができるのですから。
イエス様は決して裏切りません。

地上の人生

イエス様は、ごみの中から私をつまみ出してくださいました。
イエス様が私に下さった「宇品堂仙」という名前は、「蛆虫の名前は堂仙」という意味です。
地上では苦しみぬいたとしても、天では痛みのない五体満足の新しい体をいただけます。若くて健康な体です。
天のふるさとでは、苦しみも涙もありません。
私たちは、その天のふるさとを目指しているのです。
天に帰った時「地上での苦しみも悩みも私にとって良かったことです」と言うことができます。
すべては、私をイエス様のように変えるため、きよめるためだからです。

すべてが良かった

あなたの人生において、起きたことすべてが良かったのです。
主がいかに憐み深くあなたを取り扱って来られたかを知るなら「イエス様のことだけを誇りたい」と願うようになります。
携挙が信じられないなら、あなたはクリスチャンではありません。
空中でイエス様と会えるのですよ!
実際にお会いできるなんて最高だと思いませんか。

知識の切り売り

携挙はいつですか。患難の前?中?後?などと議論に走ってはなりません。そんなことをするなら、知識を支配するサタンの手の内に入るからです。
神学者や伝道者などは知識の切り売りをします。
知るべきなのはイエス様ご自身です。
イエス様はあなたの人生に介入してくださいます。

今何を学ぶのか

大切なのは、あなたが今何を学ばねばならないのか、知ることができるかどうかです。
たとえ子どもであっても時間は限られています。
私は今こういう事で訓練されているのだ、と分かるならば「私は幸いです」と後で感謝するでしょう。
聖書のみことばを知っているならば、痛みも苦しみも、私に必要な訓練なのだと理解できます。

エゼキエル13:17
「人の子よ。あなたは、自分の心のままに預言するあなたの民の娘たちに顔を向け、彼女たちに預言せよ」

イザベル

「聖書にこう書いてあるから大丈夫。私も経験しているから」などと絶対に言ってはいけません。
教師であっても、です。
Peace be with you. と言えるのはイエス様だけです。
そんなことを平気で言うなら、あなたはイザベルになります。
「あの人に聞けば教えてくれるし、大丈夫。安心できる」などとなるからです。
これは、イエス様の目には非常に不快な事です。
「その人のすべてをお前は知っているのか?」とイエス様はお聞きになります。
もし誰かにあなたが答えるとすれば「こうかもしれません」と言うべきです。
イザベルのような教祖(指導者)が皇民の群れの中に居ると、その人の許可がないと何もできなくなります。
イザベルになると頑なになり、イエス様に対する新鮮な愛がなくなります。
そうなれば、イエス様の愛を味わえなくなります。
神学校を出ると、理屈だけ言って「自分は分かってる。大丈夫」と教師のような言い方をする人がほとんどです。
そういう態度を悔い改めなければなりません。
私たちは、みな同じ羊だからです。偉そうになるなら、呪われます。

Iテモテ 3:1〜7
6「また、信者になったばかりの人であってはいけません。高慢になって、悪魔と同じ裁きを受けることにならないようにするためです」
7「また、教会の外の人々にも評判の良い人でなければなりません。嘲られて、悪魔の罠に陥らないようにするためです」

悪霊の罠

高慢になると、悪魔はイエス様に訴えます。
「こんなやつ、処分してもいいでしょう?」と。
自分を人に見せようとしてはいけません。
イエス様の愛を知って、イエス様に従って行こうとする生き方が安全な道です。
イザベルは自分に酔っています。
本人は気づきませんが、その人の中から新鮮なものが出てきません。
イザベルになるなら、悪霊が待っていますよ。
イエス様が常に天の父に聞いておられたように「イエス様、これで良いのですか?」と絶えず聞いて、いつも祈っていなければなりません。
信仰の創始者であり、指導者であるイエス様から目を離さないように!

以下は、交わりの時に語られた内容です。

過剰反応

あなたがある事で過剰反応を示す時、それはイエス様があなたの闇をはっきりさせようとしているのです。
イエス様は、命の光だからです。
そのような時は「私のこの反応は何ですか!?」と聞かねばなりません。
つつかれると、逃げて藪に隠れるのは蛇です。
自分の問題点を見せられるのは、肉にとっては嫌なものです。
しかし自分の闇と直面して認めて、告白し、イエス様に聞きなさい。
「そこから自由になりなさい」と言われているのだからです。

変えられなければならない

息子にとって母親は理想の女性です。
しかし母親のある部分、女性の性(サガ)、情欲といった肉を見せられると本当に嫌なもので、息子は苛立ちます。
私たちはもともと罪人なので、イエス様に変えられなければなりません。
光の子らしく生きなさいと言われているのですから。
問題に対して「なぜでしょう?分かりません・・・.」と言うだけなら、それは頑なな姿です。
イエス様に「この闇は何でしょうか?」と尋ねなければいけません。
イエス様は人や問題を通して、あなたの内側にある闇に気付かせようとされているのです。
肉は「私の世界に入って来ないで」と言います。
しかし、光に自分をさらさないとダメです。
光にさらすならば、光となるのです。

解放

精神的解放は、病からの解放でもあります。
イエス様にあって解放されると同時に、痛みもやわらぎます。私もそうでした。
過剰な反応から自由にならねばなりません。
自分の殻に閉じこもっていてはいけません。
自分の無力を、もっともっと知りなさい。何もできないことを。
そうしてイエス様だけにお頼りするのです!

文責 菅原はれみ

礼拝message 8月9日(日)

ルカ10:1〜24

幼子であれ

ルカ10:21
「ちょうどそのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。『天地の主であられる父よ、あなたをほめたたえます。あなたはこれらのことを、知恵ある者や賢い者には隠して幼子たちに現してくださいました。そうです、父よ、これはみこころにかなったことでした」

ヨハネ1:9〜13
11「この方はご自分の(ものの)ところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった」
12「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、上帝の子どもとなる特権をお与えになった」
13「この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、上帝によって生まれたのである」

ヨハネ3:3
「イエスは答えられた。『まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、上帝の国を見ることはできません」

イエス様は、ニコデモに言われました。「新しく生まれなければ、天のみ国を見ることも入ることもできない」と。
天のみ国は、幼子のように素直にそれを受け入れる者のものです。
イエス様を幼子のような心で受け入れる者には、「上帝の子どもとなる特権」をお与えになったのです。(ヨハネ1:12)

メシア

ユダヤ人が「メシア」と言う時、それは「油そそがれたお方」であり、「王なるお方」と言う意味です。
これは、異邦人は知らないと分かりません。
つまりユダヤ人には「王なる支配者」として受け入れるのが正しい信仰であるのですが、キリスト教会は「優しくて助けてくれるお方」として(全く別の神として)受け入れているのです。
だから、イエス様を「優しく助けてくれるお方」と勘違いしているので、常に「自分が主」になってしまいます。

自分を拝む

そうなると、「自分が神」である「偶像礼拝者」になります。
「自分は賢くて美しくて、全部わかっているので、自分で決める!」というものです。
まさにサタンと同じ姿であり、罪人の「自己愛の塊」です。
「私は、みんなに拝まれるべき存在」と言って自分を拝んでいるのです。
聖書は、この醜い肉の塊を「捨てなさい」と言っているのです。
自分を捨てる、とは「自分を拒絶する」ことです。

この世は金

偽教師は、教会員に洗礼を受けさせ、お金を集めようとします。
「この世は金」なので、教会もお金で支配されています。
しかし、天地を造られたお方があなたの父なのです。
「そのお方を信頼するなら、この世のことは心配するな」と言われているではありませんか。
上帝の国と義を求めよ、天の父が心配してくださる、と。

父と子の関係

あなたは、天のお父さまと「父と子」の関係が成り立っていますか。
成り立っていなければ、信仰生活はすでにつまずいています。
親からの愛も訓練もないので、自分勝手に生きるしかないからです。
まるで日の光を浴びていない子どものように、成長できません。
考え方や判断の仕方がいつまで経っても子どもっぽいのはそのせいです。

天から新しい命をくださるのは、「父と子」の関係をしっかりさせるためです。
新しい命をいただくと「こんなに愛されている!」という感動と驚きの生活が始まります。

ヨハネ8:31〜36
31「イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。『あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です」
32「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」
34「イエスは彼らに答えられた。『まことに、まことに、あなたがたに言います。罪を行っている者はみな、罪の奴隷です」
35「奴隷はいつまでも家にいるわけではありませんが、息子はいつまでもいます」 

ここで「奴隷はいつまでも家にいるわけではない」と言われていますが、「父と子」の関係がないならば、皇民の群れにとどまることができなくなります。
共に集っていても、自分を偽っているのでだんだんいたたまれなくなり、嫌になるか、もっと面白いものを見つけて、世を愛するようになるからです。

罪の奴隷

「罪の奴隷」とは、「自分を神とする」生き方です。
「自分の好きなキリスト教」をやっていて「私はこれで良い」と思っている姿です。
イエス様からの承認がないので、天の父と「父と子」の関係がありません。
何年クリスチャンをやっていても、天の父の感化があらわれないのはそのせいです。
子を見たら、親がどういう人かわかるでしょう?

自己アピール

特に女性は十二単を着ています。人に見せるための衣です。
「人にこういう風に見られたい」と服装も髪型もアピールするでしょう?
人に印象付けたい自分をアピールするのです。
つまり自分を実際より高く見せたいのです。学歴や家柄なども同じです。
このように自己主張する自分を、脱ぎ捨てろ!と言われているのです。
そうでないと、信仰そのものが「私の幸せのため」という人道主義(ヒューマニズム)になって、悪霊に人生をコントロールされてしまいます。
すべてがこの世のことだけで終わってしまいます。
私たちは、「上帝の国と義のために」「王なるイエス様の栄光のために」呼び出されたのです!

ヨハネ15:1〜11
9「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい」
10「わたしがわたしの父の命令を守って、父の愛にとどまっているのと同じように、あなたがたもわたしの命令を守るなら、わたしの愛にとどまっているのです」
11「わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたが喜びで満ちあふれるようになるために、わたしはこれらのことをあなたがたに話しました」

注:「戒め」と和訳されている箇所は、英語ではヨハネ15:10「 If you keep My commandments,」となっているように、commandment=「命令」とするのが正しい訳と思われます。

あなたは、天の父の子どもですか?
天の父と「父と子」の関係があるなら、喜びに満ち溢れているでしょう?

1ヨハネ3:16
「メシアは、私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです」(前半)

愛を知っているのか

ここに愛があるのです。
この愛を知っていたら、生き方も信仰の土台も今と違いますよね!?
(男性に聞きます。あなたは「自分がこうなりたい」という野心しかないのですか。非常に器が小さいですね!)
イエス様は、あなたに尋ねておられます。
「わたしはあなたのために命を捨てたけれど、あなたはわたしの愛を分かっているのか?」と。
あなたは、十字架の愛に感動していますか。
いつ十字架の愛を知り、感動して涙し、イエス様を愛するようになったのですか?

クリスチャンになった後に天の父の子どもとされ、肉を脱ぎ捨て、聖くされ、メシアを着ましたか?
あなたが、どのように造りかえられたのか。
この限られた時間において、このことが重要なのです!

火で焼かれる

愛に目覚めた女性は美しくなりますよね。
命の光があると、内側から輝いてくるからです。
聖書の「救い」は「アクシデントからの救い」ではありません。
「滅びる世からの救い」です。
聖書に「火で焼き尽くされる」とあるように、火を通してあなた方の信仰が試されます。
火のようなテストです。
そのテストを通過できなかったら、そのまま火の中から「火の池の地獄」に行ってしまいます。ソドムとゴモラのようにです。

最後通告

福音は「最後通告」です。
悔い改めなければ、街も人も滅ぼされます。
中国を見てください。三峡ダムが決壊寸前の今、クリスチャンたちもその中に多くいるでしょう。
コロナウィルスも、主の怒りが限界に達したことに対する、全世界へのメッセージです。
コロナウィルスの被害も、正しいデータを冷静に見てください。
なぜ世界のキリスト教国がこんなに打たれているのですか。
主の怒りです。被害の大きさは、その国の罪深さを現しています。
必死に日本のために祈ってください!
その国の中にいる者は、みな連帯責任を負うのです。

預言者

イエス様の十字架の後、70年にローマ軍によってエルサレムが滅ぼされます。
その時預言者がいて、ローマ軍の攻撃の前に多くのユダヤ人がテラに逃れたということが、記述に残されています。
イスラエル十部族(古代サマリヤ人)の中にも預言者がいたように、弓月の君に率いられた(原始キリスト教徒の)秦氏たちの中にも預言者がいたと思われます。
その預言者に導かれて、彼らは日本を目指してやって来たのではないか、私はそう思っています。
大和の国まで導く預言者がいたとするのが自然でしょう。
(聖書を読むと、彼らの中に預言者がいないなどあり得ないからです)

太陽と月

本来のイスラエルを太陽とするならば、日本は月です。
月はそれ自体は光を放ちません。太陽の光を受けて明るく輝くのです。
レムナントのように、予型として日本(京都)に小さいエルサレム(平安京)が置かれているのです。まるで慰めるように、です。

日本のユダヤ文化

散らされたイスラエル十部族は、いったいどこに行ったのでしょう。
神武天皇の頃には、日本にたどり着いて宗教的布石を置いてしまうのに十分な時間があります。
田中英道氏も、多くの「ユダヤ人埴輪」の出土に対して、今までの国史を変えなければならないと言っています。
ざっくり数えてほぼ1000年後に日本にやって来た秦氏たちは、本当に驚き感動したでしょう。「同胞がここにいる!」と。
何故なら彼らが日本で見たのは、ユダヤ人の生活習慣と同じものだったからです。
彼らは1000年の時を隔てて、失った同胞と再会したのです。

預言者の堕落

哀歌1:18
「主は正しい方である。しかし、私は主の命令に逆らった。すべての国々の民よ、聞け。私の苦痛を見よ。若い女たちも、若い男たちも、捕らわれの身となって行った」

主の命令に逆らい、イスラエルは散らされました。

哀歌2:3~4
3「燃える怒りをもって、イスラエルのすべての角を折り、敵の前で 右の手を引き戻し、あたりを焼き尽くす炎のように、ヤコブを焼かれた」
4「主は敵のようにして、弓を引き絞り、はむかう者のようにして、右の手でしっかり構え、いとしい者たちをみな虐殺した。主は娘シオンの天幕に、火のように憤りを注がれた」

哀歌2:9,14
9「彼女の城門は地に沈み込み、主はそのかんぬきを打ち壊して砕かれた。その王も首長たちも異邦の民の中にあり、もはや律法はなく、預言者たちも、主からの幻を見出さなかった」
14「あなたの預言者たちは、あなたについて、むなしい、ごまかしの幻を見た。あなたの咎を暴いて、あなたを元どおりにしようとはせず、あなたについて、むなしい宣告と、惑わすことばの幻を見た」

日本に来た秦氏たちは、このようになってしまったのです。
日本が気に入って、この世と妥協したのです。
預言者たちは、戦いも苦しみもないので、堕落してしまいました。

哀歌2:17〜19
17「主は計画したことを行い、昔から命じていた自らのことばを成し遂げられた。滅ぼして容赦せず、あなたのことで敵を喜ばせ、逆らう者の角を高く上げられた」
18「彼らは主に向かって 心の底から叫んだ。娘シオンの城壁よ、昼も夜も、川のように涙を流せ。自分に休みを与えるな。あなたの瞳を休ませてはならない」
19「夜、見張りの始まりに、立って大声で叫べ。あなたの心を主の前に、水のように注ぎ出せ。あなたの幼子たちのいのちのために、主に向かって両手を上げよ。彼らは街頭のいたるところで、飢えのために衰えきっている」

心を注ぎ出して、主に祈らねばなりません。

哀歌3:25~30
25「主はいつくしみ深い。主に望みを置く者、主を求めるたましいに」
26「主の救いを 静まって待ち望むのは良い」
27「人が、若いときに、くびきを負うのは良い」
28「それを負わされたなら、ひとり静まって座っていよ」
29「口を土のちりにつけよ。もしかすると希望があるかもしれない」
30「自分を打つ者には頬を向け、十分に恥辱を受けよ」
31「主は、いつまでも見放してはおられない」
32「主は、たとえ悲しみを与えたとしても、その豊かな恵みによって、人をあわれまれる」
33「主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない」 

何故日本は、今こんなことになっているのでしょう?歴史を見てください。
私たちは、秦氏の罪(先祖の罪)を背負って、日本の罪を告白し、とりなさねばなりません。
上帝の子どもとして、イエス様の命令を守り、その愛を知ってください。
クリスチャンの両親たち、あなたが父の愛を知らないから、その愛を子どもに提供できないのです。
父の愛を提供できるならば、子どもたちはイエス様の方に向くでしょう。

以下は、交わりの時に語られた内容です。

この世を支配している霊は、イエス様とあなたの間を邪魔します。
それは国によって形が違います。
たとえば日本は、能を見てください、秦氏は芸能の神を祀るようになりました。
能を作った世阿弥は、秦氏です。
闇の中にかがり火が焚かれ、ぼやっとした幻想的な世界がそこに広がります。
秦氏は「大和の君」(日本を支配する悪霊をこう呼んでいます)とタッグを組んでしまったのです。そこに茫漠とした能という、一つの世界ができました。
そのぼやっとした中での偶像礼拝に陶酔させるのです。
闇と霧の中で、炎の薄明かりがいかにも神秘的なものを醸し出します。

イエス様の血

この日本人なら誰でも持っている、霊的なドームのようなものが、あなたとイエス様との間を阻むのです。
ぼやっとしたものが邪魔をするのです。先祖伝来のむなしい生き方そのものです。
天の栄光のみ座におられるお方に祈る時、イエス様の血の注ぎかけを求めてください!
彼らは子羊の血と証の言葉で打ち勝った、とあるように、イエス様の十字架の血によって、闇と霧が消え去ります。
このドームのようなものを打ち破れないと、イエス様の声は聞き分けられません。
羊飼いなるイエス様の声を知っている一人一人になってください。そうでないと役に立つ者にはなれません。

時間

ペンテコステ派は、この世の霊に身をゆだねて任せてしまいます。
ぼやっとして眠くなり、引き込まれてしまったら、その時間は無駄になります。
また祈る時に「神様」と呼ぶなら、これは先祖の神と同じ神に祈っていることになります。
「イエス様」が、聖書の神なのです。
また、ああでもない、こうでもない、とこの世のことばかり祈るなら、その時間も無駄になります。
こうして、敵はあなたの大切な時間を盗むのです。
敵は、そうやって何もしないままあなたに地上の旅を終わってもらいたいのです。
イエス様の血の注ぎかけを受けてはじめて、祈り、礼拝できるようになるのです。

文責 菅原はれみ

礼拝message 8月12日(水)

ヘブル人への手紙 12章

贖い

レビ17:11
「実に、肉のいのちは血の中にある。わたしは、祭壇の上であなたがたのたましいのために宥めを行うよう、これをあなたがたに与えた。いのちとして宥めを行うのは血である」

‘For the life of the flesh is in the blood, and I have given it to you upon the altar to make atonement for your souls; for it is the blood that makes atonement for the soul.’

atonement:贖い、償い
宥(なだ)める:calm, calm down, pacify, sootheなど

ここで何故、atonement という英語を「宥める」と訳したのでしょうか。
この単語に「宥める」という意味はなく、これでは全く意味が違ってしまいます。「宥める」という日本語を英訳しても atonement にはなりません。
これまで「贖い」と訳されて来た箇所が、2017版新改訳聖書では「宥め」と変えられてしまいました。
「宥める」と言うと、「上帝の怒りを宥める」つまり「自分が頑張れば上帝の怒りを鎮めることができる」と思わせてしまいます。
しかし「贖う」と言うと、「犠牲を払って償わなければならない」という意味になります。

焼き尽くす火なるお方

このように、この世の霊(悪霊)は、正典とするみことばに別のものを挿入して、父なるお方がどのようなお方であるかを変質させてしまうのです。
父なる上帝は「焼き尽くす火」であり、モーセも震えおののきました。
「贖い」は「償わなければならない!」と心に刺さりますが、「宥める」はヒューマニズムの信仰にとっては、非常に心地の良い響きです。

信仰の変質

カルトは「イエス様は失敗した」と言い、「クリスチャンを見よ。貧相で暗いじゃないか」と嘲ります。
(世の人はあなたの暗い顔を見て、救われたい、あなたみたいになりたい、と思いますか?)
天の父は、私たちの罪の代償として、イエス様の「贖い」、つまり「上帝の子羊としての血」を必要とされたのです。
もっと言ってしまうと、悪霊は訳者に働きかけたのです。
聖書の中にちょっと細工をほどこせば、信仰は変質してくるからです。

罪の贖いのための苦しみ

イザヤ52章を読んでください。強烈なインパクトがあるでしょう!?
イエス様の顔は、殴られて普通の人間の顔ではなくなっていたのです。
イエス様は、何故こんなに苦しまれたのですか。
私たち人類の罪の、償いのための苦しみだったのです!
「宥める」というゆるい言葉では済まされません。

イザヤ52:13〜15
13「見よ。わたしのしもべは栄える。彼は高められて上げられ、きわめて高くなる」
14「多くの者があなたを見て驚き恐れたように、その顔だちは損なわれて人のようではなく、その姿も人の子らとは違っていた」
15「そのように、彼は多くの国々に血を振りまく。王たちは彼の前で口をつぐむ。彼らが告げられていないことを見、聞いたこともないことを悟るからだ」

イエス様の弟子は、ご聖霊に従う生活をしていないと調子に乗ってしまい、悪霊の囁きかけにコントロールされてしまいます。
みことばを、生活の土台としなければなりません。
ここは、「宥める」を「贖う」に言い換えて読んでください。
主に許されるならば、いつか「上帝版」の聖書を出したいと願います。

汚れた良心のきよめ

ヘブル9:13〜14
13「雄やぎと雄牛の血や、若い雌牛の灰を汚れた人々に振りかけると、それが聖なるものとする働きをして、からだをきよいものにするのなら」
14「まして、メシアが傷のないご自分を、とこしえの御霊によって上にお捧げになったその血は、どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける上帝に仕える者にすることでしょうか」

Ⅰヨハネ1:7〜9
7「もし私たちが、上帝が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます」
8「もし自分には罪はないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません」
9「もし私たちが自分の罪を告白するなら、上帝は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます」

リビングバイブルで読んでみましょう。
ヘブル9:13 「もし、古い制度のもとで、雄牛ややぎの血、あるいは若い雌牛の灰が、人々の体を罪からきよめることができるとすれば」
14 「ましてメシアの血は、どれほど確実に、私たちの心と生活を変えることでしょう。メシアご自身のいけにえは、古い規則に縛られる悩みから、私たちを解放し、生ける上帝にお仕えしたい気持ちに駆り立てるのです。それは、不滅の方である聖霊様の助けによって、一つの罪も欠点もない完全なお方が、自分を喜んで上帝にささげ、私たちの罪のために死んでくださったからです」

赦し

罪の代価は、イエス様によって支払われたのです。
私たちが、真実に罪を告白し悔い改めるなら、ご聖霊が働いてくださり、必ず解放感が伴います。
イエス様の十字架の血を注ぎかけてくださり、罪をきよめてくださいます。
あなたの悔い改めが天で受け入れられたならば、生活の中でイエス様からのサイン(しるし)が与えられ、本当に自分は赦されたのだと分かります。

死の恐怖からの解放

Iコリント15:50〜55
53「この朽ちるべきものが、朽ちないものを必ず着ることになり、この死ぬべきものが、死なないものを必ず着ることになるからです」
54「そして、この朽ちるべきものが朽ちないものを着て、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、このように記されたみことばが実現します」
『死は勝利に呑み込まれた』
55『死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか』

復活のからだをいただくという確信があるなら、死は恐くありません。
これが新しく生まれた人の姿です。
(もし死ぬことが恐いなら、あなたの信仰は本物ではありません)
天国では、健康な、その人の人生の中で一番美しい時の姿に変えられます。
若々しく造り変えられるのです。

イエス様の血

Iペテロ1:1〜2
1「イエス・メシアの使徒ペテロから、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアに散って寄留している選ばれた人たち、すなわち」
2「父なる上帝の予知のままに、御霊による聖別によって、イエス・メシアに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人たちへ。恵みと平安が、あなた方にますます豊かに与えられますように」

神戸のある群れは、「おん血、おん血」と叫びながら体を揺らして祈ります。
最初その集会に出た時、「おんちとは何のことだろう?音痴?」と思ってしまいました。
ただ「おん血」と叫べばよいのではありません。
私たちは、イエス様の血潮の力を知り、またイエス様の血を大切にしなければなりません。
何度も言います。罪を贖うのは、イエス様の血のみです。

ヘブル10:22「心に血が振りかけられて、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ、全き信仰をもって真心から上帝に近づこうではありませんか。

リビングバイブルで読んでみましょう。
ヘブル10:22 「私たちは、まちがいなく受け入れられるという確信と、真実な心をもって、上帝の前にまっすぐ進み出ようではありませんか。私たちの心は、メシアの血を注がれてきよめられ、体は、きよい水で洗われているのですから」

ヘブル12:24「さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る、注ぎかけられたイエスの血です」

リビングバイブルでは、
ヘブル12:24 「またさらに、新しい契約をもたらしたイエスご自身、復讐を叫ぶアベルの血ではなく、恵みに満ちた罪の赦しを与える血に、近づいているのです」
イエス様の血は、恵みに満ちた罪の赦しを与えるのです。
心のきよい者は幸いです。主をおそれなく見ることができるからです。
あなたの中に不従順が残っているなら、イエス様を見ると恐くてたまらないでしょう。

聖いお方

私は、以前(まだ若い神学生の頃でした)あることで、主に不従順なことを犯し、本当に悩み苦しんだことがあります。
「もう自分はダメだ。死にたい」と思い、死の覚悟をして自分の部屋で一人正座して祈りました。
「主よ。もう殺してください」と祈ったその時、遠くの遠くに、小さく小さくイエス様がパッと見えたのです。
思わず「耐えられない!!」という悲鳴を上げました。
あまりにも聖いお方のお姿を、ほんの点のように遠くに垣間見ただけで、「やめてください!来ないでください。耐えられません!!」と叫びました。
罪も汚れもない聖いお方を見ることは、死ぬことよりもしんどく苦しいことでした。
「殺してください」と言いながら、イエス様を垣間見たときの私の反応は、こんなものでした。
イエス様の血の注ぎかけを受けないと、イエス様の前にも出られません。
み言葉を土台とし、イエス様の十字架のもとにひざまずき、イエス様の血が注がれて、それで初めて礼拝できるのです。

焼き尽くす火

ヘブル12:29「私たちの上帝は焼き尽くす火なのです」

もし、今あなたが死んだなら、ダニエル書3章のシャデラク、メシャク、アベデ・ネゴのように燃える火の中に投げ込まれます。(火の中を通らないと天国へは行けないからです)
火に耐えられずにそのまま火の池である地獄に行くのか、火の中を通って天国に入るのか、どちらかです。
生きたイエス様との交わりがないなら、あなたはそのまま地獄です。
イエス様の目から見れば、キリスト教界はこのまま滅びる運命にあります。
イエス様との交わりがなくても、聖書の翻訳はできるでしょう。
しかしそこには命はありません。死んでからでは、間に合いません!
私は今まで何度も全身麻酔の手術を受け、その度に「このまま生きて手術室から出てこれなくてもよい」と思います。
体がなければ、痛みから解放されるからです。

主を待ち望む

私は、いつも目の前に、自分の罪を置いておきます。
私には、過去このような罪があります、と。
祈っていると、ある時ぱーっと罪から自由にされたことがわかります。
ああ、赦された、イエス様の血が私のすべての罪をきよめてくださった、と。
主の平安が訪れます。この平安をどうか体験してください。
イエス様を静まって待ち望む生活が、いかに素晴らしく甘美なものであるか知ってください。
そしていつも祈る体勢をとっていてください。
幼い頃のサムエルが主の声を聞いたように、「主よ。いつでもお語りください」と聞く準備ができているように。
そして、イエス様からの祈りの答えを待たない人は、時間を無駄にしているのです。
イエス様に従う道が、救いの道です。「喜んであなたに従いたい。栄光を現したい!」と願うのが本当の弟子の姿です。

十字架のもとで祈る

地球のまわりには、真っ黒になって悪霊が取り巻いています。
十字架のもとにひざまずいて祈るなら、イエス様の生あたたかい血が流れ落ちてきます。
十字架のもとにいるなら、悪霊は手出しできません。
祈る時に、十字架から離れて祈るので、悪霊にコントロールされてしまうのです。
謙遜な態度がなければ、イエス様の血は注がれません。
主はすべてを見抜いておられるからです。決してごまかすことはできません。

以下は、交わりの時に語られた内容です。

姉妹たちとの会話の中で、「イスラエル十部族が神武天皇の時代には日本に来ていて、日本の宗教的土台を作っていたのなら、卑弥呼の時代にはすでにサマリヤ的偶像礼拝ができあがっていたことになる」「卑弥呼がイザベルに見える」などの質問に対してのものです。

日本の文化

日本には、ユダヤの宗教的な形だけがあります。しかしそこにイエス様の命はありません。
日本の歴史において、過去何度も、海外からいろいろな文化が入ってきました。しかし、それらは日本の文化には勝てませんでした。
(それらが日本の文化に勝ったことは、過去において一度もありません。日本はすべてを飲み込むからです)

女性は霊媒師に

日本を支配する悪霊のリーダー「大和の君」は、女性を使うのが好きです。
(卑弥呼しかり、女性の預言者たちです。まさにバアル、アシュタロテ礼拝そのもですね)
日本では、男性が弱く女性が強いので、女性が男性をコントロールしてしまいます。
(聖書で女性がリーダーになってはならないと言われているのは、女性はこの世の霊にすぐ感化されるからです)

民族の栄光

黙示録にあるように、それぞれの民族の栄光を携えてきて主に捧げるのですから、日本には日本の培われてきた文化を捧げものにしなければなりません。
しかし、この美しいものの中に、禍々(まがまが)しい汚れたものが混ぜられているので、それを取り除かなければならないのです。
きよめられ、主にふさわしいものにされて、捧げるのです。

君民共治

モルデカイ・モーゼ氏は、その著書「日本人に謝りたい」の中で、ユダヤ人が地上で理想として追い求めて来た「君民共治」そのものが戦前の日本にあった。
それを自分たちの手で壊してしまった。日本人に謝りたい、と嘆いています。
(主が日本を、天皇を中心とする一つの家族として熟成し育ててこられたのです)

イエス様の命

私たちが「本当の日本人」になるなら、形だけ残している人々が気づくでしょう、「自分たちには、宗教の形しかないが、彼らにはイエス様の命がある!」と。
私たちは、誰かを批判するのではなく、人々をイエス様に立ち返らせるために、今ここに生かされているのです。
能楽の翁の舞の後ろに、イエス様が立たれたら…あなたはどうしますか?
「かごめかごめ…後ろの正面だあれ」と。

文責 菅原はれみ

<礼拝中に引用された証し>

「最後の旅立ち マラナタ・リバイバル・クルセード編著 角笛出版」
  10 私の天国訪問 カナダのエリサベス・ボザードの証し
 から
 臨死体験で天に引き上げられイエス様に会い、天国がいかに素晴らしい所かを垣間見た女性が、人々に主の再臨の備えをするよう警告するようにとの命を受けて戻ってくるという証し

概要
~1945年死の床にあった私は天に引き上げられ、イエス様の血の注ぎかけを受け変化させられて御顔を直接見られるようになりイエス様と時を過ごす。
 天国には、主の栄光に満ちた御座があり、栄光の冠をかぶり白く輝く長いガウンを着た、若くて健康な母がいた。一方、下を見下ろすと地球があり、それは悪霊が厚く取り巻き覆っている。
 イエス様は私に、メシアの血潮の信仰を伝道者たちが人々に語るように伝えること。以前より困難な時代に生きる若者たちが救われ、聖められるように上帝のみ言葉を示し、彼らのために熱心に祈ることをおっしゃった。
そして、人々に主の再臨の備えをするよう警告するようにとの使命をゆだねられて、私は地球に戻された~                  文責 原田 

礼拝message 8月5日(水)

ヨハネ8:31〜59

みことばの反芻

四つの福音書の中で、ヨハネの福音書は、私が最も大切にしている福音書の一つです。
イエス様、上帝なるお方、ご聖霊。信仰の疑念をもつ時、人生のいろいろな問題にぶつかった時、私はヨハネの福音書を何度も何度も読んできました。
そしてみことばを反芻するのです。
何度も練り食(は)んでみことばを理解することは、非常に重要です。
(反芻する動物に牛がいましたね。牛がきよい動物として旧約聖書で扱われているのは、とても面白いです)

ヨハネ8:58
「イエスは彼らに言われた。まことに、まことに、あなた方に言います。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』なのです」

わたしはある

「わたしはある」という宣言は、全被造物に対し、絶対的支配者であるお方が、「わたしは永遠からある。そして永遠にある」=「わたしこそ上帝(神の中の神)である!」という宣言です。
つまり、「上帝(聖書の神御自身の自己啓示)はイエス様だけ」なのです。
(注:三位一体のように、上帝とイエス様、ご聖霊を三つに切り離して考えられるものではありません。分けられないのです)
これを聞いて、パリサイ人、律法学者は、天地がひっくり返るような衝撃を受けたでしょう。

聞こうとせよ

ご聖霊は、すべての真理(みことばの深み)に導くお方です。
みことばは、あなたの人生において(その時その時の年齢、体験において)、全く違う意味を持って迫ってきます。
みことばが、あなたを支配するのです。
(ただしイエス様が語ってくださっても、聞こうとしない者にはこのような体験はありません)

結婚

さて、結婚している方々。イエス様が引き合わせてくださった夫婦ですが、あなたは今倦怠期ですか?お互いが何となく、飽きた、嫌になった、などでしょうか?
私は、韓国の女性を妻としていただきましたが、結婚する時はもう舞い上がっていました。
「信仰深い国、韓国から来た女性。この妻(姉妹)に支えられて、これから信仰の飛躍ができる!イエス様が素晴らしい体験をくださるに違いない!」と期待していたからです。
私と妻は、韓国で結婚式を挙げ、その後1ヶ月間はそのまま韓国で生活していました。飛行機で韓国に降り立った時、空港で入管の人に「韓国には、牧師、伝道師は輸出したいほどいる。日本には牧師も伝道師も少ないのに、どうしてあなたは韓国に来たのですか?」と言われたことがありました。
今思うと、それはイエス様からの示唆の一つでした。
それからいろいろなことがあり、「やはり違うのだな」と気がつき、妻を連れて日本に帰国して教会を始めました。

ビジョン

韓国の牧師夫人は裕福なので、私の妻は、いろんなものがいっぱいもらえると思っていたようです。
しかし現実はそうはなりませんでした。私にはお金はなく、貧乏だったのです。
それで毎日すいとんを食べていました。
秋になると、隣からサンマを焼く匂いがするので、妻は「サンマが食べたい!」と、キムチを作る材料が買えなかったので「キムチが食べたい!」と、タンスに向かっておいおい泣いていました。
私には、「イエス様に命をかけていくなら、必ず祝福してくださる」というスピリットがありました。
イエス様がどれほど祝福してくださるか、素晴らしいビジョンが見えていたのです。
私の結婚に対する期待は、風船がしぼんでいくように消えていきました。

訓練

「なぜ、この姉妹と結婚したのか?」私には、ずっと疑問がありました。
しかし、「私のために」この結婚があったのです。
この姉妹を通して、イエス様は私を教え、悟らせ、悔い改めさせようとされたのです。
「主が私を訓練をしようとされているのだ」と気がついたのは、妻が癌で亡くなる少し前でした。
クリスチャンの証はきれいごとばかりです。私を見てください。
きれいごとで済みますか?

妻(夫)を裁くな

決して人を褒めてはいけません。そこに悪霊がいるからです。
褒められたらあなたの肉は喜ぶでしょう?
同時に、妻(夫)に対してパリサイ人、律法学者のようになってはいけません。あなたは妻(夫)に対して上から目線で裁いていませんか?
この世の夫婦と同じく「あなたが悪い」では、いけません。

マタイ3:6
「自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた」

聖書の「救い」

ほとんどのユダヤ人は、モーセの律法を破っていると自覚していました。彼らは、聖書を知っていたからです。
聖書(律法)を知らないと、罪の定義はわかりません。なぜなら、この世の犯罪という類の罪ではないからです。日本人クリスチャンの多くは、ここを勘違いしていると思います。
一般的に「救い」の意味を、広い意味で使うからです。
病気が癒された時、問題が解決した時、お金がないのに与えられた時、簡単に「救われた」と言ってしまいます。
しかし、これは「聖書の救い」ではありません。「聖書の救い」は狭い範囲で使います。
それは、罪、咎(とが)、滅びからの救いです。

自分の中に正しいものはない

この救いをあなたのものにしたければ、自分で聖書を読み、自分が罪を自覚して告白し、「この罪を赦してください!こんなことはやめます。イエス様を救い主として受け入れます。もうこの罪を犯したくないからです」と叫ばなくてはなりません。
聖書の救いは、罪を犯す自分からの救いであり、死と滅びからの救いです。
それはあなたを、罪から自由にします。
日本の多くのクリスチャンは、自分の罪を自分で告白していません。
牧師、宣教師から教えられたことを、ただおうむ返しに言っているだけです。また聖書すら自分で読んでいません。
あなたが救われたいのなら、自分で聖書を読んで、聖書の罪を知り、「救ってください!私の中に正しいものは何もありません」と言わなければなりません。

まむしの毒

マタイ3:7〜8
7「ヨハネは、大勢のパリサイ人やサドカイ人が、バプテスマを受けに来るのを見ると、彼らに言った。『まむしの子孫たち、だれが、迫り来る怒りを逃れるようにと教えたのか」
8「それなら悔い改めにふさわしい実を結びなさい。』」

ヨハネは、「まむしのすえたち!」と叫びました。
まむしは、毒を持っています。
パリサイ人やサドカイ人たちは、「私は正しい」と思っていました。
自分たちは、上帝が正しいと認めてくださったから、祝福されて金持ちなのだと思っていたのです。
この「私は正しい」というのが毒そのものです。
悪霊がその人の中に居座っている証拠です。
そのような人は、信仰生活そのものが、悪霊によって成り立っています。
悪霊は囁きます。「お前は正しいのだよ。なんでもよくわかっているよ。情報通だよ」と。
こう言われると、肉には気持ちが良いのです。
あなたの内にまむし(悪霊)がいるなら、イエス様はおられません。一緒に住むことはできないからです!
教義や知識(あるいは体験すらも)プライドとなります。
自分を守るためにどんどんこういう態度を積み重ねて行くと、ひたすら自分の肉を強くすることになります。

絶対服従

Ⅱテサロニケ2:9〜12
9「不法の者は、サタンの働きによって到来し、あらゆる力、偽りのしるしと不思議、」
10「また、あらゆる悪の欺きをもって滅びる者たちに臨みます。彼らが滅びるのは、自分を救うイエス様を愛をもって受け入れなかったからです」
11「それで上帝は、惑わす力を送られ、彼らは偽りを信じるようになります」

主は悪霊すらも、お使いになります。
真理(イエス様)と嘘(悪霊)は同居することができません。あなたの中にあるのは、どちらですか。
肉は支配されたくありません、肉は自分が支配したいのです。
しかし、聖書はイエス様への絶対服従を要求します。

国の罪

この終わりの時、中国を見てください。
主の怒りが臨んでいるではありませんか。
中国の歴史の中で、立派なクリスチャンたちはたくさんいました。
何故今、このようなことになっているのですか?
これは、その国のクリスチャンたちの責任です。
クリスチャンは、自分の国の悪を、祈りによって阻まねばならないのです。

イエス様の心

例えば、誰かが祈ったとします。
人間が聞いている「熱心さ」と、上帝が聞いておられる「熱心さ」は違います。だまされてはなりません。
成長して、イエス様の目線で見ることができないと、役には立ちません。
人の見る「評価」と、イエス様の見ておられる「評価」は違うのです。
人を正しく「評価」できるお方はただ一人、イエス様だけです。
人間がすることではありません。
イエス様の「心、思い」が絶対に必要です。
あなたの内におられるイエス様の命が成長して、イエス様と同じ思いになっていないなら、この世と同じです。
すべての判断を見誤ります。
世のキリスト教は、どうしようもないヒューマニズムに陥っています。

惑わす霊

あなたの生活は、綺麗ごとになっていませんか。
綺麗ごとにしてはなりません。そんなものではないでしょう!
日本のクリスチャンたち、このような生ぬるい生活をしていると、主から悪い霊(惑わす霊)を遣わされてしまいます。
不思議やしるしだけに夢中になり、すべてが「気分」の問題になってしまいます。もう悔い改めることができなくなったら、最悪です。
太秦の群れは、十字架の愛を知って、イエス様を愛する者になって欲しいのです。
そしてイエス様に従って行くなら、イエス様に愛される人になります。

悔い改め

私の妻は韓国人でしたから(今は天国に帰りました)、私は在日韓国人の方々に伝道したいと求めていました。
ところが妻と生活するうちに、妻の韓国的な性格を度々見せられ、古い自分の肉の中から、嫌悪感と軽蔑が出てきたのです。
私は自分の深い所にある、民族差別意識に気づかされたのです。
主は言われました。「お前の中にこんな嫌なものがあるだろう?こんなものがあって、在日韓国人にどうやって伝道できるのだ?」と。
私は何度も、幼い長女を背中に背負って、畑の中で一人泣きました。
イエス様は決して妥協されません。愛する者をとことん聖くしようとされます。日常生活に働いて、悔い改めを求められるのです。

イエス様の要求

聖書には、「良き妻は夫の冠」だとあります。冠になれるのは女性だけです。
(みなさんは、まだまだ漬物石のように重いですね。それでは冠にはなれません)
女性は、「男性の弱さ、足りなさ」については、すぐに気がつきます。
クリスチャンの男性たちよ。妻の「こうあって欲しい」という要求は、イエス様から来ているのです。
イエス様が要求されているのです!
訓練を拒んだら、イエス様ご自身を拒むことになります。
夫が釘で、妻がトンカチです。大きなトンカチだと思うでしょう。
訓練だと受け入れたら、あなたは解放されます。受け入れないから、出口が無くなるのです。

さて、ようやく本題に入りましょう。もう時間がないですね。

ヨハネ8:50「わたしは自分の栄光を求めません。それを求め、裁きをなさる方がおられます」
ヨハネ8:54「イエスは答えられた。『わたしがもし自分自身に栄光を帰するなら、わたしの栄光はむなしい。わたしに栄光を与える方は、わたしの父です。この方を、あなた方は『私たちの神である』と言っています』」

天の父が、イエス様の栄光を求めておられるのです。

詩篇102:12〜22
22「諸国の民や王国が 一つに集められて 主に仕えるために」

今この時代、このことが求められているのです。
千年王国のための下準備が、まさに今されなくてはなりません。
それから、千年王国が来るのです。

IIコリント10:1〜6
5「私たちは様々な議論と、上帝の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち倒し、また、すべてのはかりごとを取り押さえて(捕虜にして)、メシアに服従させます」
6「また、あなたがたの従順が完全になった時、あらゆる不従順を罰する用意ができています」

主に立ち返れ

今この時代、不従順な者たちを、イエス様に立ち返らせねばなりません!
神学校のある有名な先生に、このように言われたことがあります。
「私は、インサイダー。君はアウトサイダーだね。私と君は違うんだよ」
インサイダー:集団・組織の内部の人。部内者。正統派。
アウトサイダー:集団・組織の外部の人。部外者。仲間に加わっていない者。(社会の枠にあてはまらない独自の思想の持ち主)
「恵みにより信仰によって救われた」だから「信じればそれで良い」と言うキリスト教インサイダーに対し、太秦之宮は「主の命令に従順になれ!」と言うアウトサイダーの集まりです。
みなさん、嫌われますよ。覚悟はできていますか?
不従順なキリスト教会の中に、サタンが支配しています。みことばの通りです。本気にならねばなりません。
敵は、問題を起こして、私たちを駄目にしようとします。

無駄なことは無い

今回、腸のヘルニアのために、7月30日に入院をし、31日に手術を受けました。大腸癌の手術を受けた時とは、比べものにならないほどの痛みを経験しました。しかし、主は無駄なことは一つもされません。
看護師さんたちに職業を聞かれ、牧師であることを伝えました。
何故か私の高校の時から神学校までの話をすることになり、「つまらないからやめましょう」と言ったのですが、聞きたいと言われ、話しました。看護師さんは「私には悩みが多くて・・・」とだけ言われました。
このことのための入院だったのだと、主に感謝いたしました。
もう私はこのまま帰ってこなくて良い、と思っていたのですが、主が生還させてくださいました。お祈りありがとうございました。

以下は、交わりの時に語られた内容です。

1ペテロ1:18〜19
18「ご存知のように、あなたがたが先祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず」
19「傷もなく汚れもない子羊のようなメシアの、尊い血によったのです」

伝道者の書5:2「上帝の前では、軽々しく 心焦ってことばを出すな。上帝は天におられ、あなたは地にいるからだ」

地に足をつけた祈り

あなたが祈る時、夢見る者のように祈ってはなりません。
韓国の教会やペンテコステ派によく見られるように、体を揺らして祈るのは、バアル礼拝の信者たちがやった祈りと同じです。
見えない存在に自分を投げて祈るのは、霊媒師のやることです。
「おゆだねします」と祈りながら気持ちよくなり、夢見る人のようになるなら、ヘビに絡みつかれています。(ヘビは生あたたかいですから)
感覚的なものに支配されてはいけません。
「支えられてるみたいな感じ」「愛されてるみたいな感じ」すべてが「○○みたいな感じ」です。
悪い霊にひざまづくなら(身をゆだねるなら)、それはあなたをコントロールして催眠状態にします。
祈っていて「おかしいな」と思ったら、「イエス様。これ変です。先祖から来ていますか?何ですか?捨てます。自由にしてください」と言い、イエス様の血潮の注ぎかけを求めてください。
私たちは、子どもとして、天の父に祈るのです。
はっきりと言って、はっきりと祈ってください。

主は全宇宙の創造者

多くの教会の建物の上に立っている十字架も、実は魔除けであり、おまじないの類いです。
単に、この世の霊に対して「ここは教会ですよ。入って来ないで!」と言うものです。
恐いから付けているのです。(恐がってる時点で、もう負けています)
太秦之宮にはそのようなものは必要ないし、おまじないの十字架を建物の上に立てたりはしません。
全宇宙の創造者である偉大なお方が守っていてくださるので、恐くないからです。
そんなことをしなくても主の宮であるなら、ご臨在で分かります。
イエス様は全地を支配されているのですから。

文責 菅原はれみ

礼拝message 7月29日(水)

ロマ3:9~31

義人はいない

ロマ3:9〜18
9「では、どうなのでしょう。私たちにすぐれているところはあるのでしょうか。全くありません。私たちがすでに指摘したように、ユダヤ人もギリシャ人も、すべての人が罪の下にあるからです」
10「次のように書いてある通りです。『義人はいない。一人もいない」
11「悟る者はいない。上帝を求める者はいない」
12「すべての者が離れて行き、誰もかれも無用の者となった。善を行う者はいない。誰一人いない」
13「彼らの喉は開いた墓。彼らはその舌で欺く。彼らの唇の下には、まむしの毒がある」
14「彼らの口は、呪いと苦味に満ちている」
15「彼らの足は血を流すのに速く」
16「彼らの道には破壊と悲惨がある」
17「彼らは平和の道を知らない」
18「彼らの目の前には、上帝に対する恐れがない」

主のご計画

主のご計画とみ心が、いかにはかり知れないものか。
特別にコロナウィルスが全世界に広がることがゆるされ、多くの人が亡くなりました。
この禍いの中にすべての人が巻き込まれている今、私たちはただただ主イエス様の憐れみとみ心の中で生かされているのです。

選民意識

世界的に見て、日本が被害が少ないのは、「日本が素晴らしいから」ではありません。
私たちはへりくだった群れであるべきで、他民族を見下していてはなりません。
イエス様に呼ばれ選ばれているならば、自惚れて「選民意識」を持つなどあり得ません。
イエス様を少しでも知っているならば、「私みたいなどうしようもない者を選んでくださった」と感謝するからです。

イエス様の栄光

以前にも「選民」を旗印として誇り、自惚れていたキリスト教グループがありましたが、今はほとんど残っていません。聖書の中から都合の良い一部を取り出して強調すると、必ずおかしくなってしまいます。
太秦之宮が目指すものは、「主イエス様が褒め称えられ、主イエス様が栄光をお受けになる」ことだけです

他民族の羨望の的

イスラエル民族が選ばれたのは、偉そうにするためではありませんでした。
旧約の律法を守ることによって、祝福されて幸せになり、他の民族が羨ましく思うためだったのです。
同じように私たちも、ただ恵みによって救われたのであって「私が素晴らしいから救われた」のでは決してありません。
「選ばれた」ことに信仰の力点を置くと、あなたは成長しません。
柔らかい素直な心で、み言葉を食べるのです。

共に生きる

「イエス様から決して離れない!」というライフスタイルを身につけてください。
どのような失敗をしても「イエス様の命令を守ろう、ついて行こう」と、イエス様と一緒に生きることです。
教会に行ってるから、牧師、宣教師だから大丈夫…などはあり得ません。

「義」という漢字は、「我」の上に「羊」です。
私の支配者は、子羊なるイエス様です。だから「我」の上に「羊」があるのです。非常にユダヤ的です。
しかし、現代のクリスチャンは、イエス様と自分が対等になっているのではないですか。イエス様のことを「マイ フレンド」と呼んでみたり。
私たちは、イエス様をフレンド(友達)と言えるような立場ではありません。
人間中心に聖書を読むと、このようになってしまいます。
すべてが「私を愛してくださったから」と私が中心になります。
しかし、これは間違いです。

聖書を利用する

キリスト教カルトは、自分たちの教義を守る鎧甲(よろいかぶと)として、聖書を使います。
聖書を教義の外側にカバーとして巻いてしまうのです。
すると中心におられるべき「主なるイエス様」が無いことになります。
そうなると、必ず聖書からずれて行きます。
韓国の教会に多いのですが「牧師に従うことは、イエス様に従うことだ!」と勘違いし、牧師崇拝になるのです。
そうなると、恐怖感から「違う。おかしい」と言えなくなってしまいます。
日本人は仲間外れにされるのは、嫌なのです。
「和を以て貴しと為す」、つまり「和」の中にいると安心するのです。

上帝の怒り

ロマ3:24〜25
24「上帝の恵みにより、メシア・イエスによる贖いを通して、値なしに義と認められるからです」
25「上帝はこの方を、信仰によって受けるべき、血によるなだめの捧げものとして公に示されました。ご自分の義を明らかにされるためです。上帝は忍耐をもって、これまで犯されてきた罪を見逃してこられたのです」

ロマ5:6〜11
8「しかし、私たちがまだ罪人であった時、メシアが私たちのために死なれたことによって、上帝は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます」
9「ですから、今、メシアの血によって義と認められた私たちが、この方によって上帝の怒りから救われるのは、なおいっそう確かなことです」
10「敵であった私たちが、み子の死によって上帝と和解させていただいたのなら、和解させていただいた私たちが、み子の命によって救われるのは、なおいっそう確かなことです」

なだめもの

上帝の愛と怒りは調和しています。
イエス様は私たちのために、上帝の怒りをなだめるために「なだめの捧げもの」となってくださいました。
なだめるとは「1.怒りや不満などをやわらげ静める、事が荒立たないように取りなす 2.罪などに対して寛大な処置をとる」という意味です。
聖書は何と言っていますか。
「私たちには、上帝の怒りをなだめられない」と言っています。
つまり、「何をやっても無駄。何もできない。正しいこともできない。
許してもらうことも怒りを静めることも全部無理」ということです。

イエス様の血

だからこれに対してキリスト教カルトは、「神の怒りをなだめ、喜んでもらうために、何かをするべき。自分が何かをもってあがなうべき」と持ってきます。
しかし私たちは誰も、上帝の怒りをなだめられません。

ロマ3:25「上帝はこの方を、信仰によって受けるべき、血によるなだめの捧げものとして公に示されました。(前半)」
ロマ5:9「ですから、今、メシアの血によって義と認められた私たちが、この方によって上帝の怒りから救われるのは、なおいっそう確かなことです」

どんな奉仕と伝道をしたとしても、何の意味もありません。
(それが救われる根拠にはなりません)
イエス様の血のみが、上帝の怒りをなだめられるのです。

上帝の子羊

イエス様は、世の罪を取り除く上帝の子羊として、地上に来られました。
ご自分を聖い生贄として捧げて、血を流されました。
その血だけが、あなたに対する上帝の怒りをなだめることができるのです。

報いは救いではない

では、良い行いをすれば、救われるのでしょうか?聖書にはどう書いてありますか。
良きサマリア人は、救われたとは書いてありません。
一杯の水のたとえもそうです。「報い」は、「救い」ではないからです。
その人自身が、イエス様を自分の救い主として受け入れなければなりません。
弟子としての生き方を選び取って初めて、あなたは義と認められるからです。
天の門は、イエス様に生涯従ってきた弟子に対してのみ、開くのです。

マタイ7:21〜23

21「わたしに向かって、『主よ、主よ』という者がみな、天のみ国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみ心を行う者が入るのです」
22「その日には多くの者がわたしに向かって言うでしょう『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡をおこなったではありませんか』」
23「しかし、わたしはその時、彼らにはっきりと言います。『わたしはお前たちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け』」

主の喜ばれることは

「私は教会を建てました」「教会のメンバーを増やしました」「献金しました」などと言っても無駄です。
イエス様は、「不義を為すものよ。出て行け!」と言われるでしょう。
「イエス様。あなたが喜ばれることは何でしょうか」と常に聞くのが義人の態度です。
主イエス様ご自身が義であり、私たちの側に義はないからです。
聖書は繰り返し私たちが分かる様に書いてあるのに、それを見えなくさせるのが、この世の霊です。

ヨハネ3:16
「上帝は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それはみ子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠の命を持つためである」

イエス様を誇る

上帝は、ご自分の怒りをなだめるために、ご自分のみ子を遣わして、ご自分の怒りをなだめられたのです。
私たちは、何もしていません。
救いは、「イエス様を受け入れます。感謝します!」という態度をとる者にだけ与えられます。
だから私たちは、イエス様だけを誇りとするのです。
イエス様の血だけが、上帝の満足される生贄なのです。

預言者たちの希望

旧約の預言者たちは、イエス様の血が流されて、人類の罪が贖われるのを、待ち望んでいました。
それが彼らの希望でした。
そしてイエス様が人間として地上に来られた時、彼らはじっとイエス様の人としてのご生涯を見ていたのです。
イエス様が、人間として罪のない一生を送ることができるのか!?
そして上帝の聖い生贄としてご自分を捧げられるのか!?
なんという緊迫感だったでしょうか。同じ様に、私たちも見られているのです。

メシアの血による赦し

Iペテロ1:13〜21
13「ですから、あなたがたは心を引き締め、身を慎み、イエス・メシアが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい」
14「従順な子どもとなり、以前、無知であったときの欲望に従わず」
15「むしろ、あなたがたを召された聖なる方に倣い、あなた方自身、生活のすべてにおいて聖なる者となりなさい」
18「ご存知の様に、あなた方が先祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず」
19「傷もなく汚れもない子羊のようなメシアの、尊い血によったのです」

上帝の怒りについて、キリスト教学者は何と言っているでしょうか。
「神は本質的に聖いお方であるゆえに、罪を黙許黙認することができない」
上帝は聖いお方であるので、罪を赦すことができない、必ず報いるお方なのです。
十戒は「義」を具体的に示したものです。

日本の偶像礼拝

では、日本について考えて見ましょう。

十戒 1.あなたには わたしのほかに 他の神々があってはならない。 

日本には、やおよろず(八百万)の神々があります。
天照大神も大日如来も同じ神です。
人間の趣向に従って、神々を作ってしまうからこんなに多くなるのです。

まず、日本にはユダヤの土台がガッチリあります。日本に渡って来たユダヤ人の大きな波で言うと、
1.イスラエル十部族(サマリヤ人)
2.原始キリスト教徒(弓月の君に率いられた秦氏)

十部族の宗教的布石

イスラエル十部族は、サマリヤ人です。
彼らは、多くの神々を拝む混交宗教ですから、サマリヤ人の宗教をそのまま日本に浸透させました。
古事記と旧約聖書がよく似ているのはそのせいです。
彼らは「サマリヤ五書」をそのまま、宗教的な「布石」として日本に置きました。

原始キリスト教徒の妥協

原始キリスト教徒の秦氏たちが日本に渡って来た時、彼らは分かったはずです。
「ユダヤ人」が自分たちより先に来ている、と。
宗教的な土台は同じだからです。だから喧嘩はしませんでした。
宗教的には、手を結んだのです。
しかし、政治的な権力争いは激しくやり合いました。

隠蔽

何故、天皇陛下の大嘗祭で納められた「あらたえ」(麻で作った着物。徳島から納める)を、京都の広隆寺の聖徳太子の像に着せるのですか。
「宗教的には、勝った負けたとか言うのはやめよう。
我々がユダヤ人であるのがバレるとまずい!」といったところでしょうか。
こうやって事実を隠蔽するのです。

ネストリウス派ではない?

秦氏が、生きているイエス様を中心とする群れだったら、決してイスラエル十部族とは妥協できなかったでしょう。
彼らがもしネストリウス派だったら、マリア崇拝はしないので、手を結ぶことはないからです。
彼らが「イエス様しかない!」と言うなら「和」を乱し、激しい戦いになったはずです。
ところが、秦氏はそうはしませんでした。
秦氏は、世的原始キリスト教徒であり、ネストリウス派ではなかったのだと思います。

天の聖所

上帝の怒りは、私たちには説明できません。
何故なら、天地が造られる前に、サタンと呼ばれるルシファーの反逆が土台となっているからです。
上帝の怒りは、「み使いの世界」の問題です。
ルシファーは、「天の聖所」に祭司として仕える相当位の高いみ使いだったと思われます。
サタンが上帝に反逆して、地上に落とされた時、彼は「天の聖所」を汚してしまった。
だからイエス様が十字架で血を流され、復活された後に天に上り、天の聖所を聖める必要があったのでは、と私は思っています。
だからマグダラのマリアに、「わたしに触ってはなりません」と言われたのでしょう。

人間の無力

上帝の怒りは、ご自身が生贄をご用意しなければ、満足されないものです。(人間の側では何もできません)
上帝は、ご自分の怒りの「なだめもの」として、み子の血を要求されるのです。
それが分かるなら、「上帝の怒りに対して、私は何もできない。イエス様にしがみつくしかない!」と気が付くでしょう。
「信じればよい」ではありません!
あなた自身の命を捧げる服従しかないのです。
イエス様への従順がなければ、幸せな豊かな人生などありません。

贖いの素晴らしさ

ヨハネ3:36「み子を信じる者は、永遠の命を持っているが、み子に聞き従わない者は命を見ることがなく、上帝の怒りがその上にとどまる」

イエス様が「死から蘇られた」という事実は、人間側が考えられるレベルではありません。
スケールの大きさが違います。
天の父は、み子の贖いがどれほど素晴らしいか、みなさんの生活を通して証明したいと思われています。
そして、それを「み使いたち」、特に「サタンに従い反逆したみ使いたち」に見せたいと思われているのです。
人間の側で失敗してはなりません。
人類には、イエス様による救いの道しかないからです。

この世の宗教

サタンの側は、何としてもイエス様を隠したいのです。
この世の宗教を使ってイエス様を貶め、「キリストは失敗したんだよ。彼にひざまずくなんてあり得ない」と人々を騙しています。いくつかそのようかカルトが思い浮かびますね。
太秦の群れを、み使いたちはじーっと見ています。
「どうするの?何やるの?どうなるの?イエス様に真剣になってないよ…」と。
みなさんはどうですか?イエス様に命を捧げていますか?

周りの人々に

イエス様は、将来と希望を与えるお方です。
それを体験しなさい、とイエス様が期待しておられるのです。
その事実を、あなたの周りの人々に見せてあげて欲しいと、願っておられるのです。

怒りか平安か

祈りの中で、文句ばかりつぶやいていると、上帝の怒りがあなたの上にとどまります。これがキリスト教です。
あなたの上にあるのは、上帝の「怒り」ですか、「平安」ですか。
形だけのキリスト教をしていると、いつ怒りが落ちるか分かりません。
生ぬるくならないように、お互いが祈らねばなりません。
口先だけでお互いを誉め合うようなことがないように。

以下は、交わりの時の質問に対して語られた内容です。

最後の砦

イエス様が歴史の中で、古代ユダヤ人を日本の中に置いておられるのなら、サタンにとっても、日本は最後の砦です。
ここを奪われたら、その時点で敗北は決定的になるからです。
そうなれば、サタンは日本を死守するでしょう。

美学

日本を支配している「大和の君」とその部下「翁の霊」は、本当に頭が良いのです。(人間のかなう相手ではありません)
彼らが何をしたかと言うと、嘘の平和を持って来て「これでいいだろ・・・」と言うのです。
「虚しさ」さえも日本的「美学」にしてしまいました。
腹切りも死も美しい。枯山水(枯れてしまったものまでも)美しい、と。
これが翁の世界です。

祈りの戦い

そして「イエス様より天照大神の方が強いだろ!」と嘲笑うのです。
イスラエル十部族(サマリヤ人)の置いた混交宗教の「布石」と、世的原始キリスト教徒の作り上げた宗教的「素地」で、日本の土台はできているので、そんな簡単に破れるものではありません。
だからみなさんには、祈りを学んで欲しいのです。
祈りは、要塞さえも打ち破るからです!

諦観の念

この世と調子を合わせてはなりません。
「こんなもので良いじゃない」と巻き込まれて妥協してしまうからです。
そういうわたし自身も、「そこまでやる必要ないじゃないか」と囁く声が常に聞こえます。
それに抵抗するのが、私の戦いでもあります。
翁の霊は、偽の平和、偽の平安で、虚しささえも「まあよいか・・・」とあきらめさせようとするのです。
(諦観:どうすることもできないので諦めて受け入れる。英語表現では存在しません)

新しく生まれ変わる

だから、自分を捨てていないと戦えません。
自分自身に騙されるからです。
イエス様の知恵で、イエス様が先頭に立って戦って下さらなければ、私たちには不可能です。
新しく生まれ変わって、日本人をやめていないと、本質的なことは見えません。日本人の心は十二単衣を着ているからです。(12というのが面白いですね)
ひとつひとつ肉を脱ぎ捨てて行っても、12枚もあるのですよ。
この十二単衣さえ、美しいと思っている。なんと頑なな心でしょう。
そこから全く新しい者に造り変える事は、イエス様にしかできません。

文責 菅原はれみ