
申命記30:1〜20
申命記30:19,20
19「私は今日、あなたがたに対して天と地を証人に立てる。私は、いのちと死、祝福と呪いをあなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生き」
20「あなたの上帝、主を愛し、御声に聞き従い、主にすがるためである。まことにこの方こそあなたのいのちであり、あなたの日々は長く続く。あなたは、主があなたの父祖、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われたその土地の上に住むことになる」
イエス様に感動していますか
日々の生活の中で、今週あなたは何か感動の時を持ちましたか?
何も感動することがなかったとしたら、あなたのうちにイエス様の命はありますか?
それは、あなたがどれくらいイエス様を喜び、感動しているかの問題です。
旧約において、イスラエルの民は上帝を知らされていました。
人間は被造物にしかすぎません。
造られた者が、創造主を畏怖し、礼拝し、お仕えするのは当然のことです。
それは、新約で生きる私たちも同じです。
旧約時代と同じように、今も祝福と呪いの二つの道しかありません。
エペソ5:21
「メシアを恐れて、互いに従い合いなさい」
イエス様を畏れる
メシアは、裁き、報いを与えるお方です。
そして未信者にとっては、火の池に投げ込む権威を持っておられる恐るべきお方です。
旧約では、「主を畏れることが、知恵の始め」であり、新約では「イエス様を知ることが知恵の始め」なのです。
イエス様を畏れていないから、異端やカルトに行ってしまうのです。
イエス様ご自身を畏れるなら、そのようなことはあり得ません。
悪霊は、肉の性質の中に足場を持っているので、「神は愛だから、畏れることなんてないよ」と囁くのです。
ガラテヤ5:19〜26
19「肉のわざは明らかです。すなわち、淫らな行い、汚れ、好色」
20「偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派」
21「ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のものです。以前にも言ったように、今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。このようなことをしている者たちは上帝の国を相続できません」
肉に従う者
人より自分が優っていると思う人は、自惚れます。
生まれつきの性質に従うなら、上帝の国には入れません!
肉についてルーズな人は、死んだら地獄です。
聖餐式は、主に従うと誓った者が受けるのです。
その後に、肉で考え、話すならもうアウトなのですよ。
多くのクリスチャンはそのことを分かっていないのです。
交わりや報告の時に、あなたの発言や態度の中に隠れているものは何ですか。
気づきませんか?
しかし、主の光が当てられないと、何も自覚できないのが事実です。
エレミヤ17:9,10
9「人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒しがたい。だれが、それを知り尽くすことができるだろうか」
10「わたし、主が心を探り、心の奥を試し、それぞれその生き方により、行いの実にしたがって報いる」
エレミヤ17:5,7
5「主はこう言われる。『人間に信頼する者はのろわれよ。肉なる者を自分の腕とし、心が主から離れている者は」
7「主に信頼する者に祝福があるように。その人は主を頼みとする」
心の割礼
その人が、今何を考えているのかは、全て態度、行動に出ています。
あなたの中から何が出て来ていますか?
自分の弱さや肉から、自由になる体験をしていないなら、自分の性格の中に現れてくるものは、そんなに簡単に変えられません。
重要なのは、あなたが心に割礼を受けているかどうかです。
旧約では、このことは実現しませんでした。
しかし新約時代になり、イエス様が来られ、その十字架と死、よみがえりを通して、上から新しい命をいただき、それにより、主を愛して生きることができるようになったのです。
悔い改めは痛いし、苦しいものです。
「これではダメだ!」と自分で向きを変えた者だけが、イエス様を愛するようになるのです。
悔い改めたことは、その人の生き方の向きが変わったことが、証拠です。
実際の生活で、どう向きが変わったのか、イエス様は見ておられます。
そして、自分がみことばの基準に達するには、あなたの真剣さが必要です!
求め、叫び、戸を叩くのです。
キリスト教の悔い改めは、「ごめんなさい」で終わりです。
そこには痛みも苦しみもありません。
甘ったれた者には、悔い改めはできません。
詩篇119:71
「苦しみにあったことは 私にとって幸せでした。それにより 私はあなたのおきてを学びました」
苦しみは幸い
旧約聖書を読むなら、新約聖書と一つになっていくのがわかるはずです。
そこで繰り返し言われているのは、「苦しみにあったことは、私にとって幸せでした」ということです。
苦しみ、悩みをまともに受けない人は、悟ることがありません。
まさに放蕩息子が、豚と一緒にいる時に、我に返ったようにです。
苦しみにあったから、自分がどのような者か分かるのです。
自分に絶望したからこそ、主に立ち返って来るのです。
「苦しみにあって良かったですね。あなたがイエス様を知るチャンスですよ」と未信者に言ったらどうでしょう。
その人は怒るかもしれません。
しかし、こう言えないと役に立たないのですよ。
このように言えるクリスチャンは本当に少ないのです。
どのような苦難の時も、天と地を造られたお方を褒め称える時、救いと証しの時です。
牢屋に入れられた後、弟子たちはどうしましたか?
主を賛美し、伝道の機会となりました。
クリスチャンにとっては、どんなことがあっても、全てが主のお許しの中で、証しのチャンスです!
イエス様は、あなたの行く所どこででも、ご計画を持っておられます。
ただし、あなたが主を愛する者であり、御声に聞き従っている者でなければ、自然にイエス様のことは語れません。
それは内側から自然に湧き上がってくる喜びです。
ヨハネ3:1〜15
3「イエスは答えられた。『まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、上帝の国を見ることはできません』」
5「イエスは答えられた。『まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、上帝の国に入ることはできません」
11「『まことに、まことに、あなたに言います。わたしたちは知っていることを話し、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れません」
上からの命
イエス様は、実際に見たこと聞いたことを話しておられます。
単なる例えではなく、現実に起きていることです。
上からの命がないと、上帝の国を見ることも、また入ることもできません。
イエス様の命があるかどうかは、その人の実を見ていたら分かることです。
相変わらず何も変わらず、同じことを言って行っているなら、新しい命はありません。
気分的なもので信仰をやっている人が本当に多いのです。
気分で聖められたように思っているのは、間違っています。
パリサイ人、律法学者は、人前で自分を正しい者としながら、中身は違いました。
イエス様は全てを見抜いておられます。
そのような者に、イエス様は厳しい裁きを与えられます。
クリスチャンの最低基準は、新しく生まれ変わることです。
申命記8:1〜8
2「あなたの上帝、主がこの四十年の間、荒野であなたを歩ませられたすべての道を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試し、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった」
3「それで主はあなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの父祖たちも知らなかったマナを食べさせてくださった。それは、人はパンだけで生きるのではなく、人は主の御口から出るすべてのことばで生きるということを、あなたに分からせるためであった」
5「あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの上帝、主があなたを訓練されることを知らなければならない」
6「あなたの上帝、主の命令を守って主の道に歩み、主を恐れなさい」
主の愛を感じるとき
私のような、こんな半人前の信仰でも、主は支えてくださっています。
今、私がここにあるのは、全てが主の恵みです。
どんなことを通しても、それは証しの時です。
苦しみの時こそ、主に愛されているのだと実感できます。
新しい命があれば、です。
旧約と新約は、必ず関連しています。
一日のうち一回は、イエス様の十字架を見て、あなたに向けられたアガペーの愛に想いを寄せてください。
そこに感動できないなら、あなたは辛気臭い顔で終わりますよ。
エペソ5:20
「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・メシアの名によって、父である上帝に感謝しなさい」
新約の真髄
イエス様を畏れることは、新約の真髄です。
イエス様を知れば、軽々しくお名前をお呼びできるようなお方ではないと、分かります。
それが円熟していくことです。
メシアを畏れない者は、主に従いません。
そのような者に、天国などありません。
文責 菅原はれみ









