耶蘇上帝會 太秦之宮

京都・太秦を拠点とする日本のキリスト教会です

礼拝message

礼拝message 10月7日(水) 

申命記30:1〜20

申命記30:19,20
19「私は今日、あなたがたに対して天と地を証人に立てる。私は、いのちと死、祝福と呪いをあなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生き」
20「あなたの上帝、主を愛し、御声に聞き従い、主にすがるためである。まことにこの方こそあなたのいのちであり、あなたの日々は長く続く。あなたは、主があなたの父祖、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われたその土地の上に住むことになる」

イエス様に感動していますか

日々の生活の中で、今週あなたは何か感動の時を持ちましたか?
何も感動することがなかったとしたら、あなたのうちにイエス様の命はありますか?
それは、あなたがどれくらいイエス様を喜び、感動しているかの問題です。
旧約において、イスラエルの民は上帝を知らされていました。
人間は被造物にしかすぎません。
造られた者が、創造主を畏怖し、礼拝し、お仕えするのは当然のことです。
それは、新約で生きる私たちも同じです。
旧約時代と同じように、今も祝福と呪いの二つの道しかありません。

エペソ5:21
「メシアを恐れて、互いに従い合いなさい」

イエス様を畏れる

メシアは、裁き、報いを与えるお方です。
そして未信者にとっては、火の池に投げ込む権威を持っておられる恐るべきお方です。
旧約では、「主を畏れることが、知恵の始め」であり、新約では「イエス様を知ることが知恵の始め」なのです。
イエス様を畏れていないから、異端やカルトに行ってしまうのです。
イエス様ご自身を畏れるなら、そのようなことはあり得ません。
悪霊は、肉の性質の中に足場を持っているので、「神は愛だから、畏れることなんてないよ」と囁くのです。

ガラテヤ5:19〜26
19「肉のわざは明らかです。すなわち、淫らな行い、汚れ、好色」
20「偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派」
21「ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のものです。以前にも言ったように、今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。このようなことをしている者たちは上帝の国を相続できません」

肉に従う者

人より自分が優っていると思う人は、自惚れます。
生まれつきの性質に従うなら、上帝の国には入れません!
肉についてルーズな人は、死んだら地獄です。
聖餐式は、主に従うと誓った者が受けるのです。
その後に、肉で考え、話すならもうアウトなのですよ。
多くのクリスチャンはそのことを分かっていないのです。
交わりや報告の時に、あなたの発言や態度の中に隠れているものは何ですか。
気づきませんか?
しかし、主の光が当てられないと、何も自覚できないのが事実です。

エレミヤ17:9,10
9「人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒しがたい。だれが、それを知り尽くすことができるだろうか」
10「わたし、主が心を探り、心の奥を試し、それぞれその生き方により、行いの実にしたがって報いる」

エレミヤ17:5,7
5「主はこう言われる。『人間に信頼する者はのろわれよ。肉なる者を自分の腕とし、心が主から離れている者は」
7「主に信頼する者に祝福があるように。その人は主を頼みとする」

心の割礼

その人が、今何を考えているのかは、全て態度、行動に出ています。
あなたの中から何が出て来ていますか?
自分の弱さや肉から、自由になる体験をしていないなら、自分の性格の中に現れてくるものは、そんなに簡単に変えられません。
重要なのは、あなたが心に割礼を受けているかどうかです。
旧約では、このことは実現しませんでした。
しかし新約時代になり、イエス様が来られ、その十字架と死、よみがえりを通して、上から新しい命をいただき、それにより、主を愛して生きることができるようになったのです。
悔い改めは痛いし、苦しいものです。
「これではダメだ!」と自分で向きを変えた者だけが、イエス様を愛するようになるのです。
悔い改めたことは、その人の生き方の向きが変わったことが、証拠です。
実際の生活で、どう向きが変わったのか、イエス様は見ておられます。
そして、自分がみことばの基準に達するには、あなたの真剣さが必要です!
求め、叫び、戸を叩くのです。
キリスト教の悔い改めは、「ごめんなさい」で終わりです。
そこには痛みも苦しみもありません。
甘ったれた者には、悔い改めはできません。

詩篇119:71
「苦しみにあったことは 私にとって幸せでした。それにより 私はあなたのおきてを学びました」

苦しみは幸い

旧約聖書を読むなら、新約聖書と一つになっていくのがわかるはずです。
そこで繰り返し言われているのは、「苦しみにあったことは、私にとって幸せでした」ということです。
苦しみ、悩みをまともに受けない人は、悟ることがありません。
まさに放蕩息子が、豚と一緒にいる時に、我に返ったようにです。
苦しみにあったから、自分がどのような者か分かるのです。
自分に絶望したからこそ、主に立ち返って来るのです。
「苦しみにあって良かったですね。あなたがイエス様を知るチャンスですよ」と未信者に言ったらどうでしょう。
その人は怒るかもしれません。
しかし、こう言えないと役に立たないのですよ。
このように言えるクリスチャンは本当に少ないのです。
どのような苦難の時も、天と地を造られたお方を褒め称える時、救いと証しの時です。
牢屋に入れられた後、弟子たちはどうしましたか?
主を賛美し、伝道の機会となりました。
クリスチャンにとっては、どんなことがあっても、全てが主のお許しの中で、証しのチャンスです!
イエス様は、あなたの行く所どこででも、ご計画を持っておられます。
ただし、あなたが主を愛する者であり、御声に聞き従っている者でなければ、自然にイエス様のことは語れません。
それは内側から自然に湧き上がってくる喜びです。

ヨハネ3:1〜15
3「イエスは答えられた。『まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、上帝の国を見ることはできません』」
5「イエスは答えられた。『まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、上帝の国に入ることはできません」
11「『まことに、まことに、あなたに言います。わたしたちは知っていることを話し、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れません」

上からの命

イエス様は、実際に見たこと聞いたことを話しておられます。
単なる例えではなく、現実に起きていることです。
上からの命がないと、上帝の国を見ることも、また入ることもできません。
イエス様の命があるかどうかは、その人の実を見ていたら分かることです。

相変わらず何も変わらず、同じことを言って行っているなら、新しい命はありません。
気分的なもので信仰をやっている人が本当に多いのです。
気分で聖められたように思っているのは、間違っています。
パリサイ人、律法学者は、人前で自分を正しい者としながら、中身は違いました。
イエス様は全てを見抜いておられます。
そのような者に、イエス様は厳しい裁きを与えられます。
クリスチャンの最低基準は、新しく生まれ変わることです。

申命記8:1〜8
2「あなたの上帝、主がこの四十年の間、荒野であなたを歩ませられたすべての道を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試し、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった」
3「それで主はあなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの父祖たちも知らなかったマナを食べさせてくださった。それは、人はパンだけで生きるのではなく、人は主の御口から出るすべてのことばで生きるということを、あなたに分からせるためであった」
5「あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの上帝、主があなたを訓練されることを知らなければならない」
6「あなたの上帝、主の命令を守って主の道に歩み、主を恐れなさい」

主の愛を感じるとき

私のような、こんな半人前の信仰でも、主は支えてくださっています。
今、私がここにあるのは、全てが主の恵みです。
どんなことを通しても、それは証しの時です。
苦しみの時こそ、主に愛されているのだと実感できます。
新しい命があれば、です。

旧約と新約は、必ず関連しています。
一日のうち一回は、イエス様の十字架を見て、あなたに向けられたアガペーの愛に想いを寄せてください。
そこに感動できないなら、あなたは辛気臭い顔で終わりますよ。

エペソ5:20
「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・メシアの名によって、父である上帝に感謝しなさい」

新約の真髄

イエス様を畏れることは、新約の真髄です。
イエス様を知れば、軽々しくお名前をお呼びできるようなお方ではないと、分かります。
それが円熟していくことです。
メシアを畏れない者は、主に従いません。
そのような者に、天国などありません。

文責 菅原はれみ

礼拝message 10月4日(日)

黙示録20章

2種類の裁き

今日は、裁きについて考えてみたいと思います。
裁きには、2種類あります。
1.メシアの御座の裁き
2.大いなる白い御座の裁き

ダニエル12:2
「ちりの大地の中に眠っている者のうち、多くの者が目を覚ます。ある者は永遠のいのちに、ある者は恥辱と、永遠の嫌悪に」

1.メシアの裁きの御座に立つのは、携挙された時のクリスチャンです。
これが、最初の裁きと報いです。
「永遠のいのちに至る復活」です。
2.大いなる御座の裁きは、第一の復活にあずからなかった者が、千年王国の後になされる裁きです。
「恥辱と永遠の嫌悪に至る復活」です。
この二つのことは、まるでひとつであるかのように、一枚の絵の中に描かれています。

ヨハネ5:28,29
28「このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞く時が来るのです」
29「その時、善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者はよみがえって裁きを受けるために出て来ます」

ヨハネ16:12,13
12「あなたがたに話すことはまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐えられません」
13「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます。御霊は自分から語るのではなく、聞いたことをすべて語り、これから起こることをあなたがたに伝えてくださいます」

黙示録20:4〜6
4「また私は多くの座を見た。それらの上に座っている者たちがいて、彼らにはさばきを行う権威が与えられた。また私は、イエスの証しと上帝のことばのゆえに首をはねられた人々のたましいを見た。彼らは獣もその像も拝まず、額にも手にも獣の刻印を受けていなかった。彼らは生き返って、メシアとともに千年の間、治めた」
5「残りの死者は、千年が終わるまでは生き返らなかった。これが第一の復活である」
6「この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対して、第二の死は何の力も持っていない。彼らは上帝とメシアの祭司となり、メシアとともに千年の間、治める」

歴史の中で、聖書の啓示そのものが、だんだんはっきりとして行きます。
啓示が進むと言えば良いでしょうか。
メシアの国(千年王国)の前に起こる義人の復活(携挙の時、第一の復活)と、世の最後(千年王国の後)に起こる一般的な復活(白い御座の裁き)のという、この2つの違う事象をひとつの絵のように描いているのです。

イエス・メシアの日

ピリピ1:3〜6
4「あなたがたすべてのために祈るたびに、いつも喜びをもって祈り」
5「あなたがたが最初の日から今日まで、福音を伝えることにともに携わってきたことを感謝しています」
6「あなたがたの間で良い働きを始められた方は、メシア・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信しています」

ピリピ2:16
「いのちのことばをしっかり握り、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は自分の努力したことが無駄ではなく、労苦したことも無駄でなかったことを、メシアの日に誇ることができます」

Iコリント1:8
「主はあなたがたを最後まで堅く保って、私たちの主イエス・メシアの日に責められるところがない者としてくださいます」

メシアの日は、皇民の群れが天にあげられる日、携挙の日です。
クリスチャンは、イエス様の光の前にさらけ出され、善であれ悪であれ、地上での行いの報いを受けるのです。

IIコリント5:10
「私たちはみな、善であれ悪であれ、それぞれ肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、メシアのさばきの座の前に現れなければならないのです」

土台の上に何を建てるのか

Iコリント3:10〜15
10「私は、自分に与えられた上帝の恵みによって、賢い建築家のように土台を据えました。ほかの人がその上に家を建てるのです。しかし、どのように建てるかは、それぞれが注意しなければなりません」
11「だれも、すでに据えられている土台以外の物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・メシアです」
12「だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、藁で家を建てると」
13「それぞれの働きは明らかになります。『その日』がそれを明るみに出すのです。その日は火と共に現れ、この火が、それぞれの働きがどのようなものかを試すからです」
14「だれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます」
15「だれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、その人自身は火の中をくぐるようにして助かります」

クリスチャンは、メシアの日にどのような報いを受けるかが決定します。
褒賞を受けるか、損失を受けるかです。
それぞれの人生の働きの真価を、メシアの日に火で試されるのです!

Iコリント4:1〜5
1「人は私たちをメシアのしもべ、上帝の奥義の管理者と考えるべきです」
2「その場合、管理者に要求されることは、忠実だと認められることです」
3「しかし私にとって、あなたがたにさばかれたり、あるいは人間の法廷でさばかれたりすることは、非常に小さなことです。それどころか、私は自分で自分をさばくことさえしません」
4「私には、やましいことは少しもありませんが、だからといって、それで義と認められているわけではありません。私をさばく方は主です」
5「ですから、主が来られるまでは、何についても先走ってさばいてはいけません。主は、闇に隠れたことも明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのときに、上帝からそれぞれの人に称賛が与えられるのです」

メシアの日は、クリスチャンを待っている裁きの日です。
あなたは、メシアという土台の上に、何を建てていますか?
またどのような材料を使って建てていますか?

クリスチャンは裁きを甘く見ているのです。
火を通され、真価を試される日が来るのですよ。
携挙される者は、どんな時代であっても、苦しみながらも必死にイエス様に従って来た者です。
忠実に、です。
主はその日にあなたに何と言われるでしょう。
「貧乏なのによく頑張ったな」と言われるのか「金持ちなのに、やったのはこれだけか」と言われるのか、どちらでしょう。

裁きの公正さ

コロサイ3:24,25
24「あなたがたは、主から報いとして御国を受け継ぐことを知っています。あなたがたは主メシアに仕えているのです」
25「不正を行う者は、自分が行った不正を報いとして受け取ることになります。不公平な扱いはありません」

あなたが、普段の生活でやっていること、どのような仕事であっても、「私は、主、メシアにお仕えしているのだ」という態度をライフスタイルにして欲しいのです。
イエス様に不公平さはありません。
この裁きの公平さが、いかに慰めであるか。
人間の基準、メジャーは本当に不公平だからです。
自分の目には、物事はまともに見えません。
すべてが歪んで見えるのです。
自分が人や物事を評価する時、生まれつきの好き嫌いや癖が出てしまいます。
イエス様の裁きが本当に公正であることを、裁きへの慰めとしてください。

天の地位

聖書のみことばから、天の御国の素晴らしさ、裁きの厳粛さをビジュアルに見て欲しいのです。
YouTubeの動画の証などではなく、みことばから直接、イエス様に教えてもらってください。
「それゆえに自惚れや感情を捨てて、聖書を最も高いもの、至聖所と見なそう。聖書は最も豊かな鉱山であって、いくら掘っても掘り尽くせない。主は上帝としての知恵を優しく示しておられる。傲慢を崩しておられる。厩戸に生まれた方の産衣は粗末な限りであるが、その中におられるメシアは高価な者である」これはルターの残した言葉です。

マタイ5:19,20
19「ですから、これらの命令の最も小さいものを一つでも破り、また破るように人々に教える者は、天の御国で最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを行い、また行うように教える者は天の御国で偉大な者と呼ばれます」
20「わたしは、あなたがたに言います。あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません」

すなわち、天の御国において、高い地位と低い地位があるのです。
それは、信仰そのものが決定します。
みなさんには、この事実をしっかり覚えて欲しいのです。
律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、天には入れません。
イエス様が言われたことなのですよ。
彼らは、立派な義を持っていました。
あなたの義は彼らにまさっていますか?
私は、自分は危ないな、と思っています。

天国に入るには、火で試されるのです。
クリスチャンが試される炎です。
シャデラク、メシャクャク、アベデ・ネゴが放り込まれたとてつもなく熱い炉のようです。
イエス様の炎は、強烈です。
義人でも辛うじて救われるのです。

ライフワーク

Iヨハネ2:28,29
28「さあ、子どもたち、メシアのうちにとどまりなさい。そうすれば、メシアが現れるとき、私たちは確信を持つことができ、来臨のときに御前で恥じることはありません」
29「あなたがたは、上帝が正しい方であると知っているなら、義を行う者もみな上帝から生まれたことが分かるはずです」

私たちが、メシアのうちにとどまる理由は、御前で恥じることのないためです。
イエス様から離れたら、すぐに暗闇で覆われてしまいます!
イエス様から離れ出るなら、完全に無防備になり、何も守ってくれるものがありません。
イエス様の命令を守る者(従う者)が、メシアにとどまっている人です。

みなさんのライフワークは何ですか?
ライフワークとは、一生かけてする仕事や事業のことです。
それは、メシアの裁きの日に判決が下されます。
あなたが地上でなしたことが、焼き尽くされるのか、または残るのか。
クリスチャンライフは、片手間仕事(本業の合間にする仕事。簡単な作業)では無理です!
一生をかけて成し遂げる仕事です。
主の弟子として地上の人生を全うした者は、永遠の御国、千年王国で、み使いをも裁く者となります。
ヨハネ5:24「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしの言葉を聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、裁きにあうことがなく、死からいのちに移っています」
これは、大いなる白い御座の裁きのこと(全人類の未信者への裁き)であって、クリスチャンに全く裁きも報いもないと言うことではありません。

主にとどまる

ロマ8:1,2
1「こういうわけで、今や、メシア・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」
2「なぜなら、メシア・イエスにあるいのちの御霊の法則(新改訳、脚注訳)が、罪と死の律法からあなたを解放したからです」

メシアに結ばれて、イエス様とひとつになっている者が、罪に定められることがないのです。
(自分勝手に信じている者ではありません)
イエス様と共に死んだ者は、自己中心の自分から開放されています。
死んだ者は自由だからです。
イエス様と自分を結び合わせて、その十字架の死と復活にあずかるのが、いのちの御霊の原理です。
ぶどうの枝の例えと同じです。

「わたしにとどまれ!」と主は言われています。

イザヤ53:2,12
2「彼は主の前に、ひこばえのように生え出た。砂漠の地からでた根のように。彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない」
12「それゆえ、わたしは多くの人を彼に分け与え、彼は強者たちを戦勝品として分かち取る。彼が自分のいのちを死に明け渡し、背いた者たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、背いた者たちのために、とりなしをする」

あなたの信じるという中身は何ですか?
イエス様が、あなたの保証人となってくださいます。
イエス様が、あなたの身代わりとなってくださったのです。

クリスチャンの裁き

Iコリント3:13
「それぞれの働きは明らかになります。『その日』がそれを明るみに出すのです。その日は火とともに現れ、この火が、それぞれの働きがどのようなものかを試すからです」

その日、裁きの日は、とんでもないショッキングな事件です。
火の中を通され、その身は救われても、いのち辛々(からがら)救われるのです。
これが現実です。
あなたは、天の御国に入った時、どこにいるのでしょうか!?
私は、天の御国の端っこで、門番にでもしてもらえたら良いと思っています。

まだ家内が生きていた時に、ある夢を見ました。
ラザロと金持ちの光景のように、天国と自分のいる所の間には、暗くて深い深い縁がありました。
とても通れるものではありません。
遠くの遠くに小さく、天国にいる人が見えました。
そこからみ使いが飛んで来て、私と一緒にいる人たちに白い衣を着せました。
そうするとその衣を着て、天国にスーっと飛んでいくのです。
私は一人残され、「イエス様。私は御国には入れないのでしょうか」と言いました。
するとみ使いが飛んで来て「お前にはこれがある」と言って、ピンクの着物を着せてくれました。
「えっ、ピンクですか!?」と言っているところで目が覚めました。

ですから、真剣に考えて欲しいのです。
裁きの現実を。
実践的に忠実に生きようではありませんか!
永遠の御国に至る門戸は、忠実ならば、開くのです。

人の見る評価と、イエス様の見られる評価は違います。
隠れたところの忠実さが大切なのです。

IIコリント4:1〜5
1「こういうわけで、私たちは、あわれみを受けてこの務めについているので、落胆することがありません」
2「かえって、恥となるような隠し事を捨て、ずる賢い歩みをせず、上帝のことばを曲げず、真理を明らかにすることで、上帝の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦しています」
3「それでもなお私たちの福音に覆いが掛かっているとしたら、それは、滅び行く人々に対して覆いが掛かっているということです」
4「彼らの場合は、この世の神が、信じない者たちの思いを暗くし、上帝のかたちであるメシアの栄光に関わる福音の光を、輝かせないようにしているのです」
5「私たちは自分自身を宣べ伝えているのではなく、主なるイエス・メシアを宣べ伝えています。私たち自身は、イエスのためにあなたがたに仕えるしもべなのです」

まさにこのみことばの通りです。
人に誤解されても構わないのです。
人の評価はどうでも良いのです。
私のうちにおられるメシアの霊に忠実であるかどうかです。
管理者に求められるのは、忠実さだからです。

クリスチャンの裁きは三つあります。
1.罪人として
2.子として
3.しもべとして

1.罪人としての裁きは、すでに執行されています。
過去に裁かれています。
イエス様の十字架の身代わりの死によってです。
私たちの平安のために、イエス様は死んでくださいました。
2.子としての裁きは、今現在裁かれています。
(子として、悔い改めを通して聖められるためです)
3.しもべとしての裁きは、メシアの日(携挙の時)、クリスチャンの裁きと報いの時です。

主の訓練

Iコリント11:27〜30
27「したがって、もし、ふさわしくない仕方でパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります」
28「だれでも、自分自身を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい」
29「みからだをわきまえないで食べ、また飲む者は、自分自身に対するさばきを食べ、また飲むことになるのです」
30「あなたがたの中に弱い者や病人が多く、死んだ者たちもかなりいるのは、そのためです」

病気や、アクシデントが起きた時、すぐに「癒してください。祈ってください!」と言ってしまうのは間違っています。
「イエス様、これは何のためですか?私に何か問題がありますか?」と祈るべきです。
イエス様は、病気やアクシデントを通して、あなたに何かを教えておられるのです。

ヘブル12:10
「肉の父はわずかの間、自分が良いと思うことにしたがって私たちを訓練しましたが、霊の父は私たちの益のために、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして訓練されるのです」

失敗や痛い目にあった時、「私は何か間違っていますか?何か問題ありますか?」と主の前にへりくだるのが、クリスチャンです。
主は、躾(しつけ)のために、訓練しようとされているのです。
あなたは、イエス様の裁きの御座の前に立った時、どんな仕事をしてきたことを見せられるのでしょうか。
毎日、少しずつしか建てられません。
一生をかけて、イエス様に報いて頂けるような人生を送ったのでしょうか。

この世のものは過ぎ去り、影があります。
しかし天国には影はありません。

以下の内容は、交わりの時に話されたものです。

職場で理不尽なことがあっても、クリスチャンにとっては、イエス様は希望の上帝です。
主が、全てを見て管理し支配されているのだからです。
あなたが、イエス様をどのようなお方と思っているかです。
イエス様が何かをしてくださると、感謝し期待して、待っているかどうかです。
そうであれば、どんなことがあっても感謝できるのです。
つぶやきか、感謝かどちらかです!

エジブトを出た民は、どうやって生きていたのですか。
畑も耕していませんでした。
主から与えられたものだけを食べて生きていたのです。
日常生活の中で、与えられたものを、どう感謝し、信頼して生きて行くのか。
みことばを通して「私の一生をお任せして良いのだ!」という生きておられるイエス様との関係を土台として、判断すればよいのです。
信仰は、これからどうなるか分からないで出ていくものです。
アブラハムは、主に呼び出されて従いました。
どこに行くのか、分からないで出て行ったのです。
信仰は、先が見えない、どうなるか分からない時に、主に感謝して楽しむことです。
これからどうなるのか、イエス様に期待しているのです。

文責 菅原はれみ

礼拝message 9月30日(水)

ルカ16:19〜31

ルカ16:22,24
22「しばらくして、この貧しい人は死に、み使いたちによってアブラハムの懐に連れて行かれた。金持ちもまた、死んで葬られた」
24「金持ちは叫んで言った。『父アブラハムよ、私をあわれんでラザロをお送りください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすようにしてください。私はこの炎の中で苦しくてたまりません』」

極楽と地獄

日本人は、仏教的には地獄、極楽があると言っています。
しかし現実のことではなく、何かぼやっとしています。
地獄絵図も本当に日本人は信じているのでしょうか。
すべてが曖昧模糊です。
浄土も、遥か彼方に、あることはある。
しかし遠すぎてリアリティーがなく、これもぼや〜っとして夢のようです。
お正月は神道でお祝いし、クリスマスはキリスト教でお祝いし、年末の除夜の鐘を聞きながら年を越す・・・日本人のほとんどは、神道、仏教、キリスト教の全てを信じています。
全部おめでたいのです。
行事そのものも、水墨画などのぼかし絵みたいです。
描いた後、すーっと消えて行くのです。
能の世界もそうです。
想像の世界なので、リアリティーがあると面白くありません。
能もストーリーがあるにはありますが、それも夢か幻のように消えて行きます。
日本人は、何故かリアリティーを嫌うのです。

千利休が始めた茶道はどうでしょう。
利休は、茶器そのものは、その辺にある安いものを使いました。
しかし、その茶器を偉い人(権威のある人)が、「素晴らしい」というなら、とたんにその安物の茶器は高級なものに変わります。
つまり箱書きです。
茶会に使われる道具の多くは、箱の蓋裏に、何人の作品であるのか、家元や名のある茶人によって墨で書かれます。
「銘」というのをつけ加えるのです。
それにより、途端に価値が上がります。

また禅宗やカトリックも瞑想の世界です。
互いに他の宗教も良いところは認め合おうという動きの中、対話が進められています。

小笠原流礼法はどうですか。
歩き方、座り方など姿勢と立ち振る舞い、風呂敷きの包み方まで、人間としていかにも品性があるように、自分を鍛錬します。

太秦之宮のホームページでは、敢えて日本的なものを使っています。
耶蘇上帝会太秦之宮、と名前をあげています。
えっ、洪秀全の反乱軍!?と初めて見た人は思うかもしれませんね。
その通りです。
怖い人は帰りなさい。
太秦之宮は、何をしようとしているのか。
日本には、失われたイスラエル10部族と、原始キリスト教徒たちが来ている、という歴史を土台としています。
確かな物証はありませんね。責任は私、堂仙にあります。
太秦之宮は、日本人がイエス様のところに帰って来るように、祈るのが使命です。

外側を飾り立てる

ルカ16:14〜15(リビングバイブル)
14「何よりもお金に目のないパリサイ人たちは、当然のことながら、この話を聞いて、イエスをあざけりました」
15「そんな彼らに、イエスは、おっしゃいました。『あなたがたは、人前では、いかにも上品でうやうやしい態度をとっています。しかし上帝は、あなたがたの悪い心をお見通しです。いくら人の目をごまかし、称賛を受けても、上帝には憎まれるのです。」

キリスト教は、見せかけをやります。
外側を立派に飾り立て、中身はないのです。
格式や作法など、外から人を作り上げて行くのです。
「馬子にも衣装」ということわざがありますね。
つまらない者でも、外形を整えると、立派に見えることの例えです。
信仰も外側を作り上げ、人に見せるのです。
まるで、自分は何かステイタスを身につけている、という態度です。
パリサイ人が、衣のふさを長くしたり、人前で長いお祈りをするのと同じです。
キリスト教も同じです。
「私はすごい信仰!」と人に見せかけます。
お祈りだけ聞いていると、すばらしい信仰の持ち主だと思ってしまいますが、実際は何も動きません。

ヤコブ5:17
「エリヤは私たちと同じ人間でしたが、雨が降らないように熱心に祈ると、三年六か月の間、雨は地に降りませんでした」

義人の祈りは大いなる力があり、自然界も動かします。
3年6か月ですよ、全く雨が降らないのです。
皆さん、本当に信じているのですか?

ラザロと金持ちの話も同じです。
(これは、周りにいた宗教的なパリサイ人たちの前で話されたのです)
そして、この事は現実に起きていることなのですよ。
何かお伽話のような、ぼんやりしたものとして、皆さん受けとめているのです。

信仰は期待

使徒14:8〜17
9「彼はパウロの話すことに耳を傾けていた。パウロは彼をじっと見つめ、救われるにふさわしい信仰があるのを見て」
10「大声で『自分の足で、まっすぐに立ちなさい』と言った。すると彼は飛び上がり、歩き出した」

14:9「This man heard Paul speaking. Paul, observing him intently and seeing that he had faith to be healed」

ここで、足の不自由な人が癒されました。
救いの中に癒しがあるのです。
(癒しだけが一人歩きするものではありません)
信仰は目に見えるものなのでしょうか?
見えるものです。
彼には「イエス様なら、自分を癒してくれる!」と期待があったのです。
イエス様への期待が、癒される信仰です。
「この祈りはいつ答えられるの」「主は必ずしてくださる」と、期待してワクワクして待っているのです。
これが信仰による期待です。

暗い顔は、本当には期待していないのです。
期待のない信仰は、腐っています。
最後まで残るものは、信仰と希望と愛です。
この希望は、期待のことです。
天の故郷に帰れるという期待、イエス様が再臨されるという期待です!

見えないものを見る

IIコリント4:16〜5:10
4:18「私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです」
5:9「そういうわけで、肉体を住まいとしていても、肉体を離れていても、私たちが心から願うのは、主に喜ばれることです」

見えないものこそ、目に見えるのです。
あなたの全生活が、明るみに出されます。
あなたの行いのすべての動機が、イエス様に喜ばれるかどうかです。
食べたり飲んだりして楽しむだけで地上を過ごすのか、どうしたらイエス様に喜ばれるかを追い求めるか、です。
イエス様に喜ばれる生活がすべてです。
生まれつきの者は、自分しか愛しません。
御霊の実の愛は、イエス様から十字架の愛を受けて、イエス様を愛するのです。
あなたには、イエス様と共に生きるチャンスが与えられているのです。
そのチャンスを自分のものにして豊かな人生を送るかどうかは、あなた次第です。

自分が失格しないように

Iコリント9:24〜27
26「ですから、私は目標がはっきりしないような走り方はしません。空を打つような拳闘もしません」
27「むしろ、私は自分のからだを打ちたたいて服従させます。ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者にならないようにするためです」

リビングバイブルで読んでみると、
IIコリント9:27「競技選手のように、自分の体を鞭打って、厳しく鍛錬し、自分の気分のままにではなく、なすべきことができるよう、訓練しています。そうでないと、他の人たちを競技に参加させておきながら、自分は失格者として、退場を命じられるかもしれないからです」
退場とは、イエス様から切り離され、ぶどうの枝のように捨てられることです。
あなたの生活が、イエス様に喜ばれるかどうかが大切です。

ヨハネ5:17〜29, 5:41〜47
46「もしも、あなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです。モーセが書いたのはわたしのことなのですから」
47「しかし、モーセが書いたものをあなたがたが信じていないのなら、どうしてわたしのことばを信じるでしょうか」

ヨハネの福音書のこの箇所を、覚えるくらい読んで欲しいのです。
モーセが書いた事は、イエス様のことです。
旧約をよく読んで信じていないなら、イエス様の言葉を信じることができません。
いかに旧約の大事なところを読んでいないのかです。
申命記、レビ記などは本当に大切です。
何度も読んでください。

帰って来なさい

黙示録19:16〜18
16「その衣と、もものところには、『王の王、主の主』という名が記されていた」
17「また私は、一人のみ使いが太陽の中に立っているのを見た。彼は大声で叫び、中天を飛んでいるすべての鳥たちに言った。『さあ、上帝の大宴会に集まれ」
18「王たちの肉、千人隊長の肉、力ある者たちの肉、馬とそれに乗っている者たちの肉、すべての自由人と奴隷たち、また小さい者や大きい者たちの肉を食べよ』」

イエス様は、王の王、主の主です。
イエス様はただ優しいだけのお方ですか。
黙示録は血なまぐさいです。
鳥に「人間の肉を食え!」と言われたのはイエス様ですよ。
聖書は全部、書いてある通りになります。
日本でも昔から聖書が配られていました。
言い逃れはできません。
イエス様のことを聞いていない人はいないのです。

主は「さあ、帰って来なさい!」と言われています。
イエス様のところへ帰るのです。
あなたが義人でないなら、まるで空気銃を撃ちまくっているようなものです。
イエス様をどのように知っているかが、その人の信仰の強さです。
イエス様は、あなたの信仰を分かっておられます。
イエス様から、権威をいただくのです。
権威をいただかないと、敵と戦う力がありません。
それは子どもには無理です。
戦えません。
京都の木津川で、コプト教会の会堂が開かれ、教皇までやってきました。
面白いですね!
(京都では、すでに陣取り合戦が始まっています)

注:コプト正教会は、マルコがエジプトで設立したとされる。キリスト教、非カルケドン派(東方諸教会)の一つでエジプトで発展。北アフリカがイスラム化した後も、エジプトで暮らすキリスト教徒(コプト)の教会。ニカイア・コンスタンティノポリス信条を告白し、マリアを神の母として崇敬する。

以下の内容は、交わりの時に話されたものです。

(怒りや苛立ちがある時に対して)
何故、絶えず祈りなさい、と言われているのですか。
私たちは弱いのです。
絶えず祈っていて、上からの愛をもらうのです。
自分で自分を握り、「変えてください!」ではありません。
自分を捧げるのです。
捧げているからこそ、自分と距離を置けるのです。
怒って苛立っている自分を、離れて見るのです。
「ああ、苛立っているな」と。
自分ではどうしようもできないのです。
イエス様が変えてくださるのですから、そんな自分を眺めていたら良いのです。
距離を置いて、そのままにしておくことです。
それが、無我の境地に至り、「父のみこころをなしているだけ」というところに行けるのです。

ロマ12:1「ですから、兄弟たち、私は上帝のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、上帝に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です」
このみことばの通りです。
大切なところですから、覚えていてください。

文責 菅原はれみ


礼拝message 9月27日(日)

IIテモテ3:1〜4:5

IIテモテ3:1〜16
1「終わりの日には困難な時代が来ることを、承知していなさい」
5「見かけは敬虔であっても、敬虔の力を否定する者になります。こういう人たちを避けなさい」
8「たぶらかしている者たちは、ヤンネとヤンブレがモーセに逆らったように、真理に逆らっており、知性の腐った、信仰の失格者です」
16「聖書はすべて上帝の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です」

16「All Scripture is given by inspiration of God, and is profitable for doctrine, for reproof, for correction, for instruction in righteousness. 」

アロンの祝祷

民数記6:22〜27
22「主はモーセにこう告げられた」
23「アロンとその子らに告げよ。『あなたがたはイスラエルの子らに言って、彼らをこのように祝福しなさい」
24「主があなたを祝福し、あなたを守られますように」
25「主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように」
26「主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように」
27「アロンとその子らが、わたしの名をイスラエルの子らの上に置くなら、わたしが彼らを祝福する」

マタイ23:39
「わたしはおまえたちに言う。今から後、『祝福あれ、主の御名によって来られる方に』とおまえたちが言う時が来るまで、決しておまえたちがわたしを見ることはない」

太秦之宮では、祝祷の時にこの二つの箇所を、ヘブル語で捧げています。
私は、アロンの祝祷には力があると信じています。
主の御名を皆さんの上に置くのです。
私は、それでみなさんが祝福されているのだと信じております。

みことばと向き合う

皆さんには「にせ教師」の項を、ファイヤーバイブルで読んで欲しいのです。
誰かを批判するためではなく、私をチェックしてください。
遠慮なく!です。
牧師、宣教師は、ただの用務員です。
決して先生(ラビ)と呼ばれてはいけません。
牧師は、信徒を支え、世話をする立場にいます。
信徒がイエス様にあって、成熟し、聖くならなければ何の意味もありません。

さて、このテモテの手紙が書かれた当時は、旧約聖書が中心でした。
それに加えてパウロ書簡も読まれていました。
信仰生活において、あなたが聖書とどのように向き合っているのかが非常に重要です。
みことば無くして、イエス様を知ることはありません。
みことばは、固いです。よく分からないです。
しかし虚心坦懐(意味:先入観を持たず、広く平らな心。またそうした心で物事に臨む態度)に、イエス様を求めて読むなら、必ずご聖霊が助けて、教えてくださいます。
みことばが心に植えつけられるのです。

みことばが光を放つ

ヤコブ1:21
「ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを素直に受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます」

繰り返し聖書を通読するなら、ご聖霊が種のようにみことばを撒いて、植えつけてくださいます。
どこの箇所か分からなくても、こういうみことばがあったな!とみことばが光を放つのです。
意味が分からなくても、聖書全体を読むべきです。
みことばを愛することは、イエス様を知ることです。
イエス様を知らないと、命が弱いです。
心にみことばが植えつけられてないと、結局世に戻ります。
悪霊の方に行ってしまいます。
命が豊かになるとは、イエス様を知ることです。
みことばの分からないところは、聖書が解きあかします。

古い聖書も捨てずに残しておいてください。
改訂されると箇所によって、言葉と訳し方が変わります。
翻訳者が使う言葉によって、読む方が受ける印象が変わるので、両方読んで比べて欲しいのです。
翻訳者は、いろんな注解書から訳を取ってくるので、どのテキストを使っているのか、実は分かってしまいます。
その人の信仰の傾向が出てきてしまうのです。

みことばは命

ヨハネ1:1〜5
1「初めにことばがあった。ことばは上帝とともにあった。ことばは上帝であった」
2「この方は、初めに上帝とともにおられた」
3「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった」
4「この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった
5「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった」

あなたのみことばに対する態度が、最終的にイエス様に対する態度になります。
イエス様は、受肉されたみことばだからです。
あなたはみことばをどのように読んでいますか?
どのような格好で読んでいますか。
みことばに対する態度が悪いと、命が豊かになりません。

コロサイ1:16
「なぜなら、天と地にあるすべてのものは、見えるものも見えないものも、王座であれ主権であれ、支配であれ権威であれ、御子にあって造られたからです。万物は御子によって造られ、御子のために造られました」

全世界は、主がご自身のために造られたのです。
「私は主のものです。みことばがそう言っているからです」というはっきりした態度が必要です。
みことばは、命です。
暗い、鬱っぽい人生などあり得ません。
鬱の人は、聖書を読んでいますか?
聖書を読むだけでは、クリスチャンにはなれません。
必要がない人は、求めないからです。
乞食(貧しい者)は幸いだ!と言われるのは、そのためです。
乞食は、何も持っていないので、「欲しい!」というニード(need、必要性)ばかりだからです。

何を求めて礼拝に来るのか

初代教会は、礼拝後の食事のことを、アガペーと呼んでいました。
奴隷は、週に一度だけ、その日だけは無料でお腹いっぱい食べられたのです。
奴隷は、普段から飢えています。
貧しさを知っている人は、たましいの飢え渇きを知っています。
「何か欲しい。満たして欲しい!」という欲求です。
(金持ちと比較してください)
あなたがイエス様をどれだけ知っているかは、どれ程イエス様を必要としているか、求めているかです。
文句も言い訳も通用しません。
あなたが、本当には求めていないからです。

あなたは、何を求めて礼拝に来るのですか?
イエス様ご自身を求めるためであり、心からイエス様を賛美し褒め称えるため。これしかありません!
そして、喜んで主にお仕えするためです。
イエス様への愛(アガペー)がなければ、すべてがむなしいのです。
天の父が、子どもたちに求めておられる命の道は、私たちのイエス様への態度が、その表情、目つき、態度、言葉、行動、すべてにおいて愛(アガペー)であることです!
イエス様が、なぜ魅力的なのか。
アガペーによって生きる人が見たかったら、イエス様を見なさい。

IIテモテ4:3〜4
3「というのは、人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みに従って自分たちのために教師を寄せ集め」
4「真理から耳を背け、作り話にそれて行くような時代になるからです」

みことばの中にこそ、イエス様の命が秘められています。
もし、あなたがみことばから離れてイエス様を見るなら、それはサタンです。
サタンは光の天使に偽装するからです。

固い食物

霊的な判断力のレベルが低すぎます。
あなたは、イエス様を信じてから何年になりますか?
もう教師になっていないと駄目な年齢です。
まだミルクが必要で、固いものが食べられないのです。
未だに信仰の初歩を繰り返し繰り返しやっている状態です。
「神は愛です。信じれば救われるのです」といつまでやっているのですか!?

モーセによって律法が与えられるまでの時間、主は素の人間をどのように扱われましたか。
素の人間はどのような行動をとるのか、明らかにされました。
人類は堕落し、ノアとその家族以外は洪水によって滅ぼされました。
律法がなければ、救われる人は本当に少ないのです!
救われたのは、ノアとその家族だけです。
主から正しいと認められた者だけが、150日間の洪水の中で生き延びました。
聖書は厳しいのです。
その厳しさを取り除いたものが、ミルクです。

その後、セム、ヤペテ、ハムの兄弟から、人類は増え広がります。
現代は、ソドムとゴモラと同じです。
あなたがこの世を楽しんでいるなら、同じように滅ぼされます。
救われたのは、ロトと娘だけです
妻は塩の柱になりました。
女性は気をつけてください。
どうしても世のものに関心が行くからです。
女性は、お金と生活の心配ばかりになってしまいます。
愚かな女性たちを見てください。
本能的でイケメンに弱いのです。
みなさん、この時代に生まれなくてよかったですね。
この時代だったら、もう滅ぼされてますよ。

そして時代は進み、モーセによって律法が与えられます。
しかし、頑ななイスラエルの民は、20歳以上が死に絶えるまで、荒野をぐるぐる回ったのです。
約束の地に入ったのは、次の世代の者でした。
固い食物は、大人のものであり、十字架を負うことです。
律法は、霊的な良いものであり、弟子として訓練されなければなりません。
そのことを教えない牧師、宣教師はすでにアウトです。

マタイ5:17〜19
17「わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく、成就するために来たのです」
18「まことに、あなたがたに言います。天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることはありません。すべてが実現します」
19「ですから、これらの命令の最も小さいものを一つでも破り、また破るように人々に教える者は、天の御国で最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを行い、また行うように教える者は天の御国で偉大な者と呼ばれます」

律法は、天の父が人に要求しているレベルです。
イエス様は、律法と預言者を完成させるために来られたのです!
律法を守ったのは、どのような人たちですか?
イエス様に似ている人たちです。
弟子は、イエス様と似たものとならなければなりません。

信仰は証明するもの

ヤコブ2:20〜21
20「ああ、愚かな人よ。あなたは、行いのない信仰が無益なことを知りたいのですか」
21「私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇に捧げたとき、行いによって義と認められたではありませんか」
22「あなたが見ているとおり、信仰がその行いとともに働き、信仰は行いによって完成されました」

信仰は、従順がないと証明できません。
そして、信仰は証明しなければならないものです。

イエス様の命を頂いているなら、その命を大切にして、あなたの内側からコントロールしてもらうのです。
邪魔するものを捨てていくのです。
自分で頑張るのではありません。
悔い改める決断が必要です。
悔い改めは、向きを変えることです。
肉を捨てることは、苦しいし大変です。
簡単ではありません。
だから狭い門なのです。
しかし、このことによって内なるイエス様の命が強くなると、あなたはアガペーの愛に近づいて行きます。
イエス様は、アガペーの愛を持っておられるからです。
御霊に導かれる人は、上帝の子どもたちです。
イエス様の命は、律法を成就したお方の命なのですから。
イエス様を主と呼び、ご支配してくださるお方に委ねて生きるのです。
聖書のみことばが、内なるイエス様に頼るように励ましてくれます。

この世が牙をむく

出エジプト7:8〜13
12「彼らがそれぞれ自分の杖を投げると、それは蛇になった。しかし、アロンの杖は彼らの杖を呑み込んだ」

日本では、白蛇は祝福の証とされています。
面白いですね。
伝承では、ここで出てくるエジプトの呪法師が、ヤンネとヤンブレだと言われています。
最近、日本の有識者と呼ばれる方たちが、口を揃えて「一神教は駄目だ」とキリスト教を目の敵にするようになりました。
この世が牙を剥いてきましたね。
しかし、主の弟子はこの世の霊に負けることはありません。
この世のものは、あなたの内におられる方には勝てません。
何も恐れることはありません。
この世が牙を剥いて来たら、楽しみにしていてください。

これからは、現実的な戦いになるので、ミルクしか飲めない人は危ないのです。
今の時代に、時間が間に合いません。
とにかく聖書を読んでください!
みことばがあなたを救うのです。
みことばがない人は、自分で考えて決めて、失敗します。

以下の内容は、交わりの時に語られたものです。

プロテスタントの教会の中にも、カトリック的、自虐的なものが入り込んでいるのを見ます。
信仰的に見えても、ものすごくパリサイ人的です。
自分を苦しめるという自己義によって立つからです。
「私は、こうやって苦しんで頑張っている!」と、自分を打ち叩いて、自分をいじめているのです。
しかしそれは「私は、こういう者なのだ」というプライドです。
自分を責めているうちに、そんな自分が好きになり、恍惚感や快感を味わうのです。
それが宗教的快感、エロスです。

自分の無力を認めて、「私は絶望的な状態です。自分では解決できません。だからこんな私をイエス様に捧げます。どうか造り変えてください!」と叫べば楽になるのです。
湖の上を歩いてきたペテロが沈みかけた時に、叫んだのと同じです。
「助けてください!」と。
ペテロが沈みかけた時に、イエス様が助けられました。
大切なのは「私は駄目です。よろしくお願いします」という態度です。
自分で自分は救えません。
イエス様に自分をお任せしたのなら、救ってくださるのを待つだけです。
自分にあきらめることが、イエス様と共に十字架で死ぬことです。

あなたが十字架を背負っているのなら、人に褒められても、貶されても、ただ「はい。そうです」で良いのです。
それが安全で楽な場所です。
「悲しんでいる自分が好き」などという自己陶酔、「自分はやってる。頑張ってる!」というプライド。
やめてください!
「一生懸命にやっているのに」という空回りは無駄な努力です。
完全に自分にあきらめること、これが死んでいることです。

肉の熱心さは、相手を窮屈にします。
「教会の牧師に特別に可愛がられていた」「献金や奉仕を人よりもたくさんして認められていた」など肉の高ぶりに悪霊がつけ込みます。

悪霊は、人を使ってその人を奴隷にしようとします。
人は誰でも良いのです。
按手を受けるなら、その人の影響下に入ります。
聖書を開くと寝てしまうというのは、体調の場合と、悪霊のコントロールの場合があります。
これを断ち切るのは、自分の無力を認めて、イエス様に助けを叫び求めることです。
イエス様の権威のもとでしか、悪霊は従いません。
真剣さと熱心の方向が違うのです。
肉の熱心さがプライドになるのです。
肉で頑張っても無理です。

イエス様の贖いは、完璧です。
主に「捧げる!」と決心してそう言ったのなら、自分を放っておけばよいのです。
後はイエス様が、何かをしてくださるのを待つのです。
そうすれば楽なのです。
「自分で頑張る」ではなく「自分を捨てる」のです。
「ダビデの子よ。憐んでください!」と叫んだ癩病人の態度です。
苦しい顔も、断食もいりません。
聖書を読みなさい!
マルコによる福音書には奇跡がたくさん書いてあります。
簡単なことです。
イエス様に丸投げしてお任せすればよいのです。

私たちは、まむしのすえです。
自分の肉が自分に絡みつくのです。
自分を抱きしめる感じです。
「これが好き。手放せない」という気持ちです。
時間が、どんどん過ぎるだけです。
もったいないです。
自分にあきらめなさい。
イエス様を待ち望めばよいのです。
そうすれば、新しい力を得ます。

文責 菅原はれみ

礼拝message 9月23日(水)

エレミヤ7:1〜15, 9章全体

エレミヤ9:25~26
25「『見よ、その時代が来る-主のことば-。その時、わたしはすべて包皮に割礼を受けている者を罰する」
26「エジプト、ユダ、エドム、アンモンの子ら、モアブ、および荒野の住人で、もみあげを刈り上げているすべての者を罰する。すべての国々は無割礼で、イスラエルの全家も心に割礼を受けていないからだ』」

日本は、聖徳太子の時より「和を以て貴しとなす」国ですね。
さて、竹田恒泰氏の「竹田学校」をYouTubeで見たところ、ちょうど日本の宗教の歴史でした。
「神道は始道、儒教は中道、仏教は終道、と日本は仲良く取り入れている。そこにキリスト教が入って来たら無理。一神教は排他的で刺々しいから」というようなお話でした。

イスラエルの歴史

人類の歴史の中における、主のなさり方について考えてみましょう。
イスラエルの、苦悩に満ちた歴史を通して、主が具体的に罪に対して何をなさるのか、また救いについてどのようになさるのか、ひな形、預言として見ることができます。
主は、これからなさることを、主のしもべに示さないではされません。
本当の主のしもべなら、主がこれからされることを教えていただけます。
教えられたなら、へりくだって祈り、祭司の役割をするのです
(ただし、教えたれた者には、祈り、とりなす責任があるので、本当に怖ろしいことです。高ぶるなどあり得ません)

イスラエルの歴史は、そのまま現代クリスチャンにもあてはまります。
1.主から選ばれたこと
2.律法を守ったのか、守らなかったのか
3.主に対してどのような態度を取ったのか

イスラエルは、つぶやくという罪を犯しました。
つぶやきを続けると、鬱になります。
鬱を続けるとイスカリオテのユダになります。
救いが分からなくなるのです。
つぶやきは毒薬であり、自分を滅ぼします。

ここで注意をしておきますが、人を評価し批判するなら、その人のことを祈っていなければなりません。
これらのことはイエス様には、非常に耳障りだからです。
批判している人のために苦しみ祈っているなら、救いを願うとりなしの祈りと見てくださいます。
しかし、祈っていないなら、罪とされます。

心の割礼

エレミヤ9:26で言われている「心の割礼」は、内面の割礼です。
心にダメージを受けた、砕かれた悔いた心は、弱っています。
自分では強くなれません。
だから主が御霊を注いで助けてくださるのです。
主は心を見ておられます。
イエス様に従う道を歩み始めたなら、まず決心しなければなりません。
洗礼は「十字架を負ってついて行きます」という決意です。
しかし、クリスチャンの洗礼と誓約の多くは、成田離婚と同じですね。
「あなたが気に入らないから、ついて行けないわ」と即、誓約を破るのです。
洗礼は、イエス様とともに死ぬことです。
教会は、イエス様の有機的体であり、イエス様の体の一部になるために洗礼を受けるのです。
古い自分を脱ぎ捨て、自分を捧げるものです。

ぶどうの実

イエス様ご自身がリーダーです。
人間はリーダーにはなれません。
牧師、宣教師はただの用務員です。
礼拝で、みなさんをお掃除して洗濯するために、私は作務衣を着ているのです。
みなさんは、イエス様との命のコンセントを抜いて弱ってる状態で礼拝に来ます。
イエス様と離れたら、何もできないのですよ。
メッセージを通して、それを再接続するのです。
私たちは、実を結ぶことを期待されています。
イスラエルという土台から良い樹液をもらい、イエス様を通してその樹液が流れて来るのです。
枝は、ただつながっているだけです。
「えっ、こんな所に実ができるの !?」と、私たちにはどこに実ができるのか分からないし、選べないのです。
イエス様の弟子となったら、あなたの願い通り、思い通りにはなりません。
あなたの人生が豊かなものとなるように、イエス様にはプラン(計画)があるのです。
自分が満足するための、信仰生活ではありません。
(まして自分の宗教心を満足させるためではないのです)
ぶどうの実は、他の人が食べるのですよ。
しかしキリスト教は、ぶどうの実を自分で食べるのです。
「私の幸せが大事。楽しんで何が悪いの?あの人の実はひどいわ」と。
自分を誇り、エゴイスティックです。

人類の歴史

日本人の中で、「歴史は繰り返す」と言う人がいますね。
これを信条にしてしまうと、終わりません。
仏教の輪廻みたいになります。
しかし、聖書の歴史は違います。
中心は十字架であり、御子が歴史の主宰者です。
御子イエス様を無視したら、歴史が分からなくなります。
歴史は、御子に始まり、御子に終わります。
イスラエルの歴史も、2020年の現代の歴史も同じです。
すべてが御子に戻るのです。

天の父が、み使いたちに人類の歴史を見せるため、み使いたちは人類の歴史の展開を見ています。
私たちは、俳優や女優のように、み使いたちに見られているのです。

人類史の前を考えてみましょう。
恐竜は何故滅びたのでしょうか?
隕石の衝突、氷河期の到来などですか。
いいえ、恐竜のように獰猛な生物が、主の目に良しとされなかったから、滅びたのです。
あるものが駄目だから滅びて、また新しい時代が始まる。
秩序があって、混乱がある。
美しいものがあって、醜いものが出てくる。
地層はこれを繰り返し、しかも交互に出て来るのです。
面白いですね。
アダムとエバが造られ、堕落し、ノアの洪水があって、新しい地が始まり、旧約の混乱の後、これでは駄目なので、イエス様がお生まれになるのです。

では、なぜ御子ご自身が来られなければならなかったのか。
人は、死ぬためではなく、永遠に生きるために造られたからです!

天地創造

エペソ1:20〜22
20「この大能の力を上帝はメシアのうちに働かせて、メシアを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座につかせて」
21「すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました」
22「また、上帝はすべてのものをメシアの足の下に従わせ、メシアを、すべてのものの上に立つかしらとして皇民の群れに与えられました」

イエス様は、すべての支配、権威、権力、主権の上におられます。
同じように、み使いたちの中にも階層(ヒエラルキー)があります。
ルシファー(悪魔)は、野心を持ちました。
自分の美しさに自惚れ、自分を造った方のイメージを自分に投影し、天の父よりもっと上に行こうと反逆したのです。
その時、天にいた3分の1のみ使いたちがルシファーに従いました。
(悪魔は、かなり主に近い高い権威を与えられていたのでしょう)
そして、悪魔とみ使いたちは、落とされたのです。
(上昇思考は悪魔のものです。必ず裁かれます)

悪魔に従ったみ使いたちは、聖さを失いました。
命の中にある、正しさやアガペーです。
汚いものを持っていると、主はあなたと向き合えなくなります。
焼き尽くす火の中で主と交わりができる者は、性格、存在、命の中に聖さ、正しさ、愛がある者です。
アダムとエバは、それを持っていました。
でも、反逆と同時に失ったのです。
主はアダムとエバに呼びかけられました。
「アイエーカ!」あなたはどこにいるのか!?と。
彼らは逆らい、聖さを失ったのです。
自分の汚さ、裸であるという羞恥心から、主を避け、隠れました。
アダムとエバは、失って初めて気がついたのです。
自分たちが、どれほどかけがいのないものを失ったのか。

悪魔に従ったみ使いたちも、アダムとエバと同じような体験をしたのだと、私は思っています。

主の側についたみ使い3分の2と、悪魔の側についたみ使い3分の1との戦いです。
ここから、天地創造が始まるのです。
主は、み使いたちへの憐みのゆえに、反逆がいかに酷いものであるかを教えるため、またアガペーが何であるかを教えるために、天地創造を始められたのです。
そしてアダムとエバが造られました。
主はアダムに「エデンの園を守れ!」と言われました。keeperです。
でも、敵から守ることはできませんでした。

人類の回復

蛇は、エバに近寄りました。
女性は、見たものにすごく弱いからです。
「上帝のように賢くなるよ!死なないよ!」と蛇はエバを誘惑しました。
アダムとエバが失ったのは、聖さ、良心、アガペーです。
アガペーはエロスに変わりました。
失われた上帝のような存在を求めても、エロス(蛇)がまとわりつくようになったのです。
「神々しい」と言う時も、蛇が絡みつきます。
すべてのものに蛇が絡みつくようになりました。
私たちの中には、聖さ、正しさはありません。
失われてしまったのです。

それは、イエス様からいただかないと回復しません。
主と交わることはできません。
イエス様から新しい命をもらわないと、天の父との交わりはできません。
地上で、罪の中に蠢いている人類を、どのように救いアガペーを示すのか。
イエス様は言われたのです。
「わたしが行きます」と。
何故イエス様は、体を持って人間となられたのですか。
人類の歴史を通して、「アガペーの愛」をみ使いたちに見せるためです。
主の側についたみ使いたちが、人類の回復を見て「裏切らなくてよかった!」と最後に主を褒め称えるためです。

私たち人間は、舞台に立つ俳優です。
喜んで主に従うなら良い役になり、逆らうなら悪役になります。
歴史は成就されます。
しかし、登場人物であるあなたは、良い役か悪い役かを自分で選べるのです。
終わりの日に、イエス様が裁かれます。
天の父が、み使いたちを観客として、人類の歴史を見せているのです。

命に至る悔い改め

エレミヤ31:31〜34
33「これからの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである-主のことば-。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの上帝となり、彼らはわたしの民となる」
34「彼らはもはや、それぞれ隣人に、あるいはそれぞれ兄弟に、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るようになるからだ-主のことば-。わたしが彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ」

ここで、「彼らの心に書き記す」というのは「心の割礼」と同じです。
それは痛みを伴い、彫刻刀で刻むということでもあります。
つまり、失敗や痛い思いを通して、「ああ、みことば(イエス様)に従えばよかった!」と恵みによって自分の罪を悲しみ、悔い改めることです。

ヨハネ17:1〜5
2「あなたは子に、すべての人を支配する権威を下さいました。それは、あなたが下さったすべての人に、子が永遠のいのちを与えるためです」
3「永遠いのちとは、唯一のまことの上帝であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・メシアを知ることです」

命に至る悔い改めは、天の父とイエス様を知る機会(チャンス)です。
失敗を許されて、悔い改めて立ち返って来ることを許されたのです。
悔い改めたら、へりくだることができます。
熱心に悔い改めてください。
それはみことばが心に刻まれることです。
主の命令を守ること、支配者はイエス様だけなのですよ!
イエス様との間を邪魔する人間に対して、No!と言うべきです。
邪魔するものは、たいがいお金と家族です。
ひざまづいて祈り、十字架の血を注がれて、その時にあなたは変えられて行くのです。
これが、主を知るというプロセスです。
だから、主は愛する者をムチ打たれるのです。
あなたが砕かれ、主を知るチャンスなのです。

初めの愛にとどまれ

黙示録2:4
「けれども、あなたは責めるべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった」

エペソの皇民の群れは、初めの愛から離れてしまったのです。
クリスチャンは、決してここから離れてはなりません。
イエス様(アガペーの愛)から離れるなら、枯れてしまうだけです!
イエス様の愛にとどまってください。
十字架を見上げなさい。
イエス様があなたを愛しておられる証拠が、ここにあります。
十字架の叫びを聞いてください。
そのイエス様の呻きと声をまともに聞くなら、「申し訳ない。このお方を裏切られない!」とあなたはイエス様のところに戻って来るしかないのです。

今の時代は、イエス様を知っている時代です。
私たちは、面白い時代に生かされているのですよ。
恐れなく主の名を呼んで、助けていただくのです!
私たちは、多くのみ使いたちに、見られ、評価され、見守られています。
あなたが天に帰った時、あなたによく似たみ使いが「ねえ、何故あの時そうしたの?」と聞きに来るかも知れません。

イエス様をどれだけ知っているかが、人間としての豊かさ、大きさです。
あなたが成長して大人になるなら、御心に従って発言し、人の心の中も見抜くようになるでしょう。
あなたが想像する以上に用いていただけるのです。
霊的な世界は、ものすごく大きくて広いのですから。
あなたのために命を捨てられたお方に、何でも求めなさい!
そして、紳士、淑女になってください。
主が教えてくださることを大切に、現実を生きるのです。
夢見る者はいりません。

以下の内容は、交わりの時に語られたものです

悪霊に憑かれた人に、簡単に手を置いて祈ってはいけないのです。
手を置いた方も、悪霊の影響を受けるからです。
(手を置いた牧師の最後は、自殺でした)

目に見えない世界は、力があり、現実です。
牧師や他の人が、手を置いて祈るなら、手を置かれた人はその人の権威の下に入ります。
これを断ち切るには、本人の解放されたいという強い願望が必要です。
私たちは、イエス様から直接祝福を受けるべきです。
(人を通しての祝福ではありません)
イエス様が最高権威者であり、このお方の名に権威があるのです。
このことが、あなたの中ではっきりしていないといけません。

「当たるも八卦、当たらないも八卦」といういい加減な態度で祈るから、「祈っても駄目でした。力がありません」となるのです。
私たちは、イエス様を褒め称えるために、この御名の権威を与えられたのですよ。
「困った時に助けられてよかったね。ラッキー」ではないのです!
悪霊は、こちらの信仰を見ているし、その中身を知っています。
こちらが権威を持っているかどうか、イエス様への信仰のレベルと権威を見ています。
自分の信仰によって追い出そうとしても無駄です。
信仰の権威の問題だからです。

悪霊追い出しをやっている牧師や宣教師の家族に、暗い影があるのを見ます。
手を置いて祈っている方にも、「俺の子羊」という自覚があるからです。
これは、闇の世界との綱引きです。
あなたがイエス様ではなく牧師に従っているなら、まがまがしい見えない霊の世界は、「うちの子よ」と主張します。
あなたは、誰に従おうとしているのですか。
私たちは、イエス様の栄光のために生かされているのですよ。
あなたが「私はイエス様のものです!」とはっきりしていれば、闇は去ります。
「家族が幸せならそれで良い」のか「主の弟子として訓練される」のか、選びなさい。
自分を闇の世界と綱引きされる場所に、自分で置いているのです。

あなたが信仰の大人になれば、敵は手を置きたくありません。
上帝の国は力です!
これは闇の世界との戦いです。
敵は、あなたの弱さをよく知っているので、毒を置きます。
気がついたら「イエス様の血を注いでください。私はあなたのものです」と叫び求めればよいのです。

自殺した牧師は、自分で救われないことを証明したのです。
霊の世界の高ぶりはやめてください!
知らないことは、正直に「知らない」と言ってください。

知ったかぶりを、敵は狙っています。
あなたの肉にテグス(見えない糸)をつけておいて、時が来たら、引っ張るのです。
そうすると、その人はその時から信仰が成長しなくなります。
だから、正直に祈ってください。
「私にはまだ権威がありません。イエス様、この問題に対処してください。助けてください!」と。

人からの受け売りやノウハウでは駄目なのです。
本人がへりくだり、真剣に「変えて欲しい、聖めて欲しい」と求めているかどうかです。
あちらの世界は強烈です。
いかにイエス様のところに行かせないようにするか。
イエス様の力だけが、あなたを解放します。

ここで注意しておきますが、手を置く祈りは、夫婦の場合は構いません。
子どもに手を置く場合も許されています。
父親が家族のかしらであり、権威者だからです。
過去、牧師に可愛がられた親密感から、子どもは見えない世界にもろに影響を受けているでしょう。
父親が子を守らねばなりません。
「イエス様の血潮と権威によって守ってください!」と。

教会は優しくてアットホームですか。
何のためにあるのですか?
救いのためです!
天に帰るための道場のようなものであり、悪しき者から守るためにあるのです。
日本の仏教の檀家的なものではありません。
かわいがるとか、お世話になったとか、そういう人情的なものではありません。
羊が牧師を選ぶ自由もあるのです。
自分の信仰を守るためです。


皇民の群れ(教会)は、イエス様の栄光のために存在しています。
訓練の場であり、弟子を育てるためです。
牧師たちが勝手に「うちの信徒」と言ってよいものではありません!
牧師、宣教師は、ただの用務員です。

敵は、盗み、殺し、滅ぼします。
イエス様の弟子を、悪魔のものとして滅ぼすのです。
しかも、できるだけ多く!
悪魔は、主に従ったみ使いたちに見せたいのです。
「キリスト教のこの状態を見てみろよ。日本では無理!イエス様は失敗したのだよ」と言いたいのです。
弟子は、イエス様の権威しか認めません。
信徒は、教会の奴隷ではないのです。
何のために人を集め、どこに連れて行くのですか!?
牧師と同じところに行くのですか。
牧師のように、首をつるのを、敵は願っています。

牧師に対する思慕は、その人のようになりたいと願うことです。
この思いを捨てなければ弟子にはなれません。
まず、「イエス様に従う。イエス様のようになる!」という願いと目標をはっきりさせることです。
悪霊に向かって「イエス様との間を邪魔するな。去れ!!」という本人の強い意志がないと無理です。
本人が、悩み苦しんで、イエス様に求めるのです。
信仰的なプライドは、捨ててください。

文責 菅原はれみ 

礼拝message 9月20日(日)

(長岡京市・光明寺)

エペソ3章,イザヤ52:13~53:12

十字架を見上げる

みなさんの顔は、喜びにあふれていますか?
それとも世の欲にくらんだ顔ですか?

みなさんには、イエス様の十字架にじっくり想いを馳せて欲しいのです。
一週間に一度でも良いですから、ぜひ定期的に、イザヤ書52、53章の十字架の箇所を読むようにしてください。

イエス様は、地に足をついた、地味な道筋を一歩一歩、歩まれました。
私たちも、イエス様の御足のもとに従って行く者として、それを目指し、実践の中で生きて行くべきです。

イエス様は、人間となられました。
痛み、飢え渇きを感じ、その五感の全てが人間と同じになられました。
(ただし、ご聖霊による妊娠は別です)

イエス様は私たちに模範を残し、イエス様が生きられた生活と、近い生き方ができる力を与えてくださいます。

エペソ2:8〜10
8「この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、上帝の賜物です」
9「行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです」
10「実に、私たちは上帝の作品であって、良い行いをするためにメシア・イエスにあって造られたのです。上帝は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました」

良い行いに歩むように

私たちは、何のために人間として生きるのか?
上帝は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。(エペソ2:10)
準備された良い行いをするため、これが生きる目的です。
私たちは新しく生まれ、造り変えられて、新しい人間として生きるその生き方さえも、前もって備えられているのです。
嘘をついたり、人を傷つけたりするためではありません。

救いは、主がご自身の栄光のために私たちに与えられた「恵みと賜物」です。(エペソ2:8)
わざわざ、まともではない人間を、ご自身の栄光のために選ばれたのです。
自分をよく見たらその邪悪さが分かるでしょう。
心の中で、何度も人を殺しているではありませんか。

みことばを宣言する

申命記27:11〜14
11「その日モーセは民に命じた」
12「あなたがたがヨルダン川を渡ったとき、次の者たちは、民を祝福するためにゲリジム山に立たなければならない。シメオン、レビ、ユダ、イッサカル、ヨセフ、ベニヤミン」
13「また次の者たちは、のろいのためにエバル山に立たなければならない。ルベン、ガド、アシェル、ゼブルン、ダン、ナフタリ」
14「レビ人は、イスラエルのすべての人に大声で宣言しなければならない」

ゲリジム山とエバル山に、主は祝福とのろいを置かれました。
ここで聖書の読み方についてですが、自分に向かって、できれば大声で読んで欲しいのです。
「聖書を読んで学ぶ」のではなく、「みことばを宣言するのです」
聖書は本来、大声で読むべきです。
自分に向かって大声で読み、自分にみことばを宣言するのです。
主はご自身の想いを、私たちに告げておられるからです。
私たちは、みことばに聞き従うのか、拒むのか、どちらかです。
YesとNoしかありません。
「はい」と言えないなら、答えは「No」です。
みことばを聞いていても、何も実行しないクリスチャンは、裏切り者です。
このように、気が向かなかったらやらないという態度の人は、イエス様のそばにはいません。
イエス様の弟子になった者も、多くが去って行きましたね。

イエス様は、新進気鋭の若いラビであり、美男子で魅力的でした。
そして、支配階級のパリサイ人やサドカイ人を、メッセージでやっつけられたのです。
群衆は大喜びです。すっきりしたでしょう。
しかしユダヤ人の常識では、聞いていられないようなものでした。
イエス様の教えは、「人を元気にする」などというようなものより、遥かに高いものだったからです。

実行しない者は呪われる

申命記27:14〜26
26「『このみおしえのことばを守ろうとせず、これを実行しない者はのろわれる』民はみな、アーメンと言いなさい」

イエス様の命令を守ろうとせず、実行しない者はのろわれるのです。
クリスチャンは、この事実を分かっていません。

「のろいはイエス様が取り除いてくださったから、もう大丈夫!」とごまかされて、キリスト教の中の悪霊にどんどん感化されて行くのです。
新約は、旧約より厳しい裁きを受けるのですよ。
言い訳は通用しません。
裁きの時、命令に従わなかったことは、きっちりと裁かれます。
あなたの口にしたことばによって、裁かれるのです。
「信じてるだけで大丈夫。命令なんか守らなくて良い」と言ったことばによってです。
生半可なクリスチャンは、命に至る悔い改めに行きません。

貪欲は偶像礼拝

貪欲さは偶像礼拝です。
十字架につけねばなりません。
ため込んだものは、あなたの神となり、それが偶像礼拝となります。
ゲリジム山もエバル山も、事実です。
祝福か、のろいのどちらかです。
適当に軽く生きた者は、そのまま悪魔と同じ裁きを受けることになります。
YouTubeで軽く語っている牧師、教師を見ると、心配になり怖くなります。
賛美も祈りも適当であるなら、腐った捧げものとなってしまいます。
イエス様は「わたしに見習え」と言われました。
イエス様は適当なことは決してされませんでした。
あなたが弟子なら、主は世の終わりまでともにいてくださいます。
そのお方に聞いて、それを語りなさい。そして行動しなさい、と言われているのです。
インマヌエルの主が、ともに歩もうとしてくださり、み使いをも遣わしてくださいます。
あなたが、遣わされたみ使いを無視しているなら、それは全てイエス様の前に報告されています。
あなたが横になるのも起きるのも、全部見ておられるのですよ。

詩篇139:1〜12
1「主よ あなたは私を探り 知っておられます」
2「あなたは 私の座るのも立つのも知っておられ 遠くから私の思いを読み取られます」
3「あなたは私が歩くのも伏すのも見守り 私の道のすべてを知り抜いておられます」

このみことばは現実です。
体験すれば分かります。
全てを見抜いておられるお方に弁明はできません。
主は、あなたがどこにいても何をしていても、関心を持っておられます。
このことを理解するなら、主のなさること全てに、アーメンと言うしかできなくなります。

アガペーの意味

初代教会においてアガペーは、信徒たちが礼拝後に一緒に食事をするという意味をもっていました。
当時のクリスチャンたちは、そのほとんどが奴隷でした。
安息日に持ち寄りで、このときだけは奴隷である彼らが、お腹いっぱいに食べられる日でした。
それは一週間のうち、一回だけです。
彼らにとって、お腹いっぱい食べられるのが驚きでした。
そのようなことは、物心ついた日から、一度もなかったからです。
ホームレスに対して、教会は炊き出しなどをやって来ましたね。
クリスチャンは、実践的であるべきです。
与える方も、感謝して捧げ、受ける方も、感謝していただくのです。

エペソ3:18,19
18「すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり」
19「人知をはるかに超えたメシアの愛を知ることができますように。そのようにして、上帝の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように」

アガペーの愛を、私たちは全く知りません。
そのデータを持っていたのは、アダムとエバだけでした。
しかし、彼らも罪を犯し、そのデータは消されてしまい、エロスに改ざんされたのです。

人のために死ぬ

ヨハネ15:12〜14
12「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの命令です」
13「人が自分の友のために命を捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません」
14「わたしが命じることを行うなら、あなたがたはわたしの友です」

これが、クリスチャンに教えられているアガペーの愛です。
このアガペーの残影として、武士や軍人が国のため、殿のために命を捨て、腹を切るというものが残っています。
「人のために命を捨てる」という愛です。
私たちは、主の足跡に従うのです。
自分のためではなく、人のために死ぬのです。
アガペーは、軽い意味ではありません。
私たちがもともと持っていない、「友のために命を捨てる愛」です。

主の愛にとどまる

ロマ5:1〜11
8「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、メシアが私たちのために死なれたことによって、上帝は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます」
9「ですから、今、メシアの血によって義と認められた私たちが、この方によって上帝の怒りから救われるのは、なおいっそう確かなことです」
10「敵であった私たちが、御子の死によって上帝と和解させていただいたのなら、和解させていただいた私たちが、御子のいのちによって救われるのは、なおいっそう確かなことです」

愛と怒りが同居できないように、祝福とのろいも同居できません。

ヨハネ15:9〜11
9「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい」

ここでイエス様が話しておられる目的は、私たちが、イエス様の喜びが満ち溢れた生活をするためです。
イエス様の愛にとどまり、その愛の中に、自分をキープ(Keep)するのです。
いつあなたは、アガペーの愛を体験しましたか?
十字架でイエス様と出会い、そこでアガペーの愛を実感するのです。

ガラテヤ2:19〜20
19「しかし私は、上帝に生きるために、律法によって律法に死にました。私はメシアとともに十字架につけられました」
20「もはや私が生きているのではなく、メシアが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、上帝の御子に対する信仰によるのです」

「私は、イエス様とともに十字架につけられています」
これが、主の愛の中にとどまるということです。

ヨハネ15:10
「わたしがわたしの父の命令を守って、父の愛にとどまっているのと同じように、あなたがたもわたしの命令を守るなら、わたしの愛にとどまっているのです」

私たちは、地上で肉体ある限り、イエス様の命令を守り、イエス様のいのち、愛をいただいて生きるのです。
つまり、日々あなたが十字架を負って生きているなら(愛してくださったお方とともに十字架についている時)、その愛(アガペー)で生きているのです。
十字架は、イエス様があなたを愛してくださったことの実証です。
十字架を放り出してしまうなら、そのクリスチャンは裏切り者です。

主にある喜び

天の父は、あなたがイエス様の愛の中にとどまり、イエス様が味われていた喜びが、あなたの中で満ちあふれるように、と願われているのです。
それは、この世の喜びではありません。
旅行に行ったとか温泉に入ったとか、そういうものではありません。
またフィレオーのような友愛、何かをもらったとか、物欲の愛でもありません。
太秦の群れがこの喜びを知ったのなら、世は驚くでしょう。
良い行いの動機づけは、十字架の愛です。
主の命令は愛に基づいているのです。
あなたの心の根底に、このアガペーの愛がなければ、どんな行いをしても、どんな大きな教会を築いても、ただの貪欲さに基づいた偶像礼拝です。
自分は救われてよかった、あの人はかわいそうね、と高ぶるなど、あり得ません。
愛がなければ、全てに価値がない!と、主は見ておられます。
どのような伝道も、ほどこしも、愛餐も、すべて愛があるかを見ておられるのです。
だから私たちは、イエス様について行くだけなのです。

以下の内容は交わりの時に話されたものです。

宗教的信仰と、生きておられるイエス様と交わる生き方(信仰)は違います。
いのちの源であるイエス様とつながらないと、枯れてしまいます。
実を結べません。

イエス様にくっついて、離れないことをいかに保つか。
礼拝を通して、イエス様とひとつになる、メッセージはこの戦いです。
この世は、イエス様とあなたを離したいのです。
礼拝は、イエス様とあなたの間を邪魔するものを取り除くのです。
しかし、これには、本人の同意を必要とします。
どんなに素晴らしいメッセージを牧師がしたとしても、聞く側がその牧師を嫌いなら、受け入れられません。
メッセンジャーが、いかに自分を殺して語れるか。
イエス様が、一人一人の必要に答えて直接話しかけてくださるか、このことが重要です。
礼拝を通して、それぞれがイエス様からチェックされているのです。
「わたしにはイエス様が必要です!」というイエス様を求める態度が必要なのです!
だれかが何とかしてくれるだろう、だれかが声をかけてくれるだろう、という受け身の態度ではいけません。
カナンの女は、必死にイエス様に求めました。
大切なのは、このような態度です。

按手

もし、だれかに手をおいて祈ってもらうなら、その人(人間)に頼っているということです。(例えば、牧師に按手される場合)
これは罪です。
自分で選んだことなので、闇の方から手が置かれます。
悪霊からの闇の力が権威を持つので、その人はぼや〜とした闇に覆われてしまいます。
聖書の世界は、現実に力を持っているので、見えない権威がその人とイエス様の間を邪魔するのです。
霊的な現実として、牧師から按手を受けたその闇の力が、家族の中に入り込み、怒りや敵対心となるのです。
ある牧師を、素晴らしい先生だと思って服従しているのなら、この世の霊は人を使い、悪しき者の権威のもとに置きます。
あなたが、イエス様の権威のもとに行くのなら、人間の権威はすべて捨てなければなりません!
悔い改めて、血潮を注いでいただくのです。

その家の父親が、妻や子どもたちに手を置いて祈るのはかまいません。
夫(父)は、妻(子ども)に対して権威を持っているからです。
夫が妻に「〇〇牧師の霊よ。去れ、拒絶する」と祈ったなら、その後家の中に平安を祈るのです。
解放されます。これは霊的な戦いです。
ただし、本人が同意して叫ばない限り、無理です。

言葉の世界

上島嘉郎氏が、著書「反日メディアの正体」で、なぜ現代日本人がおかしくなっているのか、書いています。
GHQは、戦前と戦後の世代を断ち切るために、言葉を変えてしまったのです。
親世代が普通に使っていた言葉と、子どもの世代の言葉使いが変えられてしまったために、親世代の漢字言葉が読めないのです。
学校でも戦前の言葉を教えないので、戦前の文章を読むことができません。
言葉の世界をそこで切ってしまったのです。
聖書でもそうですね。
口語訳はぼんやりしています。
文語訳の方がストレートです。
いかに戦後、日本人にイエス様を伝えないように細工されたのか。
言葉の土台がぐずぐずなのです。
それは霊的な世界も同じです。

彼も言っていますが、「反日」という人は国がありません。
クリスチャンも同じです。
国がないのです。
ぼや〜っとしていて、毎日なんとなく楽しく過ごせたら良いのです。
だから、光の子らしく、闇を明るみに出して行かなけれならないのです。
今、日本が置かれた状況、現実と向き合うのです。
それはイエス様のいのちがないと、耐えられません。
イエス様が、力と愛を注いでくださいます。
このアガペーの愛で励まされ、内なる人が強くされるのです。

文責 菅原 はれみ

礼拝message 9月16日(水)

(長岡京市・光明寺)

出エジプト32:30〜 33:3, 33:12〜17

出エジプト33:2,3
2「わたしはあなたがたの前に一人の使いを遣わし、カナン人、アモリ人、ヒッタイト人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人を追い払い」
3「乳と蜜の流れる地にあなたがたを行かせる。しかし、わたしは、あなたがたのただ中にあっては上らない。あなたがたはうなじを固くする民なので、わたしが途中であなたがたを滅ぼしてしまわないようにするためだ」

出エジプト19:1〜6
4「『あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを見た」
5「今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから」
6「あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる』これが、イスラエルの子らにあなたが語るべきことばである」

皇民の群れから裁きが始まる

主は、「あなたがたとともには行かない。あなたがたはうなじの固い民だから、途中であなたがたを滅ぼしてしまわないためだ」と言われました。
主がともにおられるということは、裁きが始まる、ということです。
しかも皇民の群れからです。
私は、いつも礼拝で主がご臨在をあらわしてくださることを祈り求めています。
しかし、ご臨在を求めるのは恐ろしいことです。
主が、ご臨在を皇民の群れにあらわされた時、不従順で頑固な者がいたら、その場で滅ぼされるからです。
アナニヤとサッピラのように、一瞬です。
言い訳のチャンスは与えられません。
このことを覚えていてください。

宝の民

ここに素晴らしい言葉があります。
あなたは自分を宝の民だと思っていますか?
アブラハムの信仰に倣う者として、イスラエルとともに、あなたがたは宝であり、祭司の王国、聖なる国民となるのです。
全世界は、主のものであるから!
この約束のもとに、イスラエルは出エジプトをして旅立ち、歩んで行くのです。
旧約も新約も、主のお考えは変わりません。
だから、イスラエルの民への素晴らしい祝福を、異邦人の私たちも新約で受け継ぐのです。
しかしキリスト教では、旧約と新約のイエス様は違うのだと、教えてしまいます。
決してそんなことはありません!
新約時代のクリスチャンは、旧約よりもさらに素晴らしい祝福を受けています。
周りの人に「なんと素晴らしい、尊敬すべき人々なのだろう。彼らこそクリスチャンだ」と言わせるためです。

これが、イエス様の栄光です。

つまり、旧約時代のスピリット、精神は新約時代も変わりません。
選ばれるという、召しも賜物も変わることがないからです。
現代のクリスチャンも同じです。
主が、私たちを祝福しようとして、旧約で示しておられることを無視して、旧約と新約を切り離してしまうなら、土台のない信仰になってしまいます。

旧約は信仰の土台

日本の相撲では、昔から「足腰を鍛えろ」と言いいます。
上半身に筋肉をつけるのではなく、「まず足腰から」です。
ヤコブの相撲も同じように、どっしりした、地に足をつけた信仰が必要なのです。
このように、どっしりした信仰の土台となるのが、旧約です。
ロマ書にあるように、異邦人である私たちは、イスラエルという土台の上につぎ木されたのです。

旧約聖書をしっかりと読み、歴史の中で、主が選ばれた民イスラエルに何をされたのか。
きちんと学ばねばなりません。
主は、あなたがクリスチャンライフで祝福を豊かに味わうようにと、願われているのです。

日本人は血を嫌う

ヤコブ書を読んでください。
プロテスタントは、「信じればそれで良いのだ」ということばかりを言います。確かに、あなたがいくら良い行いをしても、その行いでは救われません。
私たちは、自分の救いに関して何もできません。
人間の側の努力は無駄です。
罪の支払う報酬は死であり、罪をあがなうためには、血を流す他にないからです。
あがないは、イエス様が血を流して代価を支払われたゆえに、私たちは「赦された者」として、主の前に立つことができるのです。
「イエス様の十字架は私のためです」と、イエス様と自分をしっかりと結び合わせるのが、信仰です。
しかし、行いのない信仰は死んだものであることも、忘れてはいけません。

さて、日本はどうですか。
血生ぐさい信仰は駄目ですね。
(イエス様が十字架で血を流された、その血を注がれる、というような血生ぐさいものを嫌います)
田中英道氏は、ユダヤ人埴輪の存在を認めつつ、「ユダヤ人も秦氏も、日本に同化した。一つのものになった」と結論づけています。
(彼らはユダヤ人であることをやめ、生贄を捧げることをやめた、と)
馬淵睦夫氏も武田邦彦氏も、同じように主張しています。
「日本人は素晴らしい。外から入って来たものを同化する力がある。一神教は駄目ですね。
排他的になって、他の宗教を排斥する」と言います。
日本人には、原罪意識はなく、罪意識もありません。

神観念の違い

なぜ「日本人って素晴らしい」と主張するのでしょうか。
こう言うことによって、安心感を求めたいのです。
イエス様を知っている人なら「こんなどうしようもない私を選んでくださった!」と言うでしょう。
(自分が、日本人が、素晴らしいとは言いません)

つまり、この違いを議論しても無駄です。
日本の神と、聖書のイスラエルの神では、神観念が違うからです。
日本の神は、自然崇拝、精霊崇拝です。
おおらかな、融合して他を受け入れる神です。
そして、その結果が今の日本です。
だから日本語で「神」と訳すと、定義と観念が全く違ったものになります。
聖書のイスラエルの神とは全く噛み合いません。
太秦の宮では「上帝」と訳すことによって、神と上帝なる方が違うことをはっきりさせています。
日本人に対して「あなたがたは、聖書の神(イスラエルの神)を知らないよ、と気づかせるためです。
そうでないと、イエス様を正しく伝えられません。
聖書の神(天地をつくられた神)と、日本の神を一緒にして、同化させてしまうのが、日本です。
聖書の神、上帝を知るには、イエス様を通してしかできません。

みことばと向き合う

上帝なるお方が人となられたのです!
これは、日本人には受け入れ難いことです。
人となられたメシア・イエス様を否定するもの、これが反キリストです。
まさしく日本のようです。
キリスト教は「神様」と言って、頭の中でこねくり回します。
上帝を日本の神と融和させて、ごちゃ混ぜにしてしまうのです。
「神は愛です。信じればそれで良い」とこっち(キリスト教)が勝手に聖書の敷居を低くしているのです。

だから、天の父が引き寄せてくださらない限り、誰もイエス様のもとには行けません。
聖書は、「呼び出されたこと、選ばれたことを、確かなものにしなさい!」と言っています。
これを確かにした者だけが、新しく生まれ変わるのです。
確かなものにするには、みことばと向き合わなければなりません。
聖書を通してでなければ、自分がどんなに邪悪で汚れた罪人か分からないからです。
律法は、すべての人を罪の中に閉じ込めました。
すべての人は罪を犯しています。
自分をよく見れば分かります。
しかし、日本人の感覚ではどうですか。「ちょっと罪はあるよね。でも謝ったから、刑務所で償ったから、もう許されてるよね」といった感じです。
いいえ、とんでもない。
そんなことで罪は赦されていません。
聖書がなければ、罪を罪として正しく認められないのです。

命に至る悔い改め

汚い自分が、聖いものにされるなど、自分の力では不可能です。
(日本のお祓いではできません)
人間はもともと死人なので、イエス様からの恵みを受け取るしかないのです。
私たちは、お恵みを求めるだけの乞食なのですよ。
主に対して頭が高いのです!
私たちは、主の憐みとお恵みによって、イエス様のものとなっただけです。
命に至る悔い改めをしない者、キリスト教をやっている者は、本当に頭が高いです。
ダビデは、バテシェバと罪を犯した時、叫びました。
「誰が私を救ってくれるのか!」と。
これが悔い改めの姿です。
命に至る悔い改めとは、砕かれた、悔いている者の姿です。
主はそれを見て、「恵みを与えよう」と言ってくださるのです。
私たちは、恵みによって信仰によって救われた、乞食にすぎないのです。
忘れないでください。
癩病からのきよめも、癒しも、全てが恵みであり、プレゼントです。
盲目の人が「ダビデの子よ。憐んでください!」と叫びました。
悪霊に憑かれた人は、こう叫べばよいのです。すぐに解放されます。
しかし、やらないのです。偉そうなのです。
なぜでしょうか。

日本のクリスチャンの中に、悪霊の助けを受けて、悪霊を誇っている人がいます。
その人の態度と実を見れば分かります。
聖いご聖霊ならば、そのような傲慢な態度はあり得ません。

真理を知ることがない

ことばは、非常に大切です。
「主イエス様、感謝します」と言うのと、「神様、神様」と言うのでは全く違います。
日本人はわらじも拝みます。
「霊的なものなら何でも良い」というだらしない態度です。
特に女性は、「霊的なものなら、何でも心地よい」と感じられるものを持っています。
危ないのです。

IIテモテ3:1〜9
6「彼らの中には、家々に入り込み、愚かな女たちをたぶらかしている者たちがいます。その女たちは、様々な欲望に引き回されて罪に罪を重ね」
7「いつも学んでいるのに、いつになっても真理を知ることができません」

ここに愚かな女たちがでてきます。
女性は見た目に弱いですよね。
偽預言者や、偽教師は、だいたいちょっと二枚目です。
声が良いとか、話し方がうまいとか。
こういういわゆるイケメンの男性が、女性をターゲットにし、とりこにするのです。
愚かとは、本能的であることです。
女性は、母性本能をくすぐる男性にも弱いですね。
そして、とりこにする方(偽預言者や偽教師)も、霊的な力を持っています。
女性をたぶらかして、自分の思い通りにするのです。
このような女性たちは、「いつも学んでいるのに、真理を知ることがない」のです。
ここでは、普段この世で遊んでいる女性のことを言っていません。
真面目で、熱心な女性信者のことです。
遊びを知らない真面目な女性信者がターゲットになっているのです。
女性は気をつけて欲しいのです。
蛇はナハッシュで、魔術はニヘッシュです。(蛇と魔術は同じ意味です)
いつも学んでいるのに、真理(イエス様)を知ることができないのは、イエス様を求めていないからです。
学ぶのは、イエス様ご自身を知るためなのですよ!

御霊を受ける準備

IIテモテ2:8〜13
11「次のことばは真実です。『私たちが、メシアとともに死んだのなら、メシアとともに生きるようになる」
12「耐え忍んでいるなら、メシアとともに王となる(支配するようになる:新共同訳)。メシアを否むなら、メシアもまた、私たちを否まれる」
13「私たちが真実でなくても、メシアは常に真実である。ご自分を否むことができないからである」

あなたの全生活が、いつもイエス様を見上げていて、イエス様に聞いているものとなってください。
石のような頑固な心ではいけません。
柔らかい幼子のような従順な心になってください。
そうでないと、主はともに歩んでくださいません。
「途中で滅ぼす!」と主は言われたのですよ。
クリスチャンと言いながら、いつまでも頑固なのは、悔い改めないからです。
ダビデのような、命に至る悔い改めが必要です。
砕かれた、悔いた心は、支え(力)がないと、自分では生きていけません。
そこに、ご聖霊が降られるのです。
力と火による聖霊のバプテスマです。

ここに、ローマの百人隊長コルネリウスの実例があります。
ペテロがメッセージをしている途中に、聖霊が降られたのです。
コルネリウスとその家族は、ユダヤ人の生活を見て感動し、その生き方を実践していました。
ユダヤ人たちが主を畏れるように、自分たちも主を畏れ、貧しい人に施しをし、祈りの生活をしていました。
コルネリウスには聖霊を受ける準備ができていたのです。
彼は、待ち望んでいたメシアは、イエス様だと理解していたのです。
イエス様が天の栄光の御座に帰られたのは、弟子たちに、御霊を送るためでした。
新しい命が強められて、弟子として訓練するためです。

ユダヤ人は、「上帝を畏れ正義を行う人は、上帝に受け入れられる」と理解しています。
日本人は、神を畏れません。
神と人間は親しい関係です。
「お祓いでOK」と思っているので、聖書とは全く違います。

へりくだって主とともに歩む

ミカ6:8
「主はあなたに告げられた。人よ、何が良いことなのか、
 主があなたに何を求めておられるのかを。
 それは、ただ公正を行い、誠実を愛し、へりくだって
 あなたの上帝とともに歩むことではないか」

このように、天と地を造られたお方は、へりくだって主と歩み、正義と誠実を愛する者を求めておられるのです。
コルネリウスは、まさにこのような者だったのです。

上帝を畏れなければ、へりくだりません。
へりくだった人の見本がイエス様でした。
上帝が人となられたのです。
創造者が、被造物となられたのです!
このへりくだりの物凄さが分かりますか?
イエス様は、ご自分の創造者という立場を捨てて、人間となられたのです。
何故イエス様は、人間となられたのですか?
それは人間をあがなうためです。
人間は被造物のかしらですから、人間をあがなわなければ、被造物すべてが呪われたまま終わってしまいます。
御子は、上帝なるお方がへりくだって人間となられ、仕えられるためではなく、仕えるために来られたのです。
イエス様の命は、高ぶる命ではありません。
人に仕える命です。
このへりくだったお方に繋がっているなら、高ぶり続けるなどあり得ません。

イエス様とともに歩みたいのなら、イエス様をかしらとして、へりくだりなさい。
頑固な者は滅ぼされてしまいます。
アナニヤとサッピラが求めたのは、名誉、プライドでした。
彼らは、その場で滅ぼされました。
主は、証明されたのです。
主がともにおられるなら、高ぶった者は滅ぼされてしまうのだよ、と。
もし、主がともにおられるなら、主は裁きを行わなければならないのです。
皇民の群れの中に、このような者がいたら本当に危険です。

最後に主が滅ぼされるからです。
そして、特に教師は本当に厳しい裁きを受けます。

太秦の群れが、イエス様の栄光のために用いられたいなら、命に至る悔い改めと謙遜を学び、へりくだった者になって、群れが一致して行かなければなりません。
世の人々が、最も求めているのは、イエス様がともにおられることです。
イエス様は、あなたの人生に介入して祝福し、サンプルにしたいと思われているのです。
旧約以上の祝福をあらわし、周りの人々に「あの人は確かに違うよ!」と言わせたいと願われているのです。

マタイ28:20
「わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」

イエス様は、あなたとともにいるために、栄光の御座についておられます。
旧約と新約は一つです。
主がともにいるとは、どういうことなのか、聖書で実例を示しておられるのですから、甘く見てはいけません。
新約は、イエス様が弟子とともにいることを望まれ、血を流され、買い取られた時代です。
最後の裁きの時に、「お前は何を求めていたのか?」と主はあなたに聞かれます。
その時に、天の扉が閉じられないように。
旧約を読んでいないと、新約で起きていることが理解できません。

以下の内容は、交わりの時に話された言葉です。

主からいただく、愛、喜び、平安などは、本気になって必死に求めた者だけが手に入れるのです。
求めなければ、探さなければ、頂くことはできません。
日本人は、なかなか熱くなりません。
問題からの解決は、イエス様が願っておられるように、イエス様にしがみつく、ただそれだけです。
待っていれば与えられるだろうと、他人事のようにする態度は、傲慢です。

聖い愛

「聖書の愛、アガペー」と、「人間の性的結合、エロス」との境界に、イエス様は肉体を持って地上に来られました。
これはどういうことでしょうか。
本来、性は良いものとして造られました。
罪のない状態で、主は男女の結合をお与えになりました。
しかし、アダムとエバが罪を犯した結果、性的なものは悪いものとして見えるようになりました。
罪を犯す前の、その喜びは私たちにはわからないのです。

イエス様と一体となるのが、聖い愛、アガペーです。
私たちは、もともと愛を知りません。
知っているのは、この世の愛です。
イエス様は、あなたのために命を捨てられました。
身代わりの愛です。
イエス様と交わることによって、私たちは聖い愛が何であるのかを、知るのです。
これは男女の愛とは違います。
主は、アダムとエバが聖い中で、一つとなることを知って欲しかったのです。
私たちは、エロスでは無理なのだと気づきます。
聖書で「男も女もない」と言われているように、聖い愛は、男女の愛ではありません。
だから、私たちは、イエス様を知るのです。
イエス様が、愛してくださったように、私たちも愛するのです。
あなたの中に新しい命があるなら、イエス様からいただく聖い愛と、世の汚い愛の違いが分かるはずです。

日本の国体

モルデカイ・モーゼ氏は、その著書「日本人に謝りたい」の中で、日本に国体を取り戻して欲しい、と謝罪し願っています。
日本の君民共治の国体(王と民がともに国を治めるの意)は、ユダヤ人がずっと願い求めて来たものでした。
旧約でユダヤ人が期待していた王の姿が、日本の天皇の姿にあったのです。
天皇と庶民のフラットな関係は、ユダヤ人が理想として来た、王と民の関係でした。
これをGHQが壊そうとしたのです。
ダビデ王に仕えた者たちが、王のために命をかけても良いと願ったように、日本の天皇と民との関係に、メシア王と民の姿を見たのです。
王とその部下との関係(ダビデとヨナタンに代表されるように)は、愛と信頼の関係でした。
一つの思いで、国を守ろうとして行くのが君民共治です。
この日本が無意識のうちに作り上げて来た、天皇と民。
天皇は「親が子を想うように民を想い」、民は「父を慕うように、天皇に従う」という一つの家族的な関係を「取り戻して欲しい!」とモルデカイ・モーゼ氏は言っています。
(しかし国体についてであって、決して文化を肯定しているわけではありません)

上帝の国をあらわせ

王は、リーダーとして民に権威をふるわなければなりません。
そしてイエス様が、王として地上に来られたのです。
イエス様は、王として責任を取られます。
民は、喜んで従うのです。
主は、私たち民を愛し、民は王を愛する。
ここに上帝の国、本当の平和があるのです。

そしてこの上帝の国を、「イエス様が治める国は、このようなものなのだよ」と見える形であらわせ、と私たちは期待されているのです。
モルデカイ・モーゼ氏の願って来た国は、実現されませんでした。
しかし、メシア王の治める国の雛形を、彼は日本に見たのです。

膝をついて、民を訪問されたのは、平成天皇からでした。
そして、平成天皇は、子どもの頃より宣教師のヴァイニング夫人(クウエーカー教徒)からキリスト教を学ばれたのです。昭和天皇がキリスト教を深く学ばれ、そのことを望まれたからです。時が来ているのでしょう。

民族の栄光

日本には、イスラエル十部族と、原始キリスト教徒たちが、歴史において入って来ています。
しかし、秘められた美として、隠されています。
能を作ったのは、秦氏たちでしたね。
能の中に「秘すれば花」という言葉があります。
意味深ですね。想像とイメージの世界です。

(注:「秘すれば花なり。秘せずは花なるべからず」世阿弥が著した能楽書「風姿花伝」の一説。秘めるからこそ花になる。秘めねば花の価値は失せてしまう、の意。全てを見せずに、ほんの少しを見せることによって、観客の想像とイメージを膨らませ、その隠されたものが、観客を感動させる)

イエス様が日本に期待している、民族の栄光があります。
それはどのようなものなのでしょうか。
私も苦しみながら、格闘しています。
上から来る想像とイメージで、新しいものを創造して、日本人として最高のものを主に捧げるのです。
今あるものを使ったとしても良いのです。
しかし、西洋など外から入って来たものではなく、上から知恵をいただいて、新しい聖いものを創造して主に捧げるのです。

大和の君(日本を支配している悪霊)は、この世のもの全てを混ぜて、まがまがしいものにしています。
この世のものは、反面教師にするのです。
この世のものでも、こんなにすごいものができるのです。
まして、主はもっともっと、上におられます。
主にお頼りするなら、比べ物にならないほど素晴らしいものを、作ることができます。

どうか広い視野を持ってください。大人になってください。
そうすれば、敵がしていることと、主がされていることが、はっきり見えてきます。
イエス様について行くなら、イエス様を知るなら、奇跡などは後でついて来ます。

文責 菅原はれみ

礼拝message 9月13日(日)

マタイ12:22〜37

聖くなることを求めなさい

マタイ12:28
「しかし、わたしが上帝の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう上帝の国はあなたがたのところに来ているのです」

聖性-ホーリネスは、イエス・メシアと似た者になることであり、聖人となることです。
これがクリスチャンの最終目標です。
主は、私たちが聖くなることを求めておられます。
イエス様が聖いお方だからです。

イエス様の十字架の復活の後、福音が宣べ伝えられていても、悪魔は偽教師を皇民の群れに送り込みます。
この偽教師は、信仰のウィークポイントを突いてきます。
悪霊は、あなたをよ〜く観察して(いつもずっと見ていて)データを収集しています。
あなたのどこが一番弱いか、悪霊はよく知っています。
一週間経って、みなさんを見ると傷だらけになっています。
イエス様に守られて来て感謝です。
しかし、その傷をどのように癒すのか?
イエス様の十字架のあがないと血の力で聖められ、許されるのです。

日本の神観

新改訳2017年度版聖書と、その前の古い新改訳を読み比べてください。
「和解の生贄」が「交わりの生贄」に変えられていることが分かります。
「和解の生贄」と言うと、そこには敵意が含まれます。
和解したいと言う意思と行為があって、和解し、その後交わりが成立します。
しかし「交わりの生贄」と言われると、どうでしょう。
まるで生贄が、何かのお土産のようです。
そこには敵意も罪意識もありません。

このように、翻訳者の好みの神学によって事実が変えられてしまいます。
旧約では、律法が与えられたことにより「自分の中に罪が住んでいる。人間の罪がいかにひどいものか!」という事実が明らかになりました。
このことを教えてくれるのが、旧約聖書です。

この翻訳のやり方は、うまいですね。
(馬淵睦夫氏が、その著書の中でも日本の神観について語っていますが)
こうやってみことばが薄められ、だんだん日本の神観に近づいて来るのです。
キリスト教では、「天の父は優しいお方だから、お交わりをしましょう。そんなに怒っておられませんよ」とごまかしていくのです。

私は、なにも日本がキリスト教国になれば良いとは思っていません。
キリスト教国はいらないのです。
今のキリスト教国の有様を見れば分かるでしょう。
願うのは、天皇陛下、総理大臣が主の前にひれ伏して感謝を捧げることです。

命令に従うことが愛

申命記29:29
「隠されていることは、私たちの上帝、主のものである。しかし現されたことは永遠に私たちと私たちの子孫のものであり、それは私たちがこのみおしえのすべてのことばを行うためである」

みことばを行うことは、イエス様の命令を守ることです。
イエス様の命令に従って歩むこと、それが愛です。

IIヨハネ:6
「私たちが御父の命令にしたがって歩むこと、それが愛です。あなたがたが初めから聞いているように、愛のうちを歩むこと、それが命令です」

命令は、常にあなたに示されています。
キリスト教信者はパートタイマーです。
「自分で決めて、ある時間だけは信仰者のように過ごします」という感じです。他の時間は自分の勝手に過ごすのです。
そうであってはいけません。
クリスチャンは24時間、主のしもべです。
私たちは寝ている時も、主に守っていただかねばならないほどに弱いのですよ。
自分が勝手にできないほど、いかに限界がある者なのか知らねばなりません。
そのような者だからこそ、みことばに従って生きるしかないのです。
主がいつもどのように守り、養い、導いて下さっているのか、私たちはほとんど知らないのです。

何かの試練で、「もう我慢できない!」と思っている時、悪霊が囁きます。
「こっちの水は甘いよ。こうした方がお金が儲かるよ」また「そんな嫌な人がいる職場、変わった方が良いよ」と。

イエス様への冒涜は赦されない

マタイ12:31
「ですから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒涜も赦していただけますが、御霊に対する冒涜は赦されません」

ルカ12:10
「人の子を悪く言う者はだれでも赦されます。しかし、聖霊を冒涜する者は赦されません」

イエス様が人間として地上におられる時には、「人の子に対するどんな罪も冒涜も赦す」と言われました。
しかし、今は違います。
イエス様は十字架の死から蘇り、天に昇られ、栄光の御座から御霊を送ってくださったからです。
イエス様はどのようにして地上にお生まれになりましたか?
聖霊によって、人間としてお生まれになりました。
これが三位一体の奥義です。
つまりイエス様への態度が、そのままご聖霊への態度です。
ご聖霊に対する態度が、そのままイエス様に対する態度です。
イエス様が天に帰られた今、イエス様への冒涜は赦されません。
イエス様への暴言は残ります。
あなたが地上に生きているうちに、悔い改めが必要です!
「御霊(イエス様)に対する冒涜は赦されない」と言われているからです。
あなたが地上に生きている時にイエス様にどのような態度を取ったのかが、最後の裁きの時の基準になります。
イエス様が復活された後、「異邦人に割礼を!」と言っていたユダヤ人で救われた人はほとんどいません。

マタイ12:34〜37
36「わたしはあなたがたに言います。人は、口にするあらゆる無益なことばについて、さばきの日に申し開きをしなければなりません」
37「あなたは自分のことばによって義とされ、また、自分のことばによって不義に定められるのです」

神様とは?

ルカ12:8,9
8「あなたがたに言います。だれでも人々の前でわたしを認めるなら、人の子もまた、上帝の御使いたちの前でその人を認めます」
9「しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、上帝の御使いたちの前で知らないと言われます」

主イエス様のことを口に出さず「神様!」と言っている、自称クリスチャンの方々に言います。
御使いたちの前で、あなた方は「知らない」と言われますよ。
人前で、弟子であることを言い表していないと認めてもらえません。
「私の人生は私のものではない」と告白する者が弟子です。
イエス様を「主」と告白するなら、救われます。
「主」と言うなら、イエス様の命令を守る立場をとるはずです。
主に属する者がクリスチャンです。

祝福を願われている

マラキ3:6〜12
12「すべての国々は、あなたがたを幸せ者と言うようになる。あなたがたが喜びの地となるからだ」

旧約時代でも、主は民を豊かに祝福されました。
まして、イエス様がその血によってあがなわれた新約時代の上帝の子どもたちに対して、天の父がどれほど祝福したいと願っておられるか!
では、何故祝福がないのですか?
あなたが態度の悪い子どもだからです。
蛭は「くれろ、くれろ」と言います。
それと同じです。
イエス様に対して「助けて、あれして、これして」と、感謝もしません。
いつも感謝している正直で素直な子なら、親は可愛いでしょう?
もっともっとしてやりたいと思いますよね。同じです。
感謝して、主を褒め称えてください!
クリスチャンは本当に感謝しません。
天の父は、どれほど子どもたちを祝福したいと思っておられることか!
あなたを見て、周りの人たちが羨むようになるためです。

イエス様は王となるために来られました。
自分を喜んでイエス様の支配下に置く者が、クリスチャンです。
家庭や職場の細々したことはイエス様には分からない、と思っているからつぶやくのです。
あなたのお祈りが、つぶやきになっているでしょう!?
ちゃんと聖書を読んでください!

聖書を信じているなら、主のなさることに不可能はありません!
想像を絶することをなさいます。
あなたはいったい、何をしているのですか。
ちまちまと考えているのは、日常生活と自分のことだけですか。
あなたを見て「あの人は幸せだね。いいね!」と誰が言うのですか。

Iペテロ2:13〜25
17「すべての人を敬い、兄弟たちを愛し、上帝を恐れ、王を敬いなさい」
18「しもべたちよ、敬意を込めて主人に従いなさい。善良で優しい主人だけでなく、意地悪な主人にも従いなさい」
19「もしだれかが不当な苦しみを受けながら、上帝の御前における良心の故に(別訳:上帝のみこころを意識して)悲しみに耐えるなら、それは上帝に喜ばれることです(直訳:恵みなのです)
20「罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、それは上帝の御前に喜ばれることです」

当時は奴隷が多かったのです。
実際の生活で聖書の命令を守るため、いつも上帝のみこころを意識して生きるために、私たちは召されたのです。
言い訳は通用しません!
聖書を与えられているからです。

羊飼いの声を無視する

Iペテロ2:21〜25
21「このためにこそ、あなたがたは召されました。
メシアも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残された」
22「メシアは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった」
23「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった」
24「メシアは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪に死んで(別訳)、義に生きる(別訳)ため。
その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒された」
25「あなたがたは羊のようにさまよっていた。しかし今や、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰った」

あなたの生き方がどれほど聖書からずれているのか!
だらしないし尊敬もされないし、今まで何をやって来たのですか。
自分に向かって「私は死んでいる」と言っている者が、自分を捨てている者です。
イエス様は魂の牧者であり監督者です。この羊飼いなるお方の声を無視して、自分勝手にやっているのです。
野球だって、監督の許可なしにはプレーできないでしょう?
普段の生活の中で、イエス様に似た者となるように配慮されているのに、あな
たが生まれつきの自分をお任せしていないのです。

イエス様の声に耳を傾けずに、自分ばかり喋っているのです!
「どうしたら良いのですか、何と言ったら良いのですか。お任せします」と言わないのです。

勝手なことをして痛い目に遭い、それをイエス様のせいにする。
そのような自称クリスチャンは、本当に性根が悪いです!
あなたが自分で選んで決めて、やったことでしょう?
悪い種を撒いたのは自分なのに、勝手に「主のお導き」にする。
その前にイエス様にどうすればよいのか、聞きなさい!

イエス様は、模範を残されました。
意地悪な主人にも喜んで従うのです。
このような者になっていないと弟子ではありません。
生まれつきの自分にはできないことが、イエス様にはできます。

イエス様を無視して来た結果が、今です!
イエス様にあるなら、今と結果が違ったはずでしょう!?
周りの人から「あの家族は違うよね」と言われなければ、証にもならないし、イエス様の栄光にもなりません。
周りのみんなが認めることが、この太秦の群れから始まらないなら、いったい何の証ができるのですか!?

祈りの中で力ある者

義人の祈りには力があります。
何故あなたの祈りには力がないのか。
義人ではないからです。
ヤコブ書にある通りです。
「実際にやってみなさい。祈りとはこのようなものだ、と実証しろ」と言われているのです。
祈りの中で力ある者にならなければ、役には立ちません。
聖書を読んで、力ある者となってください。
ちまちまとしたせこい者は期待されていません。
みなさんは、金魚鉢の中のメダカのようです!
イエス様が願っておられることと、あなたが思っていることは、離れすぎています。
聖書の考え方に自分を合わせなければなりません。
そのためにご聖霊が来て、アドバイスを与えてくださるのです。

みなさんは世界観が小さすぎて、頭がコチンコチンに固いのです。
聖書の世界観、その大海原へ漕ぎ出してください。
聖書は実践せよ、と言われています。
みことばが事実とならなければ、あなたは何を期待して生きているのですか。
歴史の中で、イエス様が何をしようとされているのか。
「上帝の国はこのようなものだ」と証しようとされているのです。
私たちはそのツールです。

そのツールになれないなら、イエス様に使ってもらえないなら、クリスチャンとは言えません。

文責 菅原はれみ

礼拝message 9月9日(水)

申命記11:1,8〜12,22〜29
12:1〜8,12:28〜13:18

わたしの命じることばに聞き従いなさい

申命記
11:1「あなたはあなたの上帝、主を愛し、主への務めを果たし、主の掟と定めと命令をいつも守りなさい」
12:28「気をつけて、わたしが命じるこれらのすべてのことばに聞き従いなさい。それはあなたが、あなたの上帝、主の目にかなう良いことを行って、あなたも後の子孫も永久に幸せになるためである」

唯一の主を愛しなさい

申命記6:4,5
4「聞け、イスラエルよ。主は私たちの上帝。主は唯一である。
5「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの上帝、主を愛しなさい」
レビ19:4
「あなたがたは偶像の神々に心を移してはならない。また、自分たちのために鋳物の神々を造ってはならない。わたしはあなたがたの上帝、主である」

イエス様が律法全体の要約として、私たちに求めておられるのは主を愛することです。
イエス様の言葉は上帝の命令です。
イエス様は唯一の指導者であり、全てを統治、支配しておられるお方です。
だから弟子は、この偉大なお方を「主イエス様」と呼ぶのです。

イエス様を通してのみ、天の父のみもとへ

ヨハネ14:6
「イエスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません』」

このみことばにあるように、祈りでさえイエス様を通してでなければ天の父は聞かれません。
「イエス様のお名前で求めるならば」聞いてくださるのです。
イエス様だけが唯一のとりなし手であり、祭司です。
イエス様のいのちを持っていなければ、天の父を「父」とは呼べません。
イエス様のいのちがあるからこそ、天の父を「父」と呼ぶ特権があるのです。

日本人は、とてもヒューマニズム的(人間中心的)な文化背景を持っています。
宗教に関しても折衷案です。
「和をもって貴し」となせばよいと思っているからです。
だから、日本人は宗教的には非常に危ないものを含んでいます。

ナハッシュとニヘッシュ

ヘブル語で蛇のことを、ナハッシュと言います。
子音だけとると「NHSH」となり、そこに別の母音を与えるとニヘッシュとなります。このニヘッシュの意味は、占い、魔術、易を見る、です。
つまり「蛇」の母音を変えると「占い、魔術」となるのです。
これらの語は子音だけ見ると、同じです。
蛇は女性に囁きかけます。
霊媒、占い、魔術、巫女など、霊的なものは女性が多いですね。
「蛇=悪霊」は、女性の弱さをよく知っています。
また、女性は言い当てる(推測する)のが好きだし、うまいですね。
「ほら、私が言った通りこうなったでしょ!」と。
これは占いと同じです。
この高ぶりや嘘を悪霊は利用します。
女性は悪霊から見ると、攻撃しやすいし操りやすいのです。
蛇が絡みついてペロペロ舐めているのです。
本人は気持ち良いのでしょう。下品だからこの辺でやめます!
(だから女っぽい男性ほど危ないですね。占いをやる男性はこういう人が多いです)

権威のもとに自分を置く

女性がベールを被るのはそのためです。
これは、私は誰かの権威の下に自分を置いています、というしるしです。
夫の上におられるイエス様の下に自分を置いておくのが、女性にとって安全なのです。
この立場をキープしておかないと危ないのです。
これはあなたが謙遜でないとできません。
傲慢で自己主張をしていたら無理です。
しかもキープ(keep)です。
この立場を保たねばなりません。
敵はあらゆる手段を使って、あなたの心をそらせようとします。

ここで注意しておきますが、悪霊につかれた人も「イエスは主」と言えます。
悪霊は「主は唯一」だと知っているので、非常に畏れています。
(悪霊は私たちよりずっとイエス様のことをよく知っています)
日本のクリスチャンには、この「主を畏れる」ことが抜けています。
本当に間抜けで足りない者です!
敵がこの大切なことを「抜いている」のです。
日本のクリスチャンは、敵が抜いていることに気付いていません!

新約の土台は旧約

全律法の要約は、申命記とレビ記に書かれています。
新約聖書の土台は旧約聖書です。
イエス様も旧約聖書の中から語られました。
旧約聖書の土台(根っこ)から、それが何故、いつ起きたことなのかなどを理解してから新約聖書を読まないと分かりません。
旧約聖書を無視して新約聖書だけ読んでいるなら、本当に間抜けた者となります。
信仰は気分だけが舞い上がったものではありません。
あなたの普段の生活はどうなっていますか!?
あなたがイエス様の弟子として生きているかどうかです。
私たちが生きる意義と目的は、イエス様にしかありません。

キリスト教では気分的高揚を愛と呼んでしまうことが多いですが、ここで愛について考えてみましょう。

1.アガペー(十字架で現された無償の愛)
2.フィレオー(友愛、人類愛)
3.エロス(a 性的、欲情に基く愛。b 倫理的、宗教的に高められた愛。聖なるものに対する憧憬、憧れ)

エロスは性的な愛だけではなく、宗教的に高められた愛として「聖なるものへの憧憬」が含まれます。
例えばヨーロッパのカトリックの神秘的境地を目指した画家の描く女性には、必ずエロス(性的な意味での)が入っています。
何故エロスを感じさせない女性を描かないのか。
(日本の着物などは良いですね)
清いものへの憧憬、憧れは、宗教的清さを求めます。
このエロスには、蛇の足跡がついています。
悪霊が「私が満たしてあげる!」と来るのです。
まさに蛇(ナハッシュ)と魔術(ニヘッシュ)の言葉の示す意味は同じなのです。
キリスト教の愛は、簡単に倫理的、宗教的なエロスに置き換えられてしまいます。
だから新約聖書の訳では、このエロスという言葉を使うのを拒絶したのです。

霊を見分ける者が必要ですね。
日本には審神者(さにわ)が神道の中にいますが、ユダヤ教から来ているのでしょう。
(注:さにわとは、古代の神道の祭祀において神託を受け、神意を解釈して伝える者のこと)
日本の皇統が、男性にしか受け継がれないY染色体にこだわるのは理解できます。
エズラ記やネヘミヤ記に書いてあるように、血統にない者が外されるからです。親は誰?血筋はどうなってるのか?と。
日本には、ユダヤ教のヘブル的なものと新約のキリスト教的なものが入って来て混ぜられています。
それが宗教的文化的な土台となり、まがまがしい物になっています。
(それを聖いものだけ取り出して主に捧げるのが、太秦之宮の役目だと思っています)

主を愛しているのか試みられる

申命記13:1〜5
13:1「あなたがたのうちに預言者または夢見る者が現れ、あなたに何かのしるしや不思議を示し」
2「あなたに告げたそのしるしと不思議が実現して、『さあ、あなたが知らなかったほかの神々に従い、これに仕えよう』と言っても」
3「その預言者、夢見る者のことばに聞き従ってはならない。あなたがたの上帝、主は、あなたがたが心を尽くし、いのちを尽くして、本当にあなたがたの上帝、主を愛しているかどうかを知ろうとして、あなたがたを試みておられるからである」

このユダヤ人の姿は、新約時代のクリスチャンの雛形です。
キリスト教会で、「私が夢を見た通りになりました。夢が当たりました。私ってすごい。私は霊的であなたより優っている!」とこのような姿をよく見かけます。

申命記18:9〜13
9「あなたの上帝、主があなたに与えようとしておられる地に入ったとき、あなたは、その異邦の民の忌み嫌うべき習わしをまねてはならない」
11「呪文を唱える者、霊媒をする者、口寄せ、死者に伺いを立てる者があってはならない」
12「これらのことを行う者はみな、主が忌み嫌われるからである。これらの忌み嫌うべきことのゆえに、あなたの上帝、主はあなたの前から彼らを追い払われるのである」

スピリチュアルなもの、悪霊的なものを主は拒絶されます。
No!と。
だから民は追い払われているのです。
霊的なものに対して日本人もルーズです。
夢を見たとか、しるしとか、スピリチュアルなものが好きですね。
これは、主が試みておられるのです。
主が、偽物の預言者がいることを許しておられるのです。
私たちは霊を見分けることができるまでに成長しなくてはなりません。
子供っぽいままでいてはいけません!
人(リーダー)にくっついて行ったり、人に聞いたりするからです。
イエス様に聞いて、イエス様に祈りなさい!
人に聞いた方が簡単だから流されるのです。
イエス様が、ワンダフルカウンセラーなのです。
クリスチャンが羊飼いなるお方を無視して人に頼り、自分の考えに頼るなら、もうアウトです。
良いことをしたとしても「死んでいる」者です。
いのちの源はイエス様ご自身だからです。
サマリヤの女性はいのちの水を求めました。
イエス様ご自身からいのちの水を飲んで、イエス様と同じ目線で物事を見ることが必要です。
未熟な信仰で未熟な聖書の読み方をしているなら、大切な所を敵に抜かれてしまいます。
そのような人は役に立ちません。

まとめると、悪霊はクリスチャンに対して「予感が的中した!しるしが見えた」と誘惑してきます。
「私には預言の賜物があるわ」と女性が思ったら、悪霊の勝ちです。
一丁上がり!ということです。
女性は、スピリチャルなことに本当に気をつけてください。
ひっかかります。
あなたは誰に仕えているのですか?
生き方すべてがイエス様のためなら、イエス様ご自身が守ってくださいます。
そうでなく、肉(悪霊)に仕えるなら敵は笑っています。
簡単です。ニヘッシュ(魔術、占い的なもの)でコントロールできるからです。
本当に怖いのは、イエス様がそのことをお許しになっていることです。
スピリチャルなことを通して、あなたを試しておられるのです。
みことばに聞き従おうとしているのかどうか、主は見ておられるのです。

エレミヤ2:1〜3
1「次のような主のことばが私にあった」
2「さあ、行ってエルサレムの人々に宣言せよ。
『主はこう言われる。
わたしは、あなたの若いころの真実の愛、
婚約時代の愛、
種も蒔かれていなかった地、荒野での
わたしへの従順を覚えている』」

旧約聖書の中には、今のクリスチャンより麗しい姿があります。
ここで、二つの言葉を覚えていただきたいのです。
1.ヘッセル(若い時の純情)
2.アハバー(花嫁の愛。アガペー)

「ヘッセル=若い時の純情」は、初々しく瑞々しいものです。
クリスチャンがこのヘッセルを保つのがどれだけ大切なことか!
敵がいるからです。
敵はこの初々しいものを潰しにきます。
だから、母教会がガードして守らなくてはならないのです。
このヘッセルが「アハバー=花嫁の愛」に成長しなくてはなりません。
そして主への愛が揺るがないものになり、その愛が安定した生活に入るのです。
逆に、生まれつきの肉を磨けば頑固な者となり、肉で信仰生活をやる人になります。
「大丈夫、神は愛だから!」と自分の考えを頑なに変えません。

何故、イエス様に聞き従わねばならないのでしょうか?
歳を取るにつれて、色んな事が起きてきますね。
毎日毎日、生きておられるイエス様に「これはどういう事ですか?どうしたら良いですか?」と聞けるなら、内側の人は日ごとに新しくなります。
しかし、聞き従わない生活をしていれば、古い肉のままどんどん頑固になります。

しかしここで注意しなければならないのが、イエス様から自分の都合の良いことだけ聞こうとする態度です。
みことばも、自分の好きな所だけ。
都合の悪いことは聞きたくない、という態度で「この厳しいみことばは、私には関係ない」と言うなら、その人ほど、そのみことばが的を得ているのですよ。

祝福と呪い

申命記11:27〜29
11:27「祝福とは、私が今日あなたがたに命じる、あなたがたの上帝、主の命令に聞き従った場合であり」
28「のろいとは、あなたがたの上帝、主の命令に聞き従わず、私が今日あなたがたに命じる道から外れて、あなたがたの知らなかったほかの神々に従って行った場合である」
29「あなたが入って行って所有しようとしている地に、あなたの上帝、主があなたを導き入れたら、あなたはゲリジム山の上には祝福を、エバル山の上には呪いを置かなければならない」

何故ここで、ゲルジム山には祝福を、エバル山には呪いを、と言われているのでしょうか。
これは十字架の啓示です。
十字架を見て「呪いだ!」と叫ぶのは、サタンと悪霊です。
「祝福だ!」と叫ぶのは、贖われた者たちです。

イエス様に帰依する

ガラテヤ6:14〜17
14「しかし私には、私たちの主イエス・メシアの十字架以外に誇りとするものが、決してあってはなりません。この十字架につけられて、世は私に対して死に、私も世に対して死にました」
15「割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です」

日本語では「帰依する」という仏教用語の方がぴったりと来るので、私はこの言葉をよく使っています。
意味は、服従し、すがること。
刑罰も恩恵もその中に含まれます。
私たちはイエス様に帰依し、そのみわざにすがっていく、服従していくのです。
イエス様は栄光の御座におられて、「わたしの名によって求めるなら何でもしよう」と言ってくださるのです。
すごいことが起こるのですよ!?みなさん、信じているのですか?
イエス様のみこころを知ろうともしないで、何を勝手にやっているのですか。
あなたの為すことを、主にゆだねなさい!
あなたのやっていることすべてが、御心とご計画の中にあるのかどうか確かめなさい。
イエス様に対して命がけかどうか、あなたの人生が証明するのです!
生ぬるいのか、本気なのか!?
イエス様に対する愛(純愛、花嫁の愛)を、主は旧約時代から求めておられます。
そして現代の私たちにも、主は愛を求めておられます。
イエス様の愛に燃えている女性は、美しいです。
男性はダビデのようであれ!
そうでなければ、いらないのです。

文責 菅原はれみ


礼拝message 9月6日(日)

ヨハネ14:1〜14

ヨハネ14:1~10
1「あなたがたは心を騒がせてはなりません。上帝を信じ、またわたしを信じなさい」
6「イエスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです』わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません」
9「イエスは彼に言われた。『ピリポ、こんなに長い間、あなたがたと一緒にいるのに、わたしを知らないのですか。わたしを見た人は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか」
10「わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられることを、信じていないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざを行っておられるのです」

今この現実の世界、中国中心の大きな災いを見て、あなたは聖書のみことばからどんな答えと慰めを得ていますか?

エゼキエル14:21〜23
21「まことに、上帝である主はこう言われる。『人や家畜を断ち滅ぼすために、わたしが剣と飢饉と悪い獣と疫病の、四つのひどい刑罰をエルサレムに送るとき、」
22「見よ。そこに逃れの者が残っていて、息子や娘たちを連れ出し、あなたがたのところにやって来る。あなたがたは彼らの生き方と行いを見て、わたしがエルサレムにもたらしたわざわいと、わたしがそこにもたらしたことすべてについて、慰めを受ける」
23「あなたがたは、彼らの生き方と行いとを見て慰められる。このとき、あなたがたは、わたしがそこでしたすべてのことは、理由もなくしたのではないことを知る-上帝である主のことば」

全てに理由がある

全世界に対して主のなさる、災い、地震、津波・・・その全てが理由があって許されています。
まして個人の生活に起きてくる災いは、理由なくして許される訳がありません。
このことが理解できているなら、あなたには「主はいつも見守っていてくださる」という実感があるはずです。
サタンを使っての災いには必ず理由があり、それによって死ぬ人々もいます。
このような聖書観、人生観を理解して欲しいのです。
病気や災いが起きた時、自称クリスチャンはすぐこの苦しみがなくなるようにと願い、祈ります。
それでは表面的なことしか見ていないご利益宗教と同じです。
神社の無病息災のお祓いと一緒ではないですか。
クリスチャンは「何故このことが許されたのですか?」と主に聞いて、質問することができます。
この世には、その理由を教えてくれる人が誰もいません。
自分で無理やり理由付けして、自分を納得させるしかありません。
そうしないと、辛くて耐えられないからです。
聖書を通して学び、大人にならねばなりません。
「主がどのようなお方であるのか」このことを知らなくては、今起きていることを理解することはできません。
日常生活だけの「主が私のために何をしてくださるか??」ばかりの、ご利益宗教ではないのです!

ヨハネ10:30
「わたしと父とは一つです」
ヨハネ14:10
「わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられることを、信じていないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざを行っておられるのです」

三位一体はことばで説明できない

イエス様と父はお一つです。
三位一体を言葉として強調すると、おかしくなってしまいます。

殉教者レイモンド・ラル
「三位一体の三角形」


父は子ではない、子は聖霊ではない、聖霊は父ではない。
しかし父は上帝であり、子は上帝であり、聖霊は上帝です。
三位一体は、信仰によって受け取るものです。
全ては御子の栄光のために、父なるお方が御子となられ、地上に来られたのです。
それは人類のあがないのためであり、あがないを通して全被造物が主をあがめるためです。
つまり、御子を通して父が栄光をお受けになるためです。
万物は御子によって、御子のために造られたのですから。

遣わされなければ

伝道、伝道と勝手にやることが、父が喜ばれることですか?
(自分の思いで伝道することが!?)
十二弟子と弟子七十人は、悪霊を追い出す権威を与えられました。
その力の源は、イエス様のお授けになった権威です。

マルコ6:7
「また、十二人を呼び、二人ずつ遣わし始めて、彼らに汚れた霊を制する権威をお授けになった」
ルカ10:17
「さて、七十二人が喜んで帰って来て言った。『主よ。あなたの御名を用いると、悪霊どもでさえ私たちに服従します』」
ルカ10:19
「確かにわたしはあなたがたに、蛇やサソリを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けました。ですから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません」

イエス様に遣わされなければ、誰も父の栄光を現わせません。
イエス様に遣わされなければ、いったい誰が語れるのでしょうか。
イエス様のお名前に全ての統治権があり、御名の権威によって悪霊を追い出すのです。
弟子たちは「悪霊追い出しをしている者たちが、仲間じゃないのでやめさせました!」と報告しました。
しかし、イエス様は「やめさせてはならない」と言われました。
イエス様のお名前=奇跡ではありません。
奇跡は、上帝の国(御子がご支配されている国)を証するためであり、「イエス様こそメシアなのだ!」という証明です。
つまり、悪霊の追い出しも、御子が全地を支配しているのを証するためのものであり、天の父が喜ばれているという証でもあります。

父の同意なしには

しかし、キリスト教はどうですか?
マタイ7:21で言われている通りです。

マタイ7:21〜23
21「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです」
22「その日には多くの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか』」
23「しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。『わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け』」

イエス様は父の同意なしでは何も語られません。
イエス様は父が語れ、と言われたことだけを語られたのです。
これは謙遜さです。
クリスチャンは皆、この謙遜さを身に付けなければなりません。
肉の宗教心は醜いだけです。
自分の言いたいことや自分自身を伝えて自慢話をしても、イエス様の栄光にはならないし役にも立ちません。
ただの自己満足です。

いのちの木への道

ヨハネ14:6
「イエスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません』」

天のふるさとへ帰る道、いのちの木への道は、イエス様を通してしかありません。

創世記3:22〜24
22「上帝である主はこう言われた。『見よ。人はわれわれのうちのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、人がその手を伸ばして、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きることがないようにしよう』」
23「上帝である主は、人をエデンの園から追い出し、人が自分が取り出された大地を耕すようにされた」
24「こうして上帝は人を追放し、いのちの木への道を守るために、ケルビムと、輪を描いて回る炎の剣をエデンの園の東に置かれた」

人間が自分でいのちの木にたどり着けないように、主はケルビムと輪を描いて回る炎の剣をエデンの園に置かれました。
アダムとエバによって、人類は永遠の罪の中に閉じ込められました。
ここに人間は死ぬことができるのだ!という喜びがあります。
私は5歳の時「人間は、みな死んで終わるのだ」と人生に非常な虚しさを感じました。
その時から、心はずっと死人でした。
何を見ても聞いても喜びを感じない、共鳴しないのです。
心は罪のゆえに動かず、死んでいたのです。
中国共産党は貧しい者が何人死んでも興味がありません。
権力者以外はどうでも良いという、悪魔的なものにまでなり下がりました。
この人殺しを何とも思わなくなった世界は、罪の成れの果てです。
だからこそ洗礼によって死ぬことが許され、新しい人生を始められるのです!
古いものに死ねる!そして地上のものは新しくなるのです。

心の内にいのちの喜びがあるなら、その笑顔は輝いて美しいものです。
(みなさんの顔は見ないことにしましょう)
本当に、証人がいません!
イエス様は「私は道であり、真理であり、いのちである」と言われました。
「しっかりわたしと繋ぎ合わされなさい」と。
イエス様はぶどうの木です。
これによって、いのちの木への道が開かれたのです!

エペソ3:12
「私たちはこのメシアにあって、メシアに対する信仰により、確信をもって大胆に上帝に近づくことができます」

黙示録2:7
「耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。勝利を得る者には、わたしはいのちの木から食べることを許す。それは上帝のパラダイスにある」

ここにあるように、いのちの木から食べることが許される条件は「勝利を得る者」です。
何からの勝利ですか?肉からの勝利です!
あなたが生まれつきの肉の声を聞いているなら、もうすでにアウトです。
主には喜ばれません。

誰の声を聞いているのか

ロマ8:8
「肉のうちにある者は上帝を喜ばせることができません」

主の御心をなす子どもとして必死で生きた者だけが、パラダイスにあるいのちの木の実を食べることが許されるのです。
自分の肉を処理することを学ばなければ、無理です。

ロマ8:6
「肉の思いは死ですが、御霊の思いはいのちと平安です」

あなたは誰の声を聞いて生きていますか?すぐに分かります。
自分の声を聞いているなら、死しかありません。
イエス様の声を聞いているなら、いのちと平安があります。

だから、痛みや苦しみも感謝なのです。
喜びがあるからです。

イエス様を知ることが全て

ロマ8:9
「しかし、もし上帝の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉のうちにではなく、御霊のうちにいるのです。もし、メシアの御霊を持っていない人がいれば、その人はメシアのものではありません」

「クリスチャン=メシアのもの」ではありません。
聖書を読んで、悔い改めて古い自分を捨てて行かなければ、地獄しかありません。
自分の都合の悪い人に会って逃げるような人は、悔い改めていません。
あなたが悔い改めていたなら、過去に何があったとしても堂々と会えるはずです。
主は、あなたの内におられるイエス様のいのちに、聖霊と火のバプテスマを与えようとされています。
あなたに助言を与え、励まし、真理に導くためです。
真理とは、人間の精神が求めている宗教的全内容、人間精神のあらゆる願いを満たしてくれるもの、と定義されます。
つまり、イエス様ご自身を知れば何も要らないのです。
イエス様が全てを満たしてくださるお方だからです。

愛を知る

イエス様との間に祈りの交わりが始まると、おぼろげでもイエス様を見始めます。
女性には、イエス様というこの魅力的なお方をぜひ知って欲しいのです。
それは、愛を知るからです。

イエス様を知って、初めて愛を知るのです。
愛がかき立てられるのです。
イエス様は男の中の男ですよ。
男性がイエス様を見るなら、まずいな、足元にも及ばない!と分かるでしょう。
イエス様に従順に聞き従って来た者だけが、証人となれるのです。
証は自分を宣伝することではありません。
イエス様に従順な者に造り変えられているかどうかが、重要なのです。
人にどう思われるか、なんていりません。
人に嫌われたり、誤解されたりしても良いのです。
あなたが十字架を負っているなら、人はいらないのです。
イエス様が喜んで下さったら、それで良いのです!
キリスト教をやっている人は、本当にプライドが高いです。

イエス様を通してでなければ

日本人はとても宗教的ですね。
他の宗教も素晴らしいと言いますか?
その人が温雅(おんが)なら良いのですか?
(温雅:性格が穏やかで優しくしとやかなこと)
あの人は真面目で優しいから天国に行けると言いますか?
しかし聖書は何と言っていますか。

ヨハネ14:6
「イエスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません』」

日本人は、この事実を嫌がります。
イエス様を通さなければ、だれも、父のみもとに帰れない、天国には行けないのです。
日本人の宗教観はどこに行き着くのでしよう?
いずれ分かります。
自称クリスチャンは、悔い改めてイエス様を信じていない人について「あの人は救われる」と簡単に言ってしまいます。
「あなたは天国に入れるよ」と言いたいのです。
こんな甘くてルーズなクリスチャンは救われません!
「イエス様を通してしか誰も父のみもとに行けない!」と言うと、世の人にも生温いクリスチャンにも嫌われるでしょう。
しかし、このみことばを守らねばならないのです!

いのちだけが聖さの根拠

イエス様は、いのちの源です。
このいのちが聖性の根拠です。
イエス様のいのちによって、聖さがあなたのものになるのです。
新しいいのちがなければ、聖さなどありません
聖さをまとっているから、イエス様の血に覆われて初めて、天の父に罪なしと認めていただけるのです。
イエス様を着ている者だけが、天の御国に入れるのです。
自分の信仰だけをまとって来ても、無理です。
イエス様に覆われていないからです。
イエス様のいのちがなければ、天の御国には入れません。
イエス様無しの者には、絶望しかありません。

以下は交わりの時に語られた内容です

はっきりと告白しなさい

自分の罪を気付かされた時、「思いの中で告白しました。処理しました」で終わってはいけません。
必ず、あなたの口で告白しなさい!
言葉として告白して、悔い改めなさい。
口で告白して、許されるのです。
思いの中で言っていても、何度も同じことを繰り返してしまいます。
自分の中に残っている罪を見せられたならば、告白しなければならないのです。
あなたが、はっきりと口で言うことによってそれが祭壇となります。
それがストッパーになり、あなたをバックスライドさせない役目を果たしてくれます。
思いの中で、グルグル回るのが肉です!
言葉ではっきりとさせなさい。

交わりの中に自分を捧げる

イエス様は、招かれる時「わたしの所に来て死になさい」と言われます。
死ぬ=礼拝=仕える、ということです。
交わりの中に自分を捧げて行く、これが弟子です。
自分を捧げているから、弟子どうしの「芋洗い」が始まるのです。
(芋洗い:弟子どうしがぶつかり合い、肉が削がれ、愛し合うことを学んで行く過程を、太秦の宮では「芋洗い」と呼んでいます)
それを一歩引いて見ていたならば、あなたは汚いままです。
何かを指摘されたりぶつかったりした時に、「イエス様がこれをされているのだな。交わりを通して(肉が暴露され)、まわりを通して変えてもらっているのだ」と、思うのが弟子です。
自分の欠点や嫌なところを皆の前で暴露されるのは、肉には嫌でつらいことです。
しかし群れの中に自分を捧げているから、「互いに愛し合いなさい」と言われているのです。
あなたが交わりの中で引いていたら、弟子と同じ土俵にはいません。
群衆です。
「私は愛さない。でも愛して欲しい」と言っているのです。

親は子ども全てが同じように可愛い??

「3人(2人)の子どもが同じように大切だし可愛い。そうあるべき」と言いますか?それは偽善です。
聖書を読むと、弟子たちに対してイエス様は不公平じゃないのか?と思う箇所がいくつも出て来ます。
変貌山に連れて行ったのは、弟子三人だけです。
残りの弟子はどうしたのでしょう?
ヨハネに福音書の最後には、「愛された弟子、ヨハネ」とまで書いてあります。聖書はえこひいきなのでしょうか!?そうではありません。
兄弟は同じようにはなりません。
それぞれの子どもに対して、それぞれの愛し方で愛せれば良いのです。
良いところも悪いところも、それぞれでOK!と。
もともと私たちには愛はありません。
親子の愛もそうです。
イエス様の助けがないと、受け入れられません。
イエス様は人間として地上に来られました。
人間の弱さ、限界もすべて知っておられます。
そしてイエス様は、人間の特徴をそれぞれに認めておられるのです。
「この子をどのように愛すればよいのですか?愛し方を教えてください」とイエス様に聞くのです。
「みんな同じ」なんてあり得ません。無理です!
「〜すべきだ」「〜であるべき」はキリスト教です。
人間はマシーンではないのですから、すべてのことをイエス様にお聞きするのです。
イエス様は、ワンダフルカウンセラーです。
人を同じように扱うなんて不可能です。
「クリスチャンの親は、反抗期の子どもに何を言われても腹を立てるべきではない」と言いますか?それは偽善者です。
イエス様は盲目の人に対して「どうして欲しいのか?」と聞かれました。
子どもに対しても「自分が言われたら、どう思うの?」と聞くのです。自分で考えさせるのです。
自分で選び、自分で責任を取ることを学ばせるのです。
イエス様はどのように弟子たちと向き合っておられますか?
みんな違います。
ひとりひとりに対して、対応がすべて違います。
あなたの「態度」は裏表がなく、誰に対しても同じでなくてはなりません。
しかし「対応」は人それぞれ違います。

だからイエス様に聞くのです。
何故なら、同じような対応ではある人には通じないからです。
言葉が通じないなら、話しても無駄です。
だからイエス様にどう言えば良いか聞くのです。
翻訳が必要なのです。
相手が分かるように伝えなければ、意味がありません。
子どもに対しては子どもに対するように。
ユダヤ人にはユダヤ人のような対応が必要です。
毎日がイエス様に聞く訓練です。

笑いを悲しみに、喜びを憂いに

(注:以下は、笑いを悲しみに、とはどういう意味ですか、という質問に対してです)

ヤコブ4:8~9
8「上帝に近づきなさい。そうすれば、上帝はあなたがたに近づいてくださいます。罪人たち、手をきよめなさい。二心の者たち、心を清めなさい」
9「嘆きなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい」

ヤコブの生きたこの時代でさえ、すでに喜んでいるふりをしているクリスチャンが多かったのです。
だからヤコブはここで、二心の者よ!と警告しているのです。
見せかけの演技(喜んでいるふり)をしている者に、見せかけをやめなさい!と叫んだのです。
偽善や見せかけを煽っているのは、悪霊です。
つまり、腹の中と口が違う者への警告です。
ユダヤ人は日本人に近いですね。
彼らの感性は、ヨーロッパ人とは違います。

報いと信仰は違う

マタイ10:42
「まことに、あなたがたに言います。わたしの弟子だからということで、この小さい者たちの一人に一杯の冷たい水でも飲ませる人は、決して報いを失うことがありません」

ここでイエス様は、小さい弟子(幼くても本物の信仰がある弟子)にしたのは、わたしにしたのです、と言われました。
イエス様が、その人に報いてくださるのです。
しかし、これは「救い」ではありません。
良きサマリヤ人に対しても報いは与えられます。
しかし「救われた」とは書いてありません。
イエス様を通さなければ、だれも父のみもとへは行けないのです。

ここからは、わたしの考えとして聞いてくださったら良いのですが、
地獄にも、軽い地獄と重い地獄があります。
ずっと叫び苦しんでいる地獄と、たまに水と休みがもらえる地獄です。
(しかし両方、恐ろしい地獄は地獄です)
軽い地獄からは天が見えるので、そこで歯がみして悔しがるのです。
何故チャンスがあったのに、狭い道を通らなかったのか!と。
ヘブル書にあるように、裁きの中に救いがあるのです。
恐ろしい裁きを通して引き出されて来る聖い者を見て、『主は正しい!』という慰めが与えられるのです。
裁きがあることが慰めです。
「復讐をするな。お前は敵に善を行え。わたしが敵に報いをする」と言ってくださるのです。
だから、私たちは人を心で裁いてはいけません。
これは自分を捨てていない、十字架を負っていない姿です。
人間の善悪では駄目なのです。
私たちには分からないことが多いので、ジャッジできないのです。
イエス様に聞き従うことが重要です。

文責 菅原はれみ