耶蘇上帝會 太秦之宮

京都・太秦を拠点とする日本のキリスト教会です

礼拝message

礼拝message 11月11日(水)

ヨハネ13 章

ヨハネ13:14,15
14「主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません」
15「わたしがあながたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、あなたがたに模範を示したのです」

ひとりひとりが聖書を読み、イエス様を先生として従って行く中で、聖書や、聖書の中の人物に対する考え方が変わって行きます。
日々、新しいことを教えられ、訓練されていかなければ非常にまずいのです。

葡萄の木の譬えのように、常にイエス様という木から樹液が流れて行かなければ、枯れてしまうだけです。
敵は、イエス様とあなたとの関係を切り離し、イエス様の命を消してしまおうと、隙あらばと狙っています。
あなたの生まれつきの性質に足場を築き、コントロールしようとしています。
イエス様の命がなく、死んだ者に対しては、敵はやりたい放題でコントロールします。

今、イエス様の弟子となる決心をしたならば、互いに愛し合えという命令を、家族として守れる者に変えられて行かなければなりません。
アガペーの愛は、最初から守れないからです。
それに対抗するのがヒューマニズムの愛です。
仲良くしよう、と博愛主義をかざします。

世を愛してはならない

ヨハネ13:2の悪霊が持ってきた「イエス様を裏切ろうとする思い」を、ユダは心に入れさせてしまいました。
イエス様がユダを招かれた時、彼にも主の栄光を現すための弟子としての人生があリました。
ユダは、お金の扱いにも慣れていたし、有能だったからこそ、任せられていたのです。
敵は、いつもそこを狙っています。
だから、上帝と富の両方には仕えられないと書いてあるのです。

Iヨハネ2:15〜17
15「あなたは世も世にあるものも、愛してはいけません。もしだれかが世を愛しているなら、その人のうちに御父の愛はありません」 
16「すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢は、御父から出るものではなく、世から出るものだからです」
17「世と、世の欲は過ぎ去ります。しかし、上帝のみこころを行う者は永遠に生き続けます」

悪しき者は、世に関心を向けさせます。
「こうやったら儲かるよ」という風に。
ユダが言ったことと同じです。
「この香油なら高く売れたのに・・・!」と。

マルコ8:31〜38
33「しかし、イエスは振り向いて弟子たちを見ながら、ペテロを叱って言われた。『下がれ、サタン。あなたは上帝のことを思わないで、人のことを思っている』」
34「それから、群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた。『だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」

ペテロはイエス様を愛していました。
でもそれはヒューマニズムの愛でした。
イエス様に従う時に、邪魔をするのはあなたの身内です。
あなたを愛してくれる人が、信仰を妨げる一番の敵となります。

心の中から悪が

救いには二つの種類があります。
一つ目はこの地上で、幸せになる、
「病気や貧しさから救われた」という地上だけの救い。
この世の人生を大切に過ごそうとする生き方です。
しかし、この世を愛するならば、上帝を敵とします。

二つ目は、イエス様と御国のために命を失う、弟子としての救い。
永遠の命を得る救いです。

マルコ7:18〜23
20「イエスはまた言われた。『人から出て来るもの、それが人を汚すのです」
21「内側から、すなわち人の心の中から、悪い考えが出て来ます。淫らな行い、盗み、殺人」
22「姦淫、貪欲、悪行、欺き、好色、ねたみ、ののしり、高慢、愚かさで」
23「これらの悪は、みな内側から出て来て、人を汚すのです」

ここにある汚いものは、人間ならみんな同じく持っています。
人それぞれの性格によって特徴があるので、違う種類のものを出しているだけです。
肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢は、この世からの支配です。
肉の五感を刺激し、誘惑します。
内側の生まれつきの性質に悪霊が足場を築き、内側からあなたをコントロールしようとします。
上帝の御心を行う者が弟子です。
キリスト教は、自分のやりたいことをやっているだけです。
主のしもべは自分が何かをしたいからではなく、主からやれと言われたことを行い、祈れと言われたことを、祈るのです。

何のために無駄をするのか

マタイ26:1〜9
7「ある女の人が、非常に高価な香油の入った小さな壺を持って、みもとにやって来た。そして、食卓に着いておられたイエスの頭に香油を注いだ」
8「弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。『何のために、こんな無駄なことをするのか」
9「この香油なら高く売れて、貧しい人たちに施しができたのに』」

ユダのことを考えましょう。
ユダは、貧しくない生活を送っていたのだと思われます。
お金を扱っていたからこそ、マネージメントが上手だったのです。
貧乏なら運用できるお金もありませんよね。
ユダはそうではありませんでした。
では、今まで自由に運用できた資産がなくなれば、人はどう思うでしょうか?
ユダだからこそ、香油の香りを嗅いだ時、これはものすごく高価な香油だと気づいたのです。
他の弟子には、その値打ちは分からなかったでしょう。
だからユダが真っ先にこの女性を責めたと、私は思っています。
ここで、悪霊の本音が聞こえます。
「イエス様のために何かをするなんて、無駄だよ!そんな高価のものをイエス様に捧げるなんて、もったいないよ!」と。
悪霊は、あなたにも「何のためにこんな無駄なことをするのか。意味ないよ。そこまでイエス様のためにするか!?」と囁いて来ます。

みなさん、洗礼を受ける時に、「自分を捨て、十字架を負ってイエス様に着いて行く」と決心をしましたか?
そんなことは、していないのです。
だから、後付けしかできません。
繰り返し、みことばを読むしかありません。
福音書は四つあるでしょう。
みなさんを悪しき者から守るためです。
福音書には、四つの顔があります。
人、鷲、獅子、牛です。

敵によって輝くみことばが違うのです。
だからこの四つの面から福音書が書かれているのです。
敵があなたを攻撃する時、福音書のどこが当てはまるのか。
みことばは、イエス様を指差します。

イエス様は、全てを知っておられた上で、敵であるユダの足まで洗われました。最後まで、ユダに悔い改めのチャンスを与えられたのです。

イエス様に倣う生き方

マタイ11:28,29
28「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」
29「わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます」

上帝の願いは、イエス様の人としての歩みに、私たちが倣うことです。
あなたがイエス様に似ていかないなら、何かが欠けています。
地上の生涯を終えるまで、弟子は砕かれ訓練を受けます。
弟子は、砕かれる中でこそ、守られています。
もし苦しみから逃げるなら、無防備になり、危なくなります。
隙だらけだからです。
イエス様に愛されているなら、鞭打たれます。
その時にこそ、イエス様の愛が注がれます。
それは人として最高の場所です。

天の父の訓練は、あなたを行きたくない場所に連れて行きます。
くびきは、イエス様に従う契約だからです。
あなたがその訓練を拒絶し、嫌だと言うなら、その訓練は終わります。
そうなると、あなたは未完のまま年をとり、ミイラ化します。
砕かれて悔いていない人は、かたくなで、とっつきにくい人になります。

訓練の中での喜び

IIコリント7:10
「上帝のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします」

誰も完成された人はいません。
主は、いろんな機会を通して「それはダメなのだよ」と教えてくださいます。
苦しくて、嫌だと思うこともすべて、主がご配慮してくださっています。
自分の反応を見て「愛がないな」と足りなさを教えられ、「忍耐がないな」と自分の心の中から出て来る汚いものを見せられます。
イエス様が光で照らしてくださるのです。
辛い訓練の中でこそ、主の愛が注がれ、どれほど愛してくださっているのかを知る時なのです。

ロマ5:3~5
3「それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し」
4「忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです」
5「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、上帝の愛が私たちの心に注がれているからです」

イエス様は、性格の悪い人を訓練し、変えて行かれます。
すべてが主の許されたことだから、私たちは感謝するのです。
何故、右の頬を打たれたら、左の頬を出せと言われているのですか。
イエス様は、鞭打たれる時、決して避けられませんでした。
唾をかけられても、絶対によけなかったのです。
人間は、嫌なものから本能的に逃げます。
しかしイエス様は逃げられませんでした。
新しく生まれ変わった弟子は、苦難を喜んでいます。
それは、上帝の愛を味わえるチャンスだからです。
苦しみと痛みの中でこそ、心にはっきりとイエス様と天の父の愛を実感できます。
練られた品性は、世の人が失っているものです。
苦難と言う訓練を通して砕かれた悔いた心にならないなら、生まれつきの自分がイエス様の命の光をブロックします。
頑固さや、この世の欲、暮らし向きの自慢を握っていると、内側のイエス様の命が窒息死してしまいます。
キリスト教は、悪知恵を教え、逃げる方法を学ばせます。
だから何年経っても変わらないのです。
自己愛が、自分をガッチリと守っているからです。

イエス様の香り

自分を捧げるのは、「主のみこころがなりますように!」と言う意思表示です。主に自分を捧げるのが礼拝です。
そうしないなら、礼拝にもなっていません。
「天の父が願っておられるように、私の人生になりますように」という願いが、そのまま皇民の祈りです。
あなたが、自分を捧げていないから、何もないのです。
イエス様の香りがしないのです。

あなたの内側の自分を汚すものを、主に取り扱っていただかなければなりません。
クリスチャンのふりをしても無駄です。
イエス様の命が、あなたの香りだからです。
それを求めて、みんなが集まって来るのです。
そのイエス様の香りを嗅いで、自殺を思いとどまる人がいます。
まるでアロマセラピーのように、イエス様の香りで家庭が、周りの人が癒されます。
「あの人がいてほしい」「あの人がいると慰めがある」と、周りの人に愛されるようになります。
それが、イエス様の存在です。
だから、イエス様のような人物に変えられることが、本当に重要なのです。

イエス様がパンを渡された後すぐ、サタンがユダに入りました。
それまでは、ユダにも悔い改めのチャンスがあったのです。
サタンが入ったら、その人はコントロールされます。
本人が、本当に解放されたいと願わない限り、サタンは出て行きません。
本人が肉の汚さ、嫌らしさを楽しんでいるからです。

どうか、みなさんイエス様の香りが漂うような人になってください。
「私の主はどこですか!?」と叫んだマグダラのマリヤのように、イエス様を愛する人となってください。
それができないなら、太秦之宮など要りません。

以下の内容は、交わりの時に話されたものです。

葛藤するのは、大切なことです。
肉は光を嫌います。
自分を晒したくないし、見られたくないのです。
交わりの中で、弱さを兄弟姉妹に知られることは、肉には辛いことです。
しかし、もうはっきりしなければなりません。
いつまでも闇の中にいるのか、一歩踏み出して光の中に出るのか。
苦しみは、踏み出す力を蓄えます。
だから、苦しんだことは良かった、というみことばが事実となるのです。

賛美をしている時、見ていたらみなさんの心はわかります。
賛美をつまらないと思っているのか、自分だけ目立ちたいと思っているのか。
イエス様は見ておられるし、全てを知っておられます。
礼拝の賛美で力を尽くさないなら、あなたは一体どこで力を尽くすのですか。
力を尽くすなど、そんなこと普段ほとんどないでしょう?
私は賛美の後は、力を使い果たし、上から力をいただかないと、メッセージもできません。
賛美の捧げものが適当であるなら、あなたは退けられます。

イエス様との関係は、デリケートです。
あなたがイエス様の近くにいるなら、離れて行かれた時に気付くでしょう。
しかし、イエス様との距離が遠すぎるので、あなたは気付かないだけです。
キリスト教をやると、冷たいです。
そのような人生は本当に面白くありません。
イエス様を愛していたら、その距離感を敏感に感じるようになるでしょう。
あなたは、イエス様の十字架に、申し訳ないと泣いたことがありますか?
イエス様の十字架の愛に感動して泣いたことがありますか?
それがないなら、どうしようもありません。
アガペーの愛に感動するのが、礼拝の源泉です。
イエス様に燃えているなら、あなたのどんな凸凹も取り扱っていただけます。
使徒たちは、イエス様に惚れ込んでいる、その愛に燃えていたのです。

文責 菅原はれみ

礼拝message 11月8日(日)

(長岡京市・光明寺)

ルカ14:25〜35,15:11〜24

イエス様に従う生活

アメリカの大統領選挙なども含め、世界は今、動いています。
みなさんは、この世界の動きをどのように見ていますか。
天地を造られたお方、イエス様の許しの中で、すべてのことが起こっています。
それぞれ一人一人の信仰で主なるイエス様を知り、イエス様ご自身から教えられ、イエス様があなたの前を歩まれるその足跡を、ついて行く人生を歩んでいますか。
それが聖書の求める生活です。
みなさんにそのような人生を全うして欲しい、と切に願っています。
シュペーナーが唱えたように、太秦の群れの目標は「みことばの体験と実践」です。
イエス様に聞き従うのが目標であり、それを日常生活でできる人が、証しできる人です。
ご聖霊が聖書から啓示してくださるイエス様を知り、御霊の実を結び、先生であるイエス様の足跡に従う生活ができないならば、あなたはただのキリスト教という宗教をしている人です。

宗教的な信条は、何を信じているかを文章に著したもので、それに命はありません。
命がなければ、信条は意味がありません。
イエス様ご自身から命を吹き込まれ、実際にその命を生きているのが、太秦の群れであって欲しいのです。
命があっても子どもの時は「うちのパパはこんな人」という風に天の父を知っているでしょう。
成長して大人になれば、「父はこういう人物です」と、天の父を大人として知るようになります。
このように、内なる人が成長して行かねばなりません。
しかし、命を持っていても、子どものままの人が大勢いるのです。

放蕩息子の例えは、クリスチャンの話です。
元々、父のところにいたからです。
しかも、父の相続財産があると知っている子どもです。
天の相続財産は、上帝の子どもの特権です。
しかし、多くのクリスチャンは、放蕩していながら、そのことに気づいていません。
イエス様のお名前によって、恵みだけはもらいますが、天の父の願う道を歩まず、自分勝手な信仰生活をしているのです。

主が必ず祝福される

私は、お金の話は嫌いです。
牧師、宣教師の中にあるお金に対する汚いものを散々見てきました。
私は、謝儀は要りません。
イエス様の福音とお金は結び合わないからです。
弟子の祝福として、お金は後でついてきます。

申命記15:1〜11
15:4 「もっとも、あなたの上帝、主が相続地としてあなたに与えて所有させようとしておられる地で、主が必ずあなたを祝福されるので、あなたのうちには貧しい人がいなくなるであろう」

イエス様に従う生活を実践するなら、必ず祝福されます。
主に全てを捧げた時、主は何倍にもして祝福しようと待っておられます
聖書を読んでいれば分かることです。
イエス様のことを本当に知っている人ならば、全てを捨てることができます。

私は、小さい会社を経営していたことがあるのですが、預貯金がゼロの時が、度々ありました。
お客さんにはなかなか支払ってもらえないし、下請けさんに費用を支払ったら、何も残りませんでした。
しかし、主は生かしてくださるのです。
当時、本当に良いお客さんもいました。
今では日本的な経営の良さ、家族的なものは、戦後教育と自虐史観から骨抜きにされ、破壊されてしまいましたね。

申命記15:5,6
5「ただしそれは、もしあなたが、あなたの上帝、主の御声に確かに聞き従い、私が今日あなたに命じるこの全ての命令を守り行なったなら、である」
6「あなたの上帝、主はあなたに約束したようにあなたを祝福されるから、あなたは多くの国々に貸すが、あなたが借りることはない。また、あなたは多くの国々を支配するが、彼らがあなたを支配することはない」

主は、ご自分の民を、一つの民族として見ておられます。
それぞれの個人的な信仰も、旧約と同じです。
旧約聖書の根底にある精神が、そのままイエス様の教えの中にあるのです。
旧約と新約は同じものです。
切り離せるものではありません。

天の国籍

イザヤ43:21
「わたしのためにわたしが形造ったこの民は、わたしの栄誉を宣べ伝える」

出エジプト19:4〜6
4「『あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを見た」
5「今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから」
6「あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる』これが、イスラエルの子らにあなたが語るべき言葉である」

旧約では、イスラエル民族は選びの民でした。
王の祭司、つまり万人祭司です。
これは、そのまま新約の契約となります。
そして旧約で約束された「宝の民」は、新約ではさらに恵みが増し、「天の父の子ども」とされました。
この凄さが分かりますか。「天の父の子ども」なのですよ。
これ以上に強い絆はありません。
天の父が、子どもたちにどれほど目を注ぎ、見守り、大切にされているか。
「宝の民」と「子ども」の違いを考えてみてください。

世の終わりには、クリスチャンの愛が冷えます。
ましてこの世はどれほど冷たくなるでしょうか。

ルカの福音書は、異邦人のための福音書です。
異邦人は、お金、世にあるものにしがみついています。
そのためにルカの福音書が書かれたのです。
異邦人にとっては、自分たちの国がこの先どうなるのか、大問題でした。
しかし、イエス様の弟子にとって、地上での生きる目標は、天の故郷に帰ることです。
天の父の子どもだから、天国に国籍を持つのです。
ここで、あなたがどこで生まれたかが、非常に重要です。
天で生まれたから、天で国籍を持つのです。
上から生まれなければ、天の国籍はありません。

放蕩息子は、遠い国に旅立ちました。
親の影響力があるところ、つまり親の支配権が及ぶところは嫌だったのです。
親の権威と束縛に生まれつきの肉は、「うるさいな、俺の自由にさせろ。好き勝手やりたい!」と思うものです。
しかし、彼は全ての財産を使い果たし、飢え、「豚の餌でも食べたい」と思った時に、正気に戻りました。
雇い主が近くにいたから、豚の餌すら食べられなかったのです。
そのことがさらに彼のひもじさを増したのでしょう。
「自分はなんと、貧しく惨めなのだろう」と、自分の現状に気づいたのです。
同じように、多くのクリスチャンも、信仰があるはずなのに、なぜそんなに暗くて惨めで、先が見えないような顔をしているのでしょうか。

自分を捨てなければ

ルカ14:25〜27
25「さて、大勢の群衆がイエスと一緒に歩いていたが、イエスは振り向いて彼らに言われた」
26「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分のいのちまでも憎まないなら、わたしの弟子になることはできません」
27「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません」
33「そういうわけで、自分の財産すべてを捨てなければ、あなたがたはだれも、わたしの弟子になることはできません」

自分の命まで憎まないなら、つまり捨てないなら、弟子にはなれません。
しかし、多くのクリスチャンが、自分を捨てないで洗礼を受けています。
そのような人の生き方は「十字架って何のこと?自分を愛さなきゃ。隣人はどうでも良いの。大切なのは自分だけ」と自己愛の塊のようです。
財産もそうです。
イエス様のことより、財産が気になり「こうしたらもっと増える。ああした方が利子がつく」と関心が財産に行ってしまいます。
財産全てを捨てなくては、誰もイエス様の弟子にはなれません。
捨てることは、それから自由になることです。
お金があっても救われません。
地上のものは、地上で終わります。
そして、あなたが今手にしているものは、全部主のものです。
あなたは、ただ主が気が向いて、造られただけなのですよ。
別にいなくても良かったのです。
主が、色々なタイプの人間を造ってみようと思われ、あなたが造られたのです。

天の父の家族

もともと天の父は、アダムとエバを、家族をイメージして造られました。

エペソ3:14〜19
14「こういうわけで、私は膝をかがめて」
15「天と地にあるすべての家族の、『家族』という呼び名の元である御父の前に祈ります」
16「どうか御父が、その栄光の豊さにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように」

何故イエス様を、長子と呼ぶのですか。
それは、家族だからです。
天の父が、全人類を造られた時のイメージは家族なのです。
放蕩息子は、家族の絆が面倒くさかったのです。
自由気ままに勝手にやりたかったのです。

ルカ15:17
「しかし、彼は我に返って言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が、なんと大勢いることか。それなのに、私はここで飢え死にしようとしている」

彼は、落ちぶれ我に返った時、父のもとにはパンのあり余った使用人がいるのを思い出しました。
これはイエス様のことです。
イエス様のもとにこそ、豊かさがあります。
放蕩息子は、財産を使い果たし、自分で父と子の絆を捨てたのですから、もう子と呼ばれる資格がないのを分かっていました。

ルカ15:18,19
18「立って、父のところに行こう。そしてこう言おう。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です」
19「もう、息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください』」

彼は気づいたのです。
「わたしは罪を犯しました!」と。
自称クリスチャンは、好き勝手なことをやり、死んでいる人です。
自分で、命を捨てたのです。

ルカ15:22〜24
24「『この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから』こうして彼らは祝宴を始めた」」

だからここで、「死んでいたのに生き返り」と言っているのです。
多くのクリスチャンは「勝手気ままに生きても、救われる」と思っています。
しかし、好き勝手にしているなら、すでに死んでいます。
天の父とは縁が切れてしまい、悪霊にコントロールされています。

みことばを守るならば

エペソ2:1〜3
1「さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり」
2「かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました」
3「私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした」

あなたが、「神様」と呼ぶなら、聞こえるのはイエス様の声ではありません。
聞いているのは自分の声、自分の思いつきであり、また悪霊がしるしと奇跡を見せてコントロールします。
あなたが、正しい霊に導かれているなら、イエス様の弟子です。

ヨハネ8:31〜47
31「イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。『あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当に私の弟子です」
37「わたしは、あなたがたがアブラハムの子孫であることを知っています。しかし、あなたがたはわたしを殺そうとしています。わたしのことばが、あなたがたのうちに入っていないからです」

イエス様は、ご自分を信じたユダヤ人たちのこのことを話されました。
ユダヤ人たちは「イエス様の言うことは、きついな。面白くない」とだんだん腹を立ててきました。
だからイエス様は「わたしの言葉にとどまるなら」つまり、「みことばを守るなら、本物の弟子です」と言われたのです。
イエス様の命があなたの心になければ、イエス様を殺そうとします。
それはイエス様に背を向けて「イエス様は要らない。勝手にする」という態度です。

ヨハネ8:42〜44
42「イエスは言われた。『上帝があなたがたの父であるなら、あなたがたはわたしを愛するはずです。わたしは上帝のもとから来て、ここにいるからです。わたしは自分で来たのではなく、上帝がわたしを遣わされたのです」
43「あなたがたは、なぜわたしの話が分からないのですか。それは、わたしのことばに聞き従うことができないからです」
44「あなたがたは、悪魔である父から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと思っています。悪魔は初めから人殺しで、真理に立っていません。彼のうちには真理がないからです。悪魔は、偽りを言うとき、自分の本性から話します。なぜなら彼は偽り者、また偽りの父だからです」

「私はイエス様に、聞き従えない」と言いますか。
いいえ、「聞き従いたくない」のです。
イエス様のみことばは厳しいのです!
中途半端はありません。
あなたが、「イエス様に聞き従えない」と言うなら、父と子の関係は切れています。
放蕩息子はそれを分かっていました。
イエス様から命をもらっていたなら、心の内側でブレーキがかかります。
「それをやるのか?それを言うのか?」と。
上からの命があるなら、たとえその命がまだ赤ちゃんであっても『嫌!』と言います。
好き勝手やっていて、何も感じない人は、命がありません。
命に至る悔い改め、つまりイエス様ご自身に直結できる悔い改めをしなければ、何も変わりません。
イエス様は、見ておられるし、聞いておられます。
あなたの悔い改めを、真実だとイエス様が認めてくだされば、イエス様があなたの前におられ、新しい命を確かにしてくださいます。
そして、喜びと平安が、プレゼントとして与えられます。

天の家族の中の平安

Iヨハネ3:14
「私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛さない者は死のうちにとどまっています」

天の父は家族を作ろうとされました。天の御国です。
民族は関係ありません。
家族は愛し合うのが、当たり前です。
家族の中に、子どもとして生まれるのですから。
群れの中で、生まれ変わった者たちが、兄弟姉妹として愛し合うのです。
これは、天の父の命令です。
兄弟姉妹を愛さない者は、死んでいます。
生まれていないから、何も変わりません。

ヨハネ16:7〜11
7「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします」

このご聖霊の働きが、放蕩息子を我に返らせたのです。
父のもとに帰ろう、と。
クリスチャンに家族意識がないなら、ただのカルト集団になります。
家族は、役割は違うけれど、イエス様のみからだとして一致しています。
この一致こそが、人間のホッとできる場所なのです。
家族が、集まって互いに思い遣っている、祈りあっている。
当たり前のことであり、落ち着ける場所です。

だからイエス様に感謝を捧げるのです。
家族を嫌い、受け入れない人は、天国に入れません。
苦手な人がいても、感謝して受け入れて行く、その中でアガペーの愛がどのようなものか分かってくるのです。
このアガペーの愛こそが、暖かさと安らぎを与え、世の人が切に求めているものです。
この世は悪しき者が支配しています。
しかし、信仰の家族の中にあるアガペーの愛、そこには主が共におられるので、平安があるのです。
この平安は、イエス様からしか出てきません。
主が、命令されていることを、現実にやらなければなりません。
一人一人が個人的に、その心構えで行動してくれなければ、太秦之宮は要りません。

以下の内容は、交わりの時に話されたものです。

信仰の家族となりたければ、自分を捨てなければなりません。
傍観者であるなら、無理です。
自分を捨てて提供するのが、信仰の家族だからです。
自分を捧げるのが、礼拝です。
天の父に、イエス様に、自分を捧げているのと同じように、信仰の家族にも自分を捧げるのです。
群れの中で、家族になりきれていない人は、あなたの心に土足で踏み込み、あなたを傷つけることもあります。
でも、自分は十字架につけたのですから、その人を受け入れるのが弟子です。
日本人は、一歩引いて見ているのが得意です。
しかしこれだと家族にはなれません。
「自分を捧げる」というあなたの意思が必要です。
家族だからこそ、お互いの間で心を開き、安心して話せるのです。
失敗を分かち合う交わりの中で、世から受けた傷が癒されていきます。
それが出来なかったら、太秦之宮は失敗です。

文責 菅原はれみ

礼拝message 11月4日(水)

マルコ13章

世の終わりに直面した時代

マルコ13:1~37
2「すると、イエスは彼に言われた。『この大きな建物を見ているのですか。ここで、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません』」
8「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、あちこちで地震ががあり、飢饉も起こるからです。これらのことは産みの苦しみの始まりです」
22「偽キリストたち、偽預言者たちが現れて、できれば選ばれた者たちを惑わそうと、しるしや不思議を行います」
33「気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたは知らないからです」

イエス様が、弟子たちと地上を歩まれた時、それは70年のエルサレム崩壊を控える緊迫した終わりの時でした。
同じように、今現代の私たちも、世の滅びに直面した時を生きています。
イエス様は、二つの時代を二重写しにして、この言葉を語られました。
しかし、私たちが自分勝手な想像で、ひとつひとつの出来事を当てはめてはいけません。
何故なら、偽預言者が多く現れ、不思議を行い、惑わす時代だからです。
ぼけっとしていて、「自分は大丈夫」と思っている人が一番危ないのですよ。
そういう人は、もうすでに騙されているからです。
自惚れてしまい、自分の本当の姿が見えないのです。

それと反対の人は、イエス様のくびきを負っている人です。

イエス様のくびきを負う

マタイ11:28〜30
28「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」
29「わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます」
30「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」

イエス様は大工でしたから、牛のために木のくびきを作られました。
イエス様が作られたくびきは、牛にとって本当に痛みが少なかったと言われています。
イエス様は「わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい」と、今この世に現実に生きているクリスチャンの私たちに、リアリティーを持って言われています。
私が心配しているのは、現代の牧師、宣教師にこのくびきが見えないことです。
くびきを負わなければ、何も学ぶことができません。
あなたがイエス様のくびきを負って、はじめて学びが始まるのです。
みことばを体験しないなら、何も理解することができません。

くびきとは、洗礼の時に「みことばを守ります」という約束を決心することです。(神学校に行ったとか、そんなものは関係ありません)
これは犬の鑑札と同じです。
犬が首に鑑札をつけていたら、誰が所有者か分かるでしょう?
鑑札を見分けるのは、み使いです。
くびきを負っているなら、「イエス様の所有物」と彼らには分かるのです。

生まれつきのままでくびきがない人は、イエス様から学べていない人です。
生まれつきのままか、くびきを負っているかは、後の歩みで分かってしまいます。隠せません。
くびきを負っていない人は、イエス様のお気持ちが分かりません。
人が、人を理解するのと同じです。
イエス様とひとつになっていれば、イエス様の思いが分かります。

イエス様のくびきを負って、日々イエス様に教えられる生活をしているならば、たましいの安息を得ます。
羊飼いが見守ってくださっているという安心感です。
このイエス様が共にいてくださるという実感が、安らぎなのです。
イエス様の荷は軽く、くびきは負いやすいものです。
しかし、最初はその荷も重く感じます。
何故なら、人生の中で重荷もくびきも負ったことがない生活を送って来たからです。
肉は「私は私の自由でいたい」と思っています。
イエス様の命令を守ると約束したならば、苦しい!と悲鳴が上がります。
主はあなたをテストされ、試練をくださいます。
「えっ、クリスチャンになるとこんなにしんどいの?」と最初は思うでしょう。
弟子は窮屈で自由がない、と。
悪霊は「聖霊のバプテスマを受けたのだから、あなたの願う通り好きにやれば良い。これがビジョンだ!」と肉の心地よいままに動けと囁きます。
しかし、あなたがイエス様のくびきを負うことを学び続けるならば、イエス様のくびきは負いやすく、荷は軽いことが分かってきます。
「私は、私自身のものではない」ということを確認してください。

旧約時代は、割礼は男性に限られていました。
しかし新約時代は、心の割礼です。男も女もありません。
主は、心を見ようとなさっています。

(男も女もないという意味を誤解しないでください。太秦の群れは、LGBTは認めません。聖書をよく読むならば、これは病気ではないことが分かります。LGBTは罪の結果です)

心を調べられる主

Iテサロニケ2:4
「むしろ私たちは、上帝に認められて福音を委ねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせるのではなく、私たちの心をお調べになる上帝に喜んでいただこうとして、語っているのです」

主は、心をお調べびなります。
みことばであなたの心をチェックしてください。
あなたはみことばに従っていますか。
あなたが、みことばに従って生きているかどうかは実を見れば分かります。
あなたの生き方、言葉、態度を見ていればすぐ分かります。

太秦の群れも、十年一緒にいてお互いのことがよく分かってきました。
性格もだいたい分かりますね。
弟子は「互いに愛し合え」と命令されています。
それなのに、人に関心を持たないなどあり得ません。
それは命令違反です。
皇民の群れは、お互いに関心を持ち、自分と違っても兄弟姉妹として、お互いに受け入れていくのです。
夫婦もそうですね。
アダムがエバを知ったと書いてあるように、愛し合うのが前提として、お互いがどのような人か知り、理解して受け入れて行かねばなりません。
エロスではありません。
ですから、福音書をよく読んで、イエス様のみことばから学んでください。

サウル王はどうでしたか。くびきを負わないと、主を悔ませてしまうことになります。

全て聖絶しなさい

Iサムエル15:1〜11
3「今、行ってアマレクを討ち、そのすべてのものを聖絶しなさい。容赦してはならない。男も女も、幼子も乳飲み子も、牛も羊も、らくだもろばも殺しなさい」
9「サウルとその兵たちは、アガグと、肥えた羊や牛の最も良いもの、子羊とすべての最も良いものを惜しんで、これらを聖絶しようとしなかった。ただ、つまらない値打ちのないものだけを聖絶したのである」
10「主のことばがサムエルに臨んだ」
11「『わたしはサウルを王に任じたことを悔やむ。彼はわたしに背を向け、わたしのことばを守らなかったからだ』それでサムエルは怒り、夜通し主に向かって叫んだ」

ヒューマニズム的に考えたら、サウル王は特に悪くありません。
サウル王は「素晴らしい良いものは残しました!主にお捧げするつもりです」と言ったのです。
しかし、主の命令は「全て聖絶せよ」でした。
良いものを惜しんで、つまらないものだけを聖絶したのです。
現代風に言えば「もったいない。損だよ。そんなの常識外れ!」でしょうか。
しかし、主の命令は絶対です。
旧約をよく読んで学んでいないと、イエス様が新約で言われていることが正しく理解できません。
感謝も賛美も、すべてが自己中心になってしまいます。

聞き従うことは、生けにえにまさる

Iサムエル15:22,23
22「サムエルは言った。『主は、全焼の捧げ物やいけにえを、主の御声に聞き従うことほどに 喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる」
23「従わないことは占いの罪、高慢は偶像礼拝の悪。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた」

サウル王は、主から退けられます。
これは、クリスチャンにも同じく起こることです。
今、カルトがたくさん世に出てきています。
主なるお方がどのようなお方か、知らないと惑わされてしまいます。
主に従うということは、あなたが真剣でなければできません。
それを適当にしていると、とんでもない罪になり、主から切り捨てられます。

マタイ7:21
「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです」

「わたしから学びなさい」と言われる内容は、御霊の実のことです。
イエス様の品性です。
天の父は、あなたを聖いものにしようと訓練し、イエス様に似た上帝の子どもとなることを願っておられます。

しかし、あなたの側でみことばの基準、ハードルを下げてしまうなら、それは自殺行為です。
教会に何年通っても、何も変わりません。
悪霊が聖書を読ませないように、聖書を理解できないようにしているのです。
みことばを否定したら、終わりです。
サウル王は退けられ、代わりにダビデが立てられました。
主は、歴史を通して現実を教えておられます。
イスラエルの民の歴史を見てください。クリスチャンが同じ失敗をしないようにと、聖書に書かれているのですから。

あなた自身を主に捧げなさい

Iコリント10:5,6
5「しかし、彼らの大部分は上帝のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされました」
6「これらのことは、私たちを戒める実例として起こったのです。彼らが貪ったように、私たちが悪を貪ることのないようにするためです」

新約において、サウル王と同じ失敗をしたのは、アナニヤとサッピラです。
彼らは良いことをしました。
土地を売った代金の一部を残しておき、弟子たちのもとに持ってきました。
しかし、彼らは主を欺いたのです。
お金を全部捧げなかったからではありません。
「全部ではありません」と正直に言えば良かったのです。
彼らは「人にどう思われるか」というプライドを選んだのです。

主は「あなた自身を捧げよ」と言われたのですから、やらねばなりません。
一部を残しておくなどしてはならないことです。
主に聞き従うことが、いかに重要か。
聞き従わない者の上には、主の怒りがとどまります。

イザヤ59:1〜3
1「見よ。主の手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて聞こえないのではない」
2「むしろ、あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの上帝との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ」
3「実に、あなたがたの手は血で、指は咎で汚れている。あなたがたの唇は偽りを語り、舌は不正を告げる」

このみことばの通りです。
キリスト教は、立派なお祈りをします。
しかし、イエス様は「嘘つき。真実がない」と言われるでしょう。
この嘘偽りが、仕切りとなって、イエス様の所に行けなくさせるのです。
あなたの罪と咎が、イエス様との壁となるのです。
イエス様が祈りを聞いてくださらないのは、あなた自身の罪のせいです。
人のせいではありません。
自分自身を責めるべきです!

使徒11:18
「人々はこれを聞いて沈黙した。そして『それでは上帝は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ』と言って、上帝をほめたたえた」

命に至る悔い改めとは、何でしょう。
それは、イエス様のところに近づける悔い改めです。
イエス様が、あなたの悔い改めが真実だと認めてくださったなら、聖霊と火のバプテスマを下さいます。

国が裁かれる

マルコ13:14
「『荒らす忌まわしいもの』が、立ってはならない所に立っているのを見たら-読者はよく理解せよ-ユダヤにいる人たちは山へ逃げなさい」

この世の終わりの時に生かされている私たちは、主の帰って来られる時、ご再臨を「絶えず目を覚まして祈っていなさい」と言われています。
今、世界に起こることを心に留めて生きて行く中で、私たちはどのように主の栄光を現すのか。
太秦之宮の群れは、日本に、主のみ心と栄光が現されることを願い求めていくものです。
主が、国という単位で裁きをなさる時、日本の罪と裁きの中に、クリスチャンも巻き込まれて行きます。
立派なクリスチャンも、適当なクリスチャンも、同じように地震や疫病という裁きに巻き込まれるのです。
しかし、裁きは主がひとりひとりに報いてくださる時でもあります。
あなたが、それぞれに与えられた荷物を負い、イエス様ご自身から学んでください。
あなたが日常生活の中で、イエス様に聞き従う覚悟がないのなら、役には立ちません。

IIコリント5:9
「そういうわけで、肉体を住まいとしていても、肉体を離れていても、私たちが心から願うのは、主に喜ばれることです」

上からの命を与えられ、生まれ変わった人は「イエス様に喜ばれたい!」と願うはずです。
そしてイエス様を愛するようになります。
そうでないのなら、あなたは命に至る悔い改めをしていないのです。
旧約から聖書を読んでいくなら、「自分など、到底救われない」と思って当たり前です。
理屈や理論で、頭の中で真理を知った、と思っても無駄です。
知的なことは、あなたを高ぶらせます。
それが、イエス様とあなたの間の仕切りとなります。
大切なのは、イエス様の命があなたの中にあるかどうかだけです。

イエス様はいのち

Iコリント8:1〜3
1「次に、偶像に捧げた肉についてですが、『私たちはみな知識を持っている』ということは分かっています。しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人を育てます」
2「自分は何かを知っていると思う人がいたら、その人は、知るべきほどのことをまだ知らないのです」
3「しかし、誰かが上帝を愛するなら、その人は上帝に知られています」

知識、データ、情報、学問は意味がありません。
それらは全て、ただの肥しです。
腐り、形がなくなります。
つまり、読んだことを忘れてよいのです。
それは、聖書を読んでいくうちに、イエス様を知るために役に立てばそれで良いのです。
高ぶる者は退けられます。

イエス様はいのちですから、人間でなければ知ることができません。
AIには不可能です。
イエス様は、歴史、時間を超えた宇宙ですから、パソコンには入りません。
スケールの大きさが全く違います。
もしそんなことをしようとすれば、パソコンが破壊されてしまうでしょう!
私たちは、偉大なるお方イエス様ご自身から学ぶのですよ。
(ネットのデータなどは、大したことはありません。データは検索すればすぐ分かりますが、そこに命はありません。)

「十字架を負って、イエス様の契約を守る」という鑑札が、あなたのお守りです。
これは「イエス様の所有物」というしるしですから、悪霊は簡単には手を出せません。
内側のイエス様の命が、あなたを守るのです。
目に見えない悪霊は、目に見えないものを見ているのです。
あなたの内側に、くびきがあるかどうかを。
みなさん一人一人が「メシアの香り」を放つ者となってください。

IIコリント2:14〜16
14「しかし、上帝に感謝します。上帝はいつでも、私たちをメシアによる凱旋の行列に加え、私たちを通してメシアを知る知識の香りを、いたるところで放ってくださいます」

IIコリント10:4〜6
4「私たちの戦いの武器は肉のものではなく、上帝のために要塞を打ち倒す力があるものです」
5「私たちは様々な議論と、上帝の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち倒し、また、全てのはかりごとを取り押さえて、メシアに服従させます」

凱旋行列に加わるのは、戦いに勝利した兵士たちです。
兵士は同じ制服を着ています。
敵と区別するためです。
みなさんは兵士なのですよ。

イエス様に従順な道を歩むならば、敵はあなたに勝つことはできません。
しかし、不従順であるならば敵には勝てません。

メシアの香りは、救いにあずかる人びとには良い香りです。
この人はどのような人なのだろう!?と興味を持たせます。
しかし、滅びる人々にとっては、ものすごく嫌な香りとなります。
そのような人々は、あなたを嘲笑い冷笑を浴びせるでしょう。
そのようになったら、ようやく主のしもべと認められますね。
早くそうなることを願います。
それは感謝なことです。

以下の内容は、交わりの時に話されたものです。

性的な罪、情欲は、未信者の特徴です。
それは、イエス様の弟子になった後、変えられて行くのです。
子どもにとっては、父と母が愛し合った結果、自分が生まれて家族になったのです。
両親を見て、子どもが「結婚って良いな。こんな夫婦になりたいな」と思えるサンプルになれるかどうかです。
この世はサタンの支配下にあるので、イエス様を知らないなら、狂った状態です。
主はあなたに何を願っておられるのですか。
この世の人がクリスチャンを見て、「あの人のようになりたい」と思えるような、模範になって欲しいと願っておられます。
(LGBTを批判するのではなく、模範を示すのです)

同じように上帝の家族は、天の父を中心とした家族です。
この家族がお互いに愛し合っているのを、天の父は見たいと願っておられます。このひな形が失敗しているなら、この世に対して何も証できません。

この世はこれから、どんどん汚く暗くなって行きます。
イエス様しか、あなたを守ることはできません。
わたしは、イエス様の前で駄々をこねる子どものようになる時があります。
「今の私は、このように肉でしかできないのです!」と。
もちろん、肉でやるには、ペナルティーもダメージもあります。
しかし「これ以上はやってはならない」という限度をわきまえ、イエス様のところに帰ってくれば良いのです。
(みことばが心に記されているならば、それがストッパーとなります)
そして失敗したら、正直に認めて悔い改めるのです。

この世が暗くなればなるほど、クリスチャンの光は(それが弱くとも)ボーっと浮き上がってきます。
今回の大阪都構想の選挙はどうでしたか。
何が闇なのかが、見えてきたでしょう?
あなたは、ここから何を学び取りましたか。
闇が、問題が何なのかが見えたら、どのように祈って行くのか。
ここからがスタートです。


信仰の土台がしっかりしていないと、倒れてしまいますよ。生活、お金の心配、プライドなど、さっさと捨ててください。
私たちは生まれつきの虚しい生き方、先祖から受け継いだ古いものとは、全て切れているのです!
肉の全てが十字架につけられ、あなたは日本に遣わされた者なのですよ。
今ある家族に対してもです。あなたは「イエス様のもの」ですから。
家族の中で「私が主人で仕切っている」のではありません。
遣わされたのだから、家族に対しても客観的に見ることができるはずです。
客観的というのは、感情では切れています。

あなたが感情的になるなら、イエス様のくびきは締まります。
自分の思いや感情で生きるなら、とても苦しいでしょう。
しかし、イエス様に従うならリラックスできます。
せめてそれくらいは、分かって欲しいのです。

私たちの戦いの武器は肉のものではなく「上帝のために要塞をも打ち倒す」ものです。(IIコリント10:4)
祈りの中で先を見せられ、祈って行くうちに、そのことが現実に現れてきます。
イエス様は祈りの中で、先のことを見せてくださいます。
みなさん、早くそうなってください。

私は、全てをイエス様に相談します。
どんな小さいことも「どうしたら良いですか」と聞きます。
しかし、それでも失敗することはあります。
みなさんが、感情や感覚で何かをするなら、くびきが締ることを実感できますように。
それを、十字架で殺すことを学んでください。

文責 菅原はれみ




礼拝message 11月1日(日)

使徒21:37〜22:29

あなたの喜びは何ですか

使徒22:1,8
1「兄弟ならびに父である皆さん。今から申し上げる私の弁明を聞いてください」
8「私が答えて、『主よ。あなたはどなたですか』と言うと、その方は私に言われました。『わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスである』」

今週、あなたはどれくらいイエス様に感謝を捧げましたか?
イエス様のお名前を呼び始めてから、あなたの心の中に留まっているみことばは何ですか?
私は、落ち込んだ時、必ず心に去来するみことばがあります。

イザヤ51:1
「義を追い求める者、主を尋ね求める者よ、わたしに聞け。あなたがたが切り出された岩、掘り出された穴に目を留めよ」

「あなたがたが切り出された岩、掘り出された穴」とは何ですか。
イスラエルの民にとっては、父アブラハムとサラのことです。
異邦人の私たちにとっては、過去を振り返ってよく見てみなさい、という意味です。
あなたはどのようなところから救い出されたのですか?
私は子どもの頃から鬱というか、いつも虚無感におそわれていました。
自分の存在は無意味だと、否定したくなるのです。
自分はいらないから、生きる必要が無い、と死の中をさまよっているような状態でした。
そのような時に、身近にクリスチャンの存在があったら、どんなに良かっただろうと思います。
私の側にはクリスチャンはいませんでしたが、イエス様は代わりにモーツァルトのレクイエムを通して(元クリスチャンの音楽の先生との思い出を通して)、教会へと導いてくださいました。

あなたは、もし誰かにあなたの希望が何かを聞かれた時、弁明する準備はできていますか?

Iペテロ3:13〜18
15「むしろ、心の中でメシアを主とし、聖なる方としなさい。あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、誰にでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい」

弁明の意味は、説明して事理(すじみち)を明らかにすること、です。
「何故あなたは希望を持って喜んでいるのですか?」と誰かに聞かれたならば、その人が分かるように説明する用意をしていますか。
「救いとはどのようなものなのか?」
「何故あなたには希望があるのか?」
救われた人は、喜んでいるのが自然です。
絶えず祈っていて当たり前です。
全てのことにおいて感謝するのが、信仰の証しです。

日本の現状がどうであれ、聖書を読んでいるなら感謝できるはずです。
旧新約聖書を通読し、みことばからはっきりと、ご聖霊がイエス様ご自身をあなたに啓示してくださいますように!
聖書は、イエス様のことを証ししています。
ペンテコステ派のようにスピリチュアルになり、みことばから離れてしまうと、イエス様に聞き従えません。
それどころか、悪霊に聞き従うことになります。

十字架のイエス様を見ているのか

ガラテヤ3:26〜4:11
4:9「しかし、今では上帝を知っているのに、いや、むしろ上帝に知られているのに、どうして弱くて貧弱な、もろもろの霊に逆戻りして、もう一度改めて奴隷になりたいと願うのですか」

ガラテヤ3:1〜6
5「もう一度聞きます。何故上帝は、あなたがたに聖霊様の力を与え、奇跡を見せてくださったのですか。ユダヤ教のおきてを守ろうと努力したからですか。絶対にそうではありません。メシアを信じ、全くお任せしたからです(リビングバイブル)」

クリスチャンの悪い点は、イエス様に全くお任せしないことです。
「努力が足りない。頑張ります」と言うけれど、頑張る方向が違うのです。
「主にお任せする。しがみつく」という方向に頑張れば良いのです。
私たちは、すぐに生まれつきの自分の考えに戻って行こうとします。
そしてこの世の霊は、あなたを古い自分に縛りつけておきたいのです。
「あの時はカッコ良かったよ!」と調子の良かった時を思い出させて、宝物のようにそれを隠し持っておかせるのです。

ガラテヤ3:1
「ああ、ガラテヤのみなさん。なんと物わかりが悪いのでしょう。いったいどんな魔術師にだまされて、魔法にかけられたのですか。私は、十字架上で死なれたイエス様の姿を、絵のようにありありと目の前に示して、その死の意味をはっきりと教えたではありませんか(リビングバイブル)」

パウロは「心の目で本当にイエス様の十字架の姿を、鞭打たれて苦しまれる姿を、身代わりの死を、あなたは見たのか!?」と言っているのです。
ローマ兵が槍で脇腹を刺すと、血と水が流れ出ました。
血清と血餅が分離して流れ出たのです。
イエス様は、激しく苦しんで心臓破裂で亡くなりました。
あなたは、本当にこのイエス様の姿を見ているのですか。
そしてイエス様は、今は天の栄光の御座におられるお方です。
死からよみがえられ、永遠の命を持っておられるお方として、です。

メシアが私のうちに生きておられる

クリスチャンライフの源泉は、喜びとアガペーの愛です。
全て、イエス様が中心です。
あなたのうちに住んでおられるイエス様の命に、ご聖霊がアガペーの愛を注がれます。
霊にその愛が注がれるので、あなたの魂もその愛を感じるのです。

虚無感に喘いでいた私が、今こうして生きているのは、「イエス様が、私を愛してくださっている。私の存在を許してくださっている」と分かったからです。
私をお造りになったお方、創造主が、父母の他におられるという驚きです。
イエス様が、私を存在させられたのです!
創造主なるお方が、ご自分の命を捨てて、私に復活の命を与えてくださる!?
このようなことが、あって良いのか!?
最初はまるで狐につままれたようでした。
このような私のためにです。
それはあり得ないような事です。

ヨハネ3:36
「神子を信じる者は永遠のいのちを持っているが、御子に聞き従わない者はいのちを見ることがなく、上帝の怒りがその上にとどまる」
ガラテヤ2:20
「もはや私が生きているのではなく、メシアが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、上帝の御子に対する信仰によるのです」
I have been crucified with Christ; it is no longer I who live, but Christ lives in me; and the life which I now live in the flesh I live by faith in the Son of God, who loved me and gave Himself for me.(NKJV)

注:ガラテヤ2:20「今私が肉において生きているいのち」は分かりにくい訳なので、古い新約聖書を参考にしてください。in the flesh「今私が肉体を持って生きている命」の意。

この二つの箇所を合わせて覚えて欲しいと思います。

あなたが、誰かに弁明をする時に、クリスチャン用語を使ってはいけません。
この世の人が理解できる言葉で、希望や天について説明できなければ、意味がありません。
聞く人が理解できる言葉で、その人の理解に合わせて話せなければ、ただの自己中心、自己満足の信仰です。
何の役にも立ちません。
多くのクリスチャンは、主に買い取られた者として、主のために生きることを、みことばから実感していないのです。

みことばを体験する

太秦の群れは、敬虔派です。
みことばを、自分で体験し実践するのです。
この信仰による体験が、大いなる望みです。
私たちは、天の故郷に帰る望みに基づいて、この地上を旅しています。
だから、羊飼いなるお方が、ひとりひとりの生活に、主として関わってくださるのです。

ファイヤーバイブルでスタンプス氏は「バプテスマ(洗礼)を受けるのは、主イエスを自分の人生の最高の権威として信じて、自らを捧げて、バプテスマを受けるものだ」と言っています。
信仰は、「私のために」という個人的なものです。
「私のために、ご自身を捨ててくださったお方を、信頼しているのです」というはっきりした確信です。
信仰生活の要は、「このお方に信頼してお任せしている。このお方が、絶対的な権威をお持ちで、私を買い取ってくださったのだ」という信仰です。
あなたの顔が暗くて辛気臭いなら、誰も希望について聞いてくれません。
あなたが希望のない顔をしているのですから。
誰があなたみたいになりたいと思いますか?
あなたは、どのような場所から切り出されてクリスチャンとなり、上帝の子どもとなる特権をいただいたのですか。
それを自分でよく見てください。

ヨハネ3:16
「上帝は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」

天の相続財産

現代のクリスチャンは、「天に相続財産がある」という実感がないのです。
これは「天に宝を積む」のと同じです。
天にあなたの家があるなら、それはどのような家になるのか、地上での奉仕の量によります。
あなたが天で住む永遠の家がどのようなものか、また裁きの時にどのような報いを受けるのか、あなたの地上の人生がそれを決めます。
あなたがどのような奉仕をしようとも、「私は主のものです!」という献身が下敷きとなっていないなら、天には届きません。

あなたにとって天国は、どのようなところですか?
天の相続財産を実感していないなら、リアリティーがありません。
あなたが確信に基づいて何かを話すなら、それを聞く人の心には必ず何かが残ります。
使徒22章でパウロが主との出会いを証ししているように、あなたはどのようにイエス様と出会ったのですか。
いつ新しい命を確信したのですか。
いつ天国を実感したのですか。
これを、自分のものにしていなければなりません。
信仰の基礎として、あなたが自分をチェックするために、弁明をする用意をしてください。

ピリピ3:1〜11
10「私は、メシアとその復活の力を知り、メシアの苦難にもあずかって、メシアの死と同じ状態になり」
11「何とかして死者の中からの復活に達したいのです」

ピリピ1:20,21
20「私の願いは、どんな場合にも恥じることなく、今もいつものように大胆に語り、生きるにしても死ぬにしても、私の身によってメシアがあがめられることです」
21「私にとって生きることはメシア、死ぬことは益です」

信仰の確信を持っていないと、パウロのように言うことはできません。
日本がどうなろうと、私は恐れません。
今日何があったとしても、主のもとに帰るのですから、と。

あなたはどこから救いだされたのか

私は、今ある友人を通して、自分の過去を辿らされています。
彼が転勤するところが、全て自分がかつて歩んできた場所なのです。
自分が高校3年生の時に、絶望の真っ只中で叫んだこと。
「神様がいるなら、何とかしてくれ!」と。
まさにその場所に彼が導かれているのです。
本当に不思議だな、と思います。
主は「原点に戻れ!」と言われているのです。
自分がどのようなところから救い出され、どのようにイエス様と出会い、イエス様が何をしてくださったのか。
あなたが過去を辿るなら、恵みを確認して感謝できるはずです。
私は60年前のことをありありと覚えています。
あの絶望的な時を、イエス様は見ておられたのだと。

みなさん、今どのような人と交わっていますか。
その人があなたに心を開くなら、自然にイエス様があなたにしてくださったことを分かち合えば良いのです。
無理に押し付けるのではなく。
あなたがいつも喜んでいるならば自然に言えるようになります。
悪霊は、「伝道しよう!証ししよう!」と言ってきます。
あなたが本物であり全てを感謝しているならば、飢え渇いている人は、その喜びの源泉が何なのかあなたに尋ねるでしょう。

自然のままでイエス様の香りを放つ

パウロはギリシャ語とヘブル語を臨機応変に使い分けました。
これはすごいことです。そして、どのような状況でも冷静に言っています。

使徒22:25「彼らが鞭を当てるためにパウロを縛った時、パウロは側に立っている百人隊長に言った。
『ローマ市民である者を、裁判にもかけずに、鞭打ってよいのですか』」

そこで千人体調がパウロに興味を持つのです。
「彼はいったいどのようなことをして来た人なのだろうか?」という風にです。
パウロは計画して話しているわけではありません。
パウロはそのままで多くの人を惹きつけているのです。
あなたが、その自然なままでイエス様の香りを放ち、「何故こんな状況なのに、そんなに明るいのですか」と聞かれますように。
この世の現実は、闇しかありません。
希望もなく、仕事もありません。
上帝の国と義を、あなたが一番に求めているならば、天の父があなたの生活を管理してくださいます。
その喜びと安息を味わっているのを、周りの人が見るためです。
それが地の塩、世の光なのです。
周りの人は、あなたから何を感じとっていますか?
あなたが、どのようにイエス様から見いだされ、今生きているのか。
天に宝を積む生き方をしているのか、周りの人は見ています。

文責 菅原はれみ

礼拝message 10月28日(水)

詩篇4篇、マタイ11:20〜30

マタイ11:25~27
25「そのとき、イエスはこう言われた。『天地の主であられる父よ、あなたをほめたたえます。あなたはこれらのことを、知恵ある者や賢い者には隠して、幼子たちに現してくださいました」
26「そうです、父よ、これはみこころにかなったことでした」
27「すべてのことが、わたしの父からわたしに渡されています。父のほかに子を知っている者はなく、子と、子が父を現そうと心に定めた者のほかに、父を知っている者は誰もいません」

御国の中に移された

アウグスティヌスの「告白」を、みなさんは読んだことがありますか。
彼の言葉の中に「神よ。あなたは私を ご自身に向けてお造りになりました。ですから私の心は あなたのうちに憩うまで安らぎを得ることができないのです」というものがあります。
現代で言うなら「神よ」を「イエス様」に言い換えて読めば良いのです。
時間のある方は、ぜひ一度読んでみてください。

コロサイ1:9〜17
13「御父は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子の御国の中に移してくださいました」

この箇所は非常に重要です。
このことを分かっていないと「神様」と言ってしまいます。
「神様」と言うと、天の父をイメージしてしまいますが、イエス様を通してでなければ、誰も決して父のみもとには帰れません。
人間は、父を直接見ることはできません。
イエス様を見た者は、父を見たのです。
父の本質すべてを、イエス様は持っておられます。
イエス様は、上帝ご自身です。
御子のご支配の中、御国の中に移されたことが、世からの解放です。
あなたが御国の中にいるなら、この世のものは、攻撃やチャレンジはできません。

イエス様は、被造物が造られる前から、存在しておられました。
堕落する前のアダムとエバは、イエス様のイメージで造られています。
十字架、贖い、復活、そしてあなたの生活もすべて、イエス様を中心に考えなければなりません。
そうしないから、ずれて行くのです。

イエス様との出会い

アウグスティヌスは、詩篇4篇を読み、それが主を知るきっかけになりました。
彼は、若い時に女性と同棲していて、19歳で息子が生まれました。
父は異教徒のローマ人で、母はベルベリ人でクリスチャンでした。
彼は中産階級でしたから、貧しくはありませんでした。
独学でラテン語を学び、ミラノで教授になるために修辞学(弁論術)を身につけます。
マニ教の教義に心酔し、その後アンブロシウスの説教を聞き、新プラトン主義にも傾倒します。(新プラトン主義:感覚器官や言葉ではなく、沈黙のうちに絶対の真理と一体化しようと説く、神秘主義。キリスト教を否定)
29歳の時に、「取りて、読め」という言葉を聞き、聖書を読み、回心します。

注:アウグスティヌス ローマ帝国末期に北アフリカのカルタゴで活動したキリスト教の教父。ヒッポの司教として、マニ教などの異端やキリスト教の異端との論争を通じて、カトリック教会としてのキリスト教論を打ち立てて行く。青年期の素行やマニ教への信仰を告白し、キリスト教への回心を「告白」(400年頃の著作)で綴っている。「取りて、読め」と言う言葉を聞いた時、近くにあったパウロ書簡(ロマ13:13,14 『主イエス・メシアを身にまとえ。肉欲を満たすことに心を向けてはならない』を読んで回心したと言われる)
ローマ帝国の国教であったキリスト教(ローマ=カトリック教会)は、ゲルマン人の侵攻、特に410年西ゴート人のローマ占領によって危機に面した。そして一挙に西ローマ帝国は滅亡に向かう。それにもかかわらず、キリスト教はその後も生きながらえ、ヨーロッパの人々の精神を捉えたのは、アウグスティヌスの思想が重要な働きを為したのである。430年、ヴァンダル人の王ガイセリックがカルタゴに侵入し、ヒッポを包囲する中、ローマ帝国の落日と合わせるかのように75歳で病死した。
(ガイセリック王:ゲルマン人の一派ヴァンダル人を率い、北アフリカに入りヴァンダル王国を建国。さらに455年にはローマを掠奪。ローマからは撤退したが、西ローマ帝国の滅亡を早めた。476年の西ローマ帝国滅亡の翌年死去した)

あなたは、イエス様との出会いがはっきりしていますか。
理屈、理論は通用しませんよ。
あなたに見えない力があるかないか、です。
敵はそれだけを見ています。

見えない力の世界

スケワとその息子たちを見てください。

使徒19:13〜16
13「ところが、ユダヤ人の巡回祈祷師のうちの何人かが、悪霊につかれている人たちに向かって、試しに主イエスの名を唱え、『パウロの宣べ伝えているイエスによって、おまえたちに命じる』と言ってみた」
14「このようなことをしていたのは、ユダヤ人の祭司長スケワという人の七人の息子たちであった」
15「すると悪霊が彼らに答えた。『イエスのことは知っているし、パウロのこともよく知っている。しかし、おまえたちは何者だ』

見えない世界は、現代のネット社会よりも、ものすごい情報網を持っています。インテリジェンスは一瞬で世界を駆け巡ります。
ここで悪霊たちは、「お前たちは誰だ?」とスケワの息子たちを歯牙にも掛けません。
あなたが悪霊に認められるようなクリスチャンにならねば、どうするのですか?
敵に舐められているようなクリスチャンでは、対決すらできません
パウロのそばに、悪霊はのこのこやって来ません。
負けるのが分かっているからです。
自分が牧師だ、神学生だ、と言っても何も意味もないことがわかるでしょう。
「お前はよく知っている」とこれくらい悪霊に言ってもらえて、やっと役に立つのです。
「メシアの香り」は敵にも分かります。
そういう存在が、地の塩、世の光です。
「あいつはイエス様の匂いがして嫌だ」と言われるような、悪霊にとってナフタリンのような存在になってください。
これが、太秦の群れに要求されるレベルです。
見えない世界で認められないようなクリスチャンなら、悪霊に馬鹿にされているだけです。

この世の情報に振り回され、国々の軋轢や損得感情で考えるのではなく、見えない世界で霊を見分ける力が必要です。
「敵を愛せ。完全であれ」という命令をもとに、見えない世界を見分けて行くのです。
アメリカのトランプ大統領も言っていますが、中国の共産主義者と支那人は違います。
この世の悪霊が共産主義者を操り、人々を盗み、殺し、滅ぼしているというのが事実です。
イエス様は、十字架の上で「父よ。彼らを憐んでください」と言われました。
憐れみが先立つのです。

見えない世界は、うちにおられるイエス様の命によって判断しなければなりません。
人を裁くのではなく、メシアの霊によって人を感じて、理解するのです。

イエス様の命がはっきりしていれば、敵が反応します。
私は未熟な者ですが、今朝電車の中でこのようなことがありました。
若い男性と、40代くらいの女性の間の席に私が座りました。
私のような者でも、この二人の小さい悪霊は分かります。
若い男性は、自分のうちにいる悪霊を楽しんでるので、難しいなと思いながら「主よ。どう祈りますか。憐んでください」と祈りました。
女性は、悪霊に身を委ねるかどうか逡巡しているようでした。
彼はゲームをしていましたが、ゲームの世界は悪霊が背後にいて使っています。
携帯には、見えない操り糸がついています。
コントロールされてはいけません。
私が座ると、二人はそわそわし始め、急に落ちつきがなくなりました。
明らかに嫌がられていましたね。
まるでバイ菌のような扱いでした。
ゲームをしている彼のような場合、暴力的なことを行うことが多いので、離れるまで彼のことを祈って過ごしました。
さぞかし嫌だったでしょう。
神学的なものや知的なものは、見えない世界では役に立ちません。

信仰は体験と実践

17世紀ドイツのプロテスタントは、教義や教えが形式的になり、カトリックのようになり、命のない宗教になって行きました。
「敬虔主義の父」と呼ばれるフィリップ・シュペーナーは、聖書を中心として、体験と実践を強調しました。
太秦の群れは、このパイエティズムの立場をとります。
その後、彼の後継者となったフランケは、イギリスやアメリカに多くの伝道者を送り出しました。
(注:フランケ 「真の愛の一滴は、知識の大海よりも尊い」という主張のもとに活動し、プロテスタント教会の宣教活動の先駆者となった)

太秦の群れは、体験と実践を大切にする群れでなければなりません。

マタイ11:29,30
29「わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます」
30「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」

「信頼すればそれで良い」という、くびきのない平安、安息はヒューマニズムです。
それは軽薄で安っぽい平安です。
悪霊は、みことばのある部分だけ取ってしまうのです。
聖書には「くびきを負って、わたしから学びなさい」とあります。
くびきがないと、単なる呑気なおばちゃんになりますよ。
多くの人が、悩み、苦しみ、自殺しています。
あなた自身が、イエス様のくびきを負っていなければ、あなたの話す安らぎが誘惑(ヒューマニズム)になります。
「十字架を負って、イエス様に聞き従います」という態度が、自分を矯正します。
誰かに良いことをしようとする時も「イエス様がNOと言われるなら、やめます」と言う態度なら、自分が拘束されるのです。
このような態度が、ライフスタイルの中に自然に出て来ないなら、イエス様の与えようとされる平安も安らぎもあなたからは出てきません。
主が与えてくださる憩いは、詩篇23篇にあるようなものです。

詩篇23:2
「主は私を緑の牧場に伏させ いこいのみぎわに伴われます」

この憩いのみぎわにある、安らぎ、安息、静けさが、救いの一番大切な点です。

みこころがなりますように

ロマ12:1,2
1「ですから、兄弟たち、私は上帝のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、上帝に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です」
2「この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、上帝のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、上帝に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります」

「自分自身を主に捧げる」これが礼拝です。
自分を捧げない人は、自分が良いと思っていることを自分勝手にやっているだけです。
そうなら、新しい天と地に入る時に、主から「知らない」と言われます。
「教会で奉仕したのに何故!?」と最後に叫ぶのが、現代のキリスト教をやった人たちの姿です。
「上帝のみこころは何ですか。どのように歩めば良いのですか」と日々、主に自分を捧げて行く生活しかありません。
私はイエス様のものですから、あなたのみこころがなりますように、と。

ルカ1:38
「マリアは言った。『ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように』すると、御使いは彼女から去って行った」

ガブリエルが、マリアの前に現れた時、彼女は14、15歳でした。
「あなたのお言葉のとおりになりますように!」と言った時のマリアは、何と素直な純粋な信仰を持っていたことでしょう。
しかし、彼女が多くの子どもを産んだ後はそうではありませんでしたね。
「私の息子、イエスが!」と連れ戻しに来たのですから。
この時は、ただのおばちゃんになっていました。

かつて、どんな素晴らしい信仰経験をしたとしても、それを持続するのは、いかに難しいか。
日々、主の歩みを知ろうとする、一歩一歩の地味な生活が大切なのです。
派手なことを求めてはいけません。
「こうすれば儲かるよ」と、お金を与えてくれるのは、この世の安心感です。
イエス様にお仕えするのか、金に仕えるのか、どちらかです。
思い煩うと、金に頼るのが、人間です。
だから山上の垂訓では、上帝の国と義をまず求めよ、と言われているのです。
すべては、主がご配慮してくださいます。
それは目には見えないものです。

銀行預金は目に見えますね。だから見えないと不安になるのです。
「信仰によって生きる」とは御子の国に移された、その御国の力を、現実の生活で体験することです。
この世において、力をもって、あなたの生活を主がご支配してくださいます。
それは将来の貯金がたくさんあるということではありません。
「日ごとの糧」です。
今日を満足して感謝できない人は、信仰に生きていません。
私たちは、今日一日のことしか分からないのです。

祈りにはしつこさが必要です。
何の返事がなくとも祈り続けるのです。
しつこいやもめと裁判官の話の通りです。
祈りとはそういうものですから、実践してください。
理屈を言われても面白くありません。
太秦の群れのポリシーは、体験と実践です。
「イエス様を信じたら楽だよ。うまく行くよ」ではありません。
くびきを負いなさい!
誰かに伝道したければ、体験したことしか伝えられないでしょう!?
何もないのに、あなたはいったい何を伝えるのですか?
キリスト教は口先のペテンが多すぎます。
そうであってはなりません。

以下の内容は、交わりの時に話されたものです。

(思春期の子どもを持つ親に対して)
聖書の原則は、父、母、妻、子を捨てることです。
まず、親が「救いとは何か」知っているのですか?
聖書は「重荷を追っている人は、イエス様のところに行きなさい」と言っています。
イエス様は、「わたしに聞きなさい」と言われています。
子どもを捨てたのだったら、祈りしかありません。
カナンの女です。
イエス様のところに来て「助けてください!」と叫びました。
(子どものところに行ったわけではありません)
祈りはしつこくあるべきです。
淡白ではいけないのです。しつこさは、情熱です。
子どもは捨てたのだから、イエス様にお任せして、全てをイエス様のところに持っていけば良いのです。
今の態度は、弟子ではありません。
まるで自分で何かできるみたいです。
ここに集められている人は、人間失格の者ばかりです。
何故、自分が知恵ある者のように思っているのですか。
生まれ変わりなさい。
そしてイエス様の知恵と考えでするのです。
イエス様の栄光を現すためです。
自分が満足するためではないのですよ。
イスラエルの民は、自分たちを幸せにしようとされているお方であるイエス様を拒絶しました。
頑なで、自分が賢いと思っていたからです。
アダムとエバは、知恵の実を食べて「わたしは神だ」と思ったのです。
これではあなたが神ではありませんか。
弟子のとるべき態度は、「私は、無力で無能です。この子のために何もできません。あなたにお任せします。あなたがこの子を幸せにしてくださいます」というものです。
夫婦で「ああでもない、こうでもない」と言って、何故イエス様を無視して、でしゃばるのですか。高ぶりです。
主は「あなたは、そんなに分かっているのか?それなら子どもを変えてみろ。自分の言葉の責任を取りなさい」と言われます。
イエス様の弟子は、無きに等しい者たちです。
だからイエス様がワンダフルカウンセラーなのです。

子どもたちは、イエス様のものです。
アブラハムとイサクのように、あなたは子どもを殺していますか?
アブラハムは、彼の心の中で自分の命よりも大切なイサクを殺しました。
だから長男イサクは祝福されているのです。
子育ての知恵も、経済的なことに関する知恵も、全てがイエス様のものです。
詩篇40篇にある通りです。
子どもがどうなるか、イエス様だけが知っておられます。
(私たちには分かりません)
祈りにおいて、大事なのは沈黙です。
本当に子どもを捨てたのなら、待つしかありません。
心で殺した者が、泣こうが叫ぼうが、ニコニコしようが、あなたには関係ありません。
捨てたのですから。

まず、あなた自身が変えられなければなりません。
「私を造り変えてください」と叫ぶのです。
子どもに何か頼まれたら、「はい、そうします」としてあげれば良いのです(マタイ5:41,42)
捨てたと言いながら、「こうしてあげた方が良い。こうしてあげるべき」と思うのは、あなたの肉です。
親子の縁は切れているのですよ。
あなたが肉を捨てていないのなら、聖書の理解ができません。
みことばがないと、自分で良いか悪いかを判断するだけです。
アガペーの愛で愛するなら、報いは期待するべきではありません。
何も求めません。
報いは、イエス様に要求しなさい。
弟子になりたいなら、自分を捧げているのが原則ですよ。
すぐに答えを期待してはいけません。
時間がかかるのです。
私たちは、歴史を支配しておられるお方に従うのですから。
放蕩息子の父親も、息子を捨てていたのです。
彼の心の中では息子は死んでいました。
だから「死んでいたのが生き返った」と言っているのです(ルカ15:24)

文責 菅原はれみ

礼拝message 10月25日(日)

使徒11:19〜12:25

イエス様はどのようなお方なのか

この一週間、みなさんの唇には何がありましたか。
主への感謝と賛美ですか。
今日、顔は喜びに輝いていますか?

詩篇50:21
「こういうことをおまえはしてきたが わたしは黙っていた。わたしがおまえと等しい者だと おまえは思っていたのだ。わたしはおまえを責める。おまえの目の前でこれらのことを並べ立てる」

ヒューマニズムは、イエス様が自分と同じようなお方だと勝手に思っています。
聖書を人間中心に読むと、そうなります。
「自分がこう考えているように、イエス様も多分こう考えているだろう」という態度です。
イエス様をこのように考えているのなら、偉大な信仰体験はできません。
「あなたの信仰の通りになれ!」と言われているのですから、信じていないと信仰の体験はできません。
イエス様がどのようなお方なのか、あなたは知っているのですか?
「このようなお方だろう」と自分勝手に決めつけていますか?
もしそうなら、あなたは自分の人生も命も、懸けていない人です。
だから洗礼を受ける前に、奇跡の体験をたくさんしてくださいと言っているのです。
そうでないと「こんなものだろう」という態度になり、聖書のみことばを本当には信じていない者となります。
その人の中に、常に疑問符があるからです。

主の御手が共に

使徒11:19
「さて、ステパノのことから起こった迫害により散らされた人々は、フェニキア、キプロス、アンティオキアまで進んで行ったが、ユダヤ人以外の人々には、だれにもみことばを語らなかった」

ここで、散らされて行ったユダヤ人クリスチャンたちは、異邦人には福音を語りませんでした。
何故なら異邦人は旧約聖書を読まないからです。
彼らはまず、ユダヤ人の会堂シナゴーグでイエス様を証ししました。
旧約聖書を知っており、ユダヤ人の教えを大切にする人たちに語ったのです。
福音を聞いて、彼らの反応は二つです。
クリスチャンは、迫害されるか、証しを受け入れ大切にされるか、そのどちらかでした。

百人隊長コルネリウスは、シナゴーグに行き、ユダヤ人の律法を知っていました。(使徒10章)
そこで、ユダヤ人の生き方(上帝を畏れ敬い、貧しい人を顧みる生き方)が素晴らしいと、感動していたのです。
信仰の土台があったのです。

旧約聖書を読んで学んでいないなら、福音は分かりません。

使徒11:20,21
20「ところが、彼らの中にキプロス人とクレネ人が何人かいて、アンティオキアに来ると、ギリシア語を話す人たちにも語りかけ、主イエスの福音を宣べ伝えた」
21「そして、主の御手が彼らとともにあったので、大勢の人が信じて主に立ち返った」

その後、異邦人の使徒パウロは、唯一の救いの道であるイエス様のことを語りました。
異邦人が主のもとに立ち返ったのです。
条件は、「主が共にいて働いてくださった」という事実です。
主が共にいてくださるなら、心を開く人々が起こされます。

聖霊派でたびたび大きな伝道集会が開かれてきましたが、その時にクリスチャンになった人々は今、どこに行ったのですか?
伝道集会もテレビ伝道も、主が共にいてくださらないなら、むなしいだけです。

日本では「キリスト教は西洋のもの」という先入観が根強くあると思うのですが、みなさんはどうですか?
プロテスタントは特に、キリスト教は西洋のものという色眼鏡で見てしまいます。これが日本における、宣教の邪魔になったのです。
何故でしょうか?宣教師が、自分の国のキリスト教文化を全面に出してしまうからです。
「日本人がクリスチャンになったら、このような人になる」という見本(証)が本当にないのです。
日本では、「福音が何なのか」ほとんど証しされていないと、私は思います。
過去、リバイバルは起こりました。
しかし未だに日本ではクリスチャン人口がたったの1%です。
そのたったの1%のクリスチャンたちも、この数字を逆手にとって「私たちは選ばれたのだ」とおかしなプライドを持つ始末です。

太秦の群れは、イエス様がどのようなお方であるのか、というメシア観を、まだまだ自分の中で育んでいる状態です。
それではイエス様のために戦うなど到底無理です。
まるでまだ、母のお腹にいる胎児のようです。何もできません。
「主が共にいて戦ってくださる」という場面に会わされることはありません。
謙遜に自分の信仰の現実を見てください。

預言の賜物

使徒11:28〜30
28「その中の一人で名をアガボという人が立って、世界中に大飢饉が起こると御霊によって預言し、それがクラウディウス帝の時に起こった」
29「弟子たちは、それぞれの力に応じて、ユダヤに住んでいる兄弟たちに救援の物を送ることに決めた」
30「彼らはそれを実行し、バルナバとサウロの手に託して長老たちに送った」

世界の現状を考える時、預言が何故必要なのか。
この中に預言者がいたら、コロナウィルスのことは分かっていたでしょう。
残念ながら、私も分かりませんでした。
アガボは預言の賜物を持っていました。
クリスチャンの群れは、これから主がなさることを知り、その心づもりと準備をしなければならなかったのです。

ファイヤーバイブルの1991ページ、「御霊のバプテスマの吟味」をよく読んでください。
聖霊のバプテスマを受けたなら、これを基準にして欲しいのです。
謙遜に、自分はこの点が足りない、と吟味してください。

奇跡

使徒12章で、牢屋に入れられたペテロを、み使いが連れ出しました。
これは現代でも起きるのですよ。
この事実を信じられないなら、あなたは死んだら、どこに行くのですか。
こんなことが信じられないなら、復活は信じられません。
あなたの信仰の通りになれ、と言われている通りです。

使徒12:7,8
7「すると見よ。主の使いがそばに立ち、牢の中を光が照らした。御使いはペテロの脇腹を突いて彼を起こし、『急いで立ち上がりなさい』と言った。すると、鎖が彼の手から外れ落ちた」
8「御使いは彼に言った。『帯を締めて、履き物をはきなさい』
ペテロがその通りにすると、御使いはまた言った。『上着を着て、私について来なさい』」

こんなリアリティーありますか。み使いは、具体的に指示をするのです。
そして、鉄の門がひとりでに開きました。
番兵はみんな寝ていたのでしょうか。
これは現実です。

使徒12:15,16
15「人々は彼女に『あなたは気が変になっている』と言ったが、彼女は本当だと言い張った。それで彼らは『それはペテロの御使いだ』と言った」
16「だが、ペテロは門をたたき続けていた。彼らが開けると、そこにペテロがいたので非常に驚いた」

彼らは非常に驚いています。
当時の人々も、この奇跡を信じられなかったのです。

主に栄光を帰す

ヘロデは、番兵を取り調べて、処刑しました。
ここからも、彼がどんなに簡単に人を殺したかが分かります。

使徒12:23
「すると、即座に主の使いがヘロデを打った。ヘロデが上帝に栄光を帰さなかったからである。彼は虫に食われて、息絶えた」

ヘロデは、主に栄光を帰さなかったので、人生の絶頂期に死にました。
上帝の力のリアリティーがここにあります。
主がお許しになったので、ヘロデはこの地位にいたのです。
この世の王たちも同じです。
現代のキリスト教国のトップと、その取り巻きは、どうですか。
危ない状況です。
祈りに応えられた時、主に栄光を帰して、主を褒め称えないならペナルティーがあります。
牧師、宣教師の老後、末路はどうなって行くのか、データを出すべきです。
あなたの人生を見て、周りの人がこのように生きたいと思わないなら、証しになどなりません。

復活の信仰は、奇跡の信仰が土台となっています。
「人間にはできない」という奇跡の体験を積み重ねていって、復活を信じるようになるのです。

以下の内容は、交わりの時に話されたものです。

感謝しなさい

信仰には、しつこさが必要です。
祈りが応えられたなら、必ず感謝すべきです。
感謝しないなら、主を自分と同じように思っている姿です。

キリスト教をやっている人は口が軽いのです。
間違いがあったら、悔い改め、謝るのです。
イエス様に対して。
子どもは、祈って、何かをもらったら素直に感謝します。
それを見て、天の父も喜ばれるのです。

子どもを捨てる

子どもに対して、親が精一杯働いている姿を見せるのが、最高の教育です。
子どもは、親が同じ土俵に立つと、親を下に見るようになります。
親は、子どもの人生に介入してはならないのです。
そうでないと、自分の人生が、親なしでは居られなくなります。
今こそ、子どもも、自分で立つべきです。
過保護は愛とは言いません。

子どもにとって、自分で痛い思いをし、恥をかくのが訓練です。
親が、子どもを捨てていないと、親バカになります。
そして、子どももダメにします。
自立できないからです。
大切なのは、子どもを捨てることです。(これは母親にとってはきついことです)
しかし、そうでないと愚かな親になってしまいます。
イエス様とあなたの関係が、様々な形で家族に影響を与えるのです。
イエス様は、母マリアが自分を連れ戻しに来た時、何と言われましたか?
「私の母とは誰ですか?ここにいる姉妹たちです」と、マリアはバッサリ切られています。
聖書通りにやるのか、自分のやり方でやるのか。
今こそはっきりする時です。
私は、自分の子どもに対して冷たかったと思います。
しかし、それが愛、アガペーです。
子どもたちは、大人になると自分が愛されていたことが分かります。

愛国心

愛国心について、弟子たちの中には、熱心党の最右翼の者もいました。
しかし、彼らは、イエス様のために自分を捨てて行ったのです。
そして変えられていきました。
現代に生きる私たちも同じです。
いろいろな情報は必要です。
しかし、他の国を敵対国として見るのは違います。
私たちが判断を間違うと、イエス様の思いと違っていきます。

文責 菅原はれみ

礼拝message 10月21日(水)

ヘブル9:11〜10:31

ヘブル10:30,31
30「私たちは、『復讐はわたしのもの、わたしが報復する』また、『主は御民をさばかれる』と言われる方を知っています」
31「生ける上帝の手の中に陥ることは恐ろしいことです」

永遠の贖い

まず、考えて欲しいのです。
イエス様の命ある十字架の血の力、その血がいかに多くのことを語るのか。
あなたの信仰生活で、どれだけイエス様の血の力が体験になっていますか。

ヘブル9:11
「しかしメシアは、すでに実現した素晴らしい事柄の大祭司として来られ、人の手で造った物でない、すなわち、この被造世界の物でない、もっと偉大な、もっと完全な幕屋を通り」
12「また、雄やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました」

ヘブル9:23,24
23「ですから、天にあるものの写しは、これらのものによってきよめられる必要がありますが、天上にある本体そのものは、それ以上にすぐれたいけにえによって、きよめられる必要があります」
24「メシアは、本物の模型にすぎない、人の手で造られた聖所に入られたのではなく、天そのものに入られたのです。そして今、私たちのために上帝の御前に現れてくださいます」

ここにあるように、イエス様は「この被造世界の物でない、完全な幕屋」を通り、「地上の物ではない、天そのもの」に入られたのです。
地上の幕屋は、天の聖所のひな型です。
それでは、なぜ天の聖所が聖められる必要があったのでしょうか。
それは、天の聖所が汚されたからです。
イエス様が人として地上に来られたのには、二つの理由があると、私は思っています。
1つ目は、被造物の贖いのために。
2つ目は、天における聖所をきよめ、聖別するためです。

歴史を超えた、永遠の世界における悪魔の反乱が、いかに天においても汚しごとだったのか。
私たちの側から見れば、イエス様の十字架の贖いは、全被造物の救いのためですが、それだけではないのです。
もっとスケールの大きな話なのです。
それは歴史以前の、永遠の世界の天での悪魔の反乱があり、天の聖所が汚されたことが前提です。
天上にある、聖所の本体そのものが、聖められる必要があったのです。
それこそ、歴史を遥かに超えて、イエス様が成し遂げられたみわざです。
イエス様はご自分の血によって、天においても、聖めと贖いを成し遂げられたのです。
この世の時間の中にある、私たちの短い人生が、見えない永遠の世界と密接な関係があるのです。
私たちがイエス様に忠実であるかどうかは、この世だけでなく、永遠の世界でも、ものすごく重要な事柄です。
地上であなたが、永遠から永遠の世界のことを考えていないならば、堕落してしまいます。それはとてもつまらない人生です。

私たちが地上の生活と、永遠の世界を一つとして見ること、これが信仰の前提です。
これが事実であるからこそ、悪魔や悪霊たちとの戦いになるのです。
平凡な日常と永遠の世界が繋がっているのを知ることは、非常に重要なことです。
私たちが聖められることは、歴史の中においても本当に必要なことです。
それはあなたが重要なところで用いていただける聖い器になれるかどうかにかかっています。
もしあなたが役に立たない、出来損ないの器になるならば、主はあなたの代わりに他の人を用意されます。
あなたは、偶然に選ばれたのではないのです。
永遠の中において、私たちの知ることは、ほんの小さな一部にしか過ぎません。

聖い命

申命記29:29
「隠されていることは、私たちの上帝、主のものである。しかし現されたことは永遠に私たちと私たちの子孫のものであり、それは私たちがこのみおしえのすべての言葉を行うためである」

皇民の祈りの前半を考えてください。
大切なのは、「主の御名が聖なるものとされますように」という願いです。
主の御名を呼ぶ者たちが、聖なるものとならなければ、礼拝されるお方の御名が聖なるものとなれません。
この世の人たちは、イエス様を礼拝する私たち自身を見ています。
私たちを見て、イエス様がどのようなお方であるかを想像するのです。
汚い人たちは誰を礼拝しているのですか。
悪魔です。

海の魚は、塩水の中を泳いでいても、なぜ塩辛くならないのでしょうか。
同じように、地上がどんなに汚くなっても、イエス様の命があなたの内にあり、その命を守ろうと願うなら、周りはあなたを汚くできません。
あなたの内側の命が、聖い力を絶えず循環させているからです。
旧約時代においては、主の聖さを感化させ啓示することができても、新しい命が人々の内に住むことはできませんでした。
新約時代になり、イエス様は人々に内なる命を与えるために、人となる必要があったのです。
あなたがイエス様に全てを委ねて、自分を捧げているならば、イエス様の血が、多くのことを語ってくださいます。
罪を聖めるためには、イエス様の命と血しかありません。

光に近づく

ヘブル10:1,2
1「律法には来たるべき良きものの影はあっても、その実物はありません。ですから律法は、年ごとに絶えず献げられる同じいけにえによって上帝に近づく人々を、完全にすることができません」
2「それができたのなら、礼拝する人たちは一度できよめられて、もはや罪を意識することがなくなるので、いけにえを献げることは終わったはずです」

あなたの顔が辛気臭いのは、何故でしょうか。
内側に闇が残っているのです。
それは告白されていない罪です。
イエス様の目から見れば、その闇が外側に出てきているのです。
罪意識は、無意識のうちにあなたの自由を奪います。
小さな子どもたちは、闇がなく天真爛漫です。
天の御国は、そのような幼子たちのものです。

過去において、人を傷つけたこと、その人の人生を狂わせたこと、人の物を盗ったことなど、嫌な思い出は、それが告白されていないならば、主の目から見れば罪と汚れです。

ヨハネ3:16〜21
18「御子を信じる者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれている。上帝のひとり子の名を信じなかったからである」
19「そのさばきとは、光が世に来ているのに、自分の行いが悪いために、人々が光よりも闇を愛したことである」
20「悪を行う者はみな、光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない」

私たちは、光なるお方に招かれたのです。
そのお方に近づかねばなりません。
しかし近づけば近づくほど、心の中で過去の闇が明らかになります。
自分の中の汚いものが暴かれ、炙り出されて行きます。
それは、肉にはきついことです。

イエス様が地上で人となられた時には、悪魔はイエス様に近づいて試みることができました。
しかし、イエス様がよみがえられた今、悪魔は光なるイエス様に近づくことはできません。
あなたの中にイエス様の聖さがあるなら、同じことです。
悪霊は近づくことができません。

私はまた最近、高校の時の罪について気づかされました。
罪の告白は、何故そのようなことをしたのか、その動機を告白しなければなりません。
このような動機でその人を傷つけたのです、と。
そこでまた一枚だけ、十二単衣を脱ぐことができるのです。
イエス様は、あなたが母の胎の中にいる時からご存知です。
あなたを造ったお方ですから、あなたがどのような者か知り尽くしておられます。
イエス様の命が嫌っているものを、あなたに教えてくださいます。
それを捨てるのです。
主にその場を、明け渡さなければなりません。
あなたが、イエス様に近づく生活を続けて行けばわかることですが、悔い改めは一回では終わりません。
隙があれば、元に戻ろうとするのが、肉の性質です。
何度もやらねばなりません。
聖くなるのは、そんなに簡単なことではありません。

私たちの肉は、自分の立場が危うくなるのが、本当に嫌なのです。
決して、自分の主権、自己決定権を離そうとしません。
この10年、イエス様の性質があなたにどのように現れましたか。
どれくらい、肉の人から御霊の人にシフトしましたか。
それがそんなに簡単ではないのが、自分を見れば分かるでしょう。
訓練は一回では終わりません。
主は、親子の関係として、あなたを鞭打たれます。
そして、訓練の内容も変わって行くのです。

十字架の血による聖め

Iヨハネ1章
ヘブル10章10:8〜10
8「以上のとおり、メシアは『あなたは、いけにえやささげ物、全焼ささげ物や罪のきよめのささげ物、すなわち、律法に従って献げられる、いろいろな物を望まず、またそれらをお喜びになりませんでした』と言い」
9「それから、『今、わたしはあなたのみこころを行うために来ました』と言われました。第二のものを立てるために、初めのものを廃止されるのです」
10「このみこころに従って、イエス・メシアのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされています」

イエス様は、永遠に至るまでの、完全ないけにえとなってくださいました。
イエス様の十字架の血の聖めが、救いの唯一の手段です。
そして、これは私たちが「日々聖くされて行く!」という宣言でもあります。
天の父が完全であるように、私たちも完全に達するように、日々の生活を歩んで行かねばなりません。
自己主張や自己愛を脱ぎ捨てなければ、聖くなれません。

Iペテロ1:17〜21
18「ご存知のように、あなたがたが先祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず」
19「傷もなく汚れもない子羊のようなメシアの、尊い血によったのです」

この世は、悪魔の支配の中に置かれています。
しかし、この世から聖別された者たちが、皇民の群れです。
この世を友とするなら、イエス様の敵となります。
自分の中に闇があるから、甘いのです。

主は、そんなに甘いお方ではありません。
上帝の手の中に陥るのは、恐ろしいことです。
復讐は、主がされるからです。
旧約でイスラエルの民が裁かれたように、新約のクリスチャンも主は裁かれます。
メシアの裁きの時に、あなたは報いを受けられますか?
火を通って救われるのか、焼き尽くされるのか。
メシアの裁きで御前に立つ者の中には、見せかけのクリスチャンはいません。
見せかけのクリスチャンは、携挙の時に地上に残されるからです。
絶えず祈り、必死に主について行った者、悔い改めた者たちだけが、引き上げられるのです。

「自分は大丈夫!」と思っている人は、地上に残されます。
キリスト教は、甘くて、「信じれば大丈夫」と言っています。
でも不安だから、大丈夫だと自分に必死に言い聞かせるのです。
イエス様の憐れみのある人は、悔い改めのチャンスが与えられます。
それは、病気であったりトラブルであったりします。
悔い改めるチャンスもなく死んでしまった人は、終わってしまったのです。
アナニヤとサッピラを見てください。
札束を持って行ったのですよ。
嘘をつかなかったらよかったのです。
「人から認められたい、人に褒められたい」という欲求は、キリスト教をやった人にはあります。
人を褒めるのは、本当にまずいことなのです。

あなたが完全な者になるためには、祈りを絶やさないことです。
「私は、イエス様につながっています」という態度が必要です。
ぶどうの木のたとえと同じです。
そうしているならば、イエス様の心、思い、魂が分かって来るのです。

あなたが罪を告白し、罪咎を消され、イエス様の血潮を注がれ聖められると、上からの喜びが来ます。
あなたが解放されて、イエス様が受け入れてくださった証拠です。
天の父は、あなたを天真爛漫な上帝の子どもにしようと願っておられるのです。
罪や汚れから解放されたら、女性は美しくなり、男性は男らしくなります。
そのような者から、敵は逃げるしかありません。
敵は、イエス様に血の力を知っているからです。
イエス様の御名と血こそ、力です!
死んだ者は、罪から解放されているように、告白した罪はイエス様の十字架で終わっています。
イエス様との生きた交わりが本当に大切です。
それが中途半端だと闇が残っています。

「悔い改めばかり言わなくてよい」と言う人は、悪霊の手先です。

以下の内容は交わりの時に話されたものです。

今、全世界で多くの災いが起きて来ています。
この時代感覚を、自分の信仰とどう結び合わせるのか。
それぞれの信仰で、それぞれに祈って欲しいのです。
この国の現状と信仰をどうマッチングする(組み合わす)のか。
それは個人の自由です。
聖書はどう言っていますか。
主の目には、全ての国が憐れみの対象です。
共産主義者も同じです。
私たちは日本という国(また国民を含めて)、立てられた者のために祈らなければなりません。
福音は、全ての者に対し「悔い改めて主のもとへ立ち返れ」と言っています。
個人的な危機と世界的な危機、両方です。

預言者ヨナはユダヤ人でしたから、異邦人は滅ぶべき対象でした。
しかし、預言者はイエス様の代弁者でなければなりません。
イエス様と同じ思いを持っていなければいけないのです。
共産主義者の背後には悪魔がいます。
アガペーの愛で、彼らのことを祈らねばなりません。
そうでないと、人間的な活動となり、社会的キリスト教、自由的キリスト教になってしまいます。

まず、「信仰の一致」が必要です。
これは、「イエス様を信じる信仰の一致」です。
次には「知る一致」が必要です。
預言を求めて、「主は何を今からされようとしているのか」を知ることです。
民族意識や歴史観は、この時代を理解するのに重要な土台となります。
主のみこころを日本人として知る、また中国人として、韓国人として知るのです。
クリスチャンなら、民族が違っても一致できます。
これから偽預言者が大勢出て来るでしょう。
世界の現状を祈る時、理解の違いが出て来ます。
偽クリスチャンなら一致できません。
これは、信仰の大人にならないと無理です。
憐れみは、裁きに打ち勝つからです。
「憐れみ」に立って、世界の現状を見なくてはなりません。
裁くのは主のなさることです。
みなさんがもっと成長すれば、イエス様に問題提起することができるようになります。
世界のリーダーについても「イエス様この人をどうされるのですか」、「中国のクリスチャンをどう見られているのですか。同じ兄弟として憐れんでください」と。
韓国の裁きもそうです。
クリスチャンも巻き込まれます。
広島と長崎のクリスチャンが原子爆弾に巻き込まれたのと同じように。
主が、その国の歩みに対して裁かれます。
70年にローマ軍がエルサレムに侵攻し、大虐殺が起きました。
しかし、その前の68年ごろに、ユダヤ人原始キリスト教徒たちはペラに落ち延びました。
彼らの中に、預言者がいたのです。
彼らは、「滅ばされるから、逃げなさい」という預言者の言葉に従ったのです。
生き延びたユダヤ人原始キリスト教徒たちは、そのまま東へ向かい日本に渡ったと言われています。
だから私は言うのです、「神道の中に預言者がいるでしょう!?何故この日本の現状を、黙って見ているのか」と。
肉の愛国心は、人を上から見るようになります。あなたがそのように勧善懲悪ですっきりするなら、未熟です。
「憐れみは裁きに打ち勝つ」、必要なのはアガペーの愛です。
祈るしかありません。
その人が気づくように。

文責 菅原はれみ

礼拝message 10月18日(日)

ルカ13:22〜35

ルカ13:24,33,35
24「狭い門から入るように努めなさい。あなたがたに言いますが、多くの人が、入ろうとしても入れなくなるからです」
33「しかし、わたしは今日も明日も、その次の日も進んで行かなければならない。預言者がエルサレム以外のところで死ぬことはあり得ないのだ」
35「見よ、お前たちの家は見捨てられる。わたしはお前たちに言う。お前たちが『祝福あれ、主の御名によって来られる方に』と言う時が来るまで、決してお前たちがわたしを見ることはない』」

祝福あれ、主の御名によって来られる方に

今週、あなたはどのようにイエス様の恵みにあずかりましたか?
私は、祝祷の後にヘブル語で「バルーフ ハバ ベシェム アドナイ」と唱えるようにしています。
バルーフ ハバ(ようこそいらっしゃいました) ベシェム(〜の名によって) アドナイ(主、ヤハウェ)
これは、ルカ13:35「祝福あれ。主の名によって来られる方に」という意味です。
つまり、「このように言う時が来るなら、わたしを見るだろう」という意味でもあります。
みなさんが、普段「皇民の祈り」をした後に、この言葉を覚えて祈って欲しいのです。
「イエス様、あなたを歓迎します」という祈りです。
イエス様が、あなたの所にどうか訪ねて来て下さいますように!
そして、これがイエス様を知るヒントになって欲しいと願っています。

羊と山羊

さて、山上の垂訓には、弟子としてこうあって欲しいという内容が書いてあります。
弟子として生きることを約束したのですから、このことを覚えておいて欲しいのです。
洗礼を受けた時、あなたは、イエス様のために生きることを約束したのですよ。
あなたの内側が、イエス様の喜ばれる状態でなければ、イエス様は報いを現すことができません。
意識しないで良いことを行えるなら、主から報いを頂けます。
しかし、自意識を持ってやっているなら、報いは頂けません。

もう自己満足してしまっているからです。
それがあなたの報いです。

私は、キリスト教の中で、羊と山羊が分けられるのだと思っています。
信者と未信者ではありません。
羊は「いつ良いことをしましたか?」と言い、山羊は「いつ良いことをしなかったのですか?言ってくれたら、やったのに」と言います。
あなたがイエス様のそばにいるなら、メシアの霊に従っているので、無意識のうちに良いことを行っています。
これが御霊の実です。
愛、喜び、平安という御霊の実があなたをコントロールしているなら、自然に良いことを行っているでしょう。
あなたのうちにある、イエス様の命が、強くなって行くならば、自然にできるようになります。

あなたが、自分の古い嫌な性質に気がつき、それを悔い改めたなら、その分だけ御霊の自由を得ます。
つまり、人を一つの器と見るなら、キャパシティは決まっています。
悔い改めた分は解放されて自由になり、その量だけ御霊に満たされます。
今、どれだけ自由であるかは、あなたがどれだけ悔い改めたかです。
それは聖書の知識の量ではなく、あなたがどれだけ断食したかではありません。

霊、魂、体

Iテサロニケ5:23
「平和の上帝ご自身が、あなたがたを完全に聖なるものとしてくださいますように。あなたがたの霊、たましい、からだのすべてが、私たちの主イエス・メシアの来臨の時に、責められるところのないものとして保たれていますように」

これは、パウロの三分法と言われるものであり、人間を霊、魂、体の三つに分けています。
しかし、霊と魂を分割するのは、非常に難しいことです。

ヘブル4:12
「上帝の言葉は生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます」

イエス様からいただく新しい命は、霊的な命です。
魂は、性格や人格と呼ばれるもので、霊的には死んでいます。
私たちは、霊によって、造り主であるお方と交わるのです。
だから、自分の霊が死んでいることを認めて、悔い改めてイエス様から新しい命を受け取らなければなりません。

ただし、「自分の古い肉が本当に嫌だ、変えてください!」と叫ぶ者に限ります。
そうすると、イエス様からいただいた新しい命が、あなたに影響を及ぼし始め、命の性質が外に現れてくるのです。
十字架の血の注ぎかけを受け、邪悪な良心が聖められていくのです。
新しい命があることが、前提です。
みことばに命があり、みことばによって邪悪な良心が殺され、新しい命によってあなたは強くされていくからです。

霊か肉か

Iコリント15章44~50
44「血肉のからだで蒔かれ、霊に属する体によみがえらされるのです。血肉の体があるのですから、霊の体もあるのです」
48「土で造られた者たちはみな、この土で造られた人に似ており、天に属する者たちはみな、この天に属する方に似ています」
50「兄弟たち、私はこのことを言っておきます。血肉の体は上帝の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません」

肉の体と霊の体があり、霊の体はよみがえった時の体です。
それは新しい天と地に住むことのできる体です。
イエス様の新しい命がないと、死んだままの姿で、永遠を過ごさなければなりません。
あなたに新しい命があるならば、家族や周りの人の救いを願うはずです。

まず、あなた自身が自分で罪に気付くことが必要です。
人に言われたから、ではなくて。
命に至る悔い改めとは、イエス様が聞いてくださり、認めてくださる悔い改めです。
そのような悔い改めは、イエス様ご自身を知るきっかけとなります。
悔い改めなど重要ではない、と思っているなら、あなたはイエス様からとても遠いところにいます。
戸を閉められてからでは、遅いのですよ!間に合いません。
あなたが悔い改めて行くならば、イエス様との距離が少しずつ縮まっていきます。
新しい命が成長してくると、自分の考え方において、それが肉からなのか、霊からなのかはっきり分かるようになります。

聖書の基準

山上の垂訓は、主の命令の基準です。
ここまで厳しく自分と向き合わなければ駄目なのだよ、という基準です。
例えば、異性を見た時、何を思いイメージしたのか、と問われます。
霊的なことは、瞬時に判断されます。
その瞬間に、霊的な命をいかに聖く守るかです。
ここからしか聖い命は出て来ないのですよ。
「まあ、いいか。後から」では駄目なのです。
イエス様は、完全であれ、と言っていますね。
イエス様の思いが、あなたの思いになっていなければならないのです。

マタイ5:48
「ですから、あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい」

マタイ5:28,32
28「しかし、わたしはあなたがたに言います。情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです」
32「しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも、淫らな行い以外の理由で自分の妻を離縁する者は、妻に姦淫を犯させることになります。また、離縁された女と結婚すれば、姦淫を犯すことになるのです」

これは厳しすぎる言葉ですか?
いいえ、これが聖書の基準です。
この世の基準とは全く違います。
基準を書簡集から持ってくると、違うものになります。
聖書の基準は、福音書のイエス様のみことばを土台にしなければなりません。
書簡集は理論づけしやすいし、私たちの肉は理論づけしたいのです。
パウロの言葉を勝手に解釈すると、おかしくなります。

この世の美しい女性を見て、ちらっとでも情欲が出るなら、汚いのです。
(女性のみなさんも、男性を見る時に同じことですよ)
それは、性的なものに対する悔い改めが、まだ不十分なのです。
本当に悔い改めていたら、「綺麗だね」とか「かっこいいね」だけです。
そこまで聖められないと、この世の霊に振り回されます。
あなたは、アガペーとエロス、どちらで反応していますか。
アガペーで反応できるなら、自由を味わえます。
キリスト教の性的な問題は、男女の問題をクリアーにしないからです。
エロスをそのままにしておくからです。
イエス様にあって、そのようなものは、本能的で汚いものです。
どうかイエス様の基準を持ってください。
天の父が完全であられるように、完全を目指すのです。
基準をそれ以下にするなら、天の御国には入れません。
パウロは、必死になって自分を鞭打つと言いました。
現代クリスチャンの私たちは、恵まれてダラーっとしているのです。

主のご介入とご臨在を求める

ルカ19:37〜40
37「イエスがいよいよオリーブ山の下りにさしかかると、大勢の弟子たちはみな、自分たちが見たすべての力あるわざについて、喜びのあまりに大声で上帝を賛美し始めて」
38「こう言った。『祝福あれ、主の御名によって来られる方、王に。天には平和があるように。栄光がいと高き所にあるように』」
39「するとパリサイ人のうちの何人かが、群衆の中からイエスに向かって、『先生、あなたの弟子たちを叱ってください』」と言った」
40「イエスは答えられた。『わたしはあなたがたに言います。もしこの人たちが黙れば、石が叫びます』」

これはイエス様のエルサレム入場のシーンです。
そして、全てのものがこれを見守っています。
人が黙れば、石が叫ぶ!と、もうここで主イエス様への称賛を始めているのです!
歴史において、イスラエル十部族と原始キリスト教徒は、日本に大量に移り住みました。
しかし、帰化人はもういません。
全てが混血し、日本人となりました。
みな私たちの先祖となったのです。この埋没してしまった信仰を今、私たちはどのように証するのか。
「主よ、来たりませ!」と主のご介入とご臨在を求めるしかないのです。
「イエス様にしか、救いがない」ことを埋没させられてしまったのです。
日本の歴史の中に全てが織り込まれてしまった、イスラエル十部族と原始キリスト教徒の痕跡をいくら主張しても無駄です。
そんなことをいくら言っても、日本人はイエス様のところには戻って来ないからです。
「礼拝の中に、生活の中に、もっとはっきり御支配を現し、介入してください!」と祈り求めて欲しいのです。
甘いことばかりやっていると、災いになります。
中途半端なことばかりやっているなら、祝福が呪いに変わってしまいます。

ルカ19:45,46
45「それからイエスは宮に入って、商売人たちを追い出し始め」
46「彼らに言われた『わたしの家は祈りの家でなければならない』と書いてある。それなのに、お前たちはそれを『強盗の巣』にした」

今のキリスト教会は、強盗の巣です。
献金と金の話ばかりです。
「祈りの家」か「強盗の巣」か、どちらかにしかなれないのです!
イエス様がともにいてくださるなら、お金のことは考える必要がありません。
世は、勝てません。
主が養い、導き、戦ってくださるからです。

以下の内容は交わりの中で語られた内容です。

イエス様への期待が信仰

あなたが、イエス様に対して期待する土台がないと「信頼します」と口先で言っても何もありません。
「イエス様に期待していたら、こんなことをしてくださった!」という経験があなたに無いなら、聖書を土台とするしかありません。
例えば、一人息子を亡くしたやもめは、息子を生き返らせてもらいました。
聖書の事実、「イエス様には、こんなことができるのだ!」という事実に信頼するのです。
これがあなたの中の火薬です。
この火薬、ダイナマイトが無いと、イエス様のところに期待を持って行けません。
火薬がないと、祈りがただの空砲になります。
イエス様に対し、大変失礼なことです。
口で言っているだけなのですから。
「イエス様にはできるので、お願いします!」という期待が必要です。
この期待という信仰がないなら、イエス様はこたえられません。
クリスチャンは、体験がなければ意味がありません。
だから、本当は洗礼を受ける前に、たくさん体験しなければならないのです。
火薬、ダイナマイトがないと、あなたは疑心暗鬼になってしまいます。

古い肉を脱ぎ捨てる

主は、「古い肉を脱ぎ捨てなさい。メシアを着なさい」と言われています。
しかし、肉の自分を脱ぎ捨てることは、寂しいのです。
生まれた時からずっと愛着を持っているからです。
「こんな自分は嫌です」と言いながら、本当は肉を楽しんでいるのです。
DVを受けている人が、何故なかなか逃げられないのでしょう。
DVがないと、自分を失うように思うからです。
しかし、これをあなたが捨てて行くなら、イエス様の新しい命が、あなたを支配してくださいます。
これを経験すると、はやく脱ぎ捨てた方が良いと分かります。
古い肉から解放されるからです。
イエス様が新しくしてくださるのです。
あなたは、いったい何年かかっているのですか。
時間の無駄です。

自分で気づき、自覚した範囲でしか、イエス様に告白できません。
罪に気づくのは、本当に大切です。
気づいたならば、イエス様のところに持って行くのです。
イエス様は、ワンダフルカウンセラーです。
こっちが説明できなくても、理解してくださいます。
「何か分からないけど、重いです。苦しいです」で良いのです。
主は、私たちの弱さをご存知ですから、そのまま持って行けば良いのです。
あなたが、そうして来たならば、もうとっくに解放されています。
しかし、解放される過程で、苦しむことは重要です。
イエス様と会話する中で、自由にされ、解放され、変えられて行くのです。

イエス様のところに行きなさい

また、その人自身の性格的な問題もあります。
自分の中で一人で葛藤するのは、しんどいことです。
しかし、その葛藤を使って「イエス様のところに来なさい」と言われているのです。
あなたを本当に理解してくれるのは、イエス様だけです。
人ではありません。
イエス様の前に、本当の自分を曝け出すのは、肉には辛いことです。
しかしイエス様に聞くならば、あなたの悪いところ、癌を切り取ってくださいます。
それは痛いことですが、それによって自由にされ、楽になるのです。
あなたのイエス様が小さすぎます。
イエス様はそんなに無能なのですか!?
あなたの顔は、まるで悪霊ならなんでもできると言っているようです。
この偉大なるイエス様を知ってください。

携挙

携挙についてですが、それぞれの意見が合わなくても良いのです。
逆にはっきりしてはいけないのです。
人間の側で、時期を定めてはなりません。
順番を決めたいのは、肉です。
議論を戦わせては、いけません。
それぞれで、自分の理解をしてください。
私たちは、イエス様にあって愛しあいなさい、と言われています。
互いに徳を高め合え、と。
イエス様がいつ来られても良いように、目を覚ましていなければなりません。

必死であれ

「AIになったら、そんな仕事必要ない」と囁くのは悪霊です。
例えば、AIの翻訳だけで相手に伝わるのでしょうか。
AIは、言葉を直訳して、伝えることしかできません。
人間がその人を理解して、その人の心を伝えるのです。
それはAIにはできません。

信仰の歩みは、どこかでベストを尽くさねばなりません。
必死でなければなりません!
イエス様は、生ぬるい者を嫌われます。
そのような人は、死にかけの魚のようです。
生きているのですよ。
ベストを尽くしなさい!

文責 菅原はれみ

礼拝message 10月14日(水)

長岡京市・光明寺

黙示録21:1〜 11, 21:22〜22:7,
Iテサロニケ5章

Iテサロニケ5章
3「人々が『平和だ、安全だ』と言っているとき、妊婦に産みの苦しみが臨むように、突然の破滅が彼らを襲います。それを逃れることは決してできません」
4「しかし、兄弟たち。あなたがたは暗闇の中にいないので、その日が盗人のようにあなたがたを襲うことはありません」
9「上帝は、私たちが御怒りを受けるようにではなく、主イエス・メシアによる救いを得るように定めてくださったからです」
16「いつも喜んでいなさい」
17「絶えず祈りなさい」
18「すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、メシア・イエスにあって上帝があなたがたに望んでおられることです」
23「平和の上帝ご自身が、あなたがたを完全に聖なるものとしてくださいますように。あなたがたの霊、たましい、からだのすべてが、私たちの主イエス・メシアの来臨のときに、責められるところのないものとして保たれていますように」

最後の時

今、この時どのような時代であるのか。
まさに、最後の時が火蓋を切って落とされたような時代です。
今のこの時点で弟子である者は、この世と違う生き方をしていなければなりません。
聖書は急に全てが終わるとは言っていません。
主はひとつひとつ御心を為しておられるのです。
全てのことにおいて主の御名が褒め称えられ、全ての人が主を畏れ敬うようにと、持ち運んでおられるのです。
最後の時は、未信者にとっては恐るべきお方が全世界を支配しておられるのを知る時であり、信仰者にとっては報いを受ける時です。
パウロのように、命の冠が私を待っている、と言えたら、幸いです。
しかし、多くのクリスチャンがそのようではありません。
「来ていただきたいけど、今来てもらったら困ります。
まだ準備できていません」という風に不安の方が大きい顔をしています。
現代クリスチャンは、まるで「良い報いよりも厳しい言葉が待っているのでは」と悲鳴をあげているようです。
あなたは、どちらですか。
ご再臨を期待してウキウキして待っている顔ですか、それとも不安でいっぱいの顔ですか。
あなたが、みことばを本当に信じているのなら、「主よ。来たりませ!」と言えるはずです。

イエス様に従おうとしているなら、いつも喜んで、絶えず祈って、感謝するのが、自然な生活となっているはずです。
年数からすれば当然です。
それが上帝の子どもたちの姿だからです。

何があっても動じない、地に足をつけてしっかり生きている。
そして人を助けることができる、これが弟子です。
しかし、多くのクリスチャンの言葉はアドバイスにもなっていません。
その人を助けて引き上げる言葉になっていないと駄目なのですよ。
「こうあるべきだ!」と押し付けて、さらにその人を苦しめるのです。
誰が、このような人の生き方に倣いたいと思いますか?

コリントの教会では「私はパウロにつく、アポロにつく」などと言って基準がめちゃくちゃになっていました。(Iコリント1章)
携挙に対する混乱があったのです。
ある教会では、今すぐに再臨があると、極端に走り、信徒を混乱させています。
携挙を待ち望んでいるなら、落ち着いた生活をすべきです!

上帝の事柄は前進している

イエス様のみもとに行くことがあなたの喜びなら、意味のないことは起こらないと分かります。
全てが主のご計画の中で動かされています。
自分が「順番通り行っていないじゃないか」と思っても、上帝の事柄は後退しているのではなく、前進しているのです。

さて、これから奇跡を行う人々がたくさん出てくるでしょう。
自称預言者が来るのです。
本物か偽物か、どうやって確かめるのでしょうか。
聖書には、人として来られたイエスを告白しない霊は信じるな、とあります。(Iヨハネ 4:2)
これは、どういうことでしょうか。
イエス様は、人としての模範を現されました。
弟子たちの足を洗われたのです。
しもべとして来られたことを、自ら示されたのです。
聖書が書かれた当時も、偽預言者がどんどん出てきました。
「俺について来い!」という人は、偽物です。
謙遜さをもってみことばを伝えようとしている人が、主に遣わされた人です。
男性たちは権力に弱く、すぐに偉くなりたがります。
しかし、人々に仕えることができなければ無理です。

誰に仕えているのか

私は、お金のことを言うのが一番嫌いです。
人生において、イエス様と儲け、どちらに仕えているのか、ものすごく葛藤した時がありました。
結婚して子どもたちが生まれ、私は家族を食べさせるために働きました。
私の中では、イエス様が全責任を取ってくださる!という信仰がありました。
しかし、妻はそうではありませんでした。
貧しさを感謝して受け取れませんでした。
イエス様がくださった韓国人の妻は、自分より信仰的だと、私は期待していました。
しかし、現実はそうではありませんでした。
私の中では、「主のしもべとしてやるべきことがある」というプレッシャーが日々大きくなって行くのに、現実の生活は、妻と子どもを食べさせるために貧しい中で働いたのです。
妻は、材料を買えないのでキムチも食べることができず、毎日すいとんを食べていました。
人間的にはかわいそうでしたが、「イエス様に懸けていたら大丈夫だよ!」と私は叫びたかったのです。
私はこの時、間違ったのだと思います。
しかし、イエス様のお許しの中での訓練でした。
この現場にいる時は、全てが暗中模索でした。
信仰と現実の間で、自分の中でつじつまが合いませんでした。
しかし今は、感謝しかありません。
イエス様に召された者は、イエス様が責任を取ってくださるのです。
イエス様に懸けているなら、食べ物がなければ死んでいけば良い、と私は思っています。
私は、自分の報いは期待していません。
ただ、主のミッションを地上で果たせたらそれで良いのです。
「この偉大なお方を、イエス様を知ることができた!」という喜びだけで私は十分なのです。
この屑のような私が、イエス様を知ることができたのです。
そして、主が使命まで委ねてくださったのです。
それだけで十分なのです。
本当にイエス様を知れば、それだけで良い、と思うのです。

天の御国がはっきりしているのか

私たちは、新しい天と新しい地に住むのです。
これが天国です。
イエス様と天の父にお会いできる!という喜びがあなたの中にありますか。
このために私たちは生きているのです。
神話ではないのですよ。
現実に、そこを目指して私たちは旅をしているのです。
日本のキリスト教は、そんなものは、はっきりしていません。
仏教徒と同じです。
ぼや〜っとしていて夢のようです。
帰る場所が、どんな所かはっきり分かっていなければ、喜べません。
あなたの中で、天の御国が映像のように広がっていなければ、いったいどこに行くのですか?
だからそんな喜びのない辛気臭い顔をしているのです。
全ては延々と繰り返し、その中で悟りを得る・・・それなら仏教です。
この世のものは空蝉です。
しかしクリスチャンなら、違うはずですよね!?

私は、イエス様を通して、新しい天と地を垣間見れたらそれで良い、天国の門番のお手伝いでもできれば良い、と思っています。

主が全世界をご支配されている

ヨーロッパ諸国が、神をも畏れない所業の中国共産党に、ひとこと言って欲しいと求めました。
しかし、ローマ教皇は拒み、中国共産党が司教を選ぶことを許しました。
もう終わりです。
日本では、プロテスタントよりカトリックの方がマシだと思われていますが、どうでしょうか。
共産主義の毛沢東は、いったい何億人を殺しましたか。
グローバルな国、ディープステイトとアメリカのトランプ政権は戦っています。
悪魔は、一人でも多くの人間を殺すことが目的です。
まるで、悪魔の国の力が、公の力として世界を席巻しているようです。
上帝の国と力が、隠されているように見えます。
しかし、この二つは、共存しています。
闇の力が大きければ大きいほど、目には見えなくても、実際はイエス様の力が全世界をご支配されているのです。

緊張関係の中の祈り

この世に馴染んでくると、クリスチャンは緊張を嫌うようになります。
だから、絶えず祈れ!と言われているのです。
絶えず緊張して、イエス様の声を聞いているのです。
十字架の前、イエス様が血を流して祈っておられる時、弟子たちは一時間も起きて祈れませんでした。
イエス様は、最後の祈りの戦いを、弟子たちに見せようとされたのです。
しかし、弟子たちは寝ました。

みなさんは、本当にお祈りをしていません。
祈りは、緊張感の厳しい中に入っていくという事です。
寝ようと思っても、その緊張感は夢の中でも続きます。
イエス様の弟子として、ここまで熟達してください。
祈りは、糸電話と同じです。
糸がピンと張っていないと、相手の声が聞こえません。
同じように、イエス様との緊張関係の中で祈らないと、御声は聞こえません。
絶えずイエス様を呼ぶ者が、救われるのです。

Iヨハネ5:4
「上帝から生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です」

この信仰とは何ですか。
イエス様と繋がっている事です。
あなたは、イエス様の御声が聞こえる状態ですか?
糸がたるんでいるなら、聞こえるはずがありません。
そんな信仰では、世には絶対勝てません。

中国共産党の、千人計画、孔子学院などで、日本は骨抜きにされています。
経団連もそうです。
「剥ぎ取られるのは分かっているけど、離れられない」というのが、日本の現状でしょう。

なぜ日本は、こんな事になっているのでしょうか。
日本は全世界の中で、特別な立場に置かれているのだと、私は思っています。
地理学的にも、特別な国です。
ユダヤ人の埴輪が出土し、群馬県には騎馬民族が移住して来ています。
歴史的な事を言えば、神輿や祇園祭など、契約の箱も隠されているのかもしれません。
明治天皇が、神道はユダヤ教だと発言されましたが、その事実も隠蔽されています。
世界で、悪魔が一番潰したい国は、日本です。

天国は現実にある

クリスチャンの基準は、仏教的な天国を求めているのではない、という事です。
自分が帰るべき天国がどのような所か説明できないなら、あなたは国籍がないのと同じです。
私たちは、アブラハムの子孫として、天の御国を目指しているのです。
アブラハムは、いかに財産が増えようとも、天幕生活を変えませんでした。
地上の人生は束の間であり、彼は生き方でそれを証したのです。
天の父はそれを喜ばれました。
彼は、天国に帰るのを楽しみにしていたのです。
それは、エデンの園以上の素晴らしいものだったのです。

もし、地上でぼや〜としていたら、死んだらあなたはどこに行くのですか?
天に帰るからこそ、「地上でイエス様に喜ばれることをしたい」と願うのです。人に褒められたら終わりですよ。
あなたの実際の生活において、天国が現実になれば、旅人になれます。
この世は過ぎ去って行くのです。
あなたは、本当に全知全能の偉大なお方を、信じているのですか。
そうなら、お金のことなど言いたくないはずです。
お金のことを心配するなら、あなたは不信仰です。

Iコリント14:20〜25
24「しかし、皆が預言をするなら、信じていない人や初心の人が入って来たとき、その人は皆に誤りを指摘され、皆に問いただされ」
25「心の秘密があらわにされます。こうして、『上帝が確かにあなたがたの中におられる』といい、ひれ伏して上帝を拝むでしょう」

イエス様が喜ばれる交わりがそこにあるなら(嘘のない、真実な、アガペーの愛が存在する交わりなら)、未信者や中途半端なクリスチャンが入って来たら、どうなりますか。
正直な言葉が、その人の心に刺さります。
イエス様の御臨在が、その人の嘘を暴くからです。
そしてその場に居づらくなります。
その一方でイエス様にある真実の交わりを見て、「厳しいな。でも良いなあ。うらやましい」と思うでしょう。
そして、「ここにイエス様がおられる!」とひれ伏して主を拝むでしょう。

目標

あなたは、いったい人に何を伝えると言うのですか?
あなたが確信を持ち、「永遠の命をいただいて、一緒に天国に帰ろう!」と言えないなら、人に伝わる訳がないでしょう。
伝道なんて無理です。
この世の現実は、悪魔の支配の中にあるので、平安、平和、希望などありません。
天の御国に、故郷に、帰ることが上帝の子どもたちの目標です。
それなのに、天の御国がはっきり見えてないのです。
「この世の幸せ」があなたの目標なら、太秦之宮には要りません。
この世を友とするのか、イエス様を主とするのか、選ばねばなりません。

以下の内容は、交わりの時に話されたものです。

あなたがイエス様の弟子として行動したいなら、衝動的に動くべきではありません。
良かれと思って衝動的に行動してしまうと、「私がうまくやった」と自信になり、この世の霊があなたをコントロールするからです。
イエス様の導きは、そうではありません。その場でイエス様に従うのです。
「結果はこうなる」と自分の思いで期待すべきではありません。
あなたは、待たなければなりません。
自分が、良いと思うことについては、待つことを学ぶべきです。
この肉の衝動を殺すのが、とても難しいのです。
キリスト教は、「自分勝手な衝動」を「導き」と言います。
これは最悪です。
そして「やりたくない」と思う時こそ、従うのです。
つまり、自分が良いと思うことは勝手にやってはならず、やりたくないと思う時は、嫌でもやるのです。
これが自分を殺すという事です。

文責 菅原はれみ

礼拝message 10月11日(日)

使徒19:1〜20

使徒19:8~20
8「パウロは会堂に入って、三か月の間大胆に語り、上帝の国について論じて、人々を説得しようと努めた」
18「そして、信仰に入った人たちが大勢やって来て、自分たちのしていた行為を告白し、明らかにした」
19「また魔術を行っていた者たちが多数、その書物を持って来て、皆の前で焼き捨てた。その値段を合計すると、銀貨五万枚になった」
20「こうして、主のことばは力強く広まり、勢いを得ていった」

今の日本の現状は、偶然ではありません。
主の摂理の中における裁きの結果です。
日本の歴史の中に、イスラエル十部族が来ていたこと、原始キリスト教徒が来ていたこと、その痕跡が日本各地で発見されています。
また、現代に伝わっている祇園祭、八坂神社、三柱の鳥居、など数えきれません。
日本文化の土台は、ユダヤ教もキリスト教も、全てがミックスされてないまぜになっています。
新約の私たちは、主の栄光を褒め称えるため、主を礼拝するために存在しています。
しかし今、イエス様が褒め称えられているものは、どこにあるのですか!?
日本のどこで、イエス様の栄光が現されているのですか!?
松尾大社は、秦氏の氏神であり、能が奉納されています。
神を現すために、翁の見えない世界を能の中に表現しています。
神道の奥義は、「一にして多、多にして一」という、ユダヤ教が土台であることを現しています。
京都の太秦という地名は、イエス・メシアがなまったものです。
私は、主からいただいた使命として、この京都で錦の御旗を立て、「耶蘇上帝會 太秦之宮」という看板を掲げています。
サタンや悪霊は、決してイエス様の栄光を現して欲しくないのです。
この日本で、主の栄光が現されるために、私は信仰を持って、目に見えないものを見ようとしています。
私は、ここに命を懸けているのです。
私が太秦之宮の御旗を立てた時、神学校の同僚や牧師たちから批判を受け「何故?おかしくないか?」と反発されました。
イエス様ご自身の栄光を現そうとするクリスチャンが、いかに少ないか!
彼らは
教会をやっているだけで、イエス様を求めているわけではないのです。

私は、信仰が幼い時、人にイエス様のことを言えませんでした。
言おうすると、プレッシャーがかかり、言えなかったのです。
戦いは、目に見えるものではありません。

みことばかパンか

イエス様が御生涯を始められた時、サタンはルシファーとして、麗しい姿でイエス様の前に立ちました。
この時初めて、イエス様とサタンがはっきり向き合ったのです。
サタンは、イエス様に間違いを犯させようとして、誘惑しました。
サタンは弱いところを試しますよ。

マタイ4:1〜10
3「すると、試みる者が近づいて来て言った。『あなたが上帝の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい』」
4「イエスは答えられた。『人はパンだけで生きるのではなく、上帝の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある」

最初のチャレンジは、聖書のみ言葉によって生きることを学んでいるのか、ということでした。
あなたは、聖書を通して語っておられるお方を信頼して生きることを学んでいますか。
みことばか、パンかです。

サタンはみことばを使う

マタイ4:5〜7
5「すると悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて」
6「こう言った。『あなたが上帝の子なら、下に身を投げなさい。”上帝はあなたのためにみ使いたちに命じられる。彼らはその両手にあなたをのせ、あなたの足が石に打ち当たらないようにする”と書いてあるから』」
7「イエスは言われた。『あなたの上帝である主を試みてはならない』とも書いてある」

ここで、サタンは一瞬で、イエス様を運んでいるのがわかります。
現実ですよ、みなさん信じていますか?
上帝の子ならば、こうしてみたら?できるでしょう?という誘惑です。
このレベルになると、かなり成熟した者に対してしかありません。
ここでの注意は、サタンはみことばを使うということです。
「聖書には、こう書いてあるからやってみたら?」と言うのです。
「病人に手を置けば癒される、と聖書には書いてあるから手を置いてみたら?」と囁くのです。
しかし、イエス様が「しなさい」とはっきり言われるまで、やってはならないのです。
私も、多く失敗して、今日があります。

ひれ伏して拝むなら

マタイ4:8〜10
8「悪魔はまた、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての王国とその栄華を見せて」
9「こう言った。『もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべてあなたにあげよう』」
10「そこでイエスは言われた。『下がれ、サタン。”あなたの上帝である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい”と書いてある』」

この世の全てのものは、空中の権を持つ、サタンの手の中にあります。
サタンは、「イエス様の贖いは失敗したのだよ」と人間に見せたいのです。

私たちは、舞台に立つ役者です。
み使いたちがそれを観ているのです。
サタンは、「ひれ伏して私を拝むなら」と言いました。
それが悪魔礼拝です。
中国の共産党員は、巨額の富を得ています。
自分さえ金が儲かれば良いのです。
今、世界で起きていることを表面的に見れば、分からないことばかりです。
しかし、サタンはいろんなところでボロを出します。
サタンにとっては、中国共産党員は、ただの配下です。
そのことが暴露されて行くのを、サタンは黙って見ているでしょうか。
そして対立するアメリカの中にいる腐った人々、いったいこのもつれた姿は何でしょうか。
蛇にもいろんな種類がいるでしょう。
それと同じです。
蛇どうしが絡み合って、共食いをしているのです。
主は、放蕩息子のように、人間として本心に目覚めるのを待っておられるのです。
いかに自分が惨めか、気づかせるためです。
これが、救いのプロセスです。
混沌としたこの時代、何故私たちは祈るのか。
テレビでは、ほとんど報道しない中国の現実は、何なのか。
人間とは何ですか?
苦しみがないと、本心に立ち返らないのです。

この世が混乱すればするほど、目まぐるしく時が経ちます。
いつの間にか歳をとってしまいます。
あなたが今、どのようなことを学び、何を考え、何を気づき、どのように価値観が変わったのか。
あなたは、自分の人生の方向性を見出しましたか?

メディアを使って、この世の娯楽ばかりが報道され、それに気を取られているうちに、あっという間に時が過ぎるのです。
だから、若い時にあなたの造り主を知れ!と言われているのです。
人間は、イエス様のために造られたのだからです。

イエス様の栄光を現わせ

Iコリント6:20
「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって上帝の栄光を現しなさい」

私たちは、イエス様の命という代価を払って、買い取られた者です。
あなたを、買い取った方がおられるのです。
あなたは自分のものではなくて、買い取った方のものです。
私たちが生きる第一の目的、目標は、「どこにいてもイエス様の栄光を現す」ことです。
このみことばが、心に書き記されていないのです。
書き記されていたら、みなさんの顔つきは今と違うでしょう!?
仕事もその他のことも、イエス様に助けられてばかりです。
イエス様の素晴らしさを、あなたのからだをもって現しなさい!
そのために生きているのですよ。
これは、能動的な事柄です。
受け身ではありません。
そうでないと、祈っていることも、やっていることも、的外れになってしまいます。

信仰は実践

使徒19:11,12
11「上帝はパウロの手によって、驚くべき力あるわざを行われた」
12「彼が身につけていた手ぬぐいや前掛けを、持って行って病人たちに当てると、病気が去り、悪霊も出ていくほどであった」

これはどうですか。
ご利益がありますね。
一歩間違えると、霊能者や呪い師になってしまいます。
パウロは手を置いて祈りましたが、それは彼が使徒であったので、許されていたのです。
現代の牧師や宣教師が、軽々しく手を置いて祈ってはなりません。
ペテロのように「私にあるものをあげよう」と言えたらそれで良いのです。
この「あるもの」とは、イエス様のお名前に力があるという確信です。
あなたのうちにおられるイエス様が軟弱なのです。
内なるイエス様の命が、はっきりと表示されるくらいに、強くなることを求めてください。

私も、遠くにいる親戚が病気で苦しんでいる時、祈ってからハンカチを送りました。
義理の兄の頭に乗せて欲しいと。
もちろん、主にお聞きしてから、信仰によって送ったのです。
(聖書に書いてあるから、ではありません)
このように、困っている人に対して、祈って何かを送ってあげるのも大切だと私は思っています。
信仰は実践だからです。
置かれたその場で、癒しや力あるわざが現されることを、主は願っておられます。

ことばではなく力

Iコリント4:19 〜20
19「しかし、主のみこころであれば、すぐにでもあなたがたのところに行きます。そして、思い上がっている人たちの、ことばではなく力を見せてもらいましょう」
20「上帝の国は、ことばではなく、力にあるのです」

思い上がっている人たちとは、主にそこまで信頼されてないのに、勝手にやっていた人たちのことです。
パウロは、私たちに彼の生き方を思い起こさせてくれます。
そして、テモテはその通りにやって来たのです。
それは、同じように私たちにも要求されていることです。

信仰は大胆さ

イエス様の、サタンに対する態度はどうでしたか?
怖気付いてなどおられません。
イエス様にある大胆さが、いかに必要か!

ヘブル4:14〜16
14「さて、私たちには、もろもろの天を通られた、上帝の子イエスという偉大な大祭司がおられるのですから、信仰の告白を堅く保とうではありませんか」
15「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです」
16「ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」

主に近づき、祈って呼ぶ時、天の父への大胆さが必要なのです。

黙示録21:5〜8
8「しかし、臆病な者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、淫らなことを行う者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者たちが受ける分は、火と硫黄の燃える池の中にある。これが第二の死である」

生まれつきの自分は、屁っ放り腰で逃げようとします。
臆病者は信仰者ではありません。
自分を捨て、十字架を背負っている者だけが、大胆になれるのです。
信仰による失敗は許されます。
しかし、臆病者は失敗しません。
自己中心で自己保身のことしか考えないからです。
自分が損をしない、傷つかないで済む範囲から出ません。
大胆な者は、たくさん失敗するでしょう。
ですが悔い改めて、どんどん前に進むしかないのです。
それが信仰です。

ペテロは、イエス様のためなら死ぬことも厭わない、と言いました。
しかし、十字架の前に裏切ってしまいました。
人間の頑張りでは、無理なのです。
火と聖霊のバプテスマを受け、生まれ変わり、新しい命を持っている者だけができるのです。
イエス様は、私たちに助け主を送るために、栄光の天の御座につかなければならなかったのです。
そうでないと、ご聖霊が遣わされないからです。

主が敵となられる

イザヤ40:11
「主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、懐に抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く」

イザヤ49:15
「女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとえ女たちが忘れても、このわたしは、あなたを忘れない」

イザヤ63:7〜10
9「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、主の臨在のみ使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって、主は彼らを贖い、昔からずっと彼らを背負い、担ってくださった」
10「しかし彼らは逆らって、主の聖なる御霊を悲しませたので、主は彼らの敵となり、自ら彼らと戦われた」

私が苦しむ時、主がいつも共にいてくださいました。
だから今、私はこの太秦の地にいるのです。
主が、ここまで導いてくださったのです。
そして、どうか本物の弟子になってください。
そうでないと、イエス様があなたの敵となられます。
偽クリスチャンの悲惨な姿です。

主は、あなたを忘れたりなさいません。
共に苦しみを分かち合ってくださいます。
だから、大胆に恵みの御座に行こうではありませんか。
小心者は駄目です。
信仰に大切なのは、大胆さです。

文責 菅原はれみ