耶蘇上帝會 太秦之宮

京都・太秦を拠点とする日本のキリスト教会です

礼拝message 7月29日(水)

礼拝message 7月29日(水)

ロマ3:9~31

義人はいない

ロマ3:9〜18
9「では、どうなのでしょう。私たちにすぐれているところはあるのでしょうか。全くありません。私たちがすでに指摘したように、ユダヤ人もギリシャ人も、すべての人が罪の下にあるからです」
10「次のように書いてある通りです。『義人はいない。一人もいない」
11「悟る者はいない。上帝を求める者はいない」
12「すべての者が離れて行き、誰もかれも無用の者となった。善を行う者はいない。誰一人いない」
13「彼らの喉は開いた墓。彼らはその舌で欺く。彼らの唇の下には、まむしの毒がある」
14「彼らの口は、呪いと苦味に満ちている」
15「彼らの足は血を流すのに速く」
16「彼らの道には破壊と悲惨がある」
17「彼らは平和の道を知らない」
18「彼らの目の前には、上帝に対する恐れがない」

主のご計画

主のご計画とみ心が、いかにはかり知れないものか。
特別にコロナウィルスが全世界に広がることがゆるされ、多くの人が亡くなりました。
この禍いの中にすべての人が巻き込まれている今、私たちはただただ主イエス様の憐れみとみ心の中で生かされているのです。

選民意識

世界的に見て、日本が被害が少ないのは、「日本が素晴らしいから」ではありません。
私たちはへりくだった群れであるべきで、他民族を見下していてはなりません。
イエス様に呼ばれ選ばれているならば、自惚れて「選民意識」を持つなどあり得ません。
イエス様を少しでも知っているならば、「私みたいなどうしようもない者を選んでくださった」と感謝するからです。

イエス様の栄光

以前にも「選民」を旗印として誇り、自惚れていたキリスト教グループがありましたが、今はほとんど残っていません。聖書の中から都合の良い一部を取り出して強調すると、必ずおかしくなってしまいます。
太秦之宮が目指すものは、「主イエス様が褒め称えられ、主イエス様が栄光をお受けになる」ことだけです

他民族の羨望の的

イスラエル民族が選ばれたのは、偉そうにするためではありませんでした。
旧約の律法を守ることによって、祝福されて幸せになり、他の民族が羨ましく思うためだったのです。
同じように私たちも、ただ恵みによって救われたのであって「私が素晴らしいから救われた」のでは決してありません。
「選ばれた」ことに信仰の力点を置くと、あなたは成長しません。
柔らかい素直な心で、み言葉を食べるのです。

共に生きる

「イエス様から決して離れない!」というライフスタイルを身につけてください。
どのような失敗をしても「イエス様の命令を守ろう、ついて行こう」と、イエス様と一緒に生きることです。
教会に行ってるから、牧師、宣教師だから大丈夫…などはあり得ません。

「義」という漢字は、「我」の上に「羊」です。
私の支配者は、子羊なるイエス様です。だから「我」の上に「羊」があるのです。非常にユダヤ的です。
しかし、現代のクリスチャンは、イエス様と自分が対等になっているのではないですか。イエス様のことを「マイ フレンド」と呼んでみたり。
私たちは、イエス様をフレンド(友達)と言えるような立場ではありません。
人間中心に聖書を読むと、このようになってしまいます。
すべてが「私を愛してくださったから」と私が中心になります。
しかし、これは間違いです。

聖書を利用する

キリスト教カルトは、自分たちの教義を守る鎧甲(よろいかぶと)として、聖書を使います。
聖書を教義の外側にカバーとして巻いてしまうのです。
すると中心におられるべき「主なるイエス様」が無いことになります。
そうなると、必ず聖書からずれて行きます。
韓国の教会に多いのですが「牧師に従うことは、イエス様に従うことだ!」と勘違いし、牧師崇拝になるのです。
そうなると、恐怖感から「違う。おかしい」と言えなくなってしまいます。
日本人は仲間外れにされるのは、嫌なのです。
「和を以て貴しと為す」、つまり「和」の中にいると安心するのです。

上帝の怒り

ロマ3:24〜25
24「上帝の恵みにより、メシア・イエスによる贖いを通して、値なしに義と認められるからです」
25「上帝はこの方を、信仰によって受けるべき、血によるなだめの捧げものとして公に示されました。ご自分の義を明らかにされるためです。上帝は忍耐をもって、これまで犯されてきた罪を見逃してこられたのです」

ロマ5:6〜11
8「しかし、私たちがまだ罪人であった時、メシアが私たちのために死なれたことによって、上帝は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます」
9「ですから、今、メシアの血によって義と認められた私たちが、この方によって上帝の怒りから救われるのは、なおいっそう確かなことです」
10「敵であった私たちが、み子の死によって上帝と和解させていただいたのなら、和解させていただいた私たちが、み子の命によって救われるのは、なおいっそう確かなことです」

なだめもの

上帝の愛と怒りは調和しています。
イエス様は私たちのために、上帝の怒りをなだめるために「なだめの捧げもの」となってくださいました。
なだめるとは「1.怒りや不満などをやわらげ静める、事が荒立たないように取りなす 2.罪などに対して寛大な処置をとる」という意味です。
聖書は何と言っていますか。
「私たちには、上帝の怒りをなだめられない」と言っています。
つまり、「何をやっても無駄。何もできない。正しいこともできない。
許してもらうことも怒りを静めることも全部無理」ということです。

イエス様の血

だからこれに対してキリスト教カルトは、「神の怒りをなだめ、喜んでもらうために、何かをするべき。自分が何かをもってあがなうべき」と持ってきます。
しかし私たちは誰も、上帝の怒りをなだめられません。

ロマ3:25「上帝はこの方を、信仰によって受けるべき、血によるなだめの捧げものとして公に示されました。(前半)」
ロマ5:9「ですから、今、メシアの血によって義と認められた私たちが、この方によって上帝の怒りから救われるのは、なおいっそう確かなことです」

どんな奉仕と伝道をしたとしても、何の意味もありません。
(それが救われる根拠にはなりません)
イエス様の血のみが、上帝の怒りをなだめられるのです。

上帝の子羊

イエス様は、世の罪を取り除く上帝の子羊として、地上に来られました。
ご自分を聖い生贄として捧げて、血を流されました。
その血だけが、あなたに対する上帝の怒りをなだめることができるのです。

報いは救いではない

では、良い行いをすれば、救われるのでしょうか?聖書にはどう書いてありますか。
良きサマリア人は、救われたとは書いてありません。
一杯の水のたとえもそうです。「報い」は、「救い」ではないからです。
その人自身が、イエス様を自分の救い主として受け入れなければなりません。
弟子としての生き方を選び取って初めて、あなたは義と認められるからです。
天の門は、イエス様に生涯従ってきた弟子に対してのみ、開くのです。

マタイ7:21〜23

21「わたしに向かって、『主よ、主よ』という者がみな、天のみ国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみ心を行う者が入るのです」
22「その日には多くの者がわたしに向かって言うでしょう『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡をおこなったではありませんか』」
23「しかし、わたしはその時、彼らにはっきりと言います。『わたしはお前たちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け』」

主の喜ばれることは

「私は教会を建てました」「教会のメンバーを増やしました」「献金しました」などと言っても無駄です。
イエス様は、「不義を為すものよ。出て行け!」と言われるでしょう。
「イエス様。あなたが喜ばれることは何でしょうか」と常に聞くのが義人の態度です。
主イエス様ご自身が義であり、私たちの側に義はないからです。
聖書は繰り返し私たちが分かる様に書いてあるのに、それを見えなくさせるのが、この世の霊です。

ヨハネ3:16
「上帝は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それはみ子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠の命を持つためである」

イエス様を誇る

上帝は、ご自分の怒りをなだめるために、ご自分のみ子を遣わして、ご自分の怒りをなだめられたのです。
私たちは、何もしていません。
救いは、「イエス様を受け入れます。感謝します!」という態度をとる者にだけ与えられます。
だから私たちは、イエス様だけを誇りとするのです。
イエス様の血だけが、上帝の満足される生贄なのです。

預言者たちの希望

旧約の預言者たちは、イエス様の血が流されて、人類の罪が贖われるのを、待ち望んでいました。
それが彼らの希望でした。
そしてイエス様が人間として地上に来られた時、彼らはじっとイエス様の人としてのご生涯を見ていたのです。
イエス様が、人間として罪のない一生を送ることができるのか!?
そして上帝の聖い生贄としてご自分を捧げられるのか!?
なんという緊迫感だったでしょうか。同じ様に、私たちも見られているのです。

メシアの血による赦し

Iペテロ1:13〜21
13「ですから、あなたがたは心を引き締め、身を慎み、イエス・メシアが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい」
14「従順な子どもとなり、以前、無知であったときの欲望に従わず」
15「むしろ、あなたがたを召された聖なる方に倣い、あなた方自身、生活のすべてにおいて聖なる者となりなさい」
18「ご存知の様に、あなた方が先祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず」
19「傷もなく汚れもない子羊のようなメシアの、尊い血によったのです」

上帝の怒りについて、キリスト教学者は何と言っているでしょうか。
「神は本質的に聖いお方であるゆえに、罪を黙許黙認することができない」
上帝は聖いお方であるので、罪を赦すことができない、必ず報いるお方なのです。
十戒は「義」を具体的に示したものです。

日本の偶像礼拝

では、日本について考えて見ましょう。

十戒 1.あなたには わたしのほかに 他の神々があってはならない。 

日本には、やおよろず(八百万)の神々があります。
天照大神も大日如来も同じ神です。
人間の趣向に従って、神々を作ってしまうからこんなに多くなるのです。

まず、日本にはユダヤの土台がガッチリあります。日本に渡って来たユダヤ人の大きな波で言うと、
1.イスラエル十部族(サマリヤ人)
2.原始キリスト教徒(弓月の君に率いられた秦氏)

十部族の宗教的布石

イスラエル十部族は、サマリヤ人です。
彼らは、多くの神々を拝む混交宗教ですから、サマリヤ人の宗教をそのまま日本に浸透させました。
古事記と旧約聖書がよく似ているのはそのせいです。
彼らは「サマリヤ五書」をそのまま、宗教的な「布石」として日本に置きました。

原始キリスト教徒の妥協

原始キリスト教徒の秦氏たちが日本に渡って来た時、彼らは分かったはずです。
「ユダヤ人」が自分たちより先に来ている、と。
宗教的な土台は同じだからです。だから喧嘩はしませんでした。
宗教的には、手を結んだのです。
しかし、政治的な権力争いは激しくやり合いました。

隠蔽

何故、天皇陛下の大嘗祭で納められた「あらたえ」(麻で作った着物。徳島から納める)を、京都の広隆寺の聖徳太子の像に着せるのですか。
「宗教的には、勝った負けたとか言うのはやめよう。
我々がユダヤ人であるのがバレるとまずい!」といったところでしょうか。
こうやって事実を隠蔽するのです。

ネストリウス派ではない?

秦氏が、生きているイエス様を中心とする群れだったら、決してイスラエル十部族とは妥協できなかったでしょう。
彼らがもしネストリウス派だったら、マリア崇拝はしないので、手を結ぶことはないからです。
彼らが「イエス様しかない!」と言うなら「和」を乱し、激しい戦いになったはずです。
ところが、秦氏はそうはしませんでした。
秦氏は、世的原始キリスト教徒であり、ネストリウス派ではなかったのだと思います。

天の聖所

上帝の怒りは、私たちには説明できません。
何故なら、天地が造られる前に、サタンと呼ばれるルシファーの反逆が土台となっているからです。
上帝の怒りは、「み使いの世界」の問題です。
ルシファーは、「天の聖所」に祭司として仕える相当位の高いみ使いだったと思われます。
サタンが上帝に反逆して、地上に落とされた時、彼は「天の聖所」を汚してしまった。
だからイエス様が十字架で血を流され、復活された後に天に上り、天の聖所を聖める必要があったのでは、と私は思っています。
だからマグダラのマリアに、「わたしに触ってはなりません」と言われたのでしょう。

人間の無力

上帝の怒りは、ご自身が生贄をご用意しなければ、満足されないものです。(人間の側では何もできません)
上帝は、ご自分の怒りの「なだめもの」として、み子の血を要求されるのです。
それが分かるなら、「上帝の怒りに対して、私は何もできない。イエス様にしがみつくしかない!」と気が付くでしょう。
「信じればよい」ではありません!
あなた自身の命を捧げる服従しかないのです。
イエス様への従順がなければ、幸せな豊かな人生などありません。

贖いの素晴らしさ

ヨハネ3:36「み子を信じる者は、永遠の命を持っているが、み子に聞き従わない者は命を見ることがなく、上帝の怒りがその上にとどまる」

イエス様が「死から蘇られた」という事実は、人間側が考えられるレベルではありません。
スケールの大きさが違います。
天の父は、み子の贖いがどれほど素晴らしいか、みなさんの生活を通して証明したいと思われています。
そして、それを「み使いたち」、特に「サタンに従い反逆したみ使いたち」に見せたいと思われているのです。
人間の側で失敗してはなりません。
人類には、イエス様による救いの道しかないからです。

この世の宗教

サタンの側は、何としてもイエス様を隠したいのです。
この世の宗教を使ってイエス様を貶め、「キリストは失敗したんだよ。彼にひざまずくなんてあり得ない」と人々を騙しています。いくつかそのようかカルトが思い浮かびますね。
太秦の群れを、み使いたちはじーっと見ています。
「どうするの?何やるの?どうなるの?イエス様に真剣になってないよ…」と。
みなさんはどうですか?イエス様に命を捧げていますか?

周りの人々に

イエス様は、将来と希望を与えるお方です。
それを体験しなさい、とイエス様が期待しておられるのです。
その事実を、あなたの周りの人々に見せてあげて欲しいと、願っておられるのです。

怒りか平安か

祈りの中で、文句ばかりつぶやいていると、上帝の怒りがあなたの上にとどまります。これがキリスト教です。
あなたの上にあるのは、上帝の「怒り」ですか、「平安」ですか。
形だけのキリスト教をしていると、いつ怒りが落ちるか分かりません。
生ぬるくならないように、お互いが祈らねばなりません。
口先だけでお互いを誉め合うようなことがないように。

以下は、交わりの時の質問に対して語られた内容です。

最後の砦

イエス様が歴史の中で、古代ユダヤ人を日本の中に置いておられるのなら、サタンにとっても、日本は最後の砦です。
ここを奪われたら、その時点で敗北は決定的になるからです。
そうなれば、サタンは日本を死守するでしょう。

美学

日本を支配している「大和の君」とその部下「翁の霊」は、本当に頭が良いのです。(人間のかなう相手ではありません)
彼らが何をしたかと言うと、嘘の平和を持って来て「これでいいだろ・・・」と言うのです。
「虚しさ」さえも日本的「美学」にしてしまいました。
腹切りも死も美しい。枯山水(枯れてしまったものまでも)美しい、と。
これが翁の世界です。

祈りの戦い

そして「イエス様より天照大神の方が強いだろ!」と嘲笑うのです。
イスラエル十部族(サマリヤ人)の置いた混交宗教の「布石」と、世的原始キリスト教徒の作り上げた宗教的「素地」で、日本の土台はできているので、そんな簡単に破れるものではありません。
だからみなさんには、祈りを学んで欲しいのです。
祈りは、要塞さえも打ち破るからです!

諦観の念

この世と調子を合わせてはなりません。
「こんなもので良いじゃない」と巻き込まれて妥協してしまうからです。
そういうわたし自身も、「そこまでやる必要ないじゃないか」と囁く声が常に聞こえます。
それに抵抗するのが、私の戦いでもあります。
翁の霊は、偽の平和、偽の平安で、虚しささえも「まあよいか・・・」とあきらめさせようとするのです。
(諦観:どうすることもできないので諦めて受け入れる。英語表現では存在しません)

新しく生まれ変わる

だから、自分を捨てていないと戦えません。
自分自身に騙されるからです。
イエス様の知恵で、イエス様が先頭に立って戦って下さらなければ、私たちには不可能です。
新しく生まれ変わって、日本人をやめていないと、本質的なことは見えません。日本人の心は十二単衣を着ているからです。(12というのが面白いですね)
ひとつひとつ肉を脱ぎ捨てて行っても、12枚もあるのですよ。
この十二単衣さえ、美しいと思っている。なんと頑なな心でしょう。
そこから全く新しい者に造り変える事は、イエス様にしかできません。

文責 菅原はれみ

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