耶蘇上帝會 太秦之宮

京都・太秦を拠点とする日本のキリスト教会です

礼拝message 10月28日(水)

礼拝message 10月28日(水)

詩篇4篇、マタイ11:20〜30

マタイ11:25~27
25「そのとき、イエスはこう言われた。『天地の主であられる父よ、あなたをほめたたえます。あなたはこれらのことを、知恵ある者や賢い者には隠して、幼子たちに現してくださいました」
26「そうです、父よ、これはみこころにかなったことでした」
27「すべてのことが、わたしの父からわたしに渡されています。父のほかに子を知っている者はなく、子と、子が父を現そうと心に定めた者のほかに、父を知っている者は誰もいません」

御国の中に移された

アウグスティヌスの「告白」を、みなさんは読んだことがありますか。
彼の言葉の中に「神よ。あなたは私を ご自身に向けてお造りになりました。ですから私の心は あなたのうちに憩うまで安らぎを得ることができないのです」というものがあります。
現代で言うなら「神よ」を「イエス様」に言い換えて読めば良いのです。
時間のある方は、ぜひ一度読んでみてください。

コロサイ1:9〜17
13「御父は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子の御国の中に移してくださいました」

この箇所は非常に重要です。
このことを分かっていないと「神様」と言ってしまいます。
「神様」と言うと、天の父をイメージしてしまいますが、イエス様を通してでなければ、誰も決して父のみもとには帰れません。
人間は、父を直接見ることはできません。
イエス様を見た者は、父を見たのです。
父の本質すべてを、イエス様は持っておられます。
イエス様は、上帝ご自身です。
御子のご支配の中、御国の中に移されたことが、世からの解放です。
あなたが御国の中にいるなら、この世のものは、攻撃やチャレンジはできません。

イエス様は、被造物が造られる前から、存在しておられました。
堕落する前のアダムとエバは、イエス様のイメージで造られています。
十字架、贖い、復活、そしてあなたの生活もすべて、イエス様を中心に考えなければなりません。
そうしないから、ずれて行くのです。

イエス様との出会い

アウグスティヌスは、詩篇4篇を読み、それが主を知るきっかけになりました。
彼は、若い時に女性と同棲していて、19歳で息子が生まれました。
父は異教徒のローマ人で、母はベルベリ人でクリスチャンでした。
彼は中産階級でしたから、貧しくはありませんでした。
独学でラテン語を学び、ミラノで教授になるために修辞学(弁論術)を身につけます。
マニ教の教義に心酔し、その後アンブロシウスの説教を聞き、新プラトン主義にも傾倒します。(新プラトン主義:感覚器官や言葉ではなく、沈黙のうちに絶対の真理と一体化しようと説く、神秘主義。キリスト教を否定)
29歳の時に、「取りて、読め」という言葉を聞き、聖書を読み、回心します。

注:アウグスティヌス ローマ帝国末期に北アフリカのカルタゴで活動したキリスト教の教父。ヒッポの司教として、マニ教などの異端やキリスト教の異端との論争を通じて、カトリック教会としてのキリスト教論を打ち立てて行く。青年期の素行やマニ教への信仰を告白し、キリスト教への回心を「告白」(400年頃の著作)で綴っている。「取りて、読め」と言う言葉を聞いた時、近くにあったパウロ書簡(ロマ13:13,14 『主イエス・メシアを身にまとえ。肉欲を満たすことに心を向けてはならない』を読んで回心したと言われる)
ローマ帝国の国教であったキリスト教(ローマ=カトリック教会)は、ゲルマン人の侵攻、特に410年西ゴート人のローマ占領によって危機に面した。そして一挙に西ローマ帝国は滅亡に向かう。それにもかかわらず、キリスト教はその後も生きながらえ、ヨーロッパの人々の精神を捉えたのは、アウグスティヌスの思想が重要な働きを為したのである。430年、ヴァンダル人の王ガイセリックがカルタゴに侵入し、ヒッポを包囲する中、ローマ帝国の落日と合わせるかのように75歳で病死した。
(ガイセリック王:ゲルマン人の一派ヴァンダル人を率い、北アフリカに入りヴァンダル王国を建国。さらに455年にはローマを掠奪。ローマからは撤退したが、西ローマ帝国の滅亡を早めた。476年の西ローマ帝国滅亡の翌年死去した)

あなたは、イエス様との出会いがはっきりしていますか。
理屈、理論は通用しませんよ。
あなたに見えない力があるかないか、です。
敵はそれだけを見ています。

見えない力の世界

スケワとその息子たちを見てください。

使徒19:13〜16
13「ところが、ユダヤ人の巡回祈祷師のうちの何人かが、悪霊につかれている人たちに向かって、試しに主イエスの名を唱え、『パウロの宣べ伝えているイエスによって、おまえたちに命じる』と言ってみた」
14「このようなことをしていたのは、ユダヤ人の祭司長スケワという人の七人の息子たちであった」
15「すると悪霊が彼らに答えた。『イエスのことは知っているし、パウロのこともよく知っている。しかし、おまえたちは何者だ』

見えない世界は、現代のネット社会よりも、ものすごい情報網を持っています。インテリジェンスは一瞬で世界を駆け巡ります。
ここで悪霊たちは、「お前たちは誰だ?」とスケワの息子たちを歯牙にも掛けません。
あなたが悪霊に認められるようなクリスチャンにならねば、どうするのですか?
敵に舐められているようなクリスチャンでは、対決すらできません
パウロのそばに、悪霊はのこのこやって来ません。
負けるのが分かっているからです。
自分が牧師だ、神学生だ、と言っても何も意味もないことがわかるでしょう。
「お前はよく知っている」とこれくらい悪霊に言ってもらえて、やっと役に立つのです。
「メシアの香り」は敵にも分かります。
そういう存在が、地の塩、世の光です。
「あいつはイエス様の匂いがして嫌だ」と言われるような、悪霊にとってナフタリンのような存在になってください。
これが、太秦の群れに要求されるレベルです。
見えない世界で認められないようなクリスチャンなら、悪霊に馬鹿にされているだけです。

この世の情報に振り回され、国々の軋轢や損得感情で考えるのではなく、見えない世界で霊を見分ける力が必要です。
「敵を愛せ。完全であれ」という命令をもとに、見えない世界を見分けて行くのです。
アメリカのトランプ大統領も言っていますが、中国の共産主義者と支那人は違います。
この世の悪霊が共産主義者を操り、人々を盗み、殺し、滅ぼしているというのが事実です。
イエス様は、十字架の上で「父よ。彼らを憐んでください」と言われました。
憐れみが先立つのです。

見えない世界は、うちにおられるイエス様の命によって判断しなければなりません。
人を裁くのではなく、メシアの霊によって人を感じて、理解するのです。

イエス様の命がはっきりしていれば、敵が反応します。
私は未熟な者ですが、今朝電車の中でこのようなことがありました。
若い男性と、40代くらいの女性の間の席に私が座りました。
私のような者でも、この二人の小さい悪霊は分かります。
若い男性は、自分のうちにいる悪霊を楽しんでるので、難しいなと思いながら「主よ。どう祈りますか。憐んでください」と祈りました。
女性は、悪霊に身を委ねるかどうか逡巡しているようでした。
彼はゲームをしていましたが、ゲームの世界は悪霊が背後にいて使っています。
携帯には、見えない操り糸がついています。
コントロールされてはいけません。
私が座ると、二人はそわそわし始め、急に落ちつきがなくなりました。
明らかに嫌がられていましたね。
まるでバイ菌のような扱いでした。
ゲームをしている彼のような場合、暴力的なことを行うことが多いので、離れるまで彼のことを祈って過ごしました。
さぞかし嫌だったでしょう。
神学的なものや知的なものは、見えない世界では役に立ちません。

信仰は体験と実践

17世紀ドイツのプロテスタントは、教義や教えが形式的になり、カトリックのようになり、命のない宗教になって行きました。
「敬虔主義の父」と呼ばれるフィリップ・シュペーナーは、聖書を中心として、体験と実践を強調しました。
太秦の群れは、このパイエティズムの立場をとります。
その後、彼の後継者となったフランケは、イギリスやアメリカに多くの伝道者を送り出しました。
(注:フランケ 「真の愛の一滴は、知識の大海よりも尊い」という主張のもとに活動し、プロテスタント教会の宣教活動の先駆者となった)

太秦の群れは、体験と実践を大切にする群れでなければなりません。

マタイ11:29,30
29「わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます」
30「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」

「信頼すればそれで良い」という、くびきのない平安、安息はヒューマニズムです。
それは軽薄で安っぽい平安です。
悪霊は、みことばのある部分だけ取ってしまうのです。
聖書には「くびきを負って、わたしから学びなさい」とあります。
くびきがないと、単なる呑気なおばちゃんになりますよ。
多くの人が、悩み、苦しみ、自殺しています。
あなた自身が、イエス様のくびきを負っていなければ、あなたの話す安らぎが誘惑(ヒューマニズム)になります。
「十字架を負って、イエス様に聞き従います」という態度が、自分を矯正します。
誰かに良いことをしようとする時も「イエス様がNOと言われるなら、やめます」と言う態度なら、自分が拘束されるのです。
このような態度が、ライフスタイルの中に自然に出て来ないなら、イエス様の与えようとされる平安も安らぎもあなたからは出てきません。
主が与えてくださる憩いは、詩篇23篇にあるようなものです。

詩篇23:2
「主は私を緑の牧場に伏させ いこいのみぎわに伴われます」

この憩いのみぎわにある、安らぎ、安息、静けさが、救いの一番大切な点です。

みこころがなりますように

ロマ12:1,2
1「ですから、兄弟たち、私は上帝のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、上帝に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です」
2「この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、上帝のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、上帝に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります」

「自分自身を主に捧げる」これが礼拝です。
自分を捧げない人は、自分が良いと思っていることを自分勝手にやっているだけです。
そうなら、新しい天と地に入る時に、主から「知らない」と言われます。
「教会で奉仕したのに何故!?」と最後に叫ぶのが、現代のキリスト教をやった人たちの姿です。
「上帝のみこころは何ですか。どのように歩めば良いのですか」と日々、主に自分を捧げて行く生活しかありません。
私はイエス様のものですから、あなたのみこころがなりますように、と。

ルカ1:38
「マリアは言った。『ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように』すると、御使いは彼女から去って行った」

ガブリエルが、マリアの前に現れた時、彼女は14、15歳でした。
「あなたのお言葉のとおりになりますように!」と言った時のマリアは、何と素直な純粋な信仰を持っていたことでしょう。
しかし、彼女が多くの子どもを産んだ後はそうではありませんでしたね。
「私の息子、イエスが!」と連れ戻しに来たのですから。
この時は、ただのおばちゃんになっていました。

かつて、どんな素晴らしい信仰経験をしたとしても、それを持続するのは、いかに難しいか。
日々、主の歩みを知ろうとする、一歩一歩の地味な生活が大切なのです。
派手なことを求めてはいけません。
「こうすれば儲かるよ」と、お金を与えてくれるのは、この世の安心感です。
イエス様にお仕えするのか、金に仕えるのか、どちらかです。
思い煩うと、金に頼るのが、人間です。
だから山上の垂訓では、上帝の国と義をまず求めよ、と言われているのです。
すべては、主がご配慮してくださいます。
それは目には見えないものです。

銀行預金は目に見えますね。だから見えないと不安になるのです。
「信仰によって生きる」とは御子の国に移された、その御国の力を、現実の生活で体験することです。
この世において、力をもって、あなたの生活を主がご支配してくださいます。
それは将来の貯金がたくさんあるということではありません。
「日ごとの糧」です。
今日を満足して感謝できない人は、信仰に生きていません。
私たちは、今日一日のことしか分からないのです。

祈りにはしつこさが必要です。
何の返事がなくとも祈り続けるのです。
しつこいやもめと裁判官の話の通りです。
祈りとはそういうものですから、実践してください。
理屈を言われても面白くありません。
太秦の群れのポリシーは、体験と実践です。
「イエス様を信じたら楽だよ。うまく行くよ」ではありません。
くびきを負いなさい!
誰かに伝道したければ、体験したことしか伝えられないでしょう!?
何もないのに、あなたはいったい何を伝えるのですか?
キリスト教は口先のペテンが多すぎます。
そうであってはなりません。

以下の内容は、交わりの時に話されたものです。

(思春期の子どもを持つ親に対して)
聖書の原則は、父、母、妻、子を捨てることです。
まず、親が「救いとは何か」知っているのですか?
聖書は「重荷を追っている人は、イエス様のところに行きなさい」と言っています。
イエス様は、「わたしに聞きなさい」と言われています。
子どもを捨てたのだったら、祈りしかありません。
カナンの女です。
イエス様のところに来て「助けてください!」と叫びました。
(子どものところに行ったわけではありません)
祈りはしつこくあるべきです。
淡白ではいけないのです。しつこさは、情熱です。
子どもは捨てたのだから、イエス様にお任せして、全てをイエス様のところに持っていけば良いのです。
今の態度は、弟子ではありません。
まるで自分で何かできるみたいです。
ここに集められている人は、人間失格の者ばかりです。
何故、自分が知恵ある者のように思っているのですか。
生まれ変わりなさい。
そしてイエス様の知恵と考えでするのです。
イエス様の栄光を現すためです。
自分が満足するためではないのですよ。
イスラエルの民は、自分たちを幸せにしようとされているお方であるイエス様を拒絶しました。
頑なで、自分が賢いと思っていたからです。
アダムとエバは、知恵の実を食べて「わたしは神だ」と思ったのです。
これではあなたが神ではありませんか。
弟子のとるべき態度は、「私は、無力で無能です。この子のために何もできません。あなたにお任せします。あなたがこの子を幸せにしてくださいます」というものです。
夫婦で「ああでもない、こうでもない」と言って、何故イエス様を無視して、でしゃばるのですか。高ぶりです。
主は「あなたは、そんなに分かっているのか?それなら子どもを変えてみろ。自分の言葉の責任を取りなさい」と言われます。
イエス様の弟子は、無きに等しい者たちです。
だからイエス様がワンダフルカウンセラーなのです。

子どもたちは、イエス様のものです。
アブラハムとイサクのように、あなたは子どもを殺していますか?
アブラハムは、彼の心の中で自分の命よりも大切なイサクを殺しました。
だから長男イサクは祝福されているのです。
子育ての知恵も、経済的なことに関する知恵も、全てがイエス様のものです。
詩篇40篇にある通りです。
子どもがどうなるか、イエス様だけが知っておられます。
(私たちには分かりません)
祈りにおいて、大事なのは沈黙です。
本当に子どもを捨てたのなら、待つしかありません。
心で殺した者が、泣こうが叫ぼうが、ニコニコしようが、あなたには関係ありません。
捨てたのですから。

まず、あなた自身が変えられなければなりません。
「私を造り変えてください」と叫ぶのです。
子どもに何か頼まれたら、「はい、そうします」としてあげれば良いのです(マタイ5:41,42)
捨てたと言いながら、「こうしてあげた方が良い。こうしてあげるべき」と思うのは、あなたの肉です。
親子の縁は切れているのですよ。
あなたが肉を捨てていないのなら、聖書の理解ができません。
みことばがないと、自分で良いか悪いかを判断するだけです。
アガペーの愛で愛するなら、報いは期待するべきではありません。
何も求めません。
報いは、イエス様に要求しなさい。
弟子になりたいなら、自分を捧げているのが原則ですよ。
すぐに答えを期待してはいけません。
時間がかかるのです。
私たちは、歴史を支配しておられるお方に従うのですから。
放蕩息子の父親も、息子を捨てていたのです。
彼の心の中では息子は死んでいました。
だから「死んでいたのが生き返った」と言っているのです(ルカ15:24)

文責 菅原はれみ

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