
ヨハネ14:1〜14
ヨハネ14:1~10
1「あなたがたは心を騒がせてはなりません。上帝を信じ、またわたしを信じなさい」
6「イエスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです』わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません」
9「イエスは彼に言われた。『ピリポ、こんなに長い間、あなたがたと一緒にいるのに、わたしを知らないのですか。わたしを見た人は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか」
10「わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられることを、信じていないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざを行っておられるのです」
今この現実の世界、中国中心の大きな災いを見て、あなたは聖書のみことばからどんな答えと慰めを得ていますか?
エゼキエル14:21〜23
21「まことに、上帝である主はこう言われる。『人や家畜を断ち滅ぼすために、わたしが剣と飢饉と悪い獣と疫病の、四つのひどい刑罰をエルサレムに送るとき、」
22「見よ。そこに逃れの者が残っていて、息子や娘たちを連れ出し、あなたがたのところにやって来る。あなたがたは彼らの生き方と行いを見て、わたしがエルサレムにもたらしたわざわいと、わたしがそこにもたらしたことすべてについて、慰めを受ける」
23「あなたがたは、彼らの生き方と行いとを見て慰められる。このとき、あなたがたは、わたしがそこでしたすべてのことは、理由もなくしたのではないことを知る-上帝である主のことば」
全てに理由がある
全世界に対して主のなさる、災い、地震、津波・・・その全てが理由があって許されています。
まして個人の生活に起きてくる災いは、理由なくして許される訳がありません。
このことが理解できているなら、あなたには「主はいつも見守っていてくださる」という実感があるはずです。
サタンを使っての災いには必ず理由があり、それによって死ぬ人々もいます。
このような聖書観、人生観を理解して欲しいのです。
病気や災いが起きた時、自称クリスチャンはすぐこの苦しみがなくなるようにと願い、祈ります。
それでは表面的なことしか見ていないご利益宗教と同じです。
神社の無病息災のお祓いと一緒ではないですか。
クリスチャンは「何故このことが許されたのですか?」と主に聞いて、質問することができます。
この世には、その理由を教えてくれる人が誰もいません。
自分で無理やり理由付けして、自分を納得させるしかありません。
そうしないと、辛くて耐えられないからです。
聖書を通して学び、大人にならねばなりません。
「主がどのようなお方であるのか」このことを知らなくては、今起きていることを理解することはできません。
日常生活だけの「主が私のために何をしてくださるか??」ばかりの、ご利益宗教ではないのです!
ヨハネ10:30
「わたしと父とは一つです」
ヨハネ14:10
「わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられることを、信じていないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざを行っておられるのです」
三位一体はことばで説明できない
イエス様と父はお一つです。
三位一体を言葉として強調すると、おかしくなってしまいます。

殉教者レイモンド・ラル
「三位一体の三角形」
父は子ではない、子は聖霊ではない、聖霊は父ではない。
しかし父は上帝であり、子は上帝であり、聖霊は上帝です。
三位一体は、信仰によって受け取るものです。
全ては御子の栄光のために、父なるお方が御子となられ、地上に来られたのです。
それは人類のあがないのためであり、あがないを通して全被造物が主をあがめるためです。
つまり、御子を通して父が栄光をお受けになるためです。
万物は御子によって、御子のために造られたのですから。
遣わされなければ
伝道、伝道と勝手にやることが、父が喜ばれることですか?
(自分の思いで伝道することが!?)
十二弟子と弟子七十人は、悪霊を追い出す権威を与えられました。
その力の源は、イエス様のお授けになった権威です。
マルコ6:7
「また、十二人を呼び、二人ずつ遣わし始めて、彼らに汚れた霊を制する権威をお授けになった」
ルカ10:17
「さて、七十二人が喜んで帰って来て言った。『主よ。あなたの御名を用いると、悪霊どもでさえ私たちに服従します』」
ルカ10:19
「確かにわたしはあなたがたに、蛇やサソリを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けました。ですから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません」
イエス様に遣わされなければ、誰も父の栄光を現わせません。
イエス様に遣わされなければ、いったい誰が語れるのでしょうか。
イエス様のお名前に全ての統治権があり、御名の権威によって悪霊を追い出すのです。
弟子たちは「悪霊追い出しをしている者たちが、仲間じゃないのでやめさせました!」と報告しました。
しかし、イエス様は「やめさせてはならない」と言われました。
イエス様のお名前=奇跡ではありません。
奇跡は、上帝の国(御子がご支配されている国)を証するためであり、「イエス様こそメシアなのだ!」という証明です。
つまり、悪霊の追い出しも、御子が全地を支配しているのを証するためのものであり、天の父が喜ばれているという証でもあります。
父の同意なしには
しかし、キリスト教はどうですか?
マタイ7:21で言われている通りです。
マタイ7:21〜23
21「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです」
22「その日には多くの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか』」
23「しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。『わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け』」
イエス様は父の同意なしでは何も語られません。
イエス様は父が語れ、と言われたことだけを語られたのです。
これは謙遜さです。
クリスチャンは皆、この謙遜さを身に付けなければなりません。
肉の宗教心は醜いだけです。
自分の言いたいことや自分自身を伝えて自慢話をしても、イエス様の栄光にはならないし役にも立ちません。
ただの自己満足です。
いのちの木への道
ヨハネ14:6
「イエスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません』」
天のふるさとへ帰る道、いのちの木への道は、イエス様を通してしかありません。
創世記3:22〜24
22「上帝である主はこう言われた。『見よ。人はわれわれのうちのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、人がその手を伸ばして、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きることがないようにしよう』」
23「上帝である主は、人をエデンの園から追い出し、人が自分が取り出された大地を耕すようにされた」
24「こうして上帝は人を追放し、いのちの木への道を守るために、ケルビムと、輪を描いて回る炎の剣をエデンの園の東に置かれた」
人間が自分でいのちの木にたどり着けないように、主はケルビムと輪を描いて回る炎の剣をエデンの園に置かれました。
アダムとエバによって、人類は永遠の罪の中に閉じ込められました。
ここに人間は死ぬことができるのだ!という喜びがあります。
私は5歳の時「人間は、みな死んで終わるのだ」と人生に非常な虚しさを感じました。
その時から、心はずっと死人でした。
何を見ても聞いても喜びを感じない、共鳴しないのです。
心は罪のゆえに動かず、死んでいたのです。
中国共産党は貧しい者が何人死んでも興味がありません。
権力者以外はどうでも良いという、悪魔的なものにまでなり下がりました。
この人殺しを何とも思わなくなった世界は、罪の成れの果てです。
だからこそ洗礼によって死ぬことが許され、新しい人生を始められるのです!
古いものに死ねる!そして地上のものは新しくなるのです。
心の内にいのちの喜びがあるなら、その笑顔は輝いて美しいものです。
(みなさんの顔は見ないことにしましょう)
本当に、証人がいません!
イエス様は「私は道であり、真理であり、いのちである」と言われました。
「しっかりわたしと繋ぎ合わされなさい」と。
イエス様はぶどうの木です。
これによって、いのちの木への道が開かれたのです!
エペソ3:12
「私たちはこのメシアにあって、メシアに対する信仰により、確信をもって大胆に上帝に近づくことができます」
黙示録2:7
「耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。勝利を得る者には、わたしはいのちの木から食べることを許す。それは上帝のパラダイスにある」
ここにあるように、いのちの木から食べることが許される条件は「勝利を得る者」です。
何からの勝利ですか?肉からの勝利です!
あなたが生まれつきの肉の声を聞いているなら、もうすでにアウトです。
主には喜ばれません。
誰の声を聞いているのか
ロマ8:8
「肉のうちにある者は上帝を喜ばせることができません」
主の御心をなす子どもとして必死で生きた者だけが、パラダイスにあるいのちの木の実を食べることが許されるのです。
自分の肉を処理することを学ばなければ、無理です。
ロマ8:6
「肉の思いは死ですが、御霊の思いはいのちと平安です」
あなたは誰の声を聞いて生きていますか?すぐに分かります。
自分の声を聞いているなら、死しかありません。
イエス様の声を聞いているなら、いのちと平安があります。
だから、痛みや苦しみも感謝なのです。
喜びがあるからです。
イエス様を知ることが全て
ロマ8:9
「しかし、もし上帝の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉のうちにではなく、御霊のうちにいるのです。もし、メシアの御霊を持っていない人がいれば、その人はメシアのものではありません」
「クリスチャン=メシアのもの」ではありません。
聖書を読んで、悔い改めて古い自分を捨てて行かなければ、地獄しかありません。
自分の都合の悪い人に会って逃げるような人は、悔い改めていません。
あなたが悔い改めていたなら、過去に何があったとしても堂々と会えるはずです。
主は、あなたの内におられるイエス様のいのちに、聖霊と火のバプテスマを与えようとされています。
あなたに助言を与え、励まし、真理に導くためです。
真理とは、人間の精神が求めている宗教的全内容、人間精神のあらゆる願いを満たしてくれるもの、と定義されます。
つまり、イエス様ご自身を知れば何も要らないのです。
イエス様が全てを満たしてくださるお方だからです。
愛を知る
イエス様との間に祈りの交わりが始まると、おぼろげでもイエス様を見始めます。
女性には、イエス様というこの魅力的なお方をぜひ知って欲しいのです。
それは、愛を知るからです。
イエス様を知って、初めて愛を知るのです。
愛がかき立てられるのです。
イエス様は男の中の男ですよ。
男性がイエス様を見るなら、まずいな、足元にも及ばない!と分かるでしょう。
イエス様に従順に聞き従って来た者だけが、証人となれるのです。
証は自分を宣伝することではありません。
イエス様に従順な者に造り変えられているかどうかが、重要なのです。
人にどう思われるか、なんていりません。
人に嫌われたり、誤解されたりしても良いのです。
あなたが十字架を負っているなら、人はいらないのです。
イエス様が喜んで下さったら、それで良いのです!
キリスト教をやっている人は、本当にプライドが高いです。
イエス様を通してでなければ
日本人はとても宗教的ですね。
他の宗教も素晴らしいと言いますか?
その人が温雅(おんが)なら良いのですか?
(温雅:性格が穏やかで優しくしとやかなこと)
あの人は真面目で優しいから天国に行けると言いますか?
しかし聖書は何と言っていますか。
ヨハネ14:6
「イエスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません』」
日本人は、この事実を嫌がります。
イエス様を通さなければ、だれも、父のみもとに帰れない、天国には行けないのです。
日本人の宗教観はどこに行き着くのでしよう?
いずれ分かります。
自称クリスチャンは、悔い改めてイエス様を信じていない人について「あの人は救われる」と簡単に言ってしまいます。
「あなたは天国に入れるよ」と言いたいのです。
こんな甘くてルーズなクリスチャンは救われません!
「イエス様を通してしか誰も父のみもとに行けない!」と言うと、世の人にも生温いクリスチャンにも嫌われるでしょう。
しかし、このみことばを守らねばならないのです!
いのちだけが聖さの根拠
イエス様は、いのちの源です。
このいのちが聖性の根拠です。
イエス様のいのちによって、聖さがあなたのものになるのです。
新しいいのちがなければ、聖さなどありません。
聖さをまとっているから、イエス様の血に覆われて初めて、天の父に罪なしと認めていただけるのです。
イエス様を着ている者だけが、天の御国に入れるのです。
自分の信仰だけをまとって来ても、無理です。
イエス様に覆われていないからです。
イエス様のいのちがなければ、天の御国には入れません。
イエス様無しの者には、絶望しかありません。
以下は交わりの時に語られた内容です
はっきりと告白しなさい
自分の罪を気付かされた時、「思いの中で告白しました。処理しました」で終わってはいけません。
必ず、あなたの口で告白しなさい!
言葉として告白して、悔い改めなさい。
口で告白して、許されるのです。
思いの中で言っていても、何度も同じことを繰り返してしまいます。
自分の中に残っている罪を見せられたならば、告白しなければならないのです。
あなたが、はっきりと口で言うことによってそれが祭壇となります。
それがストッパーになり、あなたをバックスライドさせない役目を果たしてくれます。
思いの中で、グルグル回るのが肉です!
言葉ではっきりとさせなさい。
交わりの中に自分を捧げる
イエス様は、招かれる時「わたしの所に来て死になさい」と言われます。
死ぬ=礼拝=仕える、ということです。
交わりの中に自分を捧げて行く、これが弟子です。
自分を捧げているから、弟子どうしの「芋洗い」が始まるのです。
(芋洗い:弟子どうしがぶつかり合い、肉が削がれ、愛し合うことを学んで行く過程を、太秦の宮では「芋洗い」と呼んでいます)
それを一歩引いて見ていたならば、あなたは汚いままです。
何かを指摘されたりぶつかったりした時に、「イエス様がこれをされているのだな。交わりを通して(肉が暴露され)、まわりを通して変えてもらっているのだ」と、思うのが弟子です。
自分の欠点や嫌なところを皆の前で暴露されるのは、肉には嫌でつらいことです。
しかし群れの中に自分を捧げているから、「互いに愛し合いなさい」と言われているのです。
あなたが交わりの中で引いていたら、弟子と同じ土俵にはいません。
群衆です。
「私は愛さない。でも愛して欲しい」と言っているのです。
親は子ども全てが同じように可愛い??
「3人(2人)の子どもが同じように大切だし可愛い。そうあるべき」と言いますか?それは偽善です。
聖書を読むと、弟子たちに対してイエス様は不公平じゃないのか?と思う箇所がいくつも出て来ます。
変貌山に連れて行ったのは、弟子三人だけです。
残りの弟子はどうしたのでしょう?
ヨハネに福音書の最後には、「愛された弟子、ヨハネ」とまで書いてあります。聖書はえこひいきなのでしょうか!?そうではありません。
兄弟は同じようにはなりません。
それぞれの子どもに対して、それぞれの愛し方で愛せれば良いのです。
良いところも悪いところも、それぞれでOK!と。
もともと私たちには愛はありません。
親子の愛もそうです。
イエス様の助けがないと、受け入れられません。
イエス様は人間として地上に来られました。
人間の弱さ、限界もすべて知っておられます。
そしてイエス様は、人間の特徴をそれぞれに認めておられるのです。
「この子をどのように愛すればよいのですか?愛し方を教えてください」とイエス様に聞くのです。
「みんな同じ」なんてあり得ません。無理です!
「〜すべきだ」「〜であるべき」はキリスト教です。
人間はマシーンではないのですから、すべてのことをイエス様にお聞きするのです。
イエス様は、ワンダフルカウンセラーです。
人を同じように扱うなんて不可能です。
「クリスチャンの親は、反抗期の子どもに何を言われても腹を立てるべきではない」と言いますか?それは偽善者です。
イエス様は盲目の人に対して「どうして欲しいのか?」と聞かれました。
子どもに対しても「自分が言われたら、どう思うの?」と聞くのです。自分で考えさせるのです。
自分で選び、自分で責任を取ることを学ばせるのです。
イエス様はどのように弟子たちと向き合っておられますか?
みんな違います。
ひとりひとりに対して、対応がすべて違います。
あなたの「態度」は裏表がなく、誰に対しても同じでなくてはなりません。
しかし「対応」は人それぞれ違います。
だからイエス様に聞くのです。
何故なら、同じような対応ではある人には通じないからです。
言葉が通じないなら、話しても無駄です。
だからイエス様にどう言えば良いか聞くのです。
翻訳が必要なのです。
相手が分かるように伝えなければ、意味がありません。
子どもに対しては子どもに対するように。
ユダヤ人にはユダヤ人のような対応が必要です。
毎日がイエス様に聞く訓練です。
笑いを悲しみに、喜びを憂いに
(注:以下は、笑いを悲しみに、とはどういう意味ですか、という質問に対してです)
ヤコブ4:8~9
8「上帝に近づきなさい。そうすれば、上帝はあなたがたに近づいてくださいます。罪人たち、手をきよめなさい。二心の者たち、心を清めなさい」
9「嘆きなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい」
ヤコブの生きたこの時代でさえ、すでに喜んでいるふりをしているクリスチャンが多かったのです。
だからヤコブはここで、二心の者よ!と警告しているのです。
見せかけの演技(喜んでいるふり)をしている者に、見せかけをやめなさい!と叫んだのです。
偽善や見せかけを煽っているのは、悪霊です。
つまり、腹の中と口が違う者への警告です。
ユダヤ人は日本人に近いですね。
彼らの感性は、ヨーロッパ人とは違います。
報いと信仰は違う
マタイ10:42
「まことに、あなたがたに言います。わたしの弟子だからということで、この小さい者たちの一人に一杯の冷たい水でも飲ませる人は、決して報いを失うことがありません」
ここでイエス様は、小さい弟子(幼くても本物の信仰がある弟子)にしたのは、わたしにしたのです、と言われました。
イエス様が、その人に報いてくださるのです。
しかし、これは「救い」ではありません。
良きサマリヤ人に対しても報いは与えられます。
しかし「救われた」とは書いてありません。
イエス様を通さなければ、だれも父のみもとへは行けないのです。
ここからは、わたしの考えとして聞いてくださったら良いのですが、
地獄にも、軽い地獄と重い地獄があります。
ずっと叫び苦しんでいる地獄と、たまに水と休みがもらえる地獄です。
(しかし両方、恐ろしい地獄は地獄です)
軽い地獄からは天が見えるので、そこで歯がみして悔しがるのです。
何故チャンスがあったのに、狭い道を通らなかったのか!と。
ヘブル書にあるように、裁きの中に救いがあるのです。
恐ろしい裁きを通して引き出されて来る聖い者を見て、『主は正しい!』という慰めが与えられるのです。
裁きがあることが慰めです。
「復讐をするな。お前は敵に善を行え。わたしが敵に報いをする」と言ってくださるのです。
だから、私たちは人を心で裁いてはいけません。
これは自分を捨てていない、十字架を負っていない姿です。
人間の善悪では駄目なのです。
私たちには分からないことが多いので、ジャッジできないのです。
イエス様に聞き従うことが重要です。
文責 菅原はれみ
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