耶蘇上帝會 太秦之宮

京都・太秦を拠点とする日本のキリスト教会です

礼拝message 1月3日(日)

礼拝message 1月3日(日)

(長岡京市・光明寺)

ルカ4:1〜30

イエス様はまことの先生であり、日々私たちに様々なことを教えて下さっています。
人類が贖われるという救いの目的は、人間を造られた目的でもあります。
上帝は、人間を被造物のかしらとして造られました。
それは、アガペーの愛という恵みを受けた者の素晴らしさを、み使いたちに見せたいからであると、私は思っています。
私たちは、舞台に立つ俳優です。
観客はみ使いたちです。
天使たちと、悪霊たちです。
また歴史は、観客たちのためだけではなく、主が目的を持ってみわざをなしておられます。
それは全て、主が褒め称えられるためであり、その義と聖と愛を実証するためです。

福音の理解において、「人間中心である」と教える牧師が多いのですが、そうであるなら、自分の考え方次第で全部変わってしまいます。
不平不満ばかり言うのか、神様は愛だから好きにやれば良いと能天気になるのか、また主の愛を疑うのか、どれかです。

イエス様は、「人とはこのように生きるもの」という模範と足跡を残してくださいました。
それは、「やはり上帝はアガペーなる聖い、正しいお方だったのだ」とみ使いたち(堕落した悪霊も)が納得するためです。
私たちは、天の故郷を目指して地上を生きています。
それは多くのみ使いたちもそこにいて、イエス様を、その恵みを、垣間見るチャンスなのです。
やはり、イエス様は素晴らしいお方なのだ!と

郷里での預言者

ルカ4:24〜27
24「そしてこう言われた。『まことに、あなたがたに言います。預言者はだれも、自分の郷里では歓迎されません」
25「まことに、あなたがたに言います。エリヤの時代に、イスラエルに多くのやもめがいました。三年六か月の間、天が閉じられ、大飢饉が全地に起こったとき」
26「そのやもめたちのだれのところにもエリヤは遣わされず、シドンのツァレファテにいた、一人のやもめの女にだけ遣わされました」
27「また、預言者エリシャのときには、イスラエルにはツァラアトに冒された人が多くいましたが、その中のだれもきよめられることはなく、シリア人ナアマンだけがきよめられました」

ここでイエス様が故郷に帰られた場面ですが、人々はイエス様を「ヨセフの子ではないか」、つまりただの人間だと見下していました。
しかも、ユダヤ人たちは「ユダヤ人のためだけのメシア」を待ち望んでいたのに、イエス様の言われた事は、期待と全く違ったのです。
「預言者たちが遣わされたのは、ユダヤ人ではなく異邦人たちだったではないか。あなたたちは選民だと自惚れているのだ」と、イエス様は、はっきり言われたからです。
イスラエルの愛国者なら、カッカして怒る情景が見えてきませんか。
面白いですね。
「何だお前は、外国人びいきなのか!?」と。

ルカ4:28〜30
28「これを聞くと、会堂にいた人たちはみな憤りに満たされ」
29「立ち上がってイエスを町の外に追い出した。そして町が建っていた丘の崖の縁まで連れて行き、そこから突き落とそうとした」
30「しかし、イエスは彼らのただ中を通り抜けて、去って行かれた」

彼らは怒り狂ってイエス様を殺そうとしました。
「国粋主義者なら良いけど、なんだお前は。エリヤもエリシャもイスラエルの民には遣わされなかったと言うのか!?」と、イエス様は彼らにとっては侮辱的な事実を、はっきり言われたからです。

イエス様は彼らの中を通り抜けて去って行かれました。
クリスチャンが常識的なことを言ったら、つまらないですね。
本物のクリスチャンなら、このように周りが理解できないこと、家族や知人から信仰による誤解を受け、迫害されるはずです。
しかしキリスト教はどうですか。
常識から外れないように、優しく、誤解されないように・・・的外れなことを言うのです。

生まれ変わったクリスチャンなら、イエス様の命令を守るようになり、生きておられるイエス様の声に聞き従うようになるはずです。
周りの人は驚くでしょう。


新しい命

クリスチャンになりたての頃は、まだみ声を聞けません。
だから聖書を読んでくださいと言っているのです。
多くの自称クリスチャンは、何故か聖書の世界にいません。
私たち異邦人は、悪霊の支配と自分たちの宗教(文化の土台)の中で育ち、生きてきたのだから、聖書とは違う土壌です。
だから、上からの新しい命で生きて行くようにと言われているのです。
新しく生まれなければ、上帝の国を見ることも、入ることもできません。

キリスト教は、「信じたらOK」と言います。
しかし「生まれ変わって、初めてOK」なのです。
イエス様を信じた結果、その信仰が本物なら、上から命を与えられます。
それで初めて、イエス様の期待された人生を生きられるのです。
キリスト教は「これで良いのだ。これがみこころだ」とすぐ言います。
しかし、そんな簡単にみこころを知ることなどできません。
自分に都合の良いことを、勝手にみこころだと言っているだけです。

人は上から生まれて初めて、「天の故郷がある。故郷を目指して旅をしているのだ!」という希望が与えられます。
地上の家族がどんな人であっても、「天に大いなる家族がいる。天にまことの父がいる。天を目指して帰るのだ。私には帰るところがある!」という新しい世界が広がるのです。
それは、見えないものを、見るようにして、です。
啓示を通して、天国が本当にあることを経験し、体験して行くのです。
その事実がはっきりすると、揺るがない信仰となります。

竹中平蔵氏が取締役会長を務める、パソナの本社が淡路島に移転しましたね。
もしあなたが主のみこころを垣間見ることができるならば、闇の主権者がやらせている事は、当て付けだと分かるでしょう。
(注:淡路島には、歴史的にユダヤ人が渡って来た痕跡を残す遺跡が残されています)
百人一首の78番「淡路島 かよふ千鳥の 鳴く声に いく夜寝覚ぬ 須磨の関守」源兼昌
ですね。
残りは宿題です。
自分で考えてみてください。

罪悪感からの解放

敵のやり方を見ていれば分かります。
その人が主の弟子かどうかは、敵が攻撃するかどうかです。

太秦之宮は、ユダヤ人の末裔が日本に来ていないとあり得ないような数々の奇跡を通して主のみこころを知り、その日本に隠された意味を知り、イエス様を証しするために存在しています。

この世の終わりに、主のみこころの中、一つ一つ駒を進めていると、私は信じています。
この歴史の中に、生かされていることを楽しむのです。
しかしコロナウィルスで倒れていたら、楽しめませんね。
主の弟子は、イエス様のみ翼の影に守られています。
主の守りは盤石です。
主に信頼しているなら、えやみも疫病も近づきません。
しかし、あなたが疑うなら、守りは取り去られます。

自分の信仰に不安を感じるなら、ファイヤーバイブルを読んでください。
解釈が違うところはありますが、根本的に同意できます。
あなたの良心(罪悪感)を敵は攻撃してきます。
夢を通しても、矢を射掛けて来ます。
私たちはイエス様の血によって、邪悪な良心がきよめられ、自分を責める罪悪感からの解放を得るのです。

ヨハネ14:6
「イエスは彼に言われた『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません』」

責められたり、許されてないという思いは、イエス様との関係を通せんぼします。
その壁を取り除くのです。
あなたの悔い改めが本物なら、「許された、解放された!」という平安が与えられるでしょう。

ナアマンの信仰

ファイヤーバイブルの「旧約聖書のキリスト」p.611を、読んでおいてください。
予型論の原理について書いてあります。
旧約聖書は、イエス様を知る上で、非常に重要です。

II列王記5章
17「そこでナアマンは言った。『それなら、どうか二頭のらばに載せるだけの土をしもべに与えてください。しもべはこれからはもう、主以外の他の神々に全焼のささげ物やいけにえを献げません」
18「どうか、主が次のことについてしもべをお赦しくださいますように。私の主君がリンモンの神殿に入って、そこでひれ伏すために私の手を頼みにします。それで私もリンモンの神殿でひれ伏します。私がリンモンの神殿でひれ伏すとき、どうか、主がこのことについてしもべをお赦しくださいますように」
19「エリシャは彼に言った。『安心して行きなさい』そこでナアマンは彼から離れ、かなりの道のりを進んで行った」

私は、このナアマンの箇所を読んだとき「ああ、そうか!」と、日本人クリスチャンのあるべき姿を見せられたように思いました。
宣教師は、日本の神道や仏教を、悪霊だとか偶像礼拝だとか言っていました。
しかし、私の内におられるイエス様は、それを納得しておられませんでした。
いくら他人から正しそうなことを聞かされても、内側のイエス様の命に聞き従えるようにならなければ、信仰は完成できません。
大切なのは、あなたの内におられるイエス様の命です。

主君に重んじられていたナアマンは、リンモンの神殿でひれ伏すことを赦していただけるよう主に願いました。
エリシャは何と答えましたか。
「安心して行きなさい」です。
上帝は、ナアマンの信仰と態度を知っておられます。
主は心を見ておられるからです。
主が、その人の態度を見て、良しとされるなら、それで良いのです。

私は、神社も寺院も、日本人としてのメンタリティーの中に違和感を感じません。
そして、神社やお寺にも行きます。しかし礼拝はしません。
内側におられるイエス様がOKなら、それで良いのです。
しかし、NOなら、駄目です。
それは、人それぞれ違います。
つまり、日本においてどのようにクリスチャンとして生きて行くのか、日本の文化とどう向き合うのか。
ナアマンのように、イエス様がOKなら、OKなのです。

私は、イエス様の命によって、日本の歴史文化の中に、ユダヤ人の信仰が流れ込んでいたことが分かりました。
それは信仰による肉付けです。

私たちは、聖書全体から何を学ばねばならないのか。
悪いのは、選民意識です。
「日本人は素晴らしい。祝福されている」というのは、違います。
イエス様を受け入れなかった、ナザレの人々と同じです。
選民意識は、主から嫌われます。
クリスチャンとして選ばれた、というのも選民意識です。
違います。
人間はみな一緒です。
しかし、役割の違いはあります。
ユダヤ人と異邦人は、役割が違います。
信仰は、いかにご聖霊の助けによって聖書を読むか、にかかっています。

イエス様が栄光を受けてくださり、天の父の隣に座ってくださった故に、ご聖霊が遣わされました。
聖霊のバプテスマを受けるならば、イエス様ご自身を知るようになります。
イエス様がご聖霊に託してくださったものを、ご聖霊が受けて、私たちに教えてくださるのです。
イエス様とご聖霊は同じです。
ペンテコステ派は、切り離してしまいますが、それは違います。

イエス様は主であり、歴史の中心であり、私の中心でもあります。
イエス様があなたの中心におられないなら、イエス様はあなたを導きようがありません。
そのために、肉を十字架につけるのです。
古い自分は死んだのです。
それは、生涯徹底的に訓練されます。
パウロも、自分を鞭打って従わせました。
肉は逃げようとするからです。

この世との分離

II列王記5:26、27
5:26「エリシャは彼に言った。『あの人がおまえを迎えに戦車から降りたとき、私の心はおまえと一緒に歩んでいたではないか。今は金を受け、衣服を受け、オリーブ油やぶどう畑、羊や牛、男女の奴隷を受ける時だろうか」
27「ナアマンのツァラアトは、いつまでもお前とお前の子孫にまといつく』ゲハジはツァラアトに冒されて、雪のようになって、エリシャの前から去って行った」

ここで奉仕者ゲハジのことを考えみましょう。
彼はかわいそうな人ですが、キリスト教界には、このような人が多いのです。「ここにいたら、良いことがあるよ!」という風に思っているのです。
世の宗教は、がっぽりと報酬をもらいます。
カネ、車、と言った見返りです。
宣教師や牧師の中にも、このような人が多くいます。

しかしエリシャは、きっぱりと「違う!」と言ったのです。
「恵みによって癒されたのだから、主に栄光をお返ししなさい。見返りはいらない。ただで受けたのだから、ただで与えなさい」と。
決して見返りを要求してはなりません。
絶対に、ゲハジのようになってはいけません。
その後、彼はどうなりましたか。
ツァラアトになったのです。
彼は主のしもべではありません。

何故現代のキリスト者は、パッとしないのですか。
ゲハジ的なのです。
この世の人と、分離されていないからです。
あなたが、アガペーの愛を受けているのなら、全てにおいて、ただで与えるのです。
主を褒め称えて、礼拝しなさい。

迫害する者のために祈り、敵を愛しなさい。
あなたが古い肉を十字架につけないなら、ゲハジになります。
イエス様を裏切ることになります。
エリシャは、ゲハジに「私が一緒にいると思わなかったのか」と言いました。
II列王記5章をよく読んで理解してください。

エリシャとナアマンが、要求したこと、しなかったことをよく理解してください。
ゲハジは、主の呪いを受けました。
下心があったからです。
下心があったら駄目なのです。
砕かれた、悔いた心がないゲハジになります。
どうか、ゲハジにならないように!
最後に、ナアマンは仕えるべき主人に、きっちり仕えました。そして、エリシャは「そんな王に仕えるのはやめなさい」とは、言わなかったのです。
よく理解してください。

文責 菅原はれみ

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