耶蘇上帝會 太秦之宮

京都・太秦を拠点とする日本のキリスト教会です

礼拝 message 12月9日(水)

礼拝 message 12月9日(水)

(長岡京市・光明寺)

II歴代誌14:1〜15:9,15:16〜16:14

II歴代誌15:2~4
2「彼はアサの前に進み出て、言った。『アサおよび、すべてユダとベニヤミンの人々よ、私の言うことを聞きなさい。あなたがたが主とともにいる間は、主はあなたがたとともにおられます。もし、あなたがたがこの方を求めるなら、あなたがたにご自分を示してくださいます。もし、あなたがたがこの方を捨てるなら、この方はあなたがたを捨ててしまわれます」
3「長年の間、イスラエルにはまことの上帝もなく、教師となる祭司もなく、律法もありませんでした」
4「しかし、苦しみの中で、彼らがイスイラエルの上帝、主に立ち返り、この方を慕い求めたところ、主は彼らにご自分を示してくださいました」

祈りの戦い

弟子としての人生の戦いは、祈りにおいて始まります。
あなたの祈りが、義人として、主の前で力あるものとなりますように。
戦いは、路傍伝道やトラクトを配るとか、そういう類のものではありません。
祈りです。
ヨハネ10章にあるように、主は弟子を上帝の子どもとして育ててくださいます。
万軍の主、イエス様の御声を聞き分けられる子どもとしての成長です。
この従順を学ぶ訓練の中で、身につけなければならないのは、謙遜です。
弟子は、天の父の御前で、へりくだった素直な子どもでなくてはなりません。

肉親を捨てる

アサ王の治世は、紀元前913年から873年です。
信仰のスタートにおいて、主は祝福と恵みをたくさん与えてくださいます。
そこで、それまで行って来た偶像礼拝を悔い改め、悪霊との決別をした新しい人生が始まります。
生まれつきの死人は、悪霊のコントロールの下にあります。
悪霊が罪人としての肉に手を伸ばし、コントロールするからです。
弟子ならば、気づいているかぎりの罪を告白してやめること、悔い改めをしなくてはなりません。

アサ王が行ったことは、生き方が変わったことの証です。
アシュラ像を作っていた母マアカを皇太后の位から退けました。
つまり、これは父、母、妻、子を捨てる、という実地教育です。
アサ王は信仰の初めにおいて、はっきりとしたこれまでとは違った、新しい生き方をスタートしています。
「母のやっていることは罪だ」と、母の名誉を傷つけてでも、やるべきことをやりました。

万軍の主の弟子になった時から、この世の支配者との戦いが始まります。
敵の真っ只中に置かれ、敵は罠を仕掛け、攻撃して来るのです。
悪霊は、その人の弱点をよく知っています。
アサ王にとっての弱点は、愛する母マアカだったのです。
しかし、彼は上帝に従う生き方をやめませんでした。

弟子の道には順番があります。
まず、捨てることです。
あなたの愛する肉親を捨てることから、信仰生活は始まります。
母を愛しているからと、罪を大目に見るのですか。
いいえ、違います。
ヒューマニズムが前面に出て、足を引っ張ります。
だから、家族があなたの敵となるのです。
アサ王は、愛する母よりも、悔い改めを選びました。
これを実際にやるのはしんどいし、辛いことです。
誤解され、周りからいろんなことを言われます。
しかし、戦いの中でこそ、信仰が試されるのです。
あなたが困難の中にある時、イエス様があなたをチェックされているのです。
そして、この困難があなたへの祝福につながります。

主への畏敬

創世記22:1,2
1「これらの出来事の後、上帝がアブラハムを試練にあわせられた。上帝が彼に『アブラハムよ』と呼びかけられると、彼は『はい、ここにおります』と答えた」
2「上帝は仰せられた。『あなたの子、あなたが愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして、わたしがあなたに告げる一つの山の上で、彼を全焼のささげ物として献げなさい」

主は、アブラハムに「イサクを捧げよ」と言われました。
アブラハムは、この試練に対して躊躇しませんでした。
「はい」とすぐに従いました。
アブラハムの人生は、イサクにかかっていたのです。

創世記22:9〜12
12「御使いは言われた。『その子に手を下してはならない。その子に何もしてはならない。今わたしは、あなたが上帝を畏れていることがよく分かった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しむことがなかった』」

ここで「上帝を畏れていることがよく分かった」と、主はアブラハムに言われました。
主を「信じている。信頼している」ではなく、「畏れている」と言われました。
これは非常に重要なことです。
多くのクリスチャンは、主を畏れることを学んでいません。
「神は愛」だから、畏れなくて良いと思っているのです。

ヨハネ3:16
「上帝は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」

クリスチャンは、上帝を畏れなくて良いのですか!?誰が滅ぼすのですか。
御子が裁く権威を持っておられ、御子が滅ぼされるのですよ。
御子イエス様が、義人と認めてくださらなければ、火の池へ投げ込まれます。
人間が畏敬の念を持つのは当然のことです。
永遠の命か、滅びかの権威を持っておられるお方を、畏れ敬わなくて良いのですか?
イエス様の裁きは、そんなに甘くありません。

聖書は、滅びが前提です。
罪人には、滅びが宣告されています。
その滅びから救うために、イエス様が来られました。
「このまま行けば、私には火の池しかない!」と思うのが普通です。
厳しさがあるからこそ、真剣さが必要なのです。
聖書は「多くの人が、入ろうとしても入れなくなる」と言っています。
これは未信者ではなく、クリスチャンのことです。

主に従う戦い

マタイ7:21
「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです」

努力しないと、天の御国には入れません。
父のみこころを行う者とは、イエス様に倣う者として生きる者です。

Iヨハネ3:16
「メシアは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです」

「御子イエス様があなたのために命を捨てられたように、あなたも兄弟姉妹のために命を捨てなさい」というのが命令です。
どのような人生であったとしても、内面の願いは、イエス様の願い通りに地上を過ごすこと、これが弟子の生き方です。
「父のみこころがなりますように」と、みことばを自分自身に当てはめるのです。
一番悪いのは、「これはあの人のことだ」と人を責め、自分にみことばを当てはめない人です。
そうすると、まるで痛いところがないかのように、塩気のない、味気のない人生になります。
イエス様に従おうとするからこそ、戦いが始まるのです。
自分との戦いです。
それは、天の父からの躾でもあります。
上帝の子どもとして従順を学ぶのです。

面従腹背

アサ王は、この世でも祝福され、その時に魔の手が伸びて来ました。
イスラエル北王国が、ユダに戦いを仕掛けて来た時、主に助けを求めるのではなく、人間の力に頼ったのです。
「さあ軍事同盟を結ぼう」と思ったのです。
豊かさは、アサ王に目に見えないお方に信頼するのではなく、金や銀、お金を払って解決しようとさせたのです。
アサ王にとって、主を待ち望むことは、面倒くさいことでした。
クリスチャンも同じです。
時間がお金だから、お金で解決するのです。

主は見ておられます。
あなたが主に頼るか、この世のやり方をするか。
また、忠実な者であるか、主に心を注いでいない者であるか、をです。

黙示録3:15〜19
16「そのように、あなたは生ぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしは口からあなたを吐き出す」
17「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、足りないものは何もないと言っているが、実はみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であることが分かっていない」
18「わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買い、あなたの裸の恥をあらわにしないために着る白い衣を買い、目が見えるようになるために目に塗る目薬を買いなさい」
19「わたしは愛する者をみな、叱ったり懲らしめたりする。だから熱心になって悔い改めなさい」

アサ王も信仰の初めは良かったのです。
「イエス様の助けが必要です!」と叫んだ時から、ある時期までは熱い信仰が続きます。
しかし、だんだんぬるくなって行ったのです。
豊かになり、たくさん食べて眠くなった、という風に。

上帝に対し、本気ではない、不誠実で偽善的な献身を、主は忌み嫌われます。
まさに面従腹背です。
クリスチャンも「24時間イエス様に喜ばれることを考え続けるのは、窮屈だ!」と思っているのです。
生まれ変わったクリスチャンなら、イエス様の命を持っています。
イエス様の命はへりくだった命であり、高ぶることなどありません。
高ぶりは、イエス様の命からは出て来ません。
イエス様の命は、へりくだったものだからです。

私は、この人生で主からのミッションを全うしたいだけです。
私の役割は、主のシープドッグだからです。
シープドックが噛まないと、羊は言うことを聞きません。
だから私は、礼拝のメッセージで、時には厳しい言い方をするのです。
そうでないと、役には立ちません。
主の命令がなくては、犬は勝手には噛めません。

偽善的献身、「従います」と言いながら、内側の心が別のものを見ているならば、イエス様からは本当に不快なものと見られます。
イエス様からいただく平安ではなく、この世のものでリラックスしているのです。
イエス様への生ぬるさは、とんでもない結果を招きます。

主の心とひとつになる

II歴代誌16:7〜10
7「そのとき、予見者ハナニがユダの王アサのもとに来て、彼に言った。『あなたはアラムの王に拠り頼み、あなたの上帝、主に拠り頼みませんでした。それゆえ、アラム王の軍勢はあなたの手から逃れたのです」
9「主は、その御目をもって全地を隅々まで見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力を現してくださるのです。あなたは、このことについて愚かなことをしました。これから、あなたには数々の戦いが起こるでしょう」

ハナニがしたことは、クリスチャンの役割でもあります。
イエス様に服従した者として、主が「行って、言え」と言われたなら、そうしなければなりません。
これはしんどいミッションでもあります。

イエス様の心と一つになるとは、イエス様のみこころを知るということです。
イエス様と一つになるなら、イエス様の偉大な力が現されます。
メシアの国の力は、敵軍をなぎ倒す力として現われて来るのです。

II歴代誌16:12
「アサはその治世の第三十九年に、両足とも病気になった。それは非常に重かったが、その病気の中でさえ、彼は主を求めず、医者を求めた」

後のアサ王は、悲惨でした。
彼は上帝なるお方にではなく、人間に助けを求めました。
クリスチャンは、医者に行ってもよいのです。
しかし、それもイエス様に行って良いか、聞くのです。
天の父の子どもとしての時に、イエス様に聞き従う訓練ができていないと、後にも主に従う生き方ができません。
自分が良いと思うことを、勝手にするだけなので、何年経っても変わりません。

弟子は謙遜さを学ばねばなりません。
そうでないと人の目には、どんなに成功しているように見えても、主は地上の生涯を終わる前にジャッジされます。
主はけじめを付けられるのです。
牧師、宣教師になると、本当に厳しい裁きを受けます。

主に生涯を捧げた立派な人に見えても、主は「へりくだれ!」と言われます。
「私は、やるべきことをしたに過ぎません」と自然に言えなければ本物ではありません。
人からの評判が良いと、高ぶります。
どれだけ人が認めても、へりくだっていなければイエス様の目には、NO!です。
イエス様の前に立った時、恥をかかないために、私は厳しいことを言っているのです。
地上の人生は、いつ終わるか分かりません。
だから、みことば通りに生きて欲しいのです。
主は、上帝の目的と一つとなっている人を、見守っておられます

裁きは皇民の群れから

エゼキエル9:1〜6
1「この方は私の耳に大声で叫ばれた。『破壊する武器をそれぞれ手に持った、この都を罰する者たちを連れて来い』」
4「主は彼にこう言われた。『都の中、エルサレムの中を行き巡り、ここで行われているすべての忌み嫌うべきことを嘆き悲しんでいる人々の額に、しるしをつけよ』」
5「また、私が聞いていると、ほかの者たちに主はこう言われた。『この者の後について都の中を行き巡って、打ち殺せ。あわれみをかけてはならない。惜しんではならない」
6「年寄りも、若い男も、若い娘も、幼子も、女たちも殺して滅ぼせ。しかし、しるしが付けられた者には、だれにも近づいてはならない。まず、わたしの聖所から始めよ」そこで、彼らは神殿の前にいた老人から始めた」

主は、「まずわたしの聖所から始めよ」と言われました。
皇民の群れから、裁きを始めよ、と。

クリスチャンの生き方を見て、「こんなことで良いのか!?」と世の人たちは見ています。
主のみこころを知っている弟子なら、その現実に悲しみます。
その悲しんでいる者には、しるしをつけよ、と主は言われました。
上帝の思いと一つになっている人は、イエス様に服従できる大人です。
実際の判断も行動も生き方も、イエス様の思いと一つになっている人です。
危険や困難、霊的な試練にあっても、主が助けてくださると知っていないとそれはできません。
子どもには無理です。

創世記22:15〜18
15「主の使いは再び天からアブラハムを呼んで」
16「こう言われた。『わたしは自分にかけて誓う-主のことば-。あなたがこれを行い、自分の子、自分のひとり子を惜しまなかったので」
17「確かにわたしは、あなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように大いに増やす。あなたの子孫は敵の門を勝ち取る」
18「あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたが、わたしの声に聞き従ったからである」

アブラハムが、一人息子イサクを捧げるという試練の後に、主は祝福を宣言されました。
試練を合格して行くなら、主のみこころが何であるかを教えていただけます。
そして試練そのものが祝福につながって行くのが分かるようになります。
試練の後に、祝福が宣言されるからです。

イザヤ28:16
「それゆえ、上帝である主はこう言われる。『見よ、わたしはシオンに ひとつの石を礎として据える。これは試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊い要石。これに信頼する者は慌てふためくことがない」

あなたがイエス様に信頼しているのなら、慌てふためくことも、うろたえることもありません。
信仰の故に従順を学んでいるのならば、どんな問題があっても、すべてのことを感謝できます。

イザヤ57:15
「いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名が聖である方が、こう仰せられる。『わたしは、高く聖なる所に住み、砕かれた人、へりくだった人とともに住む。へりくだった人たちの霊を生かし、砕かれた人たちの心を生かすためである」

訓練や試練は、その人を生かすためです。
その人の魂や心を励ますために、主は共にいてくださいます。

マタイ28:20
「わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」

主が共にいてくださることを実感できるようになるのが、信仰の醍醐味です。
まるで実際にイエス様とお会いしているように、聞くことができるのは、とてもエキサイティングなことであり、楽しいことです!

旧約聖書から、クリスチャンは学ぶべきです。
信仰の最初は良かったのに、ひどい状態で地上の生涯を終わるのですか。
裁きは、上帝の家から始まります。
主は容赦されません。
きっちりとお裁きになります。
あなたが主を畏れるなら、そこには本物の愛、喜び、平安があります。
主が、共にいてくださることこそ、喜びだからです。

文責 菅原はれみ

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