
ヨハネ13 章
ヨハネ13:14,15
14「主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません」
15「わたしがあながたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、あなたがたに模範を示したのです」
ひとりひとりが聖書を読み、イエス様を先生として従って行く中で、聖書や、聖書の中の人物に対する考え方が変わって行きます。
日々、新しいことを教えられ、訓練されていかなければ非常にまずいのです。
葡萄の木の譬えのように、常にイエス様という木から樹液が流れて行かなければ、枯れてしまうだけです。
敵は、イエス様とあなたとの関係を切り離し、イエス様の命を消してしまおうと、隙あらばと狙っています。
あなたの生まれつきの性質に足場を築き、コントロールしようとしています。
イエス様の命がなく、死んだ者に対しては、敵はやりたい放題でコントロールします。
今、イエス様の弟子となる決心をしたならば、互いに愛し合えという命令を、家族として守れる者に変えられて行かなければなりません。
アガペーの愛は、最初から守れないからです。
それに対抗するのがヒューマニズムの愛です。
仲良くしよう、と博愛主義をかざします。
世を愛してはならない
ヨハネ13:2の悪霊が持ってきた「イエス様を裏切ろうとする思い」を、ユダは心に入れさせてしまいました。
イエス様がユダを招かれた時、彼にも主の栄光を現すための弟子としての人生があリました。
ユダは、お金の扱いにも慣れていたし、有能だったからこそ、任せられていたのです。
敵は、いつもそこを狙っています。
だから、上帝と富の両方には仕えられないと書いてあるのです。
Iヨハネ2:15〜17
15「あなたは世も世にあるものも、愛してはいけません。もしだれかが世を愛しているなら、その人のうちに御父の愛はありません」
16「すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢は、御父から出るものではなく、世から出るものだからです」
17「世と、世の欲は過ぎ去ります。しかし、上帝のみこころを行う者は永遠に生き続けます」
悪しき者は、世に関心を向けさせます。
「こうやったら儲かるよ」という風に。
ユダが言ったことと同じです。
「この香油なら高く売れたのに・・・!」と。
マルコ8:31〜38
33「しかし、イエスは振り向いて弟子たちを見ながら、ペテロを叱って言われた。『下がれ、サタン。あなたは上帝のことを思わないで、人のことを思っている』」
34「それから、群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた。『だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」
ペテロはイエス様を愛していました。
でもそれはヒューマニズムの愛でした。
イエス様に従う時に、邪魔をするのはあなたの身内です。
あなたを愛してくれる人が、信仰を妨げる一番の敵となります。
心の中から悪が
救いには二つの種類があります。
一つ目はこの地上で、幸せになる、
「病気や貧しさから救われた」という地上だけの救い。
この世の人生を大切に過ごそうとする生き方です。
しかし、この世を愛するならば、上帝を敵とします。
二つ目は、イエス様と御国のために命を失う、弟子としての救い。
永遠の命を得る救いです。
マルコ7:18〜23
20「イエスはまた言われた。『人から出て来るもの、それが人を汚すのです」
21「内側から、すなわち人の心の中から、悪い考えが出て来ます。淫らな行い、盗み、殺人」
22「姦淫、貪欲、悪行、欺き、好色、ねたみ、ののしり、高慢、愚かさで」
23「これらの悪は、みな内側から出て来て、人を汚すのです」
ここにある汚いものは、人間ならみんな同じく持っています。
人それぞれの性格によって特徴があるので、違う種類のものを出しているだけです。
肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢は、この世からの支配です。
肉の五感を刺激し、誘惑します。
内側の生まれつきの性質に悪霊が足場を築き、内側からあなたをコントロールしようとします。
上帝の御心を行う者が弟子です。
キリスト教は、自分のやりたいことをやっているだけです。
主のしもべは自分が何かをしたいからではなく、主からやれと言われたことを行い、祈れと言われたことを、祈るのです。
何のために無駄をするのか
マタイ26:1〜9
7「ある女の人が、非常に高価な香油の入った小さな壺を持って、みもとにやって来た。そして、食卓に着いておられたイエスの頭に香油を注いだ」
8「弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。『何のために、こんな無駄なことをするのか」
9「この香油なら高く売れて、貧しい人たちに施しができたのに』」
ユダのことを考えましょう。
ユダは、貧しくない生活を送っていたのだと思われます。
お金を扱っていたからこそ、マネージメントが上手だったのです。
貧乏なら運用できるお金もありませんよね。
ユダはそうではありませんでした。
では、今まで自由に運用できた資産がなくなれば、人はどう思うでしょうか?
ユダだからこそ、香油の香りを嗅いだ時、これはものすごく高価な香油だと気づいたのです。
他の弟子には、その値打ちは分からなかったでしょう。
だからユダが真っ先にこの女性を責めたと、私は思っています。
ここで、悪霊の本音が聞こえます。
「イエス様のために何かをするなんて、無駄だよ!そんな高価のものをイエス様に捧げるなんて、もったいないよ!」と。
悪霊は、あなたにも「何のためにこんな無駄なことをするのか。意味ないよ。そこまでイエス様のためにするか!?」と囁いて来ます。
みなさん、洗礼を受ける時に、「自分を捨て、十字架を負ってイエス様に着いて行く」と決心をしましたか?
そんなことは、していないのです。
だから、後付けしかできません。
繰り返し、みことばを読むしかありません。
福音書は四つあるでしょう。
みなさんを悪しき者から守るためです。
福音書には、四つの顔があります。
人、鷲、獅子、牛です。
敵によって輝くみことばが違うのです。
だからこの四つの面から福音書が書かれているのです。
敵があなたを攻撃する時、福音書のどこが当てはまるのか。
みことばは、イエス様を指差します。
イエス様は、全てを知っておられた上で、敵であるユダの足まで洗われました。最後まで、ユダに悔い改めのチャンスを与えられたのです。
イエス様に倣う生き方
マタイ11:28,29
28「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」
29「わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます」
上帝の願いは、イエス様の人としての歩みに、私たちが倣うことです。
あなたがイエス様に似ていかないなら、何かが欠けています。
地上の生涯を終えるまで、弟子は砕かれ訓練を受けます。
弟子は、砕かれる中でこそ、守られています。
もし苦しみから逃げるなら、無防備になり、危なくなります。
隙だらけだからです。
イエス様に愛されているなら、鞭打たれます。
その時にこそ、イエス様の愛が注がれます。
それは人として最高の場所です。
天の父の訓練は、あなたを行きたくない場所に連れて行きます。
くびきは、イエス様に従う契約だからです。
あなたがその訓練を拒絶し、嫌だと言うなら、その訓練は終わります。
そうなると、あなたは未完のまま年をとり、ミイラ化します。
砕かれて悔いていない人は、かたくなで、とっつきにくい人になります。
訓練の中での喜び
IIコリント7:10
「上帝のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします」
誰も完成された人はいません。
主は、いろんな機会を通して「それはダメなのだよ」と教えてくださいます。
苦しくて、嫌だと思うこともすべて、主がご配慮してくださっています。
自分の反応を見て「愛がないな」と足りなさを教えられ、「忍耐がないな」と自分の心の中から出て来る汚いものを見せられます。
イエス様が光で照らしてくださるのです。
辛い訓練の中でこそ、主の愛が注がれ、どれほど愛してくださっているのかを知る時なのです。
ロマ5:3~5
3「それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し」
4「忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです」
5「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、上帝の愛が私たちの心に注がれているからです」
イエス様は、性格の悪い人を訓練し、変えて行かれます。
すべてが主の許されたことだから、私たちは感謝するのです。
何故、右の頬を打たれたら、左の頬を出せと言われているのですか。
イエス様は、鞭打たれる時、決して避けられませんでした。
唾をかけられても、絶対によけなかったのです。
人間は、嫌なものから本能的に逃げます。
しかしイエス様は逃げられませんでした。
新しく生まれ変わった弟子は、苦難を喜んでいます。
それは、上帝の愛を味わえるチャンスだからです。
苦しみと痛みの中でこそ、心にはっきりとイエス様と天の父の愛を実感できます。
練られた品性は、世の人が失っているものです。
苦難と言う訓練を通して砕かれた悔いた心にならないなら、生まれつきの自分がイエス様の命の光をブロックします。
頑固さや、この世の欲、暮らし向きの自慢を握っていると、内側のイエス様の命が窒息死してしまいます。
キリスト教は、悪知恵を教え、逃げる方法を学ばせます。
だから何年経っても変わらないのです。
自己愛が、自分をガッチリと守っているからです。
イエス様の香り
自分を捧げるのは、「主のみこころがなりますように!」と言う意思表示です。主に自分を捧げるのが礼拝です。
そうしないなら、礼拝にもなっていません。
「天の父が願っておられるように、私の人生になりますように」という願いが、そのまま皇民の祈りです。
あなたが、自分を捧げていないから、何もないのです。
イエス様の香りがしないのです。
あなたの内側の自分を汚すものを、主に取り扱っていただかなければなりません。
クリスチャンのふりをしても無駄です。
イエス様の命が、あなたの香りだからです。
それを求めて、みんなが集まって来るのです。
そのイエス様の香りを嗅いで、自殺を思いとどまる人がいます。
まるでアロマセラピーのように、イエス様の香りで家庭が、周りの人が癒されます。
「あの人がいてほしい」「あの人がいると慰めがある」と、周りの人に愛されるようになります。
それが、イエス様の存在です。
だから、イエス様のような人物に変えられることが、本当に重要なのです。
イエス様がパンを渡された後すぐ、サタンがユダに入りました。
それまでは、ユダにも悔い改めのチャンスがあったのです。
サタンが入ったら、その人はコントロールされます。
本人が、本当に解放されたいと願わない限り、サタンは出て行きません。
本人が肉の汚さ、嫌らしさを楽しんでいるからです。
どうか、みなさんイエス様の香りが漂うような人になってください。
「私の主はどこですか!?」と叫んだマグダラのマリヤのように、イエス様を愛する人となってください。
それができないなら、太秦之宮など要りません。
以下の内容は、交わりの時に話されたものです。
葛藤するのは、大切なことです。
肉は光を嫌います。
自分を晒したくないし、見られたくないのです。
交わりの中で、弱さを兄弟姉妹に知られることは、肉には辛いことです。
しかし、もうはっきりしなければなりません。
いつまでも闇の中にいるのか、一歩踏み出して光の中に出るのか。
苦しみは、踏み出す力を蓄えます。
だから、苦しんだことは良かった、というみことばが事実となるのです。
賛美をしている時、見ていたらみなさんの心はわかります。
賛美をつまらないと思っているのか、自分だけ目立ちたいと思っているのか。
イエス様は見ておられるし、全てを知っておられます。
礼拝の賛美で力を尽くさないなら、あなたは一体どこで力を尽くすのですか。
力を尽くすなど、そんなこと普段ほとんどないでしょう?
私は賛美の後は、力を使い果たし、上から力をいただかないと、メッセージもできません。
賛美の捧げものが適当であるなら、あなたは退けられます。
イエス様との関係は、デリケートです。
あなたがイエス様の近くにいるなら、離れて行かれた時に気付くでしょう。
しかし、イエス様との距離が遠すぎるので、あなたは気付かないだけです。
キリスト教をやると、冷たいです。
そのような人生は本当に面白くありません。
イエス様を愛していたら、その距離感を敏感に感じるようになるでしょう。
あなたは、イエス様の十字架に、申し訳ないと泣いたことがありますか?
イエス様の十字架の愛に感動して泣いたことがありますか?
それがないなら、どうしようもありません。
アガペーの愛に感動するのが、礼拝の源泉です。
イエス様に燃えているなら、あなたのどんな凸凹も取り扱っていただけます。
使徒たちは、イエス様に惚れ込んでいる、その愛に燃えていたのです。
文責 菅原はれみ
コメントを残す