耶蘇上帝會 太秦之宮

京都・太秦を拠点とする日本のキリスト教会です

礼拝message 11月8日(日)

礼拝message 11月8日(日)

(長岡京市・光明寺)

ルカ14:25〜35,15:11〜24

イエス様に従う生活

アメリカの大統領選挙なども含め、世界は今、動いています。
みなさんは、この世界の動きをどのように見ていますか。
天地を造られたお方、イエス様の許しの中で、すべてのことが起こっています。
それぞれ一人一人の信仰で主なるイエス様を知り、イエス様ご自身から教えられ、イエス様があなたの前を歩まれるその足跡を、ついて行く人生を歩んでいますか。
それが聖書の求める生活です。
みなさんにそのような人生を全うして欲しい、と切に願っています。
シュペーナーが唱えたように、太秦の群れの目標は「みことばの体験と実践」です。
イエス様に聞き従うのが目標であり、それを日常生活でできる人が、証しできる人です。
ご聖霊が聖書から啓示してくださるイエス様を知り、御霊の実を結び、先生であるイエス様の足跡に従う生活ができないならば、あなたはただのキリスト教という宗教をしている人です。

宗教的な信条は、何を信じているかを文章に著したもので、それに命はありません。
命がなければ、信条は意味がありません。
イエス様ご自身から命を吹き込まれ、実際にその命を生きているのが、太秦の群れであって欲しいのです。
命があっても子どもの時は「うちのパパはこんな人」という風に天の父を知っているでしょう。
成長して大人になれば、「父はこういう人物です」と、天の父を大人として知るようになります。
このように、内なる人が成長して行かねばなりません。
しかし、命を持っていても、子どものままの人が大勢いるのです。

放蕩息子の例えは、クリスチャンの話です。
元々、父のところにいたからです。
しかも、父の相続財産があると知っている子どもです。
天の相続財産は、上帝の子どもの特権です。
しかし、多くのクリスチャンは、放蕩していながら、そのことに気づいていません。
イエス様のお名前によって、恵みだけはもらいますが、天の父の願う道を歩まず、自分勝手な信仰生活をしているのです。

主が必ず祝福される

私は、お金の話は嫌いです。
牧師、宣教師の中にあるお金に対する汚いものを散々見てきました。
私は、謝儀は要りません。
イエス様の福音とお金は結び合わないからです。
弟子の祝福として、お金は後でついてきます。

申命記15:1〜11
15:4 「もっとも、あなたの上帝、主が相続地としてあなたに与えて所有させようとしておられる地で、主が必ずあなたを祝福されるので、あなたのうちには貧しい人がいなくなるであろう」

イエス様に従う生活を実践するなら、必ず祝福されます。
主に全てを捧げた時、主は何倍にもして祝福しようと待っておられます
聖書を読んでいれば分かることです。
イエス様のことを本当に知っている人ならば、全てを捨てることができます。

私は、小さい会社を経営していたことがあるのですが、預貯金がゼロの時が、度々ありました。
お客さんにはなかなか支払ってもらえないし、下請けさんに費用を支払ったら、何も残りませんでした。
しかし、主は生かしてくださるのです。
当時、本当に良いお客さんもいました。
今では日本的な経営の良さ、家族的なものは、戦後教育と自虐史観から骨抜きにされ、破壊されてしまいましたね。

申命記15:5,6
5「ただしそれは、もしあなたが、あなたの上帝、主の御声に確かに聞き従い、私が今日あなたに命じるこの全ての命令を守り行なったなら、である」
6「あなたの上帝、主はあなたに約束したようにあなたを祝福されるから、あなたは多くの国々に貸すが、あなたが借りることはない。また、あなたは多くの国々を支配するが、彼らがあなたを支配することはない」

主は、ご自分の民を、一つの民族として見ておられます。
それぞれの個人的な信仰も、旧約と同じです。
旧約聖書の根底にある精神が、そのままイエス様の教えの中にあるのです。
旧約と新約は同じものです。
切り離せるものではありません。

天の国籍

イザヤ43:21
「わたしのためにわたしが形造ったこの民は、わたしの栄誉を宣べ伝える」

出エジプト19:4〜6
4「『あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを見た」
5「今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから」
6「あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる』これが、イスラエルの子らにあなたが語るべき言葉である」

旧約では、イスラエル民族は選びの民でした。
王の祭司、つまり万人祭司です。
これは、そのまま新約の契約となります。
そして旧約で約束された「宝の民」は、新約ではさらに恵みが増し、「天の父の子ども」とされました。
この凄さが分かりますか。「天の父の子ども」なのですよ。
これ以上に強い絆はありません。
天の父が、子どもたちにどれほど目を注ぎ、見守り、大切にされているか。
「宝の民」と「子ども」の違いを考えてみてください。

世の終わりには、クリスチャンの愛が冷えます。
ましてこの世はどれほど冷たくなるでしょうか。

ルカの福音書は、異邦人のための福音書です。
異邦人は、お金、世にあるものにしがみついています。
そのためにルカの福音書が書かれたのです。
異邦人にとっては、自分たちの国がこの先どうなるのか、大問題でした。
しかし、イエス様の弟子にとって、地上での生きる目標は、天の故郷に帰ることです。
天の父の子どもだから、天国に国籍を持つのです。
ここで、あなたがどこで生まれたかが、非常に重要です。
天で生まれたから、天で国籍を持つのです。
上から生まれなければ、天の国籍はありません。

放蕩息子は、遠い国に旅立ちました。
親の影響力があるところ、つまり親の支配権が及ぶところは嫌だったのです。
親の権威と束縛に生まれつきの肉は、「うるさいな、俺の自由にさせろ。好き勝手やりたい!」と思うものです。
しかし、彼は全ての財産を使い果たし、飢え、「豚の餌でも食べたい」と思った時に、正気に戻りました。
雇い主が近くにいたから、豚の餌すら食べられなかったのです。
そのことがさらに彼のひもじさを増したのでしょう。
「自分はなんと、貧しく惨めなのだろう」と、自分の現状に気づいたのです。
同じように、多くのクリスチャンも、信仰があるはずなのに、なぜそんなに暗くて惨めで、先が見えないような顔をしているのでしょうか。

自分を捨てなければ

ルカ14:25〜27
25「さて、大勢の群衆がイエスと一緒に歩いていたが、イエスは振り向いて彼らに言われた」
26「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分のいのちまでも憎まないなら、わたしの弟子になることはできません」
27「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません」
33「そういうわけで、自分の財産すべてを捨てなければ、あなたがたはだれも、わたしの弟子になることはできません」

自分の命まで憎まないなら、つまり捨てないなら、弟子にはなれません。
しかし、多くのクリスチャンが、自分を捨てないで洗礼を受けています。
そのような人の生き方は「十字架って何のこと?自分を愛さなきゃ。隣人はどうでも良いの。大切なのは自分だけ」と自己愛の塊のようです。
財産もそうです。
イエス様のことより、財産が気になり「こうしたらもっと増える。ああした方が利子がつく」と関心が財産に行ってしまいます。
財産全てを捨てなくては、誰もイエス様の弟子にはなれません。
捨てることは、それから自由になることです。
お金があっても救われません。
地上のものは、地上で終わります。
そして、あなたが今手にしているものは、全部主のものです。
あなたは、ただ主が気が向いて、造られただけなのですよ。
別にいなくても良かったのです。
主が、色々なタイプの人間を造ってみようと思われ、あなたが造られたのです。

天の父の家族

もともと天の父は、アダムとエバを、家族をイメージして造られました。

エペソ3:14〜19
14「こういうわけで、私は膝をかがめて」
15「天と地にあるすべての家族の、『家族』という呼び名の元である御父の前に祈ります」
16「どうか御父が、その栄光の豊さにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように」

何故イエス様を、長子と呼ぶのですか。
それは、家族だからです。
天の父が、全人類を造られた時のイメージは家族なのです。
放蕩息子は、家族の絆が面倒くさかったのです。
自由気ままに勝手にやりたかったのです。

ルカ15:17
「しかし、彼は我に返って言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が、なんと大勢いることか。それなのに、私はここで飢え死にしようとしている」

彼は、落ちぶれ我に返った時、父のもとにはパンのあり余った使用人がいるのを思い出しました。
これはイエス様のことです。
イエス様のもとにこそ、豊かさがあります。
放蕩息子は、財産を使い果たし、自分で父と子の絆を捨てたのですから、もう子と呼ばれる資格がないのを分かっていました。

ルカ15:18,19
18「立って、父のところに行こう。そしてこう言おう。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です」
19「もう、息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください』」

彼は気づいたのです。
「わたしは罪を犯しました!」と。
自称クリスチャンは、好き勝手なことをやり、死んでいる人です。
自分で、命を捨てたのです。

ルカ15:22〜24
24「『この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから』こうして彼らは祝宴を始めた」」

だからここで、「死んでいたのに生き返り」と言っているのです。
多くのクリスチャンは「勝手気ままに生きても、救われる」と思っています。
しかし、好き勝手にしているなら、すでに死んでいます。
天の父とは縁が切れてしまい、悪霊にコントロールされています。

みことばを守るならば

エペソ2:1〜3
1「さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり」
2「かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました」
3「私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした」

あなたが、「神様」と呼ぶなら、聞こえるのはイエス様の声ではありません。
聞いているのは自分の声、自分の思いつきであり、また悪霊がしるしと奇跡を見せてコントロールします。
あなたが、正しい霊に導かれているなら、イエス様の弟子です。

ヨハネ8:31〜47
31「イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。『あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当に私の弟子です」
37「わたしは、あなたがたがアブラハムの子孫であることを知っています。しかし、あなたがたはわたしを殺そうとしています。わたしのことばが、あなたがたのうちに入っていないからです」

イエス様は、ご自分を信じたユダヤ人たちのこのことを話されました。
ユダヤ人たちは「イエス様の言うことは、きついな。面白くない」とだんだん腹を立ててきました。
だからイエス様は「わたしの言葉にとどまるなら」つまり、「みことばを守るなら、本物の弟子です」と言われたのです。
イエス様の命があなたの心になければ、イエス様を殺そうとします。
それはイエス様に背を向けて「イエス様は要らない。勝手にする」という態度です。

ヨハネ8:42〜44
42「イエスは言われた。『上帝があなたがたの父であるなら、あなたがたはわたしを愛するはずです。わたしは上帝のもとから来て、ここにいるからです。わたしは自分で来たのではなく、上帝がわたしを遣わされたのです」
43「あなたがたは、なぜわたしの話が分からないのですか。それは、わたしのことばに聞き従うことができないからです」
44「あなたがたは、悪魔である父から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと思っています。悪魔は初めから人殺しで、真理に立っていません。彼のうちには真理がないからです。悪魔は、偽りを言うとき、自分の本性から話します。なぜなら彼は偽り者、また偽りの父だからです」

「私はイエス様に、聞き従えない」と言いますか。
いいえ、「聞き従いたくない」のです。
イエス様のみことばは厳しいのです!
中途半端はありません。
あなたが、「イエス様に聞き従えない」と言うなら、父と子の関係は切れています。
放蕩息子はそれを分かっていました。
イエス様から命をもらっていたなら、心の内側でブレーキがかかります。
「それをやるのか?それを言うのか?」と。
上からの命があるなら、たとえその命がまだ赤ちゃんであっても『嫌!』と言います。
好き勝手やっていて、何も感じない人は、命がありません。
命に至る悔い改め、つまりイエス様ご自身に直結できる悔い改めをしなければ、何も変わりません。
イエス様は、見ておられるし、聞いておられます。
あなたの悔い改めを、真実だとイエス様が認めてくだされば、イエス様があなたの前におられ、新しい命を確かにしてくださいます。
そして、喜びと平安が、プレゼントとして与えられます。

天の家族の中の平安

Iヨハネ3:14
「私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛さない者は死のうちにとどまっています」

天の父は家族を作ろうとされました。天の御国です。
民族は関係ありません。
家族は愛し合うのが、当たり前です。
家族の中に、子どもとして生まれるのですから。
群れの中で、生まれ変わった者たちが、兄弟姉妹として愛し合うのです。
これは、天の父の命令です。
兄弟姉妹を愛さない者は、死んでいます。
生まれていないから、何も変わりません。

ヨハネ16:7〜11
7「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします」

このご聖霊の働きが、放蕩息子を我に返らせたのです。
父のもとに帰ろう、と。
クリスチャンに家族意識がないなら、ただのカルト集団になります。
家族は、役割は違うけれど、イエス様のみからだとして一致しています。
この一致こそが、人間のホッとできる場所なのです。
家族が、集まって互いに思い遣っている、祈りあっている。
当たり前のことであり、落ち着ける場所です。

だからイエス様に感謝を捧げるのです。
家族を嫌い、受け入れない人は、天国に入れません。
苦手な人がいても、感謝して受け入れて行く、その中でアガペーの愛がどのようなものか分かってくるのです。
このアガペーの愛こそが、暖かさと安らぎを与え、世の人が切に求めているものです。
この世は悪しき者が支配しています。
しかし、信仰の家族の中にあるアガペーの愛、そこには主が共におられるので、平安があるのです。
この平安は、イエス様からしか出てきません。
主が、命令されていることを、現実にやらなければなりません。
一人一人が個人的に、その心構えで行動してくれなければ、太秦之宮は要りません。

以下の内容は、交わりの時に話されたものです。

信仰の家族となりたければ、自分を捨てなければなりません。
傍観者であるなら、無理です。
自分を捨てて提供するのが、信仰の家族だからです。
自分を捧げるのが、礼拝です。
天の父に、イエス様に、自分を捧げているのと同じように、信仰の家族にも自分を捧げるのです。
群れの中で、家族になりきれていない人は、あなたの心に土足で踏み込み、あなたを傷つけることもあります。
でも、自分は十字架につけたのですから、その人を受け入れるのが弟子です。
日本人は、一歩引いて見ているのが得意です。
しかしこれだと家族にはなれません。
「自分を捧げる」というあなたの意思が必要です。
家族だからこそ、お互いの間で心を開き、安心して話せるのです。
失敗を分かち合う交わりの中で、世から受けた傷が癒されていきます。
それが出来なかったら、太秦之宮は失敗です。

文責 菅原はれみ

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