耶蘇上帝會 太秦之宮

京都・太秦を拠点とする日本のキリスト教会です

礼拝message 11月1日(日)

礼拝message 11月1日(日)

使徒21:37〜22:29

あなたの喜びは何ですか

使徒22:1,8
1「兄弟ならびに父である皆さん。今から申し上げる私の弁明を聞いてください」
8「私が答えて、『主よ。あなたはどなたですか』と言うと、その方は私に言われました。『わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスである』」

今週、あなたはどれくらいイエス様に感謝を捧げましたか?
イエス様のお名前を呼び始めてから、あなたの心の中に留まっているみことばは何ですか?
私は、落ち込んだ時、必ず心に去来するみことばがあります。

イザヤ51:1
「義を追い求める者、主を尋ね求める者よ、わたしに聞け。あなたがたが切り出された岩、掘り出された穴に目を留めよ」

「あなたがたが切り出された岩、掘り出された穴」とは何ですか。
イスラエルの民にとっては、父アブラハムとサラのことです。
異邦人の私たちにとっては、過去を振り返ってよく見てみなさい、という意味です。
あなたはどのようなところから救い出されたのですか?
私は子どもの頃から鬱というか、いつも虚無感におそわれていました。
自分の存在は無意味だと、否定したくなるのです。
自分はいらないから、生きる必要が無い、と死の中をさまよっているような状態でした。
そのような時に、身近にクリスチャンの存在があったら、どんなに良かっただろうと思います。
私の側にはクリスチャンはいませんでしたが、イエス様は代わりにモーツァルトのレクイエムを通して(元クリスチャンの音楽の先生との思い出を通して)、教会へと導いてくださいました。

あなたは、もし誰かにあなたの希望が何かを聞かれた時、弁明する準備はできていますか?

Iペテロ3:13〜18
15「むしろ、心の中でメシアを主とし、聖なる方としなさい。あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、誰にでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい」

弁明の意味は、説明して事理(すじみち)を明らかにすること、です。
「何故あなたは希望を持って喜んでいるのですか?」と誰かに聞かれたならば、その人が分かるように説明する用意をしていますか。
「救いとはどのようなものなのか?」
「何故あなたには希望があるのか?」
救われた人は、喜んでいるのが自然です。
絶えず祈っていて当たり前です。
全てのことにおいて感謝するのが、信仰の証しです。

日本の現状がどうであれ、聖書を読んでいるなら感謝できるはずです。
旧新約聖書を通読し、みことばからはっきりと、ご聖霊がイエス様ご自身をあなたに啓示してくださいますように!
聖書は、イエス様のことを証ししています。
ペンテコステ派のようにスピリチュアルになり、みことばから離れてしまうと、イエス様に聞き従えません。
それどころか、悪霊に聞き従うことになります。

十字架のイエス様を見ているのか

ガラテヤ3:26〜4:11
4:9「しかし、今では上帝を知っているのに、いや、むしろ上帝に知られているのに、どうして弱くて貧弱な、もろもろの霊に逆戻りして、もう一度改めて奴隷になりたいと願うのですか」

ガラテヤ3:1〜6
5「もう一度聞きます。何故上帝は、あなたがたに聖霊様の力を与え、奇跡を見せてくださったのですか。ユダヤ教のおきてを守ろうと努力したからですか。絶対にそうではありません。メシアを信じ、全くお任せしたからです(リビングバイブル)」

クリスチャンの悪い点は、イエス様に全くお任せしないことです。
「努力が足りない。頑張ります」と言うけれど、頑張る方向が違うのです。
「主にお任せする。しがみつく」という方向に頑張れば良いのです。
私たちは、すぐに生まれつきの自分の考えに戻って行こうとします。
そしてこの世の霊は、あなたを古い自分に縛りつけておきたいのです。
「あの時はカッコ良かったよ!」と調子の良かった時を思い出させて、宝物のようにそれを隠し持っておかせるのです。

ガラテヤ3:1
「ああ、ガラテヤのみなさん。なんと物わかりが悪いのでしょう。いったいどんな魔術師にだまされて、魔法にかけられたのですか。私は、十字架上で死なれたイエス様の姿を、絵のようにありありと目の前に示して、その死の意味をはっきりと教えたではありませんか(リビングバイブル)」

パウロは「心の目で本当にイエス様の十字架の姿を、鞭打たれて苦しまれる姿を、身代わりの死を、あなたは見たのか!?」と言っているのです。
ローマ兵が槍で脇腹を刺すと、血と水が流れ出ました。
血清と血餅が分離して流れ出たのです。
イエス様は、激しく苦しんで心臓破裂で亡くなりました。
あなたは、本当にこのイエス様の姿を見ているのですか。
そしてイエス様は、今は天の栄光の御座におられるお方です。
死からよみがえられ、永遠の命を持っておられるお方として、です。

メシアが私のうちに生きておられる

クリスチャンライフの源泉は、喜びとアガペーの愛です。
全て、イエス様が中心です。
あなたのうちに住んでおられるイエス様の命に、ご聖霊がアガペーの愛を注がれます。
霊にその愛が注がれるので、あなたの魂もその愛を感じるのです。

虚無感に喘いでいた私が、今こうして生きているのは、「イエス様が、私を愛してくださっている。私の存在を許してくださっている」と分かったからです。
私をお造りになったお方、創造主が、父母の他におられるという驚きです。
イエス様が、私を存在させられたのです!
創造主なるお方が、ご自分の命を捨てて、私に復活の命を与えてくださる!?
このようなことが、あって良いのか!?
最初はまるで狐につままれたようでした。
このような私のためにです。
それはあり得ないような事です。

ヨハネ3:36
「神子を信じる者は永遠のいのちを持っているが、御子に聞き従わない者はいのちを見ることがなく、上帝の怒りがその上にとどまる」
ガラテヤ2:20
「もはや私が生きているのではなく、メシアが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、上帝の御子に対する信仰によるのです」
I have been crucified with Christ; it is no longer I who live, but Christ lives in me; and the life which I now live in the flesh I live by faith in the Son of God, who loved me and gave Himself for me.(NKJV)

注:ガラテヤ2:20「今私が肉において生きているいのち」は分かりにくい訳なので、古い新約聖書を参考にしてください。in the flesh「今私が肉体を持って生きている命」の意。

この二つの箇所を合わせて覚えて欲しいと思います。

あなたが、誰かに弁明をする時に、クリスチャン用語を使ってはいけません。
この世の人が理解できる言葉で、希望や天について説明できなければ、意味がありません。
聞く人が理解できる言葉で、その人の理解に合わせて話せなければ、ただの自己中心、自己満足の信仰です。
何の役にも立ちません。
多くのクリスチャンは、主に買い取られた者として、主のために生きることを、みことばから実感していないのです。

みことばを体験する

太秦の群れは、敬虔派です。
みことばを、自分で体験し実践するのです。
この信仰による体験が、大いなる望みです。
私たちは、天の故郷に帰る望みに基づいて、この地上を旅しています。
だから、羊飼いなるお方が、ひとりひとりの生活に、主として関わってくださるのです。

ファイヤーバイブルでスタンプス氏は「バプテスマ(洗礼)を受けるのは、主イエスを自分の人生の最高の権威として信じて、自らを捧げて、バプテスマを受けるものだ」と言っています。
信仰は、「私のために」という個人的なものです。
「私のために、ご自身を捨ててくださったお方を、信頼しているのです」というはっきりした確信です。
信仰生活の要は、「このお方に信頼してお任せしている。このお方が、絶対的な権威をお持ちで、私を買い取ってくださったのだ」という信仰です。
あなたの顔が暗くて辛気臭いなら、誰も希望について聞いてくれません。
あなたが希望のない顔をしているのですから。
誰があなたみたいになりたいと思いますか?
あなたは、どのような場所から切り出されてクリスチャンとなり、上帝の子どもとなる特権をいただいたのですか。
それを自分でよく見てください。

ヨハネ3:16
「上帝は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」

天の相続財産

現代のクリスチャンは、「天に相続財産がある」という実感がないのです。
これは「天に宝を積む」のと同じです。
天にあなたの家があるなら、それはどのような家になるのか、地上での奉仕の量によります。
あなたが天で住む永遠の家がどのようなものか、また裁きの時にどのような報いを受けるのか、あなたの地上の人生がそれを決めます。
あなたがどのような奉仕をしようとも、「私は主のものです!」という献身が下敷きとなっていないなら、天には届きません。

あなたにとって天国は、どのようなところですか?
天の相続財産を実感していないなら、リアリティーがありません。
あなたが確信に基づいて何かを話すなら、それを聞く人の心には必ず何かが残ります。
使徒22章でパウロが主との出会いを証ししているように、あなたはどのようにイエス様と出会ったのですか。
いつ新しい命を確信したのですか。
いつ天国を実感したのですか。
これを、自分のものにしていなければなりません。
信仰の基礎として、あなたが自分をチェックするために、弁明をする用意をしてください。

ピリピ3:1〜11
10「私は、メシアとその復活の力を知り、メシアの苦難にもあずかって、メシアの死と同じ状態になり」
11「何とかして死者の中からの復活に達したいのです」

ピリピ1:20,21
20「私の願いは、どんな場合にも恥じることなく、今もいつものように大胆に語り、生きるにしても死ぬにしても、私の身によってメシアがあがめられることです」
21「私にとって生きることはメシア、死ぬことは益です」

信仰の確信を持っていないと、パウロのように言うことはできません。
日本がどうなろうと、私は恐れません。
今日何があったとしても、主のもとに帰るのですから、と。

あなたはどこから救いだされたのか

私は、今ある友人を通して、自分の過去を辿らされています。
彼が転勤するところが、全て自分がかつて歩んできた場所なのです。
自分が高校3年生の時に、絶望の真っ只中で叫んだこと。
「神様がいるなら、何とかしてくれ!」と。
まさにその場所に彼が導かれているのです。
本当に不思議だな、と思います。
主は「原点に戻れ!」と言われているのです。
自分がどのようなところから救い出され、どのようにイエス様と出会い、イエス様が何をしてくださったのか。
あなたが過去を辿るなら、恵みを確認して感謝できるはずです。
私は60年前のことをありありと覚えています。
あの絶望的な時を、イエス様は見ておられたのだと。

みなさん、今どのような人と交わっていますか。
その人があなたに心を開くなら、自然にイエス様があなたにしてくださったことを分かち合えば良いのです。
無理に押し付けるのではなく。
あなたがいつも喜んでいるならば自然に言えるようになります。
悪霊は、「伝道しよう!証ししよう!」と言ってきます。
あなたが本物であり全てを感謝しているならば、飢え渇いている人は、その喜びの源泉が何なのかあなたに尋ねるでしょう。

自然のままでイエス様の香りを放つ

パウロはギリシャ語とヘブル語を臨機応変に使い分けました。
これはすごいことです。そして、どのような状況でも冷静に言っています。

使徒22:25「彼らが鞭を当てるためにパウロを縛った時、パウロは側に立っている百人隊長に言った。
『ローマ市民である者を、裁判にもかけずに、鞭打ってよいのですか』」

そこで千人体調がパウロに興味を持つのです。
「彼はいったいどのようなことをして来た人なのだろうか?」という風にです。
パウロは計画して話しているわけではありません。
パウロはそのままで多くの人を惹きつけているのです。
あなたが、その自然なままでイエス様の香りを放ち、「何故こんな状況なのに、そんなに明るいのですか」と聞かれますように。
この世の現実は、闇しかありません。
希望もなく、仕事もありません。
上帝の国と義を、あなたが一番に求めているならば、天の父があなたの生活を管理してくださいます。
その喜びと安息を味わっているのを、周りの人が見るためです。
それが地の塩、世の光なのです。
周りの人は、あなたから何を感じとっていますか?
あなたが、どのようにイエス様から見いだされ、今生きているのか。
天に宝を積む生き方をしているのか、周りの人は見ています。

文責 菅原はれみ

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