
使徒11:19〜12:25
イエス様はどのようなお方なのか
この一週間、みなさんの唇には何がありましたか。
主への感謝と賛美ですか。
今日、顔は喜びに輝いていますか?
詩篇50:21
「こういうことをおまえはしてきたが わたしは黙っていた。わたしがおまえと等しい者だと おまえは思っていたのだ。わたしはおまえを責める。おまえの目の前でこれらのことを並べ立てる」
ヒューマニズムは、イエス様が自分と同じようなお方だと勝手に思っています。
聖書を人間中心に読むと、そうなります。
「自分がこう考えているように、イエス様も多分こう考えているだろう」という態度です。
イエス様をこのように考えているのなら、偉大な信仰体験はできません。
「あなたの信仰の通りになれ!」と言われているのですから、信じていないと信仰の体験はできません。
イエス様がどのようなお方なのか、あなたは知っているのですか?
「このようなお方だろう」と自分勝手に決めつけていますか?
もしそうなら、あなたは自分の人生も命も、懸けていない人です。
だから洗礼を受ける前に、奇跡の体験をたくさんしてくださいと言っているのです。
そうでないと「こんなものだろう」という態度になり、聖書のみことばを本当には信じていない者となります。
その人の中に、常に疑問符があるからです。
主の御手が共に
使徒11:19
「さて、ステパノのことから起こった迫害により散らされた人々は、フェニキア、キプロス、アンティオキアまで進んで行ったが、ユダヤ人以外の人々には、だれにもみことばを語らなかった」
ここで、散らされて行ったユダヤ人クリスチャンたちは、異邦人には福音を語りませんでした。
何故なら異邦人は旧約聖書を読まないからです。
彼らはまず、ユダヤ人の会堂シナゴーグでイエス様を証ししました。
旧約聖書を知っており、ユダヤ人の教えを大切にする人たちに語ったのです。
福音を聞いて、彼らの反応は二つです。
クリスチャンは、迫害されるか、証しを受け入れ大切にされるか、そのどちらかでした。
百人隊長コルネリウスは、シナゴーグに行き、ユダヤ人の律法を知っていました。(使徒10章)
そこで、ユダヤ人の生き方(上帝を畏れ敬い、貧しい人を顧みる生き方)が素晴らしいと、感動していたのです。
信仰の土台があったのです。
旧約聖書を読んで学んでいないなら、福音は分かりません。
使徒11:20,21
20「ところが、彼らの中にキプロス人とクレネ人が何人かいて、アンティオキアに来ると、ギリシア語を話す人たちにも語りかけ、主イエスの福音を宣べ伝えた」
21「そして、主の御手が彼らとともにあったので、大勢の人が信じて主に立ち返った」
その後、異邦人の使徒パウロは、唯一の救いの道であるイエス様のことを語りました。
異邦人が主のもとに立ち返ったのです。
条件は、「主が共にいて働いてくださった」という事実です。
主が共にいてくださるなら、心を開く人々が起こされます。
聖霊派でたびたび大きな伝道集会が開かれてきましたが、その時にクリスチャンになった人々は今、どこに行ったのですか?
伝道集会もテレビ伝道も、主が共にいてくださらないなら、むなしいだけです。
日本では「キリスト教は西洋のもの」という先入観が根強くあると思うのですが、みなさんはどうですか?
プロテスタントは特に、キリスト教は西洋のものという色眼鏡で見てしまいます。これが日本における、宣教の邪魔になったのです。
何故でしょうか?宣教師が、自分の国のキリスト教文化を全面に出してしまうからです。
「日本人がクリスチャンになったら、このような人になる」という見本(証)が本当にないのです。
日本では、「福音が何なのか」ほとんど証しされていないと、私は思います。
過去、リバイバルは起こりました。
しかし未だに日本ではクリスチャン人口がたったの1%です。
そのたったの1%のクリスチャンたちも、この数字を逆手にとって「私たちは選ばれたのだ」とおかしなプライドを持つ始末です。
太秦の群れは、イエス様がどのようなお方であるのか、というメシア観を、まだまだ自分の中で育んでいる状態です。
それではイエス様のために戦うなど到底無理です。
まるでまだ、母のお腹にいる胎児のようです。何もできません。
「主が共にいて戦ってくださる」という場面に会わされることはありません。
謙遜に自分の信仰の現実を見てください。
預言の賜物
使徒11:28〜30
28「その中の一人で名をアガボという人が立って、世界中に大飢饉が起こると御霊によって預言し、それがクラウディウス帝の時に起こった」
29「弟子たちは、それぞれの力に応じて、ユダヤに住んでいる兄弟たちに救援の物を送ることに決めた」
30「彼らはそれを実行し、バルナバとサウロの手に託して長老たちに送った」
世界の現状を考える時、預言が何故必要なのか。
この中に預言者がいたら、コロナウィルスのことは分かっていたでしょう。
残念ながら、私も分かりませんでした。
アガボは預言の賜物を持っていました。
クリスチャンの群れは、これから主がなさることを知り、その心づもりと準備をしなければならなかったのです。
ファイヤーバイブルの1991ページ、「御霊のバプテスマの吟味」をよく読んでください。
聖霊のバプテスマを受けたなら、これを基準にして欲しいのです。
謙遜に、自分はこの点が足りない、と吟味してください。
奇跡
使徒12章で、牢屋に入れられたペテロを、み使いが連れ出しました。
これは現代でも起きるのですよ。
この事実を信じられないなら、あなたは死んだら、どこに行くのですか。
こんなことが信じられないなら、復活は信じられません。
あなたの信仰の通りになれ、と言われている通りです。
使徒12:7,8
7「すると見よ。主の使いがそばに立ち、牢の中を光が照らした。御使いはペテロの脇腹を突いて彼を起こし、『急いで立ち上がりなさい』と言った。すると、鎖が彼の手から外れ落ちた」
8「御使いは彼に言った。『帯を締めて、履き物をはきなさい』
ペテロがその通りにすると、御使いはまた言った。『上着を着て、私について来なさい』」
こんなリアリティーありますか。み使いは、具体的に指示をするのです。
そして、鉄の門がひとりでに開きました。
番兵はみんな寝ていたのでしょうか。
これは現実です。
使徒12:15,16
15「人々は彼女に『あなたは気が変になっている』と言ったが、彼女は本当だと言い張った。それで彼らは『それはペテロの御使いだ』と言った」
16「だが、ペテロは門をたたき続けていた。彼らが開けると、そこにペテロがいたので非常に驚いた」
彼らは非常に驚いています。
当時の人々も、この奇跡を信じられなかったのです。
主に栄光を帰す
ヘロデは、番兵を取り調べて、処刑しました。
ここからも、彼がどんなに簡単に人を殺したかが分かります。
使徒12:23
「すると、即座に主の使いがヘロデを打った。ヘロデが上帝に栄光を帰さなかったからである。彼は虫に食われて、息絶えた」
ヘロデは、主に栄光を帰さなかったので、人生の絶頂期に死にました。
上帝の力のリアリティーがここにあります。
主がお許しになったので、ヘロデはこの地位にいたのです。
この世の王たちも同じです。
現代のキリスト教国のトップと、その取り巻きは、どうですか。
危ない状況です。
祈りに応えられた時、主に栄光を帰して、主を褒め称えないならペナルティーがあります。
牧師、宣教師の老後、末路はどうなって行くのか、データを出すべきです。
あなたの人生を見て、周りの人がこのように生きたいと思わないなら、証しになどなりません。
復活の信仰は、奇跡の信仰が土台となっています。
「人間にはできない」という奇跡の体験を積み重ねていって、復活を信じるようになるのです。
以下の内容は、交わりの時に話されたものです。
感謝しなさい
信仰には、しつこさが必要です。
祈りが応えられたなら、必ず感謝すべきです。
感謝しないなら、主を自分と同じように思っている姿です。
キリスト教をやっている人は口が軽いのです。
間違いがあったら、悔い改め、謝るのです。
イエス様に対して。
子どもは、祈って、何かをもらったら素直に感謝します。
それを見て、天の父も喜ばれるのです。
子どもを捨てる
子どもに対して、親が精一杯働いている姿を見せるのが、最高の教育です。
子どもは、親が同じ土俵に立つと、親を下に見るようになります。
親は、子どもの人生に介入してはならないのです。
そうでないと、自分の人生が、親なしでは居られなくなります。
今こそ、子どもも、自分で立つべきです。
過保護は愛とは言いません。
子どもにとって、自分で痛い思いをし、恥をかくのが訓練です。
親が、子どもを捨てていないと、親バカになります。
そして、子どももダメにします。
自立できないからです。
大切なのは、子どもを捨てることです。(これは母親にとってはきついことです)
しかし、そうでないと愚かな親になってしまいます。
イエス様とあなたの関係が、様々な形で家族に影響を与えるのです。
イエス様は、母マリアが自分を連れ戻しに来た時、何と言われましたか?
「私の母とは誰ですか?ここにいる姉妹たちです」と、マリアはバッサリ切られています。
聖書通りにやるのか、自分のやり方でやるのか。
今こそはっきりする時です。
私は、自分の子どもに対して冷たかったと思います。
しかし、それが愛、アガペーです。
子どもたちは、大人になると自分が愛されていたことが分かります。
愛国心
愛国心について、弟子たちの中には、熱心党の最右翼の者もいました。
しかし、彼らは、イエス様のために自分を捨てて行ったのです。
そして変えられていきました。
現代に生きる私たちも同じです。
いろいろな情報は必要です。
しかし、他の国を敵対国として見るのは違います。
私たちが判断を間違うと、イエス様の思いと違っていきます。
文責 菅原はれみ
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