耶蘇上帝會 太秦之宮

京都・太秦を拠点とする日本のキリスト教会です

礼拝message 10月21日(水)

礼拝message 10月21日(水)

ヘブル9:11〜10:31

ヘブル10:30,31
30「私たちは、『復讐はわたしのもの、わたしが報復する』また、『主は御民をさばかれる』と言われる方を知っています」
31「生ける上帝の手の中に陥ることは恐ろしいことです」

永遠の贖い

まず、考えて欲しいのです。
イエス様の命ある十字架の血の力、その血がいかに多くのことを語るのか。
あなたの信仰生活で、どれだけイエス様の血の力が体験になっていますか。

ヘブル9:11
「しかしメシアは、すでに実現した素晴らしい事柄の大祭司として来られ、人の手で造った物でない、すなわち、この被造世界の物でない、もっと偉大な、もっと完全な幕屋を通り」
12「また、雄やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました」

ヘブル9:23,24
23「ですから、天にあるものの写しは、これらのものによってきよめられる必要がありますが、天上にある本体そのものは、それ以上にすぐれたいけにえによって、きよめられる必要があります」
24「メシアは、本物の模型にすぎない、人の手で造られた聖所に入られたのではなく、天そのものに入られたのです。そして今、私たちのために上帝の御前に現れてくださいます」

ここにあるように、イエス様は「この被造世界の物でない、完全な幕屋」を通り、「地上の物ではない、天そのもの」に入られたのです。
地上の幕屋は、天の聖所のひな型です。
それでは、なぜ天の聖所が聖められる必要があったのでしょうか。
それは、天の聖所が汚されたからです。
イエス様が人として地上に来られたのには、二つの理由があると、私は思っています。
1つ目は、被造物の贖いのために。
2つ目は、天における聖所をきよめ、聖別するためです。

歴史を超えた、永遠の世界における悪魔の反乱が、いかに天においても汚しごとだったのか。
私たちの側から見れば、イエス様の十字架の贖いは、全被造物の救いのためですが、それだけではないのです。
もっとスケールの大きな話なのです。
それは歴史以前の、永遠の世界の天での悪魔の反乱があり、天の聖所が汚されたことが前提です。
天上にある、聖所の本体そのものが、聖められる必要があったのです。
それこそ、歴史を遥かに超えて、イエス様が成し遂げられたみわざです。
イエス様はご自分の血によって、天においても、聖めと贖いを成し遂げられたのです。
この世の時間の中にある、私たちの短い人生が、見えない永遠の世界と密接な関係があるのです。
私たちがイエス様に忠実であるかどうかは、この世だけでなく、永遠の世界でも、ものすごく重要な事柄です。
地上であなたが、永遠から永遠の世界のことを考えていないならば、堕落してしまいます。それはとてもつまらない人生です。

私たちが地上の生活と、永遠の世界を一つとして見ること、これが信仰の前提です。
これが事実であるからこそ、悪魔や悪霊たちとの戦いになるのです。
平凡な日常と永遠の世界が繋がっているのを知ることは、非常に重要なことです。
私たちが聖められることは、歴史の中においても本当に必要なことです。
それはあなたが重要なところで用いていただける聖い器になれるかどうかにかかっています。
もしあなたが役に立たない、出来損ないの器になるならば、主はあなたの代わりに他の人を用意されます。
あなたは、偶然に選ばれたのではないのです。
永遠の中において、私たちの知ることは、ほんの小さな一部にしか過ぎません。

聖い命

申命記29:29
「隠されていることは、私たちの上帝、主のものである。しかし現されたことは永遠に私たちと私たちの子孫のものであり、それは私たちがこのみおしえのすべての言葉を行うためである」

皇民の祈りの前半を考えてください。
大切なのは、「主の御名が聖なるものとされますように」という願いです。
主の御名を呼ぶ者たちが、聖なるものとならなければ、礼拝されるお方の御名が聖なるものとなれません。
この世の人たちは、イエス様を礼拝する私たち自身を見ています。
私たちを見て、イエス様がどのようなお方であるかを想像するのです。
汚い人たちは誰を礼拝しているのですか。
悪魔です。

海の魚は、塩水の中を泳いでいても、なぜ塩辛くならないのでしょうか。
同じように、地上がどんなに汚くなっても、イエス様の命があなたの内にあり、その命を守ろうと願うなら、周りはあなたを汚くできません。
あなたの内側の命が、聖い力を絶えず循環させているからです。
旧約時代においては、主の聖さを感化させ啓示することができても、新しい命が人々の内に住むことはできませんでした。
新約時代になり、イエス様は人々に内なる命を与えるために、人となる必要があったのです。
あなたがイエス様に全てを委ねて、自分を捧げているならば、イエス様の血が、多くのことを語ってくださいます。
罪を聖めるためには、イエス様の命と血しかありません。

光に近づく

ヘブル10:1,2
1「律法には来たるべき良きものの影はあっても、その実物はありません。ですから律法は、年ごとに絶えず献げられる同じいけにえによって上帝に近づく人々を、完全にすることができません」
2「それができたのなら、礼拝する人たちは一度できよめられて、もはや罪を意識することがなくなるので、いけにえを献げることは終わったはずです」

あなたの顔が辛気臭いのは、何故でしょうか。
内側に闇が残っているのです。
それは告白されていない罪です。
イエス様の目から見れば、その闇が外側に出てきているのです。
罪意識は、無意識のうちにあなたの自由を奪います。
小さな子どもたちは、闇がなく天真爛漫です。
天の御国は、そのような幼子たちのものです。

過去において、人を傷つけたこと、その人の人生を狂わせたこと、人の物を盗ったことなど、嫌な思い出は、それが告白されていないならば、主の目から見れば罪と汚れです。

ヨハネ3:16〜21
18「御子を信じる者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれている。上帝のひとり子の名を信じなかったからである」
19「そのさばきとは、光が世に来ているのに、自分の行いが悪いために、人々が光よりも闇を愛したことである」
20「悪を行う者はみな、光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない」

私たちは、光なるお方に招かれたのです。
そのお方に近づかねばなりません。
しかし近づけば近づくほど、心の中で過去の闇が明らかになります。
自分の中の汚いものが暴かれ、炙り出されて行きます。
それは、肉にはきついことです。

イエス様が地上で人となられた時には、悪魔はイエス様に近づいて試みることができました。
しかし、イエス様がよみがえられた今、悪魔は光なるイエス様に近づくことはできません。
あなたの中にイエス様の聖さがあるなら、同じことです。
悪霊は近づくことができません。

私はまた最近、高校の時の罪について気づかされました。
罪の告白は、何故そのようなことをしたのか、その動機を告白しなければなりません。
このような動機でその人を傷つけたのです、と。
そこでまた一枚だけ、十二単衣を脱ぐことができるのです。
イエス様は、あなたが母の胎の中にいる時からご存知です。
あなたを造ったお方ですから、あなたがどのような者か知り尽くしておられます。
イエス様の命が嫌っているものを、あなたに教えてくださいます。
それを捨てるのです。
主にその場を、明け渡さなければなりません。
あなたが、イエス様に近づく生活を続けて行けばわかることですが、悔い改めは一回では終わりません。
隙があれば、元に戻ろうとするのが、肉の性質です。
何度もやらねばなりません。
聖くなるのは、そんなに簡単なことではありません。

私たちの肉は、自分の立場が危うくなるのが、本当に嫌なのです。
決して、自分の主権、自己決定権を離そうとしません。
この10年、イエス様の性質があなたにどのように現れましたか。
どれくらい、肉の人から御霊の人にシフトしましたか。
それがそんなに簡単ではないのが、自分を見れば分かるでしょう。
訓練は一回では終わりません。
主は、親子の関係として、あなたを鞭打たれます。
そして、訓練の内容も変わって行くのです。

十字架の血による聖め

Iヨハネ1章
ヘブル10章10:8〜10
8「以上のとおり、メシアは『あなたは、いけにえやささげ物、全焼ささげ物や罪のきよめのささげ物、すなわち、律法に従って献げられる、いろいろな物を望まず、またそれらをお喜びになりませんでした』と言い」
9「それから、『今、わたしはあなたのみこころを行うために来ました』と言われました。第二のものを立てるために、初めのものを廃止されるのです」
10「このみこころに従って、イエス・メシアのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされています」

イエス様は、永遠に至るまでの、完全ないけにえとなってくださいました。
イエス様の十字架の血の聖めが、救いの唯一の手段です。
そして、これは私たちが「日々聖くされて行く!」という宣言でもあります。
天の父が完全であるように、私たちも完全に達するように、日々の生活を歩んで行かねばなりません。
自己主張や自己愛を脱ぎ捨てなければ、聖くなれません。

Iペテロ1:17〜21
18「ご存知のように、あなたがたが先祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず」
19「傷もなく汚れもない子羊のようなメシアの、尊い血によったのです」

この世は、悪魔の支配の中に置かれています。
しかし、この世から聖別された者たちが、皇民の群れです。
この世を友とするなら、イエス様の敵となります。
自分の中に闇があるから、甘いのです。

主は、そんなに甘いお方ではありません。
上帝の手の中に陥るのは、恐ろしいことです。
復讐は、主がされるからです。
旧約でイスラエルの民が裁かれたように、新約のクリスチャンも主は裁かれます。
メシアの裁きの時に、あなたは報いを受けられますか?
火を通って救われるのか、焼き尽くされるのか。
メシアの裁きで御前に立つ者の中には、見せかけのクリスチャンはいません。
見せかけのクリスチャンは、携挙の時に地上に残されるからです。
絶えず祈り、必死に主について行った者、悔い改めた者たちだけが、引き上げられるのです。

「自分は大丈夫!」と思っている人は、地上に残されます。
キリスト教は、甘くて、「信じれば大丈夫」と言っています。
でも不安だから、大丈夫だと自分に必死に言い聞かせるのです。
イエス様の憐れみのある人は、悔い改めのチャンスが与えられます。
それは、病気であったりトラブルであったりします。
悔い改めるチャンスもなく死んでしまった人は、終わってしまったのです。
アナニヤとサッピラを見てください。
札束を持って行ったのですよ。
嘘をつかなかったらよかったのです。
「人から認められたい、人に褒められたい」という欲求は、キリスト教をやった人にはあります。
人を褒めるのは、本当にまずいことなのです。

あなたが完全な者になるためには、祈りを絶やさないことです。
「私は、イエス様につながっています」という態度が必要です。
ぶどうの木のたとえと同じです。
そうしているならば、イエス様の心、思い、魂が分かって来るのです。

あなたが罪を告白し、罪咎を消され、イエス様の血潮を注がれ聖められると、上からの喜びが来ます。
あなたが解放されて、イエス様が受け入れてくださった証拠です。
天の父は、あなたを天真爛漫な上帝の子どもにしようと願っておられるのです。
罪や汚れから解放されたら、女性は美しくなり、男性は男らしくなります。
そのような者から、敵は逃げるしかありません。
敵は、イエス様に血の力を知っているからです。
イエス様の御名と血こそ、力です!
死んだ者は、罪から解放されているように、告白した罪はイエス様の十字架で終わっています。
イエス様との生きた交わりが本当に大切です。
それが中途半端だと闇が残っています。

「悔い改めばかり言わなくてよい」と言う人は、悪霊の手先です。

以下の内容は交わりの時に話されたものです。

今、全世界で多くの災いが起きて来ています。
この時代感覚を、自分の信仰とどう結び合わせるのか。
それぞれの信仰で、それぞれに祈って欲しいのです。
この国の現状と信仰をどうマッチングする(組み合わす)のか。
それは個人の自由です。
聖書はどう言っていますか。
主の目には、全ての国が憐れみの対象です。
共産主義者も同じです。
私たちは日本という国(また国民を含めて)、立てられた者のために祈らなければなりません。
福音は、全ての者に対し「悔い改めて主のもとへ立ち返れ」と言っています。
個人的な危機と世界的な危機、両方です。

預言者ヨナはユダヤ人でしたから、異邦人は滅ぶべき対象でした。
しかし、預言者はイエス様の代弁者でなければなりません。
イエス様と同じ思いを持っていなければいけないのです。
共産主義者の背後には悪魔がいます。
アガペーの愛で、彼らのことを祈らねばなりません。
そうでないと、人間的な活動となり、社会的キリスト教、自由的キリスト教になってしまいます。

まず、「信仰の一致」が必要です。
これは、「イエス様を信じる信仰の一致」です。
次には「知る一致」が必要です。
預言を求めて、「主は何を今からされようとしているのか」を知ることです。
民族意識や歴史観は、この時代を理解するのに重要な土台となります。
主のみこころを日本人として知る、また中国人として、韓国人として知るのです。
クリスチャンなら、民族が違っても一致できます。
これから偽預言者が大勢出て来るでしょう。
世界の現状を祈る時、理解の違いが出て来ます。
偽クリスチャンなら一致できません。
これは、信仰の大人にならないと無理です。
憐れみは、裁きに打ち勝つからです。
「憐れみ」に立って、世界の現状を見なくてはなりません。
裁くのは主のなさることです。
みなさんがもっと成長すれば、イエス様に問題提起することができるようになります。
世界のリーダーについても「イエス様この人をどうされるのですか」、「中国のクリスチャンをどう見られているのですか。同じ兄弟として憐れんでください」と。
韓国の裁きもそうです。
クリスチャンも巻き込まれます。
広島と長崎のクリスチャンが原子爆弾に巻き込まれたのと同じように。
主が、その国の歩みに対して裁かれます。
70年にローマ軍がエルサレムに侵攻し、大虐殺が起きました。
しかし、その前の68年ごろに、ユダヤ人原始キリスト教徒たちはペラに落ち延びました。
彼らの中に、預言者がいたのです。
彼らは、「滅ばされるから、逃げなさい」という預言者の言葉に従ったのです。
生き延びたユダヤ人原始キリスト教徒たちは、そのまま東へ向かい日本に渡ったと言われています。
だから私は言うのです、「神道の中に預言者がいるでしょう!?何故この日本の現状を、黙って見ているのか」と。
肉の愛国心は、人を上から見るようになります。あなたがそのように勧善懲悪ですっきりするなら、未熟です。
「憐れみは裁きに打ち勝つ」、必要なのはアガペーの愛です。
祈るしかありません。
その人が気づくように。

文責 菅原はれみ

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