
ルカ13:22〜35
ルカ13:24,33,35
24「狭い門から入るように努めなさい。あなたがたに言いますが、多くの人が、入ろうとしても入れなくなるからです」
33「しかし、わたしは今日も明日も、その次の日も進んで行かなければならない。預言者がエルサレム以外のところで死ぬことはあり得ないのだ」
35「見よ、お前たちの家は見捨てられる。わたしはお前たちに言う。お前たちが『祝福あれ、主の御名によって来られる方に』と言う時が来るまで、決してお前たちがわたしを見ることはない』」
祝福あれ、主の御名によって来られる方に
今週、あなたはどのようにイエス様の恵みにあずかりましたか?
私は、祝祷の後にヘブル語で「バルーフ ハバ ベシェム アドナイ」と唱えるようにしています。
バルーフ ハバ(ようこそいらっしゃいました) ベシェム(〜の名によって) アドナイ(主、ヤハウェ)
これは、ルカ13:35「祝福あれ。主の名によって来られる方に」という意味です。
つまり、「このように言う時が来るなら、わたしを見るだろう」という意味でもあります。
みなさんが、普段「皇民の祈り」をした後に、この言葉を覚えて祈って欲しいのです。
「イエス様、あなたを歓迎します」という祈りです。
イエス様が、あなたの所にどうか訪ねて来て下さいますように!
そして、これがイエス様を知るヒントになって欲しいと願っています。
羊と山羊
さて、山上の垂訓には、弟子としてこうあって欲しいという内容が書いてあります。
弟子として生きることを約束したのですから、このことを覚えておいて欲しいのです。
洗礼を受けた時、あなたは、イエス様のために生きることを約束したのですよ。
あなたの内側が、イエス様の喜ばれる状態でなければ、イエス様は報いを現すことができません。
意識しないで良いことを行えるなら、主から報いを頂けます。
しかし、自意識を持ってやっているなら、報いは頂けません。
もう自己満足してしまっているからです。
それがあなたの報いです。
私は、キリスト教の中で、羊と山羊が分けられるのだと思っています。
信者と未信者ではありません。
羊は「いつ良いことをしましたか?」と言い、山羊は「いつ良いことをしなかったのですか?言ってくれたら、やったのに」と言います。
あなたがイエス様のそばにいるなら、メシアの霊に従っているので、無意識のうちに良いことを行っています。
これが御霊の実です。
愛、喜び、平安という御霊の実があなたをコントロールしているなら、自然に良いことを行っているでしょう。
あなたのうちにある、イエス様の命が、強くなって行くならば、自然にできるようになります。
あなたが、自分の古い嫌な性質に気がつき、それを悔い改めたなら、その分だけ御霊の自由を得ます。
つまり、人を一つの器と見るなら、キャパシティは決まっています。
悔い改めた分は解放されて自由になり、その量だけ御霊に満たされます。
今、どれだけ自由であるかは、あなたがどれだけ悔い改めたかです。
それは聖書の知識の量ではなく、あなたがどれだけ断食したかではありません。
霊、魂、体
Iテサロニケ5:23
「平和の上帝ご自身が、あなたがたを完全に聖なるものとしてくださいますように。あなたがたの霊、たましい、からだのすべてが、私たちの主イエス・メシアの来臨の時に、責められるところのないものとして保たれていますように」
これは、パウロの三分法と言われるものであり、人間を霊、魂、体の三つに分けています。
しかし、霊と魂を分割するのは、非常に難しいことです。
ヘブル4:12
「上帝の言葉は生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます」
イエス様からいただく新しい命は、霊的な命です。
魂は、性格や人格と呼ばれるもので、霊的には死んでいます。
私たちは、霊によって、造り主であるお方と交わるのです。
だから、自分の霊が死んでいることを認めて、悔い改めてイエス様から新しい命を受け取らなければなりません。
ただし、「自分の古い肉が本当に嫌だ、変えてください!」と叫ぶ者に限ります。
そうすると、イエス様からいただいた新しい命が、あなたに影響を及ぼし始め、命の性質が外に現れてくるのです。
十字架の血の注ぎかけを受け、邪悪な良心が聖められていくのです。
新しい命があることが、前提です。
みことばに命があり、みことばによって邪悪な良心が殺され、新しい命によってあなたは強くされていくからです。
霊か肉か
Iコリント15章44~50
44「血肉のからだで蒔かれ、霊に属する体によみがえらされるのです。血肉の体があるのですから、霊の体もあるのです」
48「土で造られた者たちはみな、この土で造られた人に似ており、天に属する者たちはみな、この天に属する方に似ています」
50「兄弟たち、私はこのことを言っておきます。血肉の体は上帝の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません」
肉の体と霊の体があり、霊の体はよみがえった時の体です。
それは新しい天と地に住むことのできる体です。
イエス様の新しい命がないと、死んだままの姿で、永遠を過ごさなければなりません。
あなたに新しい命があるならば、家族や周りの人の救いを願うはずです。
まず、あなた自身が自分で罪に気付くことが必要です。
人に言われたから、ではなくて。
命に至る悔い改めとは、イエス様が聞いてくださり、認めてくださる悔い改めです。
そのような悔い改めは、イエス様ご自身を知るきっかけとなります。
悔い改めなど重要ではない、と思っているなら、あなたはイエス様からとても遠いところにいます。
戸を閉められてからでは、遅いのですよ!間に合いません。
あなたが悔い改めて行くならば、イエス様との距離が少しずつ縮まっていきます。
新しい命が成長してくると、自分の考え方において、それが肉からなのか、霊からなのかはっきり分かるようになります。
聖書の基準
山上の垂訓は、主の命令の基準です。
ここまで厳しく自分と向き合わなければ駄目なのだよ、という基準です。
例えば、異性を見た時、何を思いイメージしたのか、と問われます。
霊的なことは、瞬時に判断されます。
その瞬間に、霊的な命をいかに聖く守るかです。
ここからしか聖い命は出て来ないのですよ。
「まあ、いいか。後から」では駄目なのです。
イエス様は、完全であれ、と言っていますね。
イエス様の思いが、あなたの思いになっていなければならないのです。
マタイ5:48
「ですから、あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい」
マタイ5:28,32
28「しかし、わたしはあなたがたに言います。情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです」
32「しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも、淫らな行い以外の理由で自分の妻を離縁する者は、妻に姦淫を犯させることになります。また、離縁された女と結婚すれば、姦淫を犯すことになるのです」
これは厳しすぎる言葉ですか?
いいえ、これが聖書の基準です。
この世の基準とは全く違います。
基準を書簡集から持ってくると、違うものになります。
聖書の基準は、福音書のイエス様のみことばを土台にしなければなりません。
書簡集は理論づけしやすいし、私たちの肉は理論づけしたいのです。
パウロの言葉を勝手に解釈すると、おかしくなります。
この世の美しい女性を見て、ちらっとでも情欲が出るなら、汚いのです。
(女性のみなさんも、男性を見る時に同じことですよ)
それは、性的なものに対する悔い改めが、まだ不十分なのです。
本当に悔い改めていたら、「綺麗だね」とか「かっこいいね」だけです。
そこまで聖められないと、この世の霊に振り回されます。
あなたは、アガペーとエロス、どちらで反応していますか。
アガペーで反応できるなら、自由を味わえます。
キリスト教の性的な問題は、男女の問題をクリアーにしないからです。
エロスをそのままにしておくからです。
イエス様にあって、そのようなものは、本能的で汚いものです。
どうかイエス様の基準を持ってください。
天の父が完全であられるように、完全を目指すのです。
基準をそれ以下にするなら、天の御国には入れません。
パウロは、必死になって自分を鞭打つと言いました。
現代クリスチャンの私たちは、恵まれてダラーっとしているのです。
主のご介入とご臨在を求める
ルカ19:37〜40
37「イエスがいよいよオリーブ山の下りにさしかかると、大勢の弟子たちはみな、自分たちが見たすべての力あるわざについて、喜びのあまりに大声で上帝を賛美し始めて」
38「こう言った。『祝福あれ、主の御名によって来られる方、王に。天には平和があるように。栄光がいと高き所にあるように』」
39「するとパリサイ人のうちの何人かが、群衆の中からイエスに向かって、『先生、あなたの弟子たちを叱ってください』」と言った」
40「イエスは答えられた。『わたしはあなたがたに言います。もしこの人たちが黙れば、石が叫びます』」
これはイエス様のエルサレム入場のシーンです。
そして、全てのものがこれを見守っています。
人が黙れば、石が叫ぶ!と、もうここで主イエス様への称賛を始めているのです!
歴史において、イスラエル十部族と原始キリスト教徒は、日本に大量に移り住みました。
しかし、帰化人はもういません。
全てが混血し、日本人となりました。
みな私たちの先祖となったのです。この埋没してしまった信仰を今、私たちはどのように証するのか。
「主よ、来たりませ!」と主のご介入とご臨在を求めるしかないのです。
「イエス様にしか、救いがない」ことを埋没させられてしまったのです。
日本の歴史の中に全てが織り込まれてしまった、イスラエル十部族と原始キリスト教徒の痕跡をいくら主張しても無駄です。
そんなことをいくら言っても、日本人はイエス様のところには戻って来ないからです。
「礼拝の中に、生活の中に、もっとはっきり御支配を現し、介入してください!」と祈り求めて欲しいのです。
甘いことばかりやっていると、災いになります。
中途半端なことばかりやっているなら、祝福が呪いに変わってしまいます。
ルカ19:45,46
45「それからイエスは宮に入って、商売人たちを追い出し始め」
46「彼らに言われた『わたしの家は祈りの家でなければならない』と書いてある。それなのに、お前たちはそれを『強盗の巣』にした」
今のキリスト教会は、強盗の巣です。
献金と金の話ばかりです。
「祈りの家」か「強盗の巣」か、どちらかにしかなれないのです!
イエス様がともにいてくださるなら、お金のことは考える必要がありません。
世は、勝てません。
主が養い、導き、戦ってくださるからです。
以下の内容は交わりの中で語られた内容です。
イエス様への期待が信仰
あなたが、イエス様に対して期待する土台がないと「信頼します」と口先で言っても何もありません。
「イエス様に期待していたら、こんなことをしてくださった!」という経験があなたに無いなら、聖書を土台とするしかありません。
例えば、一人息子を亡くしたやもめは、息子を生き返らせてもらいました。
聖書の事実、「イエス様には、こんなことができるのだ!」という事実に信頼するのです。
これがあなたの中の火薬です。
この火薬、ダイナマイトが無いと、イエス様のところに期待を持って行けません。
火薬がないと、祈りがただの空砲になります。
イエス様に対し、大変失礼なことです。
口で言っているだけなのですから。
「イエス様にはできるので、お願いします!」という期待が必要です。
この期待という信仰がないなら、イエス様はこたえられません。
クリスチャンは、体験がなければ意味がありません。
だから、本当は洗礼を受ける前に、たくさん体験しなければならないのです。
火薬、ダイナマイトがないと、あなたは疑心暗鬼になってしまいます。
古い肉を脱ぎ捨てる
主は、「古い肉を脱ぎ捨てなさい。メシアを着なさい」と言われています。
しかし、肉の自分を脱ぎ捨てることは、寂しいのです。
生まれた時からずっと愛着を持っているからです。
「こんな自分は嫌です」と言いながら、本当は肉を楽しんでいるのです。
DVを受けている人が、何故なかなか逃げられないのでしょう。
DVがないと、自分を失うように思うからです。
しかし、これをあなたが捨てて行くなら、イエス様の新しい命が、あなたを支配してくださいます。
これを経験すると、はやく脱ぎ捨てた方が良いと分かります。
古い肉から解放されるからです。
イエス様が新しくしてくださるのです。
あなたは、いったい何年かかっているのですか。
時間の無駄です。
自分で気づき、自覚した範囲でしか、イエス様に告白できません。
罪に気づくのは、本当に大切です。
気づいたならば、イエス様のところに持って行くのです。
イエス様は、ワンダフルカウンセラーです。
こっちが説明できなくても、理解してくださいます。
「何か分からないけど、重いです。苦しいです」で良いのです。
主は、私たちの弱さをご存知ですから、そのまま持って行けば良いのです。
あなたが、そうして来たならば、もうとっくに解放されています。
しかし、解放される過程で、苦しむことは重要です。
イエス様と会話する中で、自由にされ、解放され、変えられて行くのです。
イエス様のところに行きなさい
また、その人自身の性格的な問題もあります。
自分の中で一人で葛藤するのは、しんどいことです。
しかし、その葛藤を使って「イエス様のところに来なさい」と言われているのです。
あなたを本当に理解してくれるのは、イエス様だけです。
人ではありません。
イエス様の前に、本当の自分を曝け出すのは、肉には辛いことです。
しかしイエス様に聞くならば、あなたの悪いところ、癌を切り取ってくださいます。
それは痛いことですが、それによって自由にされ、楽になるのです。
あなたのイエス様が小さすぎます。
イエス様はそんなに無能なのですか!?
あなたの顔は、まるで悪霊ならなんでもできると言っているようです。
この偉大なるイエス様を知ってください。
携挙
携挙についてですが、それぞれの意見が合わなくても良いのです。
逆にはっきりしてはいけないのです。
人間の側で、時期を定めてはなりません。
順番を決めたいのは、肉です。
議論を戦わせては、いけません。
それぞれで、自分の理解をしてください。
私たちは、イエス様にあって愛しあいなさい、と言われています。
互いに徳を高め合え、と。
イエス様がいつ来られても良いように、目を覚ましていなければなりません。
必死であれ
「AIになったら、そんな仕事必要ない」と囁くのは悪霊です。
例えば、AIの翻訳だけで相手に伝わるのでしょうか。
AIは、言葉を直訳して、伝えることしかできません。
人間がその人を理解して、その人の心を伝えるのです。
それはAIにはできません。
信仰の歩みは、どこかでベストを尽くさねばなりません。
必死でなければなりません!
イエス様は、生ぬるい者を嫌われます。
そのような人は、死にかけの魚のようです。
生きているのですよ。
ベストを尽くしなさい!
文責 菅原はれみ
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