
出エジプト32:30〜 33:3, 33:12〜17
出エジプト33:2,3
2「わたしはあなたがたの前に一人の使いを遣わし、カナン人、アモリ人、ヒッタイト人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人を追い払い」
3「乳と蜜の流れる地にあなたがたを行かせる。しかし、わたしは、あなたがたのただ中にあっては上らない。あなたがたはうなじを固くする民なので、わたしが途中であなたがたを滅ぼしてしまわないようにするためだ」
出エジプト19:1〜6
4「『あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを見た」
5「今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから」
6「あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる』これが、イスラエルの子らにあなたが語るべきことばである」
皇民の群れから裁きが始まる
主は、「あなたがたとともには行かない。あなたがたはうなじの固い民だから、途中であなたがたを滅ぼしてしまわないためだ」と言われました。
主がともにおられるということは、裁きが始まる、ということです。
しかも皇民の群れからです。
私は、いつも礼拝で主がご臨在をあらわしてくださることを祈り求めています。
しかし、ご臨在を求めるのは恐ろしいことです。
主が、ご臨在を皇民の群れにあらわされた時、不従順で頑固な者がいたら、その場で滅ぼされるからです。
アナニヤとサッピラのように、一瞬です。
言い訳のチャンスは与えられません。
このことを覚えていてください。
宝の民
ここに素晴らしい言葉があります。
あなたは自分を宝の民だと思っていますか?
アブラハムの信仰に倣う者として、イスラエルとともに、あなたがたは宝であり、祭司の王国、聖なる国民となるのです。
全世界は、主のものであるから!
この約束のもとに、イスラエルは出エジプトをして旅立ち、歩んで行くのです。
旧約も新約も、主のお考えは変わりません。
だから、イスラエルの民への素晴らしい祝福を、異邦人の私たちも新約で受け継ぐのです。
しかしキリスト教では、旧約と新約のイエス様は違うのだと、教えてしまいます。
決してそんなことはありません!
新約時代のクリスチャンは、旧約よりもさらに素晴らしい祝福を受けています。
周りの人に「なんと素晴らしい、尊敬すべき人々なのだろう。彼らこそクリスチャンだ」と言わせるためです。
これが、イエス様の栄光です。
つまり、旧約時代のスピリット、精神は新約時代も変わりません。
選ばれるという、召しも賜物も変わることがないからです。
現代のクリスチャンも同じです。
主が、私たちを祝福しようとして、旧約で示しておられることを無視して、旧約と新約を切り離してしまうなら、土台のない信仰になってしまいます。
旧約は信仰の土台
日本の相撲では、昔から「足腰を鍛えろ」と言いいます。
上半身に筋肉をつけるのではなく、「まず足腰から」です。
ヤコブの相撲も同じように、どっしりした、地に足をつけた信仰が必要なのです。
このように、どっしりした信仰の土台となるのが、旧約です。
ロマ書にあるように、異邦人である私たちは、イスラエルという土台の上につぎ木されたのです。
旧約聖書をしっかりと読み、歴史の中で、主が選ばれた民イスラエルに何をされたのか。
きちんと学ばねばなりません。
主は、あなたがクリスチャンライフで祝福を豊かに味わうようにと、願われているのです。
日本人は血を嫌う
ヤコブ書を読んでください。
プロテスタントは、「信じればそれで良いのだ」ということばかりを言います。確かに、あなたがいくら良い行いをしても、その行いでは救われません。
私たちは、自分の救いに関して何もできません。
人間の側の努力は無駄です。
罪の支払う報酬は死であり、罪をあがなうためには、血を流す他にないからです。
あがないは、イエス様が血を流して代価を支払われたゆえに、私たちは「赦された者」として、主の前に立つことができるのです。
「イエス様の十字架は私のためです」と、イエス様と自分をしっかりと結び合わせるのが、信仰です。
しかし、行いのない信仰は死んだものであることも、忘れてはいけません。
さて、日本はどうですか。
血生ぐさい信仰は駄目ですね。
(イエス様が十字架で血を流された、その血を注がれる、というような血生ぐさいものを嫌います)
田中英道氏は、ユダヤ人埴輪の存在を認めつつ、「ユダヤ人も秦氏も、日本に同化した。一つのものになった」と結論づけています。
(彼らはユダヤ人であることをやめ、生贄を捧げることをやめた、と)
馬淵睦夫氏も武田邦彦氏も、同じように主張しています。
「日本人は素晴らしい。外から入って来たものを同化する力がある。一神教は駄目ですね。
排他的になって、他の宗教を排斥する」と言います。
日本人には、原罪意識はなく、罪意識もありません。
神観念の違い
なぜ「日本人って素晴らしい」と主張するのでしょうか。
こう言うことによって、安心感を求めたいのです。
イエス様を知っている人なら「こんなどうしようもない私を選んでくださった!」と言うでしょう。
(自分が、日本人が、素晴らしいとは言いません)
つまり、この違いを議論しても無駄です。
日本の神と、聖書のイスラエルの神では、神観念が違うからです。
日本の神は、自然崇拝、精霊崇拝です。
おおらかな、融合して他を受け入れる神です。
そして、その結果が今の日本です。
だから日本語で「神」と訳すと、定義と観念が全く違ったものになります。
聖書のイスラエルの神とは全く噛み合いません。
太秦の宮では「上帝」と訳すことによって、神と上帝なる方が違うことをはっきりさせています。
日本人に対して「あなたがたは、聖書の神(イスラエルの神)を知らないよ、と気づかせるためです。
そうでないと、イエス様を正しく伝えられません。
聖書の神(天地をつくられた神)と、日本の神を一緒にして、同化させてしまうのが、日本です。
聖書の神、上帝を知るには、イエス様を通してしかできません。
みことばと向き合う
上帝なるお方が人となられたのです!
これは、日本人には受け入れ難いことです。
人となられたメシア・イエス様を否定するもの、これが反キリストです。
まさしく日本のようです。
キリスト教は「神様」と言って、頭の中でこねくり回します。
上帝を日本の神と融和させて、ごちゃ混ぜにしてしまうのです。
「神は愛です。信じればそれで良い」とこっち(キリスト教)が勝手に聖書の敷居を低くしているのです。
だから、天の父が引き寄せてくださらない限り、誰もイエス様のもとには行けません。
聖書は、「呼び出されたこと、選ばれたことを、確かなものにしなさい!」と言っています。
これを確かにした者だけが、新しく生まれ変わるのです。
確かなものにするには、みことばと向き合わなければなりません。
聖書を通してでなければ、自分がどんなに邪悪で汚れた罪人か分からないからです。
律法は、すべての人を罪の中に閉じ込めました。
すべての人は罪を犯しています。
自分をよく見れば分かります。
しかし、日本人の感覚ではどうですか。「ちょっと罪はあるよね。でも謝ったから、刑務所で償ったから、もう許されてるよね」といった感じです。
いいえ、とんでもない。
そんなことで罪は赦されていません。
聖書がなければ、罪を罪として正しく認められないのです。
命に至る悔い改め
汚い自分が、聖いものにされるなど、自分の力では不可能です。
(日本のお祓いではできません)
人間はもともと死人なので、イエス様からの恵みを受け取るしかないのです。
私たちは、お恵みを求めるだけの乞食なのですよ。
主に対して頭が高いのです!
私たちは、主の憐みとお恵みによって、イエス様のものとなっただけです。
命に至る悔い改めをしない者、キリスト教をやっている者は、本当に頭が高いです。
ダビデは、バテシェバと罪を犯した時、叫びました。
「誰が私を救ってくれるのか!」と。
これが悔い改めの姿です。
命に至る悔い改めとは、砕かれた、悔いている者の姿です。
主はそれを見て、「恵みを与えよう」と言ってくださるのです。
私たちは、恵みによって信仰によって救われた、乞食にすぎないのです。
忘れないでください。
癩病からのきよめも、癒しも、全てが恵みであり、プレゼントです。
盲目の人が「ダビデの子よ。憐んでください!」と叫びました。
悪霊に憑かれた人は、こう叫べばよいのです。すぐに解放されます。
しかし、やらないのです。偉そうなのです。
なぜでしょうか。
日本のクリスチャンの中に、悪霊の助けを受けて、悪霊を誇っている人がいます。
その人の態度と実を見れば分かります。
聖いご聖霊ならば、そのような傲慢な態度はあり得ません。
真理を知ることがない
ことばは、非常に大切です。
「主イエス様、感謝します」と言うのと、「神様、神様」と言うのでは全く違います。
日本人はわらじも拝みます。
「霊的なものなら何でも良い」というだらしない態度です。
特に女性は、「霊的なものなら、何でも心地よい」と感じられるものを持っています。
危ないのです。
IIテモテ3:1〜9
6「彼らの中には、家々に入り込み、愚かな女たちをたぶらかしている者たちがいます。その女たちは、様々な欲望に引き回されて罪に罪を重ね」
7「いつも学んでいるのに、いつになっても真理を知ることができません」
ここに愚かな女たちがでてきます。
女性は見た目に弱いですよね。
偽預言者や、偽教師は、だいたいちょっと二枚目です。
声が良いとか、話し方がうまいとか。
こういういわゆるイケメンの男性が、女性をターゲットにし、とりこにするのです。
愚かとは、本能的であることです。
女性は、母性本能をくすぐる男性にも弱いですね。
そして、とりこにする方(偽預言者や偽教師)も、霊的な力を持っています。
女性をたぶらかして、自分の思い通りにするのです。
このような女性たちは、「いつも学んでいるのに、真理を知ることがない」のです。
ここでは、普段この世で遊んでいる女性のことを言っていません。
真面目で、熱心な女性信者のことです。
遊びを知らない真面目な女性信者がターゲットになっているのです。
女性は気をつけて欲しいのです。
蛇はナハッシュで、魔術はニヘッシュです。(蛇と魔術は同じ意味です)
いつも学んでいるのに、真理(イエス様)を知ることができないのは、イエス様を求めていないからです。
学ぶのは、イエス様ご自身を知るためなのですよ!
御霊を受ける準備
IIテモテ2:8〜13
11「次のことばは真実です。『私たちが、メシアとともに死んだのなら、メシアとともに生きるようになる」
12「耐え忍んでいるなら、メシアとともに王となる(支配するようになる:新共同訳)。メシアを否むなら、メシアもまた、私たちを否まれる」
13「私たちが真実でなくても、メシアは常に真実である。ご自分を否むことができないからである」
あなたの全生活が、いつもイエス様を見上げていて、イエス様に聞いているものとなってください。
石のような頑固な心ではいけません。
柔らかい幼子のような従順な心になってください。
そうでないと、主はともに歩んでくださいません。
「途中で滅ぼす!」と主は言われたのですよ。
クリスチャンと言いながら、いつまでも頑固なのは、悔い改めないからです。
ダビデのような、命に至る悔い改めが必要です。
砕かれた、悔いた心は、支え(力)がないと、自分では生きていけません。
そこに、ご聖霊が降られるのです。
力と火による聖霊のバプテスマです。
ここに、ローマの百人隊長コルネリウスの実例があります。
ペテロがメッセージをしている途中に、聖霊が降られたのです。
コルネリウスとその家族は、ユダヤ人の生活を見て感動し、その生き方を実践していました。
ユダヤ人たちが主を畏れるように、自分たちも主を畏れ、貧しい人に施しをし、祈りの生活をしていました。
コルネリウスには聖霊を受ける準備ができていたのです。
彼は、待ち望んでいたメシアは、イエス様だと理解していたのです。
イエス様が天の栄光の御座に帰られたのは、弟子たちに、御霊を送るためでした。
新しい命が強められて、弟子として訓練するためです。
ユダヤ人は、「上帝を畏れ正義を行う人は、上帝に受け入れられる」と理解しています。
日本人は、神を畏れません。
神と人間は親しい関係です。
「お祓いでOK」と思っているので、聖書とは全く違います。
へりくだって主とともに歩む
ミカ6:8
「主はあなたに告げられた。人よ、何が良いことなのか、
主があなたに何を求めておられるのかを。
それは、ただ公正を行い、誠実を愛し、へりくだって
あなたの上帝とともに歩むことではないか」
このように、天と地を造られたお方は、へりくだって主と歩み、正義と誠実を愛する者を求めておられるのです。
コルネリウスは、まさにこのような者だったのです。
上帝を畏れなければ、へりくだりません。
へりくだった人の見本がイエス様でした。
上帝が人となられたのです。
創造者が、被造物となられたのです!
このへりくだりの物凄さが分かりますか?
イエス様は、ご自分の創造者という立場を捨てて、人間となられたのです。
何故イエス様は、人間となられたのですか?
それは人間をあがなうためです。
人間は被造物のかしらですから、人間をあがなわなければ、被造物すべてが呪われたまま終わってしまいます。
御子は、上帝なるお方がへりくだって人間となられ、仕えられるためではなく、仕えるために来られたのです。
イエス様の命は、高ぶる命ではありません。
人に仕える命です。
このへりくだったお方に繋がっているなら、高ぶり続けるなどあり得ません。
イエス様とともに歩みたいのなら、イエス様をかしらとして、へりくだりなさい。
頑固な者は滅ぼされてしまいます。
アナニヤとサッピラが求めたのは、名誉、プライドでした。
彼らは、その場で滅ぼされました。
主は、証明されたのです。
主がともにおられるなら、高ぶった者は滅ぼされてしまうのだよ、と。
もし、主がともにおられるなら、主は裁きを行わなければならないのです。
皇民の群れの中に、このような者がいたら本当に危険です。
最後に主が滅ぼされるからです。
そして、特に教師は本当に厳しい裁きを受けます。
太秦の群れが、イエス様の栄光のために用いられたいなら、命に至る悔い改めと謙遜を学び、へりくだった者になって、群れが一致して行かなければなりません。
世の人々が、最も求めているのは、イエス様がともにおられることです。
イエス様は、あなたの人生に介入して祝福し、サンプルにしたいと思われているのです。
旧約以上の祝福をあらわし、周りの人々に「あの人は確かに違うよ!」と言わせたいと願われているのです。
マタイ28:20
「わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」
イエス様は、あなたとともにいるために、栄光の御座についておられます。
旧約と新約は一つです。
主がともにいるとは、どういうことなのか、聖書で実例を示しておられるのですから、甘く見てはいけません。
新約は、イエス様が弟子とともにいることを望まれ、血を流され、買い取られた時代です。
最後の裁きの時に、「お前は何を求めていたのか?」と主はあなたに聞かれます。
その時に、天の扉が閉じられないように。
旧約を読んでいないと、新約で起きていることが理解できません。
以下の内容は、交わりの時に話された言葉です。
主からいただく、愛、喜び、平安などは、本気になって必死に求めた者だけが手に入れるのです。
求めなければ、探さなければ、頂くことはできません。
日本人は、なかなか熱くなりません。
問題からの解決は、イエス様が願っておられるように、イエス様にしがみつく、ただそれだけです。
待っていれば与えられるだろうと、他人事のようにする態度は、傲慢です。
聖い愛
「聖書の愛、アガペー」と、「人間の性的結合、エロス」との境界に、イエス様は肉体を持って地上に来られました。
これはどういうことでしょうか。
本来、性は良いものとして造られました。
罪のない状態で、主は男女の結合をお与えになりました。
しかし、アダムとエバが罪を犯した結果、性的なものは悪いものとして見えるようになりました。
罪を犯す前の、その喜びは私たちにはわからないのです。
イエス様と一体となるのが、聖い愛、アガペーです。
私たちは、もともと愛を知りません。
知っているのは、この世の愛です。
イエス様は、あなたのために命を捨てられました。
身代わりの愛です。
イエス様と交わることによって、私たちは聖い愛が何であるのかを、知るのです。
これは男女の愛とは違います。
主は、アダムとエバが聖い中で、一つとなることを知って欲しかったのです。
私たちは、エロスでは無理なのだと気づきます。
聖書で「男も女もない」と言われているように、聖い愛は、男女の愛ではありません。
だから、私たちは、イエス様を知るのです。
イエス様が、愛してくださったように、私たちも愛するのです。
あなたの中に新しい命があるなら、イエス様からいただく聖い愛と、世の汚い愛の違いが分かるはずです。
日本の国体
モルデカイ・モーゼ氏は、その著書「日本人に謝りたい」の中で、日本に国体を取り戻して欲しい、と謝罪し願っています。
日本の君民共治の国体(王と民がともに国を治めるの意)は、ユダヤ人がずっと願い求めて来たものでした。
旧約でユダヤ人が期待していた王の姿が、日本の天皇の姿にあったのです。
天皇と庶民のフラットな関係は、ユダヤ人が理想として来た、王と民の関係でした。
これをGHQが壊そうとしたのです。
ダビデ王に仕えた者たちが、王のために命をかけても良いと願ったように、日本の天皇と民との関係に、メシア王と民の姿を見たのです。
王とその部下との関係(ダビデとヨナタンに代表されるように)は、愛と信頼の関係でした。
一つの思いで、国を守ろうとして行くのが君民共治です。
この日本が無意識のうちに作り上げて来た、天皇と民。
天皇は「親が子を想うように民を想い」、民は「父を慕うように、天皇に従う」という一つの家族的な関係を「取り戻して欲しい!」とモルデカイ・モーゼ氏は言っています。
(しかし国体についてであって、決して文化を肯定しているわけではありません)
上帝の国をあらわせ
王は、リーダーとして民に権威をふるわなければなりません。
そしてイエス様が、王として地上に来られたのです。
イエス様は、王として責任を取られます。
民は、喜んで従うのです。
主は、私たち民を愛し、民は王を愛する。
ここに上帝の国、本当の平和があるのです。
そしてこの上帝の国を、「イエス様が治める国は、このようなものなのだよ」と見える形であらわせ、と私たちは期待されているのです。
モルデカイ・モーゼ氏の願って来た国は、実現されませんでした。
しかし、メシア王の治める国の雛形を、彼は日本に見たのです。
膝をついて、民を訪問されたのは、平成天皇からでした。
そして、平成天皇は、子どもの頃より宣教師のヴァイニング夫人(クウエーカー教徒)からキリスト教を学ばれたのです。昭和天皇がキリスト教を深く学ばれ、そのことを望まれたからです。時が来ているのでしょう。
民族の栄光
日本には、イスラエル十部族と、原始キリスト教徒たちが、歴史において入って来ています。
しかし、秘められた美として、隠されています。
能を作ったのは、秦氏たちでしたね。
能の中に「秘すれば花」という言葉があります。
意味深ですね。想像とイメージの世界です。
(注:「秘すれば花なり。秘せずは花なるべからず」世阿弥が著した能楽書「風姿花伝」の一説。秘めるからこそ花になる。秘めねば花の価値は失せてしまう、の意。全てを見せずに、ほんの少しを見せることによって、観客の想像とイメージを膨らませ、その隠されたものが、観客を感動させる)
イエス様が日本に期待している、民族の栄光があります。
それはどのようなものなのでしょうか。
私も苦しみながら、格闘しています。
上から来る想像とイメージで、新しいものを創造して、日本人として最高のものを主に捧げるのです。
今あるものを使ったとしても良いのです。
しかし、西洋など外から入って来たものではなく、上から知恵をいただいて、新しい聖いものを創造して主に捧げるのです。
大和の君(日本を支配している悪霊)は、この世のもの全てを混ぜて、まがまがしいものにしています。
この世のものは、反面教師にするのです。
この世のものでも、こんなにすごいものができるのです。
まして、主はもっともっと、上におられます。
主にお頼りするなら、比べ物にならないほど素晴らしいものを、作ることができます。
どうか広い視野を持ってください。大人になってください。
そうすれば、敵がしていることと、主がされていることが、はっきり見えてきます。
イエス様について行くなら、イエス様を知るなら、奇跡などは後でついて来ます。
文責 菅原はれみ
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