エゼキエル1:1〜14, 8:1〜9:11
エゼキエル1:10
「彼らの顔かたちは人間の顔で、四つとも右側には獅子の顔、四つとも左側には牛の顔、さらに四つとも鷲の顔を持っていた」
8:3「すると、その方は手の形をしたものを伸ばし、私の髪の房をつかまれた。すると、霊が私を地と天の間に持ち上げ、神々しい幻のうちに私をエルサレムへと携え行き、ねたみを引き起こす『ねたみ』という像がある、北に面した内門の入り口に連れて行った」
8:10「私が入って行って見ると、なんと、這うものや動物のあらゆる形、すなわち忌むべきものや、イスラエルの家のすべての偶像が、周りの壁一面に彫られていた」
14「それから、この方は私を主の宮の北の門の入り口へ連れて行かれた。するとそこには、女たちがタンムズのために泣きながら座っていた」
16「それから、この方は私を主の宮の内庭に連れて行かれた。すると、なんと、主の神殿の入り口、すなわち、玄関広間と祭壇との間に二十五人ばかりの人がいた。彼らは主の神殿に背を向け、顔を東の方に向けていた。東の方を向いて、太陽を拝んでいた」
18「だから、わたしも激しい憤りをもって応じる。わたしはあわれみをかけない。わたしは彼らを惜しまない。彼らがわたしの耳に大声で叫んでも、わたしは彼らの言うことを聞かない」
全被造物は、主を賛美せよ
ここで4つのケルビムが出てきます。
彼らは、人間、獅子、牛、鷲の4つの顔を持っていました。
これは、全被造物を象徴的に表しています。
「全被造物が主の栄光のために造られている」「全宇宙の主であるお方に従い、主を褒め称えよ」「万物は上帝の皇国である!」という宣言でもあります。
現代のクリスチャンの信仰生活は、非常に日和見主義です。
自分のまわりの小さい小さい世界しか見えないのです。
しかし聖書は違います。
永遠から永遠に至るまで、万物をご支配される主なるお方について書かれています。
コロサイ書にあるように、万物は御子から出て、保たれ、最終的にはすべてが主の元に帰るのです。
福音は、新しい天と地において全被造物が主に仕え、主の栄光を現すことを待っている!という広大なスケールのことを語っています。
残された民
自分のための信仰、自分さえ良ければOK、という小さな小さな世界にあなたは生きていませんか?
コロナウィルスが全世界に広がる今、世界は経済的にも混乱し、失業者があふれています。
いったいこれは何?どうしたら良いの?と人々が困惑する中、太秦の群れに集う者は、誰一人生活に困っていません。何故ですか?
主ご自身が、ご自分が選んだ者に対して責任をお取りになるお方だからです。
主は決して私たちを見捨てることはありません。
(ただし、自分から主を捨てた者には結果を報いるお方です)
さて、エゼキエルはバビロンからエルサレムまで、約1000kmの距離を瞬間移動させられました。
そこで彼が見たのは、エルサレムに残された人々でした。
つまり、バビロン捕囚を免れ、憐みを受けてエルサレムに残された人々でした。
まるで太秦の群れのようではありませんか?
そこで見せられたものは、とんでもなくおぞましい偶像礼拝でした。
このエルサレムに残されたイスラエルの民の姿が、キリスト教をやっている人々の姿に私には見えます。
エゼキエル9:9
「主は私に言われた。『イスラエルとユダの家の咎は非常に大きく、地は流血で満ち、都も不正で満ちている。彼らは『主はこの地を見捨てられた。主は見ておられない』と言っているのだ。
つまり、このバビロン捕囚を免れ、エルサレムに残された人々は、「主は私たちを見捨てられた」と言ったのです。
特別に憐みを受けた彼らは、必死に主を求めて礼拝せず、むしろ自分たちの好きなように、勝手な偶像礼拝を始めたのです。
信仰は血縁関係で継承できない
エゼキエル8:11
「また、イスラエルの家の七十人の長老が、その前に立っていて、その中にはシャファンの子ヤアザンヤも立っていた。彼らはみなその手に香炉を持ち、香の濃い雲が立ち上っていた」
このヤアザンヤの父シャファンは、ヨシヤ王の前に立ち、律法の宗教改革を担った一人です。
II列王記22:8〜13
10「さらに書記シャファンは王に告げた。『祭司ヒルキヤが私に一つの書物を渡してくれました。』シャファンは王の前でそれを読み上げた」
11「王は律法の書のことばを聞いた時、自分の衣を引き裂いた」
13「行って、この見つかった書物の言葉について、私のため、民のため、ユダ全体のために、主を求めよ。私たちの先祖たちがこの書物のことばに聞き従わず、すべて私たちについて記されているとおりに行わなかったために、私たちに向かって燃え上がった主の憤りが激しいからだ」
ヨシヤ王の宗教改革は素晴らしいものでした。
過越の祭りを行い、民が過越のいけにえを捧げるまでに至らせました。
しかしこの事が行われたのは、このヨシヤ王の時だけでした。
この宗教改革を担ったシャファンの息子が、ヤアザンヤです。
彼は暗闇の中で偶像礼拝を行いました。
これは血縁関係(親と子)では信仰が受け継がれない、という事実を表しています。
大きな教会の経済的にも裕福な牧師は、息子に教会を継がせます。
お寺の後継ぎと同じです。こういうのは、だいたいが駄目ですね。
ちゃんとした息子を、私は見たことがありません。
だいたい癖があるというか、ひねくれてるというか。
主が用いたクリスチャンであっても、その人がどこまで主に従っているのか、子どもは見抜いているのです。
幼い時は、言葉で表現できなくても、子どもは感受性として親の生き方を受け取っています。
大きくなると、幼い頃見たり聞いたりしたことが理解できるようになり、そのことを言葉で表現できるようになります。
子供は、親の偽善、腹黒さ、二枚舌を見て育っていますから、親を反面教師にするのです。
クリスチャンの子どもは、親がイエス様の前にいかに正直であるか、見ています。
だからクリスチャンは大人を目指して努力しなければなりません。
自分がいかに弱い器であるか、そしていかに失敗する者であるか、というのを子どもに正直に見せなければならないのです。
自分も、イエス様について行こうと必死に葛藤しているのだ、と。
天に帰るという目標
Iコリント9:24〜27
25「競技をする人は、あらゆることについて節制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです」
26「ですから、私は目標がはっきりしないような走り方はしません。空を打つような拳闘もしません」
27「むしろ、私は自分のからだを打ちたたいて服従させます。他の人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者にならないようにするためです」
あのパウロでさえ、自分が失格者になってしまう可能性を否定していません。
私たちは尚更、簡単に失格者になってしまいます。
しかもすぐにです!
私たちは、天の故郷に帰るという目標を、はっきりさせていなければなりません。
アブラハムはどうでしたか?
彼は「新しい天」を目指していました。
だからこそ、主は父と呼ばれることを喜ばれるのです。
天に帰ろうとしている子どもだからです。
現代のクリスチャンは、この世の楽な素晴らしい生活ばかりを目指していませんか?
自分の腹が神なのです。
肉の人、キリスト教をやっている人の内面、心の中で大事にしているものは何でしょう。
女たちはタンムズ、豊穣の神を拝んでいました。
お金、生活の心配ですか。
しかし女は、自分の産んだ子を食べる、と聖書は言っています。
太陽を拝んでいる人々もいましたね。天照大神ですか。
神殿は西にあるのに、上帝に背を向けて東の太陽を拝んでいるのです。
それぞれが、自分の好きなように、好きな神を呼んでいるのです。
金、心配、食べ物、楽しみでしょうか!?
このように、中途半端な信仰は駄目なのです!
み使いは、この現状を悲しんでいる者たちに印をつけました。
日本、世界のこの状態を見て、まだ気がつかないのか!?と主は言われます。
常識は死人のもの
しかし、何を悲しむのですか?
イエス様の思いが何か分かっていますか?
自分の理想と違うからですか?
この世の常識を持って来るなら、あなたは偶像礼拝者です。
常識を律法の上に置いているからです。
「この世の常識以下」と言った姉妹がいましたね。
そんなことを言っても無駄なのです。
常識は、死んでいる者のものです。
ノアの方舟までの時代、主は人々の良心(常識)に任せておられました。
その結果どうなりましたか?
結局、悪が増大してノアの洪水という、裁きを受けました。
自分の肉というものに対し、罪(自分)と戦って、血を流すほどに抵抗したことがないのです。
自己主張は、肉そのものです。
自分を神とし、自分は素晴らしいと自惚れているのです。
まさにこれが偶像礼拝者です。
礼拝からイエス様を追い出している
エゼキエル8:6(新共同訳)
「彼はわたしに言った。『人の子よ、イスラエルの人々がわたしを聖所から遠ざけるために(わたしを追い出すために:リビングバイブル)行っている甚だ忌まわしいことを見るか。しかし、あなたは更に甚だしく忌まわしいことを見る」
キリスト教という宗教の礼拝では、イエス様を追い出しています。
主は、礼拝に来られます。
しかしイエス様の権威を認めず、礼拝から追い出すのです。
牧師は、メッセージでイエス様を拒絶します。
「神は愛」という垣根を勝手に作るのです。
語るのは、説教者の言いたいことばかりです。
「信じれば良い」「信じるだけで良い」と言いますが、どう信じるのですか?
どのように?
心に焼き印を帯びる
シャファンの息子ヤアザンヤにとっては、律法の書は関係ありませんでした。
心に割礼を受けていなかったのです。
心に割礼を受けるのは、主の民である証です。
心に割礼を受けるとは、その心が痛むことです。
心にみことばが刻まれることです。
パウロは、私は心に焼き印を帯びている、というリアルな言い方をしました。
心に焼き印を押されたなら、痛いのです!
みことばがあなたのガイド役になり、イエス様との交わりに導きます。
それがあなたの指針となり、間違った道から主が引き戻してくださるのです。
私は何度も失敗をしました。
何故イエス様は私を捨てられなかったのでしょうか。
分かりません。私は弱い器です。
イエス様に対して、言い訳やごまかし、言い逃れは絶対にしてはいけません。
正直に告白するのは、苦しいことです。
しかし正直である者に対してだけ、立ち返る道が許されるのです。
これは新しく生まれ変わっていないと、できません。
新しい命の特徴は、素直さです。
天の父との間に、あたたかい安らぎを感じる、父と子の関係があるかどうかです。
子どもは親といると安心します。
イエス様がともにいてくださる、という平安です。
その関係が断ち切られそうになると、子どもは分かります。
幼子としての、デリケートな感覚です。
父と離れてしまったら、不安を感じるのです。
しかし新しく生まれていないと、この感覚は分かりません。
命がなければ、自分が良いと思うことを勝手にやっているだけです。
すべては命の問題です。
従うのか従わないのか
ヨハネ3:36
「御子を信じる者は永遠のいのちを持っているが、御子に聞き従わない者はいのちを見ることがなく、上帝の怒りがその上にとどまる」
天の父と子のデリケートな繋がりは、理屈ではありません。
理論や神学でもありません。感覚的な霊的事実です。
この土台があって、イエス様を知り始めるなら、主の命令に対してYes か No だけで良いことが分かります。
つまり、従うか従わないかです。
子どもは親の後をついて行きます。
父と母を見分けられるようになれば、ちゃんとついて行けます。
羊は、羊飼いの声を知っているので他の人にはついて行かないのと同じです。
だから、イエス様の御声を聞き分けられるようにならなくてはなりません。
イエス様の御声を知らないなら、自分の声を聞いているだけです。
イエス様は、御声を聞いてついて来る子どもを求めておられます。
あなたはイエス様を愛する者ですか?
ある程度成長しないと、愛は分かりません。
あなたは何歳で愛を知りましたか?
十字架を通して、一方的に与えてしまう愛を、報いと応答を気にしていないアガペーの愛を。
弟子の最初は、アガペーの愛があるかどうかです。
何も報いを求めないで与える愛です。感謝も称賛もいらない。
これが訓練です。
金持ちの青年に、イエス様は何と言われましたか。
財産を全部売り払って、貧しい者に与えなさい。
そうしてわたしについて来なさい、と。
相手は貧しい者なので、何も返ってきません。
だから天に宝を蓄えよ、と言われたのです。
天の御国での報いを求めていないなら、地上では楽しくありません。
ぶどう園の喩えを思い出してください。
お昼に雇われた者、夕方に雇われた者もいました。
しかも、最後に来た人から賃金を払ってあげなさいと言われ、金額も同じだったのです。
人間的に言うなら、何と言う不公平でしょう。
覚えておいて欲しいのは、これがイエス様のなさり方です。
わたしが好きなようにして何が悪いのですか?と言われます。
人間の常識では、決して分かりません。
私がこのようにメッセージを語っていることは、神学校時代の仲間が見るなら、全員が「なんであいつが!?あり得ない」と言うでしょう。
今ここに私がいることが、イエス様は生きていらっしゃる、と言う証です。
自分の常識や考えを、決して信仰に持ち込んではいけません。
何を求めて礼拝に来るのか
エゼキエル9:6
「『年寄りも、若い男も、若い娘も、幼子も、女たちも殺して滅ぼせ。しかし、しるしが付けられた者には、だれにも近づいてはならない。まず、わたしの聖所から始めよ』そこで、彼らは神殿の前にいた老人たちから始めた」
あなたの中の「隠された部屋」は何ですか。
自分自身?家族?どんな宝ですか?
香を焚いている者たちも、礼拝していました。
しかし何に向かってですか!?イエス様は問いかけておられます。
あなたは、何を求めて礼拝に来ているのですか。
聖書には「幼子も女たちも年寄りも殺して滅ぼせ」とあります。
甘く見てはいけません。
裁きは教会、皇民の群れから始まるのです。
主は、その人に印がついているかどうかを見られます。
あなたはこの一週間、いつ、心と力を尽くしましたか?
どこで、力を尽くして祈りましたか!?
イエス様と出会いたかったら、必死にならないと無理です。
探しなさい。叩きなさい!
キリスト教をやるだけでは生ぬるく、吐き出されます。
心を尽くせ
「イエス様を愛するゆえに、私はこうしているのだ」と言えるようになって、ようやく一丁前です。
「イエス様が良いと言われるなら、私はそれで良い」と言えるようになってようやくちょっと兵士です。
逆にキリスト教は、「私と家族が幸せであるように、健康であるように」と求めるでしょう。
あなたは今日、イエス様に対して尽くしましたか?
本気で生きている姿が、天の父が喜ばれる姿です。
あなたは誰のために命をかけているのですか?
それを、見せなさい!
私たちは主にお仕えするために礼拝しています。
悪霊はあなたをこの世に縛り付けておきたいのです。
キリスト教と同じように、肉は隠れて何かを拝んでいます。
それは偶像礼拝です。
熱心に悔い改めて、この肉を捨てていかなければなりません。
そうでないと、この世に引き戻されます。
文責 菅原はれみ

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