耶蘇上帝會 太秦之宮

京都・太秦を拠点とする日本のキリスト教会です

礼拝message 8月30日(日)

礼拝message 8月30日(日)

雅歌2:1〜4

雅歌2:1〜4
1「私はシャロンのばら、谷間のゆり」
2「わが愛する者が娘たちの間にいるのは、茨の中のゆりの花のようだ」
3「私の愛する方が若者たちの間におられるのは、林の木々の中のりんごの木のようです。その木陰に私は心地よく座り、その実は私の口に甘いのです」
4「あの方は私を酒宴の席に伴ってくださいました。私の上に翻る、あの方の旗じるしは愛でした」

一番大切なものは、ヒューマニズムの愛ではありません。
アガペーの愛がなくてはすべてが空しい、と聖書は言っています。

マルコ10:35〜45
42「そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた。『あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められている者たちは、人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています」
43「しかし、あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい」
44「あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい」
45「人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分の命を与えるために来たのです」

何を求めているのか?

今キリスト教会で、福音をどのように伝えているのか?
その信者さんたちを見ていたら分かります。
牧師がどのような福音を宣べ伝えているかも。
彼らが何を求めているかが分かってしまいます。
多くの教会で求めているのは、経済的な祝福(お金)、健康、人間的な愛。寂しいから、暇だから、行っている人もいるでしょう。
十二弟子ですら、福音をどこまで理解していたのか・・・。
彼らはイエス様を、ユダヤ人の王、メシアとして来られたお方として見ていたでしょうか?
いいえ、彼らは惨めなローマの属国から解放してくれるダビデ王のようなお方として、イエス様を見ていたのです。
ナザレから出た新進気鋭の若いラビ、イエス様は、悪霊を追い出し、病人を癒し、奇跡を行われました。
しかしその反面、パリサイ人や律法学者(支配階級)がこれで良いと今までやって来た信条を、真向から打ち砕く発言をなさいました。
彼らの鼻をへし折られたのです。間違っている、と。
彼らにとっては、ナザレの若造が自ら「人の子」=「ヤハウェの子」として名乗り、「父と私は一つである」と発言したことは許せないことでした。
彼らは怒りに燃えて、石をつかんでイエス様を殺そうとしました。

イエス様が十字架の死を成し遂げられ、復活してペンテコステを迎えるまで、十二弟子もまるでこの世の人(一般のユダヤ人)と同じことを考えていました。

男性には「偉くなりたい、人の上に立ちたい」という野心と願望が強くあります。
女性はどうですか?同じですか?

私も女性は聖女(マドンナ)だと思っていたころがありました。
でもその妄想は打ち砕かれましたね。

信仰の世界

安倍首相が辞任を表明されました。
ずっと祈ってきた者として「お疲れ様でした」と言いたいです。
批判なら何でもできるでしょう。
しかし、この歴史において安倍首相が何をされてきたのか。
日本の今の政治状況を見れば、誰が「獅子身中の虫」なのかはっきりしました。
この政治の混乱した状態は、信仰の世界を映しています。
安倍首相は変えようと戦っていました。
しかし、敵はそんなに簡単にはさせませんでした。
日本のトップである総理大臣の力と権限を持ってしても、できなかったのです。
安倍首相を見てください。ぼろぼろです。

詩篇33:12
「幸いなことよ 主を自らの上帝とする国は。上帝がご自分のゆずりとして選ばれた民は」

日本がイエス様の前にひざまずく

私の願いは、日本がイエス様の前にひざまずき、イエス様を「日本の神」とすることです。
(注:太秦の宮では、主を「上帝」もしくは「イスラエルの神」と呼んでいます)
4月1日に、Twitterで「上帝に立ち返れ」と発信しました。
ユダヤ十部族が日本に来ているなら、神武天皇と共に、預言者的な人物がいたはずだからです。
混血したサマリヤ人であっても同じです。
彼らは民族の誇りを持っていました。
日本にこれだけ古代ユダヤ教の足跡が残されているのなら(田中英道氏や坂東誠氏もその著書で言っています)、預言者は必ずいるでしょう。
桓武天皇も、上帝なるお方に生贄を捧げたことが記録に残っています。
日本は上帝なるお方に立ち返らねばなりません。
日本人は、学会が決めた通説以外を認めません。
日本人の悪いところとして、頑固で一旦決めると崩すのが難しい、という点があるでしょう。
今、世に現れているものは全て、イエス様からのメッセージです。
政治の世界は、日本の霊的な世界を映しているのです。
それを見れば、敵がどのようにしているか分かります。

パウロは、エペソ6章で私たちの戦いは血肉のものではない、と言っています。
イエス様は必ず見える形としての予型を、メッセージとして私たちに与えています。
私たちは、祈りの中でそのメッセージを見なければいけません。
必ず聖書に戻って見てください。
戦いのことは、士師記、列王記、歴代誌の中にたくさん出て来ます。
私たちがやってはいけない失敗を、その中から学んでください。

土台は、イエス様への愛

太秦の群れは、今はまだ土台を作ろうとしている状態です。
この土台は、イエス様に対する愛です。
ただ単に聖書を読んでいるだけなら、お祈りと断食をしているだけなら・・・どうやってその時代に為さなければいけない御心を為すのですか?
太秦の群れは、御子イエス様の栄光だけを求めているのです。
仕えたくない者、人の上に立ちたい者は要らないのです!
仕える、という態度は、イエス様を模範にしないとできません。
わたしのようにしなさい、と言われているからです。

マルコ10:45
「人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです」

イエス様は、自分のことなど考えておられません。
そして自分の命を、贖いの代償としてあなたに与えるために、地上に来られました。
世の罪を取り除く上帝の子羊としてです。

驕る平家は久しからず

平家物語の冒頭です。(みなさん覚えたことがありますか?)
「祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響あり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ」

「驕る平家は久しからず」の諺があります。
地位や財力を誇り、思い上がって勝手な振る舞いをすれば、必ず滅びる時がくるということです。
増長、つまり、おごり高ぶって人を侮ったり、見下したり、礼儀を欠いたりすることです。
これと反対に、聖書は何と言っていますか。
愛は、礼儀に反することをしません。
クリスチャンに礼儀知らずはあり得ません。

私の妻は韓国人でしたから言いますが、韓国の教会はプライドばっかりでした。
牧師や長老は偉そうにしていて、イエス様とは全く違う姿でした。
妻は私に「あなたはいつも牧師と喧嘩して別れる」と文句を言ったものでした。
仮に金牧師としますが、「わざわざ日本に来て伝道してやってるのに!」という態度でした。
私は「金牧師は十字架が分かってない!」と言ってしまいますので、向こうはカンカンです。
「牧師に向かって何だ!!」という感じです。

愛は人を育てる

太秦之宮では、弟子になる者に対し、自分を捨て、十字架を背負ってイエス様について行きなさい!と言っています。
しかし、一週間経つと元に戻っているとは、どういうことですか。
それでは、イエス様が期待する者にはなれません。
では、何故訓練されなければならないのですか。
聖くされるためです。
聖い器になれば、尊い大切なところに用いられるからです。
汚い器なら、汚いところに使われます。

ヨハネ15:12〜17
12「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの命令です」
17「あなたがたが、互いに愛し合うこと、わたしはこれを、あなたがたに命じます」

ここで、「互いに愛し合え、互いに仕え合え」と言われています。
それは心の態度です。「教えてあげるよ」という上から目線ではありません。
イエス様への愛を高めるような助けを、与えられるかどうかです。
愛は、人を育てます。
だからイエス様の弟子として、生まれつきの古い肉から解放されて、新しい命が強くなるようにと、願われているのです。
内なるイエス様の命が強くなり、そのイエス様の命が、あなたをコントロールできますように。
自分の肉でコントロールすると、すぐ限界に達して「無理、できない!」となってしまうのです。
何故なら、肉の内に善は住んでいないからです。
この善は、人間の考える善ではありません。天の父から見ての善です。
私たちの肉は「自分が神。自分が正しい。人から言われたり、教えられたくない」と主張します。
だからイエス様が新しい命を与えようとしておられるのです。
イエス様は、あなたの個性を壊そうとされている訳ではありません。

聞く耳のある者は少ない

「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われています。
しかし、聞く耳のある者は、本当に少ないのです。
こうやって、わたしは何十年も礼拝で語ってきました。
しかし、私の妻は頑として自分を守っていましたね。
彼女は韓国人でしたから「日本人から教えられるなんてとんでもない!日本人に上に立って欲しくない」と思っていたのですね。
妻は最後、癌で亡くなる前には、私のことを必要としてくれましたけどね。
日本人にも悪いところはあります。
腹に一物あるというか・・・話しているとそれが出て来ます。
人によって態度を変えたり、自己保身に走り、自分だけ、家族だけよければOKという態度です。
だから裏表のない人と話をするのは、本当に気が楽です。

旗じるしは愛

私が求道者で、初めて雅歌を読んだ時、ショックでした。
こんなことを聖書に書いて良いのか!?と思いました。
しかし、旧約聖書にこの雅歌があるのは、素晴らしいです。
愛をリアルに、真正面から向き合って書いているからです。
これは、イエス様とあなたの、新約聖書での愛の雛形です。
イエス様とあなたの関係を書いているのです。
戦国時代の騎馬隊が背中に付けている旗(のぼり)を思い浮かべてください。
敵か味方か、見分けるために家紋が入っていたのです。

雅歌2:4
「私の上に翻る、あの方の旗じるしは愛でした」

私の上に翻っている旗は、イエス様の愛。
つまり「この者はわたしのものだ」「この者はわたしの愛する者だ」というイエス様の旗じるしなのです。
感動しませんか!?
この旗じるしを見て、敵は退くのです。
イエス様が愛しておられる者に、敵は手出しできません。
み使いが守っているからです。
だからそういう人に手出しすると、敵はダメージを受けます。
男女、子ども関係なく、新約では皇民の群れはみなイエス様の花嫁です。
あなたの上に、イエス様の愛という旗じるしがはためいている!と分かっていたら、励ましになりませんか。

わたしを愛していますか

ヨハネ21:15〜18
15「彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。『ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか』ペテロは答えた。『はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存知です』イエスは彼に言われた。『わたしの子羊を飼いなさい』」
16「イエスは再び彼に『ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか』と言われた。ペテロは答えた。『はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存知です』イエスは彼に言われた。『わたしの羊を牧しなさい』」
17「イエスは三度目もペテロに、「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか』と言われた。ペテロは、イエスが三度目も『あなたはわたしを愛していますか』と言われたので、心を痛めてイエスに言った。『主よ、あなたはすべてをご存知です。あなたは、私があなたを愛していることを知っておられます』イエスは彼に言われた。『わたしの羊を飼いなさい」
18「まことに、まことに、あなたに言います。あなたは若い時には、自分で帯をして、自分の望むところを歩きました。しかし年をとると、あなたは両手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をして、望まないところに連れて行きます』」

イエス様は、ペテロに対しアガパオー「わたしを愛するか?」と聞かれました。
ペテロは、十字架の前に、イエス様を知らないと言って逃げて、泣きました。
彼は答えられませんでした。
上帝が、どれほど罪人を救いたいと願っておられるのか、初めて分かったからです。
イエス様は、十字架で血を流し、死んで蘇られた後、聞かれました。
「わたしを愛しているのか?本当にわたしのために死ぬ覚悟はできているのか?」と。
ペテロは、フィレオー「好きです」と答えました。
アガパオーでは答えられなかったのです。
イエス様は、あなたにも、アガパオー「命をかけてわたしを愛するか?」、それともフィレオーなのか?と聞かれます。
あなたが、アガパオーと答える時、あなたは本物です。
イエス様への愛は、必ずその人に現れて来ます。
それがあふれてきたら、周りの人は本当に心地よいのです。
天の御国はこのようなものだと、その人が感じ取ることができるのです。

試練を喜びなさい

マタイ6:33「まず上帝の国と義を求めなさい。そうすれば、これらのものは全て、それに加えて与えられます」
このように、天の父が、日常生活の全ては心配してくださいます。
だから、主に信頼して、為すべきことを忠実にやれば良いのです。
そうすれば、必ず道を開いてくださいます。
希望と将来への計画は、イエス様が持っておられます。

ヤコブ1:1〜4
1「上帝と主イエス・メシアのしもべヤコブが、離散している十二部族にあいさつを送ります」
2「私の兄弟たち。様々な試練にあう時はいつでも、この上もない喜びと思いなさい」
3「あなたがたが知っている通り、信仰が試されると忍耐が生まれます」
4「その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは何一つ欠けたところのない、成熟した、完全な者となります」

ここでヤコブは、信仰の試練を喜べと言っています。
試練は、痛いし苦しいものです。でも感謝なのです。
イエス様を愛さないなら、地上で生きたことが何の価値もありません。
イエス様について行こうと、苦闘してきた者に対してだけ、イエス様は天の扉を開けてくださるのだからです。
信仰の従順を毎日学んでいるのか、嫌だと自分勝手に生きるのか、二つに一つです。
私たちは、毎日テストされているのです。

イエス様への愛

一日ボケ〜ッと無駄に過ごしたなら、あなたの何かがずれています。
主は愛する者を鞭打つからです。
信仰の土台は、行きつくところが、イエス様への愛です。
その愛が、人への愛になるのです。

イエス様への愛があれば、自分をどう取り扱えば良いか分かります。
自分を主のしもべ、はしためとして扱うからです。
イエス様が「あなたは、私を愛するか?」と聞いておられます。
これが、すべての鍵です。
イエス様の愛に、あなたがどう答えて来たのか。
今の自分を見たら分かります。
これまでどのように生きてきたのか、結果が今だからです。
今の自分自身を認めたら、自分には何が足りなかったのか分かるでしょう。
イエス様に愛されていることを知ったなら、イエス様を愛するようになります。
十字架の愛を知らなかったら、イエス様を愛する者にはなりません。
イエス様への愛もないのに、一体何を伝道するのですか?
イエス様の目には、そのようなことは不義です。
あなたの内からあふれる命の水があるなら、そのような自称クリスチャンたちも気がつくでしょう。
教えようとして説教しても無理。
人には伝わらない。そう簡単には、人は変わらない。
あなたが主にあって変えられ、それで周りが変わって行く。
これが本物です。
あなたの周りは頑固な人ばかりでしょう?
あなた自身が頑固だからです。

文責 菅原はれみ


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