ヨハネ17:1〜19
ヨハネ17:13
「わたしは今、あなたのもとに参ります。世にあってこれらのことを話しているのは、わたしの喜びが彼らのうちに満ちあふれるためです」
人間として生かされている中で、喜んだことのない人の人生は、一体どのようなものでしょうか。
全く喜びのない人生です。考えてみてください。
あなたは喜んでいますか?
リビングバイブルで読んでみましょう。
ヨハネ17:13
「今わたしは、みもとに参ります。彼らの心がわたしの喜びで一杯になるようにと、一緒にいる間は、できるだけのことを話しました」
ヨハネ15:9〜12
9「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい」
10「わたしがわたしの父の命令を守って、父の愛にとどまっているのと同じように、あなたがたもわたしの命令を守るなら、わたしの愛にとどまっているのです」
11「わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたが喜びで満ちあふれるようになるために、わたしはこれらのことをあなたがたに話しました」
12「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの命令です」
注:ここでは、英語の直訳 commandment (命令)を使っています。
イエス様の言葉は、命令です。
‘Yes or No’です!
従うのか、従わないのか、’Yes’か’No’の2つに1つです。
曖昧な中道はありません。
マタイ28:20
「わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」
信仰は実践するもの
ここに「わたしが命じておいた、全てのことを守るように」とあるように、イエス様の言葉は、絶対的な権威ある言葉です。
そしてイエス様の言葉は、十戒の上にあるのです。
キリスト教では「ただ信じれば良いのです」と言って、真実をカバーして(覆って)、ごまかしているのです。
旧約聖書では、信仰は実際生活の中で実践するものでした。
アブラハムは、主から呼ばれてウルから旅に出ました。
そして愛する息子イサクさえも、主に捧げて殺そうとしました。
このように、信仰は現実的にあらわされるものです。
信仰の実践が分からない人は、ヤコブの手紙を読んでください。
パウロはどのように生きましたか?
彼は「私に倣って欲しい」と言い、主を信じるゆえに、実際に信仰を行動に移したのです。
実体
使徒3:6
「すると、ペテロは言った。『金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・メシアの名によって立ち上がり、歩きなさい』」
ペテロは、物乞いに何と言いましたか。
彼に癒される信仰があるのを見てとって「金銀は私にはない。しかし私にあるものをあげよう。イエス・メシアの名よって、歩きなさい!」
イエス様のお名前には、実体があるという感覚をしっかり持っていたのです。
現代のクリスチャンには中身がないのです。
パウロは「行いのある信仰を見せてあげよう」と言っています。
しかし、キリスト教はどうですか?
実体のないイエス様を信じているのです。
まるで架空の想像上の産物のような扱いをするのです。
生きているお方に対して、です。
ヨハネ17:2「あなたは子に、すべての人を支配する権威を下さいました。それは、あなたが下さったすべての人に、子が永遠の命を与えるためです」
この事実が、キリスト教では机上の空論になっているのです。
誰が、永遠の命を与えてくださるのですか。イエス様です!
イエス様が、永遠の命に対する権威を持っておられるのです。
この世の霊
あなたは、どういう霊に引きずられて生きているのですか?
よく自分を見てください。
肉の思いに立ち戻れば、この世の霊はあなたを待っています。
「神様、神様」と呼んでいる人は、一体どの神様を呼んでいるのですか?
いつもあなたの側にいるこの世の霊(悪霊)が、囁いてコントロールしているのです。
本人には、そのことは分かりません。
ヨハネ15:12
「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの命令です」
愛がなければ
愛そうとしないクリスチャンは、命令違反をしています。
多くのキリスト教はカルト集団と化し、「大丈夫ですよ」という牧師の考えのまま生きています。
絶対的権威を持っておられるのは、イエス様だけです。
私たちは、イエス様に聞き従う立場をとるのです。
互いにこのことを戒め合わねばなりません。
自分が命令違反をしていることに気がつかないクリスチャンは、愛がなければ全てむなしい、ということが分かっていません。
アガペーの愛は上から来ます。
主は、天の父、御子、ご聖霊の間にある家族のような愛の中に、あなたを招こうとされているのです。
人間の陳腐な愛とは違います。
人生の全ての土台、判断基準は、アガペーの愛でなくてはいけません。
あなたはアガペーの愛を土台として、誰かを愛していますか?
愛がなければ、全てがむなしいのです。
あなたは誰かを愛そうと努力しましたか?
Iヨハネ3:16
「メシアは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです」」
イエス様は、私たちのために命を捨ててくださいました。
それで私たちは、愛がどのようなものか分かったのです。
あなたはいつ、この愛を知りましたか?
イエス様に愛されていることを知り、その愛で誰かを愛するのです。
人間が本当に必要としているのは、イエス様の十字架の愛です。
人間の家族愛も、親子の愛も、夫婦の愛も、アガペーの愛には決して達しません。
イエス様の愛を実感していなかったら、次のステップには行けません。
イエス様の新しい命があるかどうかは、あなたに愛があるかどうかが証明します。
決して見せかけや愛のあるふりをしてはいけません。
不思議な助言者
イザヤ9:6〜7
6「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある上帝、永遠の父、平和の君』と呼ばれる」
不思議な助言者が、あなたと共におられるのに、何故聞こうとしないのですか?自分の肉の声、叫びばっかりです。
うるさい、黙れ!と言われているのが分からないのですか。
いつになったら、イエス様について行くのですか?
あなたが何をしていようと、イエス様は助言をくださいます。
あなたが聞かないだけです。
ヘブル12:15
「誰も上帝の恵みから落ちないように、また、苦い根が生え出て悩ませたり、これによって多くの人が汚されたりしないように、気をつけなさい」
主は、天から警告を与えておられます。
その生き方はダメだ!その判断は間違っている!と。
交わりで、イエス様が「その報告はもう聞きたくない」と言っておられることがあります。
それを言っていると、お前の罪になるのだよ、と。
24時間あなたを見ておられるお方をごまかせると思っているのですか?
全てを見抜いておられるのです。
言いたいことを言うのが、正直ではありません。
内におられるイエス様の御霊を裏切らないことが、正直なのです。
イエス様の基準は、あなたの言葉に愛があるかどうかです。
今の言葉には愛がないだろう、とイエス様は言われます。
語り続けておられる
ヘブル1:1〜4
2「この終わりの時には、御子にあって私たちに語られました。上帝は御子を万物の相続者と定め、御子によって世界を造られました」
リビングバイブルでは
ヘブル1:2
「しかし今の時代には、ご自分のひとり息子を通して語っておられます。上帝はその子に全てを受け継がせ、彼によって、世界とその中の全てのものをお造りになったのです」
リビングバイブルでは、spoke(過去形)ではなく、speak(現在形)を使っています。
イエス様は、今も語り続けておられるのです。
イエス様の思いと違うことを言ったり、やったりし続けるなら「敵の手の中に入ってしまうのだよ、敵があなたを道具として使ってしまうよ」と言われているのです。
太秦の群れでは、アガペーの愛が基準です。
それは個人の責任です。
あなたが話すこと、やること為すこと、生活の全てがアガペーの愛を基準としていますか?
このアガペーの愛を基準に、判断し、行動し、言葉にしている者が「イエス様は私の主です」と言うことができるのです。
イエス様に服従している者しか、イエス様を主と呼んではならないのです!
文責 菅原はれみ
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