耶蘇上帝會 太秦之宮

京都・太秦を拠点とする日本のキリスト教会です

礼拝message 8月19日(水)

礼拝message 8月19日(水)

ルカ8:4〜18

最近ずっとエゼキエル13章から、女性たちに「イザベルになるな!」と言って来ましたので、今日は「女性もこのように活躍できるのだ」という例を二人見てみたいと思います。

女預言者デボラ

士師記4:9
「そこでデボラは言った。『私は必ずあなたと一緒に行きます。ただし、あなたが行こうとしている道では、あなたに誉れは与えられません。主は女の手にシセラを売り渡されるからです』こうして、デボラは立ってバラクと一緒にケデシュへ行った」

主は、アダムに「エデンの園を守れ」と命じられました。
男性は、敵と戦わねばならないのです。

士師記4:8
「バラクは彼女に言った。『もしあなたが私と一緒に行ってくださるなら、行きましょう。しかし、もしあなたが私と一緒に行ってくださらないなら、行きません』」

しかし、ここでバラクは子どもっぽい、女っぽいことを言っています。
「一緒に行ってくれないなら行かない」と。
このように普段は威勢の良いことを言っていながら、いざとなったら女性の後ろに隠れる男性もいます。
(女性は強いのです。夫がすぐ「恐い」と逃げるような弱い人なら、その妻は強いのかもしれません。主は夫婦の間でバランスをとっておられます)

罪のゆえの苦役

主は20年間、イスラエルが苦しむことを許されました。
主の目に悪を行っていたからです。
主が教えようとされることを学んでいないと、「何故こんなことが起こるの?」となってしまいます。しかしそうではありません。
罪を犯しているなら、主は困難な状況に置かれるのです。
それはあなたを訓練するためです。
イエス様のようなきよさに至るまで、愛する者を訓練されます。
主が何かをされる時、すべてを見透かしておられてのことです。
イスラエルはその罪のゆえに、主が苦役をもって敵の手に渡されたのです。

今は終わりの時代です。
コロナウィルスが出て来た今、困難な時代に入っています。
クリスチャンは、目を覚まさなければならないのです!

最も祝福された女性ヤエル

士師記
4:5「彼女は、エフライムの山地のラマとベテルの間にある、デボラのなつめ椰子の木の下に座し、イスラエルの子らは、さばきを求めて彼女のところに上って来た」
5:24「女の中で最も祝福されるのはヤエル、ケニ人へベルの妻。天幕に住む女の中で最も祝福されている」
5:31「このように、主よ、あなたの敵がみな滅び、主を愛する者が、力強く昇る太陽のようになりますように」

ヤエルの手には、血がついています。人を殺した血です。
しかし聖書は、ヤエルを最も祝福された女性と言っています。
これは人には分かりません。主の評価だからです。
ヤエルは、天に命を懸けていたのです。
そして、その後、40年間穏やかな時代が来ます。
主が介入されたからです。

士師記
4:15「主は、シセラとそのすべての戦車とすべての陣営の者を、剣の刃をもってバラクの前で混乱させられた。シセラは戦車から飛び降り、自らの足で逃げた」
5:20「天から、もろもろの星が下って来て戦った。その軌道から離れて、シセラと戦った」

ここで「混乱」と訳されている言葉は、「大きな音を出す」とも訳せます。
ではこの剣とは、誰の剣のことでしょう。
万軍の主のみ使いたちが、剣を帯びて戦ったのです。

み使いの戦い

太秦の群れは、まだまだ未熟です。戦いは無理です。
でも戦いはもう始まっているのです。
見える世界も見えない世界も、両方現実だとみなさん分かりますか?
み使いが現実に戦っているのです。
聖書をそのまま読んで、そのまま信じるのです。
そうすればイエス様が、インマヌエル(共にいてくださる)のを感じるようになります。

以前話した夢ですが、(おじいちゃんの妄想かもしれませんが、私は信じています)松明のともしびを持った180人のますらお(武士)が、堂仙庵に集って来たのです。
その中のリーダーが「どういう風にしましょうか?」と尋ねたのです。
私はちょうどその時、「京都の街は大きすぎる!闇が覆っている・・・」と祈っていたところでした。
もう戦いは始まっています。
180人のみ使いたちが陣を張っていると私は信じています。
ますらお達がいろんなところに散って戦っているのです。

復活を信じないクリスチャン

Iコリント15:12〜19
12「ところで、メシアは死者の中からよみがえられたと宣べ伝えられているのに、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はないと言う人達がいるのですか」
17「そして、もしメシアがよみがえらなかったとしたら、あなたがたの信仰は空しく、あなたがたは今もなお自分の罪の中にいます。


ここでパウロ自身も言っています。
「復活を信じられないクリスチャンがいる!」と。
コリントの群れは、霊的な賜物が多く与えられていて、預言、異言、奇跡などが起こっていました。
しかしその群れの中に「復活はない」と言っている人々がいたのです。
パウロにとっては驚きでした。
「復活を信じていないのなら、一体どうやって生きているのか?」
古い自分に縛られて終わっていないのなら、罪の奴隷です。
自分から解放されていません。

生まれつきの自分が大好きで、可愛くてしょうがないのです。
そのような人は、自分をわきまえていません。
自分に対して甘い人です。
そのような人が救われると思いますか?

イエス様の命で生きる

生まれつきの自分はこんなに邪悪なのだ!と気づき、箸にも棒にもかからない自分(意味:どうしようもない小物。取り柄のない奴)だと認めていますか?
だからこそ、肉の古い性質を十字架で処分できるのです。
イエス様の身代わりの死のゆえに、洗礼を受ける時に、イエス様と共に死ねるのです。
そして、死からよみがえられたイエス様の命によって、生きて行ける!と信じることができるのです。
復活の命を私に与えてくださった、と。
このようにして、救いがあなたの体験、経験となるのです。
(まず悔い改めて、それから信じてバプテスマを受けるのだからです)

自分はまだ死なない?

自分でクリスチャンだと言っていても、永遠の命について、真剣に取り組んだことのない人が多いのです。
(神学校に行ったとしても、それでまともになる訳ではありません)
そのような人の共通点は、「自分はまだ死なない」「自分はまだ大丈夫」と思っているところです。
「私は死ぬ定めだ!」「このまま行ったら、地獄で永遠の死しかない」と気がつかないのです。
あなたはいつまで死なないつもりですか。この現実が分からないのですか。
(キリスト教の牧師は「脅かしてはいけない。あなたはまだ大丈夫」と言います。騙されていませんか)

死と蘇り

イエス様は、死に、そして蘇られました。
ここに、信仰生活のすべての鍵が隠されているのです。
復活がないなら、ご利益宗教と同じです。
「信じた方が良いんじゃない。きっと良いことあるよ」といった具合です。

Iコリント15:19
「もし私たちが、この地上の命においてのみ、メシアに望みを抱いているのなら、私たちはすべての人の中で一番哀れな者です」

「セカンドチャンス論」というものがありますが、悪霊に騙されているのです。
セカンドチャンスなどはありません。
偽教師は、どれだけ捧げたとしても、毒が混じっています。
みなさんの信仰は大丈夫ですか?
復活があるからこそ、天の父の願われる通り生きることができるのです。
天国での報いが待っているからこそ、イエス様にすべてを費やすのが最高の人生なのです。
(イエス様はあなたを何度も祝福して、この事実を味わせてくださいます)
そして、命を懸けてイエス様に従った者には、地上でどのようにイエス様が報いてくださるのか、体験させたいと思っておられるのです。

クリスチャンも裁きの座に立つ

狂信する者は「私はこれで良いのだ」と言い、人の意見を全然聞きません。
あなたは選ばなければいけません。
イエス様のために生きるのか、自分のために生きるのか。

IIコリント5:10
「私たちはみな、善であれ悪であれ、それぞれ肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、メシアの裁きの座の前に現れなければならないのです」

つまりイエス様は、クリスチャンの生活には「信賞必罰がある」と言われたのです。
(信賞必罰:功績ある者は必ず賞し、罪過ある者は必ず罰すること。
賞罰を厳格にすること)
私たちは、必ずイエス様の裁きの座の前に、現れなければならないのです。
イエス様はあなたに問われるでしょう。
「何故あの時、こうしたのか?」「何故そう言ったのか?」

だからこそ、地上で悔い改めなければならないのです。
あなたが忘れても、イエス様は忘れられることはありません。
イエス様から逃げられる場所などありません。
主に責められることのない者として、イエス様の前に立てるように、今悔い改めなければいけないのです。
ある人は、何故ずっと暗いままなのか。
罪を隠蔽しておいて、きよめられるなどできないからです。
本人がイエス様の前に出ているのなら、自分の罪が分かるはずです。
あなたが、自分が傷つけ人生を変えてしまった人がいると自覚があるのなら、その人のことを主に祈るのです。
幼子として悔い改めるのです。
幼子こそ、天の御国にふさわしいのです。

福音は裁きを含む

ロマ2:16
「私の福音によれば、上帝の裁きは、上帝がメシア・イエスによって、人々の隠れた事柄を裁かれるその日に行われるのです」

福音の中には、必ず裁きが含まれています。
「信じればそれで良い」ではありません。
イエス様があなたの代わりに裁きを受けてくださったので、あなたは裁きから救われるのです。
十字架は、裁きと呪いです。
それなのに十字架無しの福音を語るなんておかしいと思いませんか。

あなたが子どもっぽいままなら、危ないのです。
救いは難しいでしょう。
イエス様は、「お前のその甘さは何だ?」と聞かれるからです。

大人として成長しなさい

ロマ14:1
「信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見を裁いてはいけません」

クリスチャンとして成長しないと、信仰の弱い人を受け入れる事はできません。
心の中で批判し、裁きまくるのです。
だから未熟ではダメなのです。
イエス様は、売春婦や罪人、信仰の弱い人を受け入れられました。
そこには偏見や、異邦人に対する人種差別もありません。

ロマ14:10
「それなのに、あなたはどうして、自分の兄弟を裁くのですか。どうして、自分の兄弟を見下すのですか。私たちはみな、上帝の裁きの座に立つことになるのです」

イエス様は、私たちに大人になることを願われているのです。
私たちが人を裁く資格は、本当はありません。
それができるのは、イエス様だけです。

しかし、教師だけは例外です。
教師は言わなければならないのです。
「それは間違っているだろう!」と。
教師には、裁く権威が与えられています。
しかし、だからこそ教師に対するイエス様の裁きはものすごく厳しいのです。
教師にはなるものではありません。
教師になるのは、本当に恐ろしいことですよ。

地上のことで頭がいっぱい

信仰の未熟な人は、いばらの種の喩えと同じです。
リビングバイブルで読んでみましょう。

ルカ8:14
「いばらの中の種とは、聞いて信じても、その後、いろいろな心配事や金銭欲、また人生の様々な重荷や快楽などに、信仰を妨げられてしまう人のことです。これでは、せっかく教えを聞いても、誰にも話して聞かせることができません」

このように、日常生活の心配事や金銭欲に信仰が妨げられて、実を結べないのです。
年中、地上のことで頭がいっぱいなら、子どものままです。
大人にならなければ、役に立ちません。
「あなたはこのままで良いのだよ」と嘘ぶいて囁く者の声を聞き続けるなら、地上での時間を無駄にしてしまいます。
そのような人の人生は地上で終わりです。
そういう人は、この世を楽しみ、好きなようにやれば良いのです!
勝手に遊びに行けば良いでしょう。
真剣に歩もうとする人の邪魔になるだけですから。

子どもには、理解できない

Iコリント2:6〜7
6「しかし私たちは、成熟した人達の間では知恵を語ります。この知恵は、この世の知恵でも、この世の過ぎ去って行く支配者たちの知恵でもありません」
7「私たちは、奥義のうちにある、隠された上帝の知恵を語るのであって、その知恵は、上帝が私たちの栄光のために、世界の始まる前から定めておられたものです」

ヘブル5:11〜14
12「あなたがたは、年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、上帝が告げた言葉の初歩を、もう一度誰かに教えてもらう必要があります。あなたがたは固い食物ではなく、乳が必要になっています」
13「乳を飲んでいる者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです」
14「固い食物は、善と悪を見分ける感覚を経験によって訓練された大人のものです」

固い食物は、子どもには食べられません。
善と悪を見分ける感覚は、経験と体験によって訓練された大人のものです。
この世の終わりでの戦いの話をしても、地上のことしか考えられない子どもには、話は通じません。
分からないのです。
歳だけくってる子どもには、解き明かすのは困難です。

成熟した大人が目標

エペソ4:11〜13
13「私たちはみな、上帝の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、メシアの満ち満ちた身丈にまで達するのです」

この一人の成熟した大人になることが、大事な目標です。
成熟した大人になっていないと、戦えないのです。

ピリピ3:12〜16
14「メシア・イエスにあって上帝が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです」
15「ですから、大人である人はみな、このように考えましょう。もしも、あなたがたが何か違う考え方をしているなら、そのことも上帝があなたがたに明らかにしてくださいます」

私たちは、賞をいただくために走っているのです。
大人である人はこのように考えなさい。
これは子どもにはできません。
子どもは、自分が何様かであるかのように思い込みます。
何も知らず、何もできていないにもかかわらず、自分は立派な者だと思い込むからです。
イエス様に喜ばれるために、私たちは地上で生きるのです。
裁きの時に「報い」が待っているのですから。

コロサイ4:12
「あなたがたの仲間の一人、メシア・イエスのしもべエパフラスが、あなたがたによろしくと言っています。彼はいつも、あなたがたが上帝のみこころの全てを確信し、成熟した者として堅く立つことができるように、あなたがたのために祈りに励んでいます」

ここでエパフラスが必死に祈っているのです。
「子どもで終わってはならない!上帝のみこころを理解できる成熟した大人になりなさい」と。
年をとると、頑固になって行きます。
砕かれる道を歩まない人は、物事をわきまえず理解しない人になります。
子どもは「自分はできている。分かっている」つもり!になるからです。

忍耐

ヤコブ1:1〜4
4「その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは何一つ欠けた所のない、成熟した、完全な者となります」

信仰とは、イエス様に従順に聞き従う生き方です。
そして、忍耐せよ、と言われているのです。
「敵を愛せ」「迫害する者のために祈れ」これは忍耐が必要です。
みことばを守る生き方を死守しなさい、と
あなたが、敵に対して怒りを燃やしそうになる時、イエス様の血潮の注ぎかけを求めなさい。
邪悪な良心をきよめていただくことができます。
十字架の贖いは、怒りをしずめる力があります。

イエス様の命による一致

太秦の群れは、子どものままなら、何の役にも立ちません。
もうすでに、戦いの真っ只中に置かれているからです。
キリスト教会は、信徒が子どものままなら楽です。
その方が管理しやすいので、成長してもらったら困るのです。
悪霊は、「牧師の言うことが、イエス様の言われていることですよ」「牧師を大切にすることが、イエス様を大切にすることですよ」と囁きます。
しかし、一人一人が成長して大人になるなら、人(牧師)ではなく、イエス様ご自身に従うことができます。
イエス様の新しい命を持っているから、お互いに一致できるのです。
未熟のままで成長しようとしない人(自分はこのままで良いと思っている人)は、必要ありません。
イエス様は、「大人になれ!成熟しなさい」と言われているのです。
太秦の群れは、「成熟した大人になるために、お互い助け合おう」「何があっても、イエス様のために生きよう」と励まし合う者の群れになってください。
そのために、みなさんイエス様に呼ばれたのです。
女性も主の兵士なのです。

以下の内容は、交わりの時に語られた内容です。

デボラとヤエル

デボラは、裁きつかさでした。
知恵があって、しかし男性を立てようとするのです。
(デボラは、バラクに『一人で行ってください』と、花を持たせたのですが、バラクは承諾しませんでした。バラクは恐くなって『一緒に来てください!』と言ったのです)
ここで女性のデボラの方が、信仰によってたくましいのが分かります。
ヤエルは、男性達が戦って勝てなかったシセラを仕留めました。
ヤエルから殺気が出ていれば、シセラは彼女を信じなかったでしょう。
しかしヤエルはそれを出しませんでした。
彼女は、「天に命を懸けている、信仰に生きる人」だったのです。

自分の反応

あることで、自分が共鳴したり反応したりする時、自分をよく見てください。
肉の自分は「うらやましい。自分もそうなりたい」と思っているでしょう。
イエス様は、あなたの中にある闇を気づかせようとされているのです。
自分の反応を見れば、自分がどのように罪深い者か分かります。

思春期を迎えた子どもに対して

子どもに対して、ユダヤ教的な信仰を売りにすると、理想を押しつけてしまいます。(子どもはプッレッシャーしか感じないでしょう)
しかし、イエス様の光を当てられると、自分が具体的な罪を現実には犯していなくても、同じ罪を心の中で犯しているのに気がつきます。
そこで初めて分かるのです。
「私は悔い改めて、イエス様の所に帰らなくてはならない!」と。
親は子どもに対して、何度も何度も裏切られたような気持ちになります。
待っている事は辛いです。
しかし本人が気づいて帰ってくるのを、祈りながら待つのです
人間とは何なのか、男性とは、女性とは・・・学んで帰ってくるのを。
全てがイエス様の御手の中にあるからです。
放蕩息子は、苦しみ悩み、傷ついて帰って来ました。
彼は、辛い体験をして学んだのです。
ここで、兄のことを考えてください。
弟は、罪を犯し、悔い改めて帰って来ました。
兄は、真面目で、親に対して見かけは従順でしたが、親に対する不満を抱えていました。
兄の方が、あまり良い結果は得られないでしょう。
その後どうなったかは、聖書には書かれていませんね。
その後は、みなさんが自分自身で体験する事だと、聖書は言っているのです。

文責 菅原はれみ

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