耶蘇上帝會 太秦之宮

京都・太秦を拠点とする日本のキリスト教会です

礼拝message 8月16日(日)

礼拝message 8月16日(日)

Ⅰテサロニケ4:13〜5:28

Iテサロニケ4:13〜 5:28
4:16「すなわち、号令と御使いのかしらの声と上帝のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、メシアにある死者がよみがえり」
17「それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります」

携挙への期待

私たちは、主が来られる日、携挙される日を「期待して待ってなさい!」と言われています。
この携挙、ラプチャーと言われる言葉は、ラテン語では「ラプト」で二つの意味があります。
1.強力な力で、ある場所からある場所に移す。
2.慌惚状態
私たちは、ここでは英語の’Rapture’を、「主が引き上げてくださる」という意味で使います。

使徒1:3〜11
9「こう言ってから、イエスは使徒たちが見ている間に上げられた。そして雲がイエスを包み、彼らの目には見えなくなった」
10「イエスが上って行かれるとき、使徒たちは天を見つめていた。すると見よ、白い衣を着た二人の人が、彼らのそばに立っていた」
11「そしてこう言った。『ガリラヤの人たち、どうして天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります』」

イエス様が「天に上って行かれたこの同じ有様でまたおいでになる」とみ使いは使徒たちに告げました。
みなさん、このことを信じますか?
空中でイエス様とお会いするのを楽しみにしていますか?

1テサロニケ4:14〜17
17「それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主と共にいることになります」

復活を信じないクリスチャン

主が来られる時、私たちは空中を上って行くことができるのです。
このことが信じられないなら、みなさんの信仰はまだ初歩の初歩です。
復活を信じられない人は、クリスチャンではありません。
復活を信じていないなら、あなたは何を期待して生きているのですか?
二人のみ使いが証言して見せているのです。
イエス様はこの天に上られたのと同じお姿で再び来られますよ、と。
これが希望なのです。
みことばを信じていない人々は、みことばそのものを邪魔する者となってしまいます。

地上か天か

もし今、携挙があれば、みなさんここから消えてもらわないと困ります。
残されるのは私だけで十分です。
いいですか、その瞬間にあなたは決めなければならないのです。
天に帰るのか、地上に残るのか。
子どもが心配なら、あなたは自分の意思で地上に残ることができます。
(でも残った後は、とんでもなく恐ろしいことが起きます)

絶えず祈れ

イエス様は、いつ携挙なさるかわかりません。
その時に引き上げられるための条件は、いつも、絶えず祈っていることです。
御霊の力で、御霊により祈ることです。
あなたの内にイエス様の新しい命があれば、その命が子どもとして天の父をいつも見ています。
子どもには、親の居るところが安心する場所だからです。

聖霊のバプテスマ

主は、あなたの内にあるイエス様の命に聖霊のバプテスマを与えられます。
霊を見分ける力よりも、内なる人が成長して力を持つ方が重要です。
新しい命はイエス様のご人格だからです。
イエス様の命があるなら、イエス様の思いを持っています。
だからイエス様に聞くことができるのです。
子どもとしての新しい命がいかに大切か!

悪霊のバプテスマ

生まれつきの汚いままでパワーを与えるのは悪霊です。
悪霊は、きよく見せかけるためにお芝居をします。
聖霊のバプテスマを受けて、生まれつきの汚いままなどあり得ません。
必ずきよくされていきます。

ピリピ3:17〜21
20「しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・メシアが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます」
21「メシアは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます」

天の国籍

復活を信じていないのに、天に国籍があるなどあり得ません。
天に国籍を持っているからこそ、そこに帰るのです。
だから地上に居ながらも、天に望みを持つのです。
地上では私たちは旅人です。
地上で見るものすべてが、旅の思い出として過ぎ去るのです。
帰りたいと願うのは、その人にとって天が故郷だからです。

誇るのはイエス様

私の高校時代は、涙と苦しみの時代でした。
しかし今思うと、イエス様は私をいつも見ておられ、絶望の中にあっても御手を置いていてくださったのだと分かります。
だからこそ誇るのはイエス様のお力しかないのです。

苦しみは幸い

イエス様を信じても、地上で終わるだけの人生なら何の意味もありません。
高校時代、やりたい事はたくさんありました。でも、できませんでした。
悩む事は良いことです。後ですべてが無駄ではなかったと分かります。
「人生において苦しんだことは、私にとって幸いでした!」と言えるのがクリスチャンです。

詩篇119:71〜72
71「苦しみにあったことは 私にとって幸せでした。
それにより 私はあなたのおきてを学びました」
72「あなたの御口のみおしえは 私にとって 幾千もの金銀にまさります」

味のある人生

苦しみのない人生は、味のない人生です。
イエス様の人生は、苦しみの人生でした。
もしあなたが苦しみを与えられたら、受け取った方が良いのです。
後に、幸せだった!と言えるからです。
イエス様は人間の弱さ、苦しみを知り、同情と同感をしてくださるお方です。
苦しみから逃げまくった人の人生は、薄っぺらでつまらないものになります。
そしてそのつまらない人の同情は、相手に害になるだけです。
イエス様はとことん苦しんで、悲しみを味わわれたお方です。
すべてを知っておられるからこそ、励まし、慰め、希望を与えてくださるのです。
だから私たちもイエス様の愛に触れたとき「この世の幸せとは違う!」と分かるのです。
苦しみが、あなたの人生に味をつけるのです。生きていてよかった・・・と。

アガペーの愛

あなたの人生にこのことが現れてこないのなら、薄っぺらい生き方をしているのです。
あなたの愛が、イエス様の愛のような深さ、広さ、高さにならないと、アガペーの愛にはなりません。
アガペーの愛にならないなら、あなたは証人にはなれません。
イエス様が十字架に架かられる前に、ペテロは逃げました。
そしてイエス様を裏切った自分に愕然として、男泣きに泣きました。
自分を知り、泣くことは良いことです。(しかし人に見せてはなりません)
イエス様は、十字架を目指して真っ直ぐに歩まれました。
苦しみのない人生など求めてはなりません。
無能な自分を知り、認めなさい。逃げてはいけません。
あなたはイエス様に「どうすればよいのですか?」とアドバイスを求めることができるのですから。
イエス様は決して裏切りません。

地上の人生

イエス様は、ごみの中から私をつまみ出してくださいました。
イエス様が私に下さった「宇品堂仙」という名前は、「蛆虫の名前は堂仙」という意味です。
地上では苦しみぬいたとしても、天では痛みのない五体満足の新しい体をいただけます。若くて健康な体です。
天のふるさとでは、苦しみも涙もありません。
私たちは、その天のふるさとを目指しているのです。
天に帰った時「地上での苦しみも悩みも私にとって良かったことです」と言うことができます。
すべては、私をイエス様のように変えるため、きよめるためだからです。

すべてが良かった

あなたの人生において、起きたことすべてが良かったのです。
主がいかに憐み深くあなたを取り扱って来られたかを知るなら「イエス様のことだけを誇りたい」と願うようになります。
携挙が信じられないなら、あなたはクリスチャンではありません。
空中でイエス様と会えるのですよ!
実際にお会いできるなんて最高だと思いませんか。

知識の切り売り

携挙はいつですか。患難の前?中?後?などと議論に走ってはなりません。そんなことをするなら、知識を支配するサタンの手の内に入るからです。
神学者や伝道者などは知識の切り売りをします。
知るべきなのはイエス様ご自身です。
イエス様はあなたの人生に介入してくださいます。

今何を学ぶのか

大切なのは、あなたが今何を学ばねばならないのか、知ることができるかどうかです。
たとえ子どもであっても時間は限られています。
私は今こういう事で訓練されているのだ、と分かるならば「私は幸いです」と後で感謝するでしょう。
聖書のみことばを知っているならば、痛みも苦しみも、私に必要な訓練なのだと理解できます。

エゼキエル13:17
「人の子よ。あなたは、自分の心のままに預言するあなたの民の娘たちに顔を向け、彼女たちに預言せよ」

イザベル

「聖書にこう書いてあるから大丈夫。私も経験しているから」などと絶対に言ってはいけません。
教師であっても、です。
Peace be with you. と言えるのはイエス様だけです。
そんなことを平気で言うなら、あなたはイザベルになります。
「あの人に聞けば教えてくれるし、大丈夫。安心できる」などとなるからです。
これは、イエス様の目には非常に不快な事です。
「その人のすべてをお前は知っているのか?」とイエス様はお聞きになります。
もし誰かにあなたが答えるとすれば「こうかもしれません」と言うべきです。
イザベルのような教祖(指導者)が皇民の群れの中に居ると、その人の許可がないと何もできなくなります。
イザベルになると頑なになり、イエス様に対する新鮮な愛がなくなります。
そうなれば、イエス様の愛を味わえなくなります。
神学校を出ると、理屈だけ言って「自分は分かってる。大丈夫」と教師のような言い方をする人がほとんどです。
そういう態度を悔い改めなければなりません。
私たちは、みな同じ羊だからです。偉そうになるなら、呪われます。

Iテモテ 3:1〜7
6「また、信者になったばかりの人であってはいけません。高慢になって、悪魔と同じ裁きを受けることにならないようにするためです」
7「また、教会の外の人々にも評判の良い人でなければなりません。嘲られて、悪魔の罠に陥らないようにするためです」

悪霊の罠

高慢になると、悪魔はイエス様に訴えます。
「こんなやつ、処分してもいいでしょう?」と。
自分を人に見せようとしてはいけません。
イエス様の愛を知って、イエス様に従って行こうとする生き方が安全な道です。
イザベルは自分に酔っています。
本人は気づきませんが、その人の中から新鮮なものが出てきません。
イザベルになるなら、悪霊が待っていますよ。
イエス様が常に天の父に聞いておられたように「イエス様、これで良いのですか?」と絶えず聞いて、いつも祈っていなければなりません。
信仰の創始者であり、指導者であるイエス様から目を離さないように!

以下は、交わりの時に語られた内容です。

過剰反応

あなたがある事で過剰反応を示す時、それはイエス様があなたの闇をはっきりさせようとしているのです。
イエス様は、命の光だからです。
そのような時は「私のこの反応は何ですか!?」と聞かねばなりません。
つつかれると、逃げて藪に隠れるのは蛇です。
自分の問題点を見せられるのは、肉にとっては嫌なものです。
しかし自分の闇と直面して認めて、告白し、イエス様に聞きなさい。
「そこから自由になりなさい」と言われているのだからです。

変えられなければならない

息子にとって母親は理想の女性です。
しかし母親のある部分、女性の性(サガ)、情欲といった肉を見せられると本当に嫌なもので、息子は苛立ちます。
私たちはもともと罪人なので、イエス様に変えられなければなりません。
光の子らしく生きなさいと言われているのですから。
問題に対して「なぜでしょう?分かりません・・・.」と言うだけなら、それは頑なな姿です。
イエス様に「この闇は何でしょうか?」と尋ねなければいけません。
イエス様は人や問題を通して、あなたの内側にある闇に気付かせようとされているのです。
肉は「私の世界に入って来ないで」と言います。
しかし、光に自分をさらさないとダメです。
光にさらすならば、光となるのです。

解放

精神的解放は、病からの解放でもあります。
イエス様にあって解放されると同時に、痛みもやわらぎます。私もそうでした。
過剰な反応から自由にならねばなりません。
自分の殻に閉じこもっていてはいけません。
自分の無力を、もっともっと知りなさい。何もできないことを。
そうしてイエス様だけにお頼りするのです!

文責 菅原はれみ

« »

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です