耶蘇上帝會 太秦之宮

京都・太秦を拠点とする日本のキリスト教会です

礼拝message 8月9日(日)

礼拝message 8月9日(日)

ルカ10:1〜24

幼子であれ

ルカ10:21
「ちょうどそのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。『天地の主であられる父よ、あなたをほめたたえます。あなたはこれらのことを、知恵ある者や賢い者には隠して幼子たちに現してくださいました。そうです、父よ、これはみこころにかなったことでした」

ヨハネ1:9〜13
11「この方はご自分の(ものの)ところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった」
12「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、上帝の子どもとなる特権をお与えになった」
13「この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、上帝によって生まれたのである」

ヨハネ3:3
「イエスは答えられた。『まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、上帝の国を見ることはできません」

イエス様は、ニコデモに言われました。「新しく生まれなければ、天のみ国を見ることも入ることもできない」と。
天のみ国は、幼子のように素直にそれを受け入れる者のものです。
イエス様を幼子のような心で受け入れる者には、「上帝の子どもとなる特権」をお与えになったのです。(ヨハネ1:12)

メシア

ユダヤ人が「メシア」と言う時、それは「油そそがれたお方」であり、「王なるお方」と言う意味です。
これは、異邦人は知らないと分かりません。
つまりユダヤ人には「王なる支配者」として受け入れるのが正しい信仰であるのですが、キリスト教会は「優しくて助けてくれるお方」として(全く別の神として)受け入れているのです。
だから、イエス様を「優しく助けてくれるお方」と勘違いしているので、常に「自分が主」になってしまいます。

自分を拝む

そうなると、「自分が神」である「偶像礼拝者」になります。
「自分は賢くて美しくて、全部わかっているので、自分で決める!」というものです。
まさにサタンと同じ姿であり、罪人の「自己愛の塊」です。
「私は、みんなに拝まれるべき存在」と言って自分を拝んでいるのです。
聖書は、この醜い肉の塊を「捨てなさい」と言っているのです。
自分を捨てる、とは「自分を拒絶する」ことです。

この世は金

偽教師は、教会員に洗礼を受けさせ、お金を集めようとします。
「この世は金」なので、教会もお金で支配されています。
しかし、天地を造られたお方があなたの父なのです。
「そのお方を信頼するなら、この世のことは心配するな」と言われているではありませんか。
上帝の国と義を求めよ、天の父が心配してくださる、と。

父と子の関係

あなたは、天のお父さまと「父と子」の関係が成り立っていますか。
成り立っていなければ、信仰生活はすでにつまずいています。
親からの愛も訓練もないので、自分勝手に生きるしかないからです。
まるで日の光を浴びていない子どものように、成長できません。
考え方や判断の仕方がいつまで経っても子どもっぽいのはそのせいです。

天から新しい命をくださるのは、「父と子」の関係をしっかりさせるためです。
新しい命をいただくと「こんなに愛されている!」という感動と驚きの生活が始まります。

ヨハネ8:31〜36
31「イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。『あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です」
32「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」
34「イエスは彼らに答えられた。『まことに、まことに、あなたがたに言います。罪を行っている者はみな、罪の奴隷です」
35「奴隷はいつまでも家にいるわけではありませんが、息子はいつまでもいます」 

ここで「奴隷はいつまでも家にいるわけではない」と言われていますが、「父と子」の関係がないならば、皇民の群れにとどまることができなくなります。
共に集っていても、自分を偽っているのでだんだんいたたまれなくなり、嫌になるか、もっと面白いものを見つけて、世を愛するようになるからです。

罪の奴隷

「罪の奴隷」とは、「自分を神とする」生き方です。
「自分の好きなキリスト教」をやっていて「私はこれで良い」と思っている姿です。
イエス様からの承認がないので、天の父と「父と子」の関係がありません。
何年クリスチャンをやっていても、天の父の感化があらわれないのはそのせいです。
子を見たら、親がどういう人かわかるでしょう?

自己アピール

特に女性は十二単を着ています。人に見せるための衣です。
「人にこういう風に見られたい」と服装も髪型もアピールするでしょう?
人に印象付けたい自分をアピールするのです。
つまり自分を実際より高く見せたいのです。学歴や家柄なども同じです。
このように自己主張する自分を、脱ぎ捨てろ!と言われているのです。
そうでないと、信仰そのものが「私の幸せのため」という人道主義(ヒューマニズム)になって、悪霊に人生をコントロールされてしまいます。
すべてがこの世のことだけで終わってしまいます。
私たちは、「上帝の国と義のために」「王なるイエス様の栄光のために」呼び出されたのです!

ヨハネ15:1〜11
9「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい」
10「わたしがわたしの父の命令を守って、父の愛にとどまっているのと同じように、あなたがたもわたしの命令を守るなら、わたしの愛にとどまっているのです」
11「わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたが喜びで満ちあふれるようになるために、わたしはこれらのことをあなたがたに話しました」

注:「戒め」と和訳されている箇所は、英語ではヨハネ15:10「 If you keep My commandments,」となっているように、commandment=「命令」とするのが正しい訳と思われます。

あなたは、天の父の子どもですか?
天の父と「父と子」の関係があるなら、喜びに満ち溢れているでしょう?

1ヨハネ3:16
「メシアは、私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです」(前半)

愛を知っているのか

ここに愛があるのです。
この愛を知っていたら、生き方も信仰の土台も今と違いますよね!?
(男性に聞きます。あなたは「自分がこうなりたい」という野心しかないのですか。非常に器が小さいですね!)
イエス様は、あなたに尋ねておられます。
「わたしはあなたのために命を捨てたけれど、あなたはわたしの愛を分かっているのか?」と。
あなたは、十字架の愛に感動していますか。
いつ十字架の愛を知り、感動して涙し、イエス様を愛するようになったのですか?

クリスチャンになった後に天の父の子どもとされ、肉を脱ぎ捨て、聖くされ、メシアを着ましたか?
あなたが、どのように造りかえられたのか。
この限られた時間において、このことが重要なのです!

火で焼かれる

愛に目覚めた女性は美しくなりますよね。
命の光があると、内側から輝いてくるからです。
聖書の「救い」は「アクシデントからの救い」ではありません。
「滅びる世からの救い」です。
聖書に「火で焼き尽くされる」とあるように、火を通してあなた方の信仰が試されます。
火のようなテストです。
そのテストを通過できなかったら、そのまま火の中から「火の池の地獄」に行ってしまいます。ソドムとゴモラのようにです。

最後通告

福音は「最後通告」です。
悔い改めなければ、街も人も滅ぼされます。
中国を見てください。三峡ダムが決壊寸前の今、クリスチャンたちもその中に多くいるでしょう。
コロナウィルスも、主の怒りが限界に達したことに対する、全世界へのメッセージです。
コロナウィルスの被害も、正しいデータを冷静に見てください。
なぜ世界のキリスト教国がこんなに打たれているのですか。
主の怒りです。被害の大きさは、その国の罪深さを現しています。
必死に日本のために祈ってください!
その国の中にいる者は、みな連帯責任を負うのです。

預言者

イエス様の十字架の後、70年にローマ軍によってエルサレムが滅ぼされます。
その時預言者がいて、ローマ軍の攻撃の前に多くのユダヤ人がテラに逃れたということが、記述に残されています。
イスラエル十部族(古代サマリヤ人)の中にも預言者がいたように、弓月の君に率いられた(原始キリスト教徒の)秦氏たちの中にも預言者がいたと思われます。
その預言者に導かれて、彼らは日本を目指してやって来たのではないか、私はそう思っています。
大和の国まで導く預言者がいたとするのが自然でしょう。
(聖書を読むと、彼らの中に預言者がいないなどあり得ないからです)

太陽と月

本来のイスラエルを太陽とするならば、日本は月です。
月はそれ自体は光を放ちません。太陽の光を受けて明るく輝くのです。
レムナントのように、予型として日本(京都)に小さいエルサレム(平安京)が置かれているのです。まるで慰めるように、です。

日本のユダヤ文化

散らされたイスラエル十部族は、いったいどこに行ったのでしょう。
神武天皇の頃には、日本にたどり着いて宗教的布石を置いてしまうのに十分な時間があります。
田中英道氏も、多くの「ユダヤ人埴輪」の出土に対して、今までの国史を変えなければならないと言っています。
ざっくり数えてほぼ1000年後に日本にやって来た秦氏たちは、本当に驚き感動したでしょう。「同胞がここにいる!」と。
何故なら彼らが日本で見たのは、ユダヤ人の生活習慣と同じものだったからです。
彼らは1000年の時を隔てて、失った同胞と再会したのです。

預言者の堕落

哀歌1:18
「主は正しい方である。しかし、私は主の命令に逆らった。すべての国々の民よ、聞け。私の苦痛を見よ。若い女たちも、若い男たちも、捕らわれの身となって行った」

主の命令に逆らい、イスラエルは散らされました。

哀歌2:3~4
3「燃える怒りをもって、イスラエルのすべての角を折り、敵の前で 右の手を引き戻し、あたりを焼き尽くす炎のように、ヤコブを焼かれた」
4「主は敵のようにして、弓を引き絞り、はむかう者のようにして、右の手でしっかり構え、いとしい者たちをみな虐殺した。主は娘シオンの天幕に、火のように憤りを注がれた」

哀歌2:9,14
9「彼女の城門は地に沈み込み、主はそのかんぬきを打ち壊して砕かれた。その王も首長たちも異邦の民の中にあり、もはや律法はなく、預言者たちも、主からの幻を見出さなかった」
14「あなたの預言者たちは、あなたについて、むなしい、ごまかしの幻を見た。あなたの咎を暴いて、あなたを元どおりにしようとはせず、あなたについて、むなしい宣告と、惑わすことばの幻を見た」

日本に来た秦氏たちは、このようになってしまったのです。
日本が気に入って、この世と妥協したのです。
預言者たちは、戦いも苦しみもないので、堕落してしまいました。

哀歌2:17〜19
17「主は計画したことを行い、昔から命じていた自らのことばを成し遂げられた。滅ぼして容赦せず、あなたのことで敵を喜ばせ、逆らう者の角を高く上げられた」
18「彼らは主に向かって 心の底から叫んだ。娘シオンの城壁よ、昼も夜も、川のように涙を流せ。自分に休みを与えるな。あなたの瞳を休ませてはならない」
19「夜、見張りの始まりに、立って大声で叫べ。あなたの心を主の前に、水のように注ぎ出せ。あなたの幼子たちのいのちのために、主に向かって両手を上げよ。彼らは街頭のいたるところで、飢えのために衰えきっている」

心を注ぎ出して、主に祈らねばなりません。

哀歌3:25~30
25「主はいつくしみ深い。主に望みを置く者、主を求めるたましいに」
26「主の救いを 静まって待ち望むのは良い」
27「人が、若いときに、くびきを負うのは良い」
28「それを負わされたなら、ひとり静まって座っていよ」
29「口を土のちりにつけよ。もしかすると希望があるかもしれない」
30「自分を打つ者には頬を向け、十分に恥辱を受けよ」
31「主は、いつまでも見放してはおられない」
32「主は、たとえ悲しみを与えたとしても、その豊かな恵みによって、人をあわれまれる」
33「主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない」 

何故日本は、今こんなことになっているのでしょう?歴史を見てください。
私たちは、秦氏の罪(先祖の罪)を背負って、日本の罪を告白し、とりなさねばなりません。
上帝の子どもとして、イエス様の命令を守り、その愛を知ってください。
クリスチャンの両親たち、あなたが父の愛を知らないから、その愛を子どもに提供できないのです。
父の愛を提供できるならば、子どもたちはイエス様の方に向くでしょう。

以下は、交わりの時に語られた内容です。

この世を支配している霊は、イエス様とあなたの間を邪魔します。
それは国によって形が違います。
たとえば日本は、能を見てください、秦氏は芸能の神を祀るようになりました。
能を作った世阿弥は、秦氏です。
闇の中にかがり火が焚かれ、ぼやっとした幻想的な世界がそこに広がります。
秦氏は「大和の君」(日本を支配する悪霊をこう呼んでいます)とタッグを組んでしまったのです。そこに茫漠とした能という、一つの世界ができました。
そのぼやっとした中での偶像礼拝に陶酔させるのです。
闇と霧の中で、炎の薄明かりがいかにも神秘的なものを醸し出します。

イエス様の血

この日本人なら誰でも持っている、霊的なドームのようなものが、あなたとイエス様との間を阻むのです。
ぼやっとしたものが邪魔をするのです。先祖伝来のむなしい生き方そのものです。
天の栄光のみ座におられるお方に祈る時、イエス様の血の注ぎかけを求めてください!
彼らは子羊の血と証の言葉で打ち勝った、とあるように、イエス様の十字架の血によって、闇と霧が消え去ります。
このドームのようなものを打ち破れないと、イエス様の声は聞き分けられません。
羊飼いなるイエス様の声を知っている一人一人になってください。そうでないと役に立つ者にはなれません。

時間

ペンテコステ派は、この世の霊に身をゆだねて任せてしまいます。
ぼやっとして眠くなり、引き込まれてしまったら、その時間は無駄になります。
また祈る時に「神様」と呼ぶなら、これは先祖の神と同じ神に祈っていることになります。
「イエス様」が、聖書の神なのです。
また、ああでもない、こうでもない、とこの世のことばかり祈るなら、その時間も無駄になります。
こうして、敵はあなたの大切な時間を盗むのです。
敵は、そうやって何もしないままあなたに地上の旅を終わってもらいたいのです。
イエス様の血の注ぎかけを受けてはじめて、祈り、礼拝できるようになるのです。

文責 菅原はれみ

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