箴言1、マルコ8:27〜38
今、主に聞き従え
箴言8:27〜38
32「子たちよ、今、わたしに聞き従え。幸いなことよ、わたしの道を守る者は」
34「幸いなことよ。日々わたしの戸の傍で見張り、わたしの門の柱のわきで見守って、わたしの言うことを聞く人は」
36「わたしに背を向ける者は、自分自身を痛めつけ、わたしを憎む者はみな、死を愛するからだ」
下がれ、サタン
ペテロが、イエス様に「下がれ、サタン!」と言われた時、どれほどショックだったか、皆さん分かりますか。
彼は、「自分は一番熱心な弟子だ」と自負していたからです。
イエス様が十字架に向かって行かれる時、ペテロはイエス様をいさめました。
「そんな恐ろしいことが、あなたにあってはなりません!」と。
ペテロは、愛し慕っているラビ(先生)が苦しむなんてとんでもないと思ったのです。
弟子たちもみんな同じ気持ちでした。彼はみなの気持ちをを代表して口火を切ったのです。
情愛(ヒューマニズム)
ペテロは十字架を理解していなかった訳ではないと、私は思っています。
彼はただただ、イエス様への情愛(ヒューマニズム)に突き動かされたのです。
イエス様は、振り向いて弟子たちを見ながら、「下がれ、サタン。あなたは上帝のことを思わないで、人のことを思っている」と。
これを言われたら、きついです。
人間的なものは世に属す
つまり「あなたの思いは、上帝のものではなく、人間のもの」と言われたのです。人間のものは、世に属し、サタンに属すものです。
あなたが何かを愛し慕ったとしても(人間的なものなら)、背後に必ず、世の支配者の考えと計画があります。
弟子になろうとする者の情愛に働き、サタンは必ず邪魔をしてくるからです。
自分を捨てよ
だからイエス様は、「誰でもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」と言われたのです。
あなたの情愛の対象となる「父、母、妻(夫)、子、財産を切り捨てなさい!」と。
決断
洗礼を受ける時、このことをはっきり決断しておかなければなりません。
あなたが決心しているなら、失敗してもまた前に進めます。
しかし、最初からこのことを曖昧にしておくなら、あなたは前には進めません。
人間的な情愛を大切にしていると、前に進めないからです。
父からの勘当
私が神学校に行く時、父に勘当(親が子と縁を切ること)されました。
その時、初めて父の涙と情愛を見せられました。
人間的な思いだったら、父の涙に動かされ神学校に行くのをやめたでしょう。
しかし、私の中には喜びがありました。これからどうなるのか分からないけれど、「み言葉通りに歩める」という喜びです。
それは自分の力ではありません。私の内におられるイエス様が支えてくださったのです。
人道主義
人道主義(ヒューマニズム:humanism、博愛主義)とは、人間愛を根本において、人類全体の幸福を目指すもの。福祉活動、という意味です。
ここでイエス様に従って行く者がはっきりとさせておかなければならないのは、人道主義は、この世の支配者が使う「武器」になるということです。
和をもって貴しとなす
日本には、聖徳太子の十七条憲法というものがあります。第一条は「和をもって貴しとなす」です。
これは「仲良くすることが何よりも大切ですよ」と脈々と日本人の心の中に浸透し、縛って来たものです。
(humanism:善や真理の根拠を神ではなく、理性的な人間の中に見出そうとしたもの)
極東の国、日本
坂東誠氏は、その著書の中で私たちに問題提起されています。
日本は、イスラエル北王国の十部族が渡って来ている。(彼らはユダヤ人でありながら、モレク、バアル、アシュタロテ、偶像礼拝を全て取り込んでいる部族です)
その後、秦氏(ユダヤ人の原始キリスト教徒)も日本に渡って来ている。
日本は極東の地であり、それより東はありません。ユダヤの流浪の民が、日本に集まって来ているのです。
痕跡
その痕跡は数えきれないほど多く残っています。古事記、日本書紀に出てくる登場人物と物語は、聖書に非常によく似ています。
天照大神の岩戸開きは、イエス様の復活の場面と重ね合わせて、その前で裸踊りをした天鈿女命(アマノウズメ)がマグダラのマリヤだと言い、聖徳太子のことは厩戸皇子(ウマヤドノミコ)と呼び、イエス様と重ねています。
歴史観の転換
田中英道氏は、千葉の古墳からは大量のユダヤ人と見られる埴輪(ひげの長い、もみあげがあり、三角帽子を被った埴輪)が出土していることを指摘しています。現代の歴史観をひっくり返さねばならないと。
また、桓武天皇は、京都に平安京(エルサレム)を造り、昊天(こうてん)上帝に生贄を捧げて感謝しています。日本には、動物を生贄に捧げるという習慣はありません。
昊天上帝は、司馬遷の史記に出てくる、「聖書の神」の定義とほとんど同じ存在です。
似て非なるもの
このように、ユダヤ人が大量に日本に渡来していながら、何故すべてが歴史の中に埋没し、飲み込まれてしまったのでしょうか。
私は、「大和の君」(サタンの下にいる力あるリーダーの1人、日本を支配している悪霊を、こう呼んでいます)は、本当に頭が良いと思います。
「大和の君」が何をしたのか、「似て非なるもの」を造ったのです。
妥協
日本に渡来した原始キリスト教徒たちは、思ったことでしょう。
「厩戸皇子」は「イエス様」、「和をもって貴しとなす」は「聖書の愛」。
すごく聖書と似てる!これで良いじゃないですか、と。
カルト
キリスト教カルトを考えてみてください。彼らは、聖書を真っ向から否定しません。聖書に自分たちの考えた教義をプラスすることによって、聖書が別のものに見えて来て、別のものになってしまうのです。
彼らは、聖書を利用して自らを本物らしく見せているので、主イエス様の命を頂いた者にしか判別できないのです。
偽装
サタンや悪霊は、人を騙す時、非常に似ているものを持って来ます。サタンは光の天使にも偽装するのです。
イエス様の命と、本物(イエス様ご自身)を知っていないと「これで良いわ」と騙されてしまいます。
武力の差
日本の歴史において「和」という文化があるために、ほとんど戦いがなかった、と言われることがありますが、私はそうは思いません。
渡来人と、戦いにならないほどの力の差があれば、従うしかないからです。武器や文化の差がありすぎて戦いにならなかったのでは、と私は思っています。
別のものを加える
では、「大和の君」の次の部下「翁の霊」が何をしたのか。またまた頭が非常に良いのです。
本物(イエス様を愛する弟子たちの信仰)が日本に来ても、ちょっと別のものを加えて、一番大切なものが見えなくなるようにしたのです。
形式的
松尾大社、宇佐八幡宮、八坂神社、広隆寺の十善戒など。祇園祭の掛け声「エンヤラヤー」は、ヘブル語で「神は他にはない」という意味です。形だけ残して、原始キリスト教徒に「これ(形式的なこと)をやってるから、これで良い」と思わせてしまったのです。
「翁の霊」は、一番大切なところに行かせないのです。
また、太秦之宮は、この戦いのために存在しているのです。
和という言霊
つまり、失われた十氏族が布石を打った宗教的なものと、(純粋な主イエス様を誇りとする信仰を失った)原始キリスト教徒の秦氏とが、『和』という言霊(倭の君=翁の霊)に支配されて、日本文化の素地を作り上げた、と私は観ています。
(注)メッセージの文言とは違っています。説明のため加筆しています。
万物はみ子のために
コロサイ1:15〜17
15「御子は、見えない上帝のかたちであり、すべての造られたものより先に生まれた方です」
16「なぜなら、天と地にあるすべてのものは、見えるものも見えないものも、王座であれ主権であれ、支配であれ権威であれ、御子にあって造られたからです。
万物は御子によって造られ、御子のために造られました」
17「御子は万物に先立って存在し、万物は御子にあって成り立っています」
父なる上帝に栄光を帰す
ピリピ:2:6〜11
6「メシアは、上帝のみ姿であられるのに、上帝としてのあり方を捨てられないとは考えず」
7「ご自分を空くして、しもべの姿を取り、人間と同じようになられました。
人としての姿をもって現れ」
8「自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました」
9「それゆえ上帝は、この方を高く上げて、すべての名に勝る名を与えられました」
10「それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ」
11「すべての舌が『イエス・メシアは主です』と告白して、父なる上帝に栄光を帰するためです」
すべての敵をその足の下に
1コリント15:20〜28
20「しかし、今やメシアは、眠った者に初穂として死者の中から甦られました。」
22「アダムにあってすべての人が死んでいるように、メシアにあってすべての人が生かされるのです」
24「それから終わりがきます。その時、メシアはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、王国を父である上帝に渡されます」
25「すべての敵をその足の下に置くまで、メシアは王として治めることになっているからです」
26「最後の敵として滅ぼされるのは、死です」
27「『上帝は万物をその足の下に従わせた』のです。しかし、万物が従わせられたと言う時、そこには万物をメシアに従わせた方が含まれていないのは明らかです」
28「そして、万物が御子に従う時、御子自身も、万物をご自分に従わせてくださった方に従われます。これは、上帝が、すべてにおいてすべてとなられるためです」
この聖書の三つの箇所が、太秦の宮の三本柱です。
そしてこの三つを合わせると、ロマ11:36になります。
栄光が永久に
ロマ11:36
「すべてのものが上帝から発し、上帝によって成り、上帝に到るのです。この上帝に、栄光が永久にありますように」
霊的な戦い
何故、日本の歴史文化が、キリスト教的なものでカバーされてしまったのか。
この世の支配者と、霊的な戦いが全然できていなかったのだと思われます。
み子イエス様の前に、すべての者が膝をかがめなければなりません。
それは、天皇陛下も例外ではありません。
イエス様こそ主
日本に、ユダヤ人たちが作った多くの神社があったとしても、何の役にも立ちません。すべての中心はみ子イエス様であり、万物はイエス様のために存在しているからです!
私たちは、これからイエス様がどのように宇宙の歴史を閉じて行かれるのか、その過程に存在しているのです。
私たちは、すべてを捨てて悔い改め、「イエス様こそ主です!」と告白しなければなりません。
メシアを否定する者
ユダ4
「それは、ある者たちが忍び込んできたからです。彼らは不敬虔な者たちで、私たちの上帝の恵みを放縦に変え、唯一の支配者であり私たちの主であるイエス・メシアを否定しているので、以下のような裁きにあうと昔から記されています」
「和をもって貴しとなす」は、キリスト教界に染み込んでいます。イエス様に熱心に従おうとすると、日本では「熱心すぎておかしい」、韓国では「牧師に逆らったら呪われる」と、その人を潰しにかかります。
まさに、唯一の支配者である上帝、メシアを否定しているのです。
罪の報酬は死
ガラテヤ2:19〜20
19「しかし私は、上帝に生きるために、律法によって律法に死にました。私はメシアと共に十字架につけられました」
20「もはや私が生きているのではなく、メシアが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きている命は、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、上帝の御子に対する信仰によるのです」
何故私たちは、律法によって律法に死ななければならないのか。
罪の報酬は死だからです。
聖書の律法によると、罪は血を流さなければ赦されません。
また罪は血によってのみ聖められます。
イエス様の血によって
ヘブル9:22「律法によれば、ほとんどすべてのものは血によって聖められます。血を流すことがなければ、罪の赦しはありません」
死は、(恐いものではなく)永遠の命に至らせるものです。
私たちは、イエス様の十字架の死によって、死(裁きの死)を先取りするのです。
イエス様の流された血を、私の血としてカウントしてもらうのです。
罪からの解放
ロマ6:4〜11
4「私たちは、メシアの死にあずかるバプテスマによって、メシアと共に葬られたのです。それは、ちょうどメシアが御父の栄光によって死者の中から甦られたように、私たちも新しい命によって歩むためです」
5「私たちがメシアの死と同じようになって、メシアと一つになっているなら、メシアの復活とも同じようになるからです」
6「私たちは知っています。私たちの古い人がメシアと共に十字架につけられたのは、罪の体が滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるためです」
7「死んだものは、罪から解放されているのです」
8「私たちがメシアと共に死んだのなら、メシアと共に生きることにもなる、と私たちは信じています。
9「私たちは知っています。メシアは死者の中から蘇って、もはや死ぬことはありません。死はもはやメシアを支配しないのです」
10「何故なら、メシアが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、メシアが生きておられるのは、上帝に対して生きておられるのだからです」
11「同じように、あなた方もメシア・イエスにあって、自分は罪に対して死んだ者であり、上帝に対して生きている者だと、認めなさい」
認めなさい
パウロはこのように「認めなさい」ロマ6:11と言っています。「知っています。そうします」ではなく、「認めよ!」と
日本人は言葉に対して軽く(曖昧で)、約束を簡単に破るところがあります。しかし、聖書はそれを許しません。
私たちが生まれ変わらねばならないのは、言ったこと、約束したことを守るためです。(生まれつきのままでは、言葉を曖昧なまま使ってしまいます)
洗礼を受けた時、古い自分の処理は終わっています。それを認めるのです。
生きるために死んだ
「私は、律法によって自分の罪を認めています。しかし、イエス様と共に十字架で死んだので、罪人としては精算されました。だから罪から自由になったのです!」とこの事実を認めなければなりません。
私たちは、イエス様と共に(イエス様の命によって)生きるために、死んだのです。
委ねているなら
み言葉の事実を認めていないから、あなたの生活に出てこないのです。
イエス様に自分を委ねているなら、イエス様が気にいるようにあなたを変えてくださいます。
あなたの「理想の自分」は関係ありません。
エレミヤ9:23〜26
23主はこう言われる
「知恵ある者は自分の知恵を誇るな。力ある者は自分の力を誇るな。富ある者は自分の富を誇るな」
24「誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。わたしは主であり、地に恵みと公正と正義を行う者であるからだ。まことに、わたしはこれらのことを喜ぶ。―主の言葉―」
25「見よ。その時代が来る。―主の言葉―
その時、わたしはすべて包皮に割礼を受けている者を罰する。
26「エジプト、ユダ、エドム、アンモンの子ら、モアブ、および荒野の住人で、もみあげを刈り上げているすべての者を罰する。すべての国々は無割礼で、イスラエルの全家も心に割礼を受けていないからだ」
心の割礼
「心に割礼を受けていないまま」とは、自我の強いままの状態のことです。あなたは自我を押し通そうとしますか?「主のみ心がなりますように」と言えますか?
イエス様は、従順の模範を示されたではありませんか。
自我が砕かれて行く中で、聖さが与えられて行きます。
悔い改めずに砕かれない人は、聖くなりません。
嘘がない
あなたの態度が、お芝居や演技であってはなりません。イエス様が望んでおられるのは、あなたに嘘がないことです。
誰かと話す時、本心から言っていますか。それとも耳ざわりの良い言葉を並べているだけですか。
自由
ペテロのように、情に突き動かされる時が誰にもあります。情は悪霊が使います。そんな時、「私は十字架を負っていますか。逃げていないですか」とイエス様に聞いてください。
悔い改めて十字架の血の注ぎ掛けを求めるなら、イエス様の生温かい血を感じるでしょう。
イエス様は生きておられるからです。
イエス様と共に死なせていただける。だから自由なのです。
(注):以下は、礼拝後の交わりの時に「何故、原始キリスト教徒たちは簡単に取り込まれたのですか?」と言う質問に対して、語られたものです。
騙し
「大和の君」「翁の霊」は日本人そのものを騙しの中に取り込んでいます。日本の歴史文化の中に、ユダヤ的要素が織り込まれているので、「キリスト教」を聞いても違和感を感じないのです。
しかし十字架のことは、言って欲しくないのです。
日本人は「十字架、悔い改め、血による罪の赦し、聖め」など、痛みを伴い心に刺さるものは、聞きたくないからです。
神社の「みそぎ、祓い」で良いじゃない、とその延長にしてしまいます。トゲを無くして、痛みがないようにするのです。
イエス様の名
「翁の霊」の中に取り込まれたキリスト教の中にいても、「イエス様!」と呼んでいるなら、イエス様のお名前に力があるので、「これで良いのか?」と疑問が生まれてきます。
しかし「神様!」と呼んでいると、痛みがないので気がつきません。(どの神様かわからないからです)
惑わし
「翁の霊」は、「きよめ、お祓い、神社で手を洗う」などユダヤ的なもので惑わしてきます。そこにないのが十字架です。
広隆寺には、「十善戒」という「十戒」に似たものがあります。「似て非なるもの」です。
日本人は、「よく似たものがあって良かったね」「もうこれで良いよね」となってしまうのです。
熱いか冷たいか
秦氏(原始キリスト教徒)も騙されたのです。
最初は本物であったとしても、人間の性(さが)ですが、信仰(熱いもの)は息子が受け継げません。
ダビデと息子ソロモンに見られるように、ダビデに仕えた長老たちが死ぬと、ソロモンは逆らったからです。
日本の「翁の霊」は、「熱いか冷たいか、極端なのはダメですよ。適温に。ほどほどに」と言います。
しかし聖書は、「熱いか冷たいかであれ!」と言うのです。
ソーシャルディスタンス
コロナウィルスでの「ソーシャルディスタンス」もそうです。これが日本人の長年培われた特性です。
まるで宗教的なものとして「守らなければ」と思わせてしまいます。
「翁の霊」がそのように色を染めているのです。
祈りなさい
イスラエル十部族が日本に契約の箱を持ち込み、渡ってきているのなら、彼らは契約の箱を完全に隠したのです。そして、祭りだけをしていたのです。
主は「お前たちは、隠蔽してきたのか!」と言われるでしょう。
日本は、最後にものすごく厳しい裁きにあうことになります。眠って惑わされている者たちを、目覚めさせなければなりません。
私たちは、祈らねばなりません。
文責 菅原はれみ
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